戦後の在日の中には日本人以上に日本人らしかった朝鮮人がいたというのをこの本で知りました。
中村日出夫氏(平壌出身)です。朝連(後の朝鮮総連)の「影の部隊」に空手を教えていました。京都の大日本武徳会の武道専門学校に留学、卒業後、陸軍中野学校の二俣分校で空手の教官をしていたとのこと。小野田寛郎さんが二俣出身なので中村氏の指導を受けた可能性もあるかもとか。中村氏が児玉誉士夫に軍の繋がりで一声かければ丸く収まったこともあったと。大山倍達(建青側)とは戦ってないようです。東声会のヤクザを叩きのめした後、仲間の沢山いる病院に見舞いに行き、金を置いてきたのを見込み、トップの町井が東声会の顧問にと言っても「ヤクザの顧問などやってられるか」と断ったとのこと。陸軍中野学校は「誠」を大事にしたと言われていますから、その教育の賜物だったのでは。翻って今の日本人は怯懦、今の韓国人は反日妄想病です。環境・教育と時間によって民族も変わるという事です。
アメリカの狡知こそが災いの種でしょう。Divide & ruleという英国譲り(インド、ミャンマー)の政策が民族間で憎しみを齎し、白人の統治に目を向けないようにするという事でしょう。 日本に在日をわざわざ置き、民族間で憎むようにしました。まあ、朝鮮人の民度は低いのでそうなることは明らかでした。それを少しでも朝鮮人有利になるようにしたのは日教組とマスメデイアです。GHQが去っても日本人に自虐史観を刷り込み続けました。台湾に蒋介石を置き、本省人と外省人とで争う種を残しました。
大平もハニーに引っかかっていました。クリスチャンで品行方正のイメージが強い人ですが、クリスチャン程、世界史の中で悪いことをやった連中はいません。トルデシャリス条約、インデイアン虐殺、黒人奴隷、原爆投下等皆クリスチャンです。谷内正太郎もセガサミーの金だけでなく妓生の虜になっていて脅されたのかも。写真を撮られていた可能性もあります。それが中国の手にも渡っているかも知れません。河野、古賀、加藤、野中、額賀辺りも怪しいのでは。谷内のNSCトップは更迭すべきでしょう。日本の国益は守れません。防衛省制服組から選ぶべき。
妓生は準公務員です。朴正煕が外貨稼ぎと弱みを握るために選んでやらせたのでしょう。これも同じく女性の人権侵害です。韓国はいつも自分の不都合な真実には目を瞑ります。日本も反撃しろと言いたい。
在日でも帰化して弁護士になった権逸氏のような人もいました。司法試験受験に国籍条項を緩めなくても良かったのではと思います。帰化してから試験を受ければ良いのに。米国は移民の国で日本と国の成り立ちが違います。左翼とリベラルのせいで日本がおかしくなってきたことは間違いないでしょう。
強制徴用や未払金も自民族のしたことを日本人に擦り付ける卑劣な民族というのもこの本で分かりました。事実に基づき、キチンと反論した方が良い。政治家のハニーは自業自得なので舞台から退いて貰った方が良いでしょう。
下関を地盤とする安倍晋三も田中龍夫のことを知って、韓国と縁があるのは分かりました。しかし、今度の慰安婦合意は安倍の甘さがモロに出た気がします。韓国の民族的特質、特に反日教育で刷り込まれた妄想を持った民族というのを理解しないと。「韓国の女性が日本人(夷狄)に売春なんてするはずがないと、こうなる。にもかかわらず慰安婦にされたのは強制されたからに違いない、いや、強制されたに決まっているんだ」という妄想で生きている民族です。
下の写真はこの本に載っていた写真です。汚物をかけられる丁一権です。昨年暮れに横浜韓国総領事館に汚物を投げ込んだのも彼らの自作自演でしょう。日本にはそのような文化慣習はありませんから。去年のブログで中国の趙薇が舞台で汚物をかけられたことを紹介しましたが、中国大陸と朝鮮半島特有の文化です。
内容
P.28~31
民団中央本部団長及び顧問を務めた弁護士の権逸氏は『回顧録」(権逸回顧録刊行委員会、一九八七年) の中で、敗戦後の混乱期の在日の生々しい姿を以下のように活写している。
《法はあって無きに等しく、警察は文字通り無力であった。したがって、非人道的で破廉恥な行為が平然と行われ、理性が喪失した社会のようであった。このような社会状態が醸しだしたものであるかも知れないが、左翼朝鮮人だけでなく、一般の在日同胞のなかにも、故なく威張り散らして、法を無視することが少なくなかったことは、良識ある同胞の憂慮するところであったし、私たちは見るに忍びなかった。当然のように無賃乗車する者もいたり、中には白墨で車内に『朝鮮人専用』と書いて他人が入るのを拒むことすらあった。傍若無人というほかなかった。》
左翼朝鮮人とあるのは、いうまでもなく、朝連および民戦の構成員たちのことである。権逸氏は権藤嘉郎という日本名をもち、朝連からは親日派と名指しされた人物で、金天海支配下の朝連でリンチによる追放を経験している。また、本書にもたびたび名前の登場する町井久之(鄭建永.)とも縁が深く、弁護士として、彼の合法、非合法の活動をフォローした。朴正煕軍事政権で韓国の国会議員を務めているという経歴の持ち主で、いわば、民団系在日の大物中の大物である。その彼をして、 GHQ占領期の一時期、在日同胞のふるまいは「非人道的で破廉恥な行為」と映ったようである。
しかし、これら在日朝鮮•韓国人の横暴をむしろGHQはある程度許容していた。その証拠に、日本 人は立ち入ることが禁じられていたPX (進駐軍用売店)に、自称「戦勝国民」の彼ら朝鮮人は比較的自由に出人りし、ここで仕入れたウィスキーや洋モクなどを法外な値段で闇市でさばき、莫大な利ザヤを得ていたのである。これは彼ら第三国人(=third nationals。戦勝国民でも敗戦国民でもない、という意味で、当時、朝鮮人、台湾人に対し便宜上用いられた呼称)の特権のごく一部である。日本人の多くが着たきり雀の竹の子生活を送っている、その一方で、上質のスーツを着こみ、肩をいからせて闇市をわが物顔で闊歩する朝鮮人も珍しくなかったのだ。
権氏は続ける。
《顧みると、当時のこのような行動は、長い間抑圧されてきた者の自然発生的な反発感から出たものであり、またそれらの者たちにとって感情的には痛快感が得られたかもしれないが、このような行為は敗戦で萎縮した日本人の胸に、朝鮮人に対する憎悪感を植えつける要因になったのではないだろうか。加えて、朝連と建青の絶え間ない抗争は、この憎悪感を増幅させた上、新たな軽蔑感を生じさせたのではなかろうか。》
おそらく、いまもある日本人と在日韓国・朝鮮人との間にある心情的な“しこり”はこの畤代に作ら れたものであり、その責任の一端はアメリカにもあったのである。解放後の台湾に:、蒋介石を投げ込み間接支配させたのもまさにこのやり方で、台湾では、現在も本省人(台湾人)と外省人(中国人)の対立は根深い。
金天海一派に牛耳られ日本共産党の別働隊の色合いの強かった朝連だが、両者を結びつけたのは純枠なイデオロギーばかりではなかった。実質、当時、合法政党として再スタートしたばかりの日本共産党を経済的に支えていたのは朝連だったのだ。では、その朝連の資金源はどこにあったのか。金賛汀著『朝鮮総連j (新潮新書、ニ○○四年)に興味深い記述がある。
《最初に朝連の活動を支えた資金は親日団体「一心会」が集めた資金である。一心会は、太平洋戦争の末期、米軍の空襲が激しくなってきた時期、日本の戦争勝利のため日本軍航空隊の地下飛行場を埼玉高麗神社近くに建設しようと結成された在日朝鮮人の対日戦争協力団体である。》
金氏によれば、戦中、一心会が在日同胞から集めた募金の総額は約六百万円で、そのうち建設会社に支払われた費用を除いても戦後百五十万円は残ったはずで、それをそっくり朝連が没収し活動資金にしていたという。大学卒の初任給は三千円の時代である。
さらに、朝連結成時、資産のある会員に親日派、対日協力者のレツテルを貼り、粛清をちらつけて恫喝まがいに募った多額の寄付金が、昭和二十年から二十一年の間にニ千五百万円に及んだという。戦後間もない時期の在日朝鮮人といえば、貧しい集落に身を寄せ、鉄くず拾いと廃品回収、あるいは炭坑労働でその日の糧を得ていた、というイメージがあるが、実をいえば、闇市成金も含め、彼らの中にも富める者もたくさんいたのである。もっといえば、在日朝鮮人も勝ち組と負け組に分かれていたのだ。 朝連の資金源はそれだけではなかった。
《最大の財源になったのは帰還していく強制労働者の未払い賃金等であった。一九四六年末までに朝連中央労働部長名で強制連行者を雇用していた日本の各企業に未払い賃金の請求が出された。その請求額が四三六六万円に達し、朝連はかなりの金額を企業から徴収し、それらのほとんどは強制連行者の手には渡らず朝連の活動資金に迴された。》(前出『朝鮮総連』)
現在でも韓国側はことあるごとに、当時日本人であった韓国人の戦時徴用者の未払い賃金を問題視し、日本政府や企業に支払いを求めてくるが、これに対し日本側は日韓基本条約ですベて 解決済みであると いう態度を崩していない。これはこれで正しいのであるが、金氏の記述を信じるのなら、一九六五年(昭和四十年)の日韓基本条約を待つまでもなく、在日本朝鮮人連盟がそのほとんどを回収し(ここでも企業に対し恫喝的な請求があったものと推測される)自分たちの金庫に納めていたことになる。そして、 それら朝連の潤沢な活動資金の恩恵を受けていたのが、日本共産党なのだ。当然ながら、韓国側が徴用者の未払い賃金を問題にするならば、請求先は日本政府や企業ではなく、朝連の後継団体である朝鮮総連及び日本共産党にしてもらいたいものである。
P.46~47
しかし、武道を禁じられたのはあくまで日本人であって、自称•戦勝国人である第三国人にこれは適応されなかった。敗戦の年である一九四五年(昭和二十年)の十月、東京九段に韓国人・尹曦炳を館長とする韓武館なる空手道場がオープンしている。韓武館には大山倍達や曺寧柱ら多くの在日空手家がつどう一方、廃業した剣道場から払い下げた胴、小手などの防具を着用しての防具付組手の研究も幀極的に行われていた。現在の空手の発展に在日空手家の果たした役割も確かに大きいのである。
「ヤクザか総連かヘップ屋か」というフレーズはかなり辛辣で自虐的な響きがあるようで、戦後在日の置かれた状況を上手く表現している。ヘップとは一説によると、ヘップバーン・サンダルのことで、映画『ロ—マの休日』でオードリー・へップバ—ンが履いていたから、そう呼ばれるのだという。ここでは手工業など個人商店主の総称と思っていただきたい。いわゆる「差別と貧困と戦う建気な在日」のイメージはこのヘップ屋に集約されることだろう。繰り返しになるが、彼らが「健気な在日」を生きるその裏舞台では、同胞たちの血しぶきを上げた抗争が続いていたのである。
むろんヘップ屋(家内産業)から立身出世を遂げた在日も存在する。最近何かとお騒がせのロッテ. グループの総帥•重光武雄(辛格浩)はその代表格だろう。一介のガム売りから身を起こし、一代で同 グループを韓国五大財閥のひとつにまで育て上げている。新しい例でいうなら、ソフトバンクの創業者・孫正義もこれに入る。ともに本業以外にプロ野球チームのオーナーというところも共通している。球団オーナーという肩書きは、日本人の想像以上にアメリカの経済界ではモノをいう。まさに彼らは在日を代表するセレブなのである。
重光も孫も正業で成功した在日であり、あくまで堅気ではあるが、しかし、彼らが在日のアウトロー
社会や本国の情報機関とは無縁だったか、と問われれば、これもノーだろう。事実、重光は、町井久之やこれものちほど登場する李厚洛KCIA部長とも懇意な関係にあった。むろん、本書はそういった関係を非難するものではない。また、そういう関係性を全否定してしまうことは、在日という存在を見えにくくしてしまうと主張するものである。在日ヤクザやアウトローと「差別や貧困と戦いながら健気に生きるアポジ、オモニ」は、決して遠心分離機にかけたようにきれいに分かれるものでもないのである。 在日とは何か。それは特定の個人やグループを指す言葉ではない。在日とは、エスニックという名のコネクションをいうのだ。
P.52~55
北朝鮮の新義州は三井金属が作った
— 一九五一年(昭和二十六年)九月のサンフランシスコ講和条約調印の翌月にはシーボルド連合軍外交局長が仲介人となって日韓の予備交渉が行われていますね。当時、朝鮮戦争はまだ継続中でした。アメリカとしては、日本と韓国の手を結ばせて反共の砦を築くことが急務だったのでしょうか。
菅沼 それからね、アメリカからすれば、なぜいつまでも俺たちの税金で韓国を助けなくてはいけないんだということです。朝鮮特需で少しずつ経済を回復しつつある日本に肩代わりさせようという、彼らなりの腹があった。
というのも、終戟直後は、韓国よりも北朝鮮の方が経済的にはずっと有利だったのです。 もともと重工業という基盤がありましたから。その基盤はなにかというと、併合時代、日本が作った巨大ダムであり水力発電所でした。鴨緑江のダムは当時、世界最大規模の水力発電所ですよ。アルミニュゥムのための。アルミの精錬工場というのは、膨大な電力を必要とする。そこのアルミニュゥム工場でジュラルミンを作った。ジュラルミンといえば、何だかわかる?
——飛行機ですか。
菅沼 そう。戦闘機まで製造していたんだ、北朝鮮の新義州で。この新義州という街は三井金属が作ったといっても過言ではない。三井金属など三井系の企業が朝鮮総連とコネがあるのはそうした理由もあるんです。彼らにしてみれば、一日でも早く日朝国交正常化を進めて欲しくて仕方がない。
反日に狂う李承晩が山口県に亡命政府を作りたいと要請
菅沼 一方、南朝鮮(韓国)は農業地帯です。工業力でいえば北と南では十数倍以上の開きがあった。早く韓国にも工業化してもらい経済的に自立してもらわないと(共産勢力に)飲み込まれてしまうという危機感をつのらせていたのはアメリカも日本も同じでしょう。
そういう状況のもと、岸さんの個人特使として矢次一夫が訪韓した。彼は日本国のパスポートで大韓民国に入国した最初の日本人になる。ところがね、李承晩大統領という人は、 とにかく (反日)感情が先に立ってしまって、交渉にならんということなんだ。併合時代はさっさと亡命してしまって、日本の統治というもの—例えば、インフラを整備したとか、教育を施したというのを肌身で知らない。彼自身、李王家の血筋だとかなんだとか言っているらしいけどね。要は元兩班で、日本に対する侮蔑感もあった。観念的な反日論者です。反共だけれど、その前にまず反日。アメリ力はそう いう男を連れてきて韓国の大統領に据えた。
戦前、総理大臣を務めた田中義一の息子で田中龍夫という、のちに通産大臣、文部大臣も務めた議員がいて、彼も岸さんとのつながりで韓国へ行くことになるのです。李承晩の夫人はオーストリア人でフランチェスカといった。田中は彼女へのお土産に御木本のパール(真珠)をもって。フランチェスカは大喜びだったそうだけどね。それでも、 それでも、李承晩の胸襟を開くことはできなかった。
——田中龍夫さんは山口県知事時代、「戦前は朝鮮人より朝鮮語の上手い山口県人がいっぱいいた」という発言をしています。というのも併合時代朝鮮の警察の幹部は長州閥だった。警察官は地域の人とコミユニケーションを取らなければならないから、必然的に 朝鮮語を覚えなければいけなかったそうです。
田中さんは一九四八年(昭和二十三年)ごろ、朝鮮半島の緊張を察知して、それら朝鮮語に長ける者たちを集め「朝鮮情報室」というのを作ったといいます。中波、短波をラジ才で傍受して全部翻訳して常時、報告書を上げさせていた。朝鮮有事になれば、まっさきに難民が押し寄せてくるのが、半島とは目と鼻の先にある下関ですから、リアルな危機感がある。事実、朝鮮戦争が勃発し、韓国軍が釜山まで追いやられると李承晩は六万人を連れて山口県に亡命政府を作りたいと打診してきた。それを突っぱねたのが田中さんでした。 それにしても、あれだけ反日を旗印にしていた男が、いざ、わが身が危なくなったら日本に泣きついてくる。・・・厚顔としか言えませんよね。
菅沼 そんなものですよ。大に事くのが彼らなんだから。
P.104~113
菅沼 まあ、それくらいの神経でないと政治家なんて務まらないよ。
—色を好むというのは、まあ、伊藤博文の時代から。
菅沼 政治家が骨抜きになるのもわからんでもない。容姿はむろんのこと、相手の趣味趣向に合わせて話ができる、日本語もペラペラで、それなりの知的水準の女性が送り込まれてくるわけだから。大平(正芳)さんなんて金鍾泌とー緒にいてやられちゃったわけだ。
—大平•金密談、ありましたね。「無償供与三億ドル、政府借款ニ億ドル、商業借款ニ億ドル」という具体的な金額までメモに残されている。・・・そういうことだったんですか。あの朴訥でお堅いイメージの大平さんまで。
菅沼 太平さんは金鍾泌といるときは、たいがい女の子も一緒だった。椎名悦三郎さんも妓生好きだったしね。
日韓条約で竹島の問題もそうですが、全部やられているんだから。アメリカがラスク書簡で「竹島は韓国領土になったことはない」と韓国に回答を出しているのにもかかわらず、日韓基本条約では「解決しないことをもって解決とす」などという、実に曖昧な着地の仕方をした。これはひとえに(韓国の立場からすれば)妓生のお陰ということになる。金鍾泌や李厚洛の対日工作の勝利だね。
じつは日韓併合を英断と分かっていた韓国政府
—当時の国会資料を見ますと、日韓基本条約に最後まで猛反対していたのが日本社会党です。竹島問題が解決していないのに、国交など結べるかという、もっともな理由ですが、ならば、いまの社民党が竹島問題に熱心かといえば、そうではない。福島瑞穂さんなんか「教科書に竹島問題を記載する是非については慎重であるべきだ」なんてことをしかも当の韓国で言っている。もっとも、自民党にしてもいま言ったような密約をしてしまったのだから大きなことは言えませんけれど。そもそも韓国が密約を守るわけがない。こういう玉虫色の解釈というのは、将来に禍根を残しますね。
菅沼 最後の段階で佐藤栄作首相が、締結にもっていったんです。実は佐藤内閣も盤石ではなかった。まだ河野一郎や岸さんもいた。彼らを反対に回すとまた話が進まない。ある部分では慎重に、ある部分は周到に。韓国側もそれは見透かしていただろうし。それで、結局領土問題は置いておいて、請求権とかおカネの問題だけになっちゃった。
—当時まだ、漁師さんは抑留されたままでしたね。釜山の外国人収容所というところに入れられて、劣悪な環境や看守の横暴で、本当に苦労されたといいます。実際に抑留された漁師さんの手記を読みました。
菅沼 そうです。韓国側は漁民を少しずつ返したり返さなかったり。日韓交渉がこじれると(帰国を)留め置きされたり、また新たに船が拿捕されたりね。
——要するに、交渉の道具にされていたわけですね。あと、北朝鮮への帰還事業(一九五九年〜)が始まると、嫌がらせのように拘留が伸びたと、これも手記に書かれていました。
菅沼 結局、日韓基本条約と同時に日韓漁業協定が何となく結ばれただけ。排他的経済水域(EEZ)なんて守られたためしはありませんよ。未だに海では韓国漁船に好きにやられている。
日韓基本条約は最終的に椎名外務大臣の男気で決まったと言われているが、確かにああいうタィプの政治家でないと動かなかったのも事実です。細かいこととよりも度胸と気風の良さで切り抜けるタイプと いえます。
——大野伴睦の急逝で韓国側との交渉がなくなり、 さて、というところで外務大臣に抜擢されたのが椎名さんでした。(一九六四年七月)。彼の気質を見込んでの人事だったと言われています。ときを同じくして韓国では大統領秘書室長出身の李東元が外相就任。ここで一気に仕切り直しという感じですね。
李氏は外相就任を打診された際、朴大統領に「私に第二の李完用になれというわけですね。わかりました。お国のためです」と言ったという話が残っています。李完用はいうまでもなく日韓併合に調印した大韓帝国の首相で、現在の韓国では国賊と教科書に記されている人物です。つまり、自分は後世、売国奴と呼ばれるかも知れないけれど、国を救う道はこれしかない、と。朴大統領と李東元外相の心意気が伝わってくるエピソードだと思います。
菅沼 そこは認めてあげるべきですね。とにかく、韓国側も必死だった。
——逆に言えば、朴正熙も李東元も、李完用の英断(日韓併合)こそが、当時の朝鮮を救ったという事実をわかっていたということです。李完用は終生、日本語を話さず、日本人の役人と会話するときは英語で通した、それほど民族意識の強い人でした。彼が売国奴であるはずがない。現在、李完用の墓はもちろん、彼の息子の墓も暴かれて残っていないそうです。墓を暴くというのは、儒教社会において最高の辱めですが、李東元は自分の死後 同じ仕打ちを受けることを覚悟でこの大任を引き受けたということです。
菅沼 韓国でも、そういった、私欲を捨てた政治家がいるということです。それこそ李完用のようにね。
事実ではなく「そうであるべきだ」が韓国の歴史認識
—さて、六四年といいますと、日本はちょうど東京オリンピック(十月開催)を控えてお祭りムード、その直後に佐藤内閣が発足(十一月)で、同年暮に、第七次交渉が再開し、 翌年(六五年)二月、椎名さんがソウルに飛んで仮調印と。とんとん拍子に運んでいますね。
菅沼 その席で椎名さん、あなたが先言ったように「(併合を)申し訳なく思い深く反省する」なんて言ってしまったんだから。上手く言わされたのだろうけど。
—村山談話、河野談話は一日にしてならず、ですね。結局、こういうことの積み重ねが 土下座外交につながっている。戦後七十年の安倍談話にしても、それらを全否定することはできなかったわけです。日本人は、一度謝れば終わりだと考えるけど、韓国人は相手が謝ってから始まるんですね。どんどんと付け入ってくる。
菅沼 それとね、もうひとつ付け加えるなら、韓国では「そうあるべきだ」が歴史なんですよ。たとえば韓国の女性が日本の男に体を許すなんてことはあるべきではない、したがって、韓国の女性が日本人に売春なんてするはずがないと、こうなる。にもかかわらず慰安婦にされたのは強制されたからに違いない、いや、強制されたに決まっているんだと。 韓国から見れば日本のような蛮族、夷狄に誇り高いわが民族の女性が肌を許すはずはないということです。
併合前のことです。開国したばかりの朝鮮に釜山に日本の事務所ができたときに、大飢饉で日本人に女性が身を売って三日ほど生きながらえたということがあった。そしてそのときに日本人に身を売った女はすべて死刑になっているんです。要するに朝鮮の婦人がケダモノのごとき倭奴に身をゆだねることはあってはならないと。実際日本人の男と交わったら死刑という法律があったんです。しかしそのとき死刑にされた女性がなんと言ったかというと「三日間でも生き延びられて幸せだった」。これがなければ三日前に餓死していたと。こういう話があるんです。
—その話は何かで読んだことがあります。日本人蔑視、これこそが民族差別ですよね。
菅沼 日本人と寝ることは罪とされた。強制されたということで初めて罪が許されるのです。むしろ(強制されたと証言した)慰安婦は受難者で聖女なんですよ。
—興味深いデータがあります。一方、日韓併合時代、朝鮮総督府は内鮮一体のスローガンのもと、内地人と半島人の結婚を推進しましたが、内地人男性と半島人女性のカップルよりも半島人男性と内地人女性のカップルのほうが圧倒的で、一対二の割合だったそうです。
菅沼 だからわれわれは、証拠をつきつけて真実の歴史をきちんと見せなくてはならない。ところが日本人は特質としてあまりおこがましく自己主張をすることをよしとしない。遠慮するとか思いやるとかが日本の美徳、ところがそれを韓国は付け込んでくるんです。
「秘苑」—民団の迎賓館と呼ばれた妓生八ウス
—ところで、日本にも高級妓生ハウスがありましたよね。韓国の要人やCIAの幹部と日本の政治家が密談する場所であることは公然の秘密とされ、駐日韓国大使館の「迎賓館」などと呼ばれていたようです。
有名なところでは、町井久之(鄭建永)の銀座「秘苑」、湯島「秘苑」(旧「城園」)があります。先ほどから名前が出てくる金鍾泌や李厚洛といった人も日本に来るたびにここに寄っていたようです。
菅沼 他にもいろいろありましたよ。新宿(「錦龍閣」)とか芝高輪(「梨光苑」)、六本木とかにもね。大阪には「徳寿宮」、「万寿台」という大きな料亭があった。
—「秘苑」がオープンした当時(一九六六年)、国会(二月の衆議院予算委員会)で社会党の戸叶里子議員が「韓国政府発行の外交官のパスポートで妓生が入国しているとスッパ抜いて大騒ぎになりました。また、自民党の議員、特に青嵐会の連中が「秘苑」で怪しげな接待を受けているとも追及されています。
菅沼 別に間違っていないんじゃない。外交官のようなものでしょ、国の命令で来ているんだから(笑)。当時はいまと違って、そんなに簡単に日本に来れなかった。妓生を管轄していたのはどこか? KCIAです。いうならば、妓生はKCIAのエージエントだ。在日ヤクザも民団もすベてKCIAにつながっているのです。当然、自民党の議員ともつながっている。いや、つながっていた、というほうが正しい。
—ああ、自民党も当然、黙認と。当時は日本の球団に所属していた韓国人選手(白仁天) も軍人の待遇で人国していたそうですからね。なぜかというと、向うには兵役がある。兵役を免除するために、駐日大使館付きの軍人が余暇を利用して野球をしているという建前らしいのです。お膳立てを整えていたのはKCIAでしょうね。そのような内容の報告も 読んだことがある。この選手、帰国後、なんと姦通罪で逮捕されるというおまけがついた。 韓国では姦通罪がなくなったのはつい最近(二○一五年二月)のことだというのも驚きでした。
P.120~121
店の名前こそ明らかにしていないが、梧珍庵であろうことは推測できる。KCIAが営業証を発行し、女性たちに観光客向けの売春業をさせ、その上がりの一部を巻き上げているというのである。彼女たちはいわば準公務員の売春婦となる。この国家売春の総元締めが朴槿恵の父上、朴正熙大韓民国大統領だったのだ。
《KCIAは、こうして半ば公然と売春を営業しているのだが これは一方では、李厚洛の組織された情報収集の手段としても利用された。KCIAは女性たちを外貨獲得の愛国行為と励ましながら、日本観光客や訪韓した日本の有カ者の動きをつかむ手段としていたのである。》(文明子)
閨のできごとはすべて李厚洛に筒抜けということか。こうして弱みを握られた日本の政治家や財界人はどれほどの数に及ぶだろう。評論家の中保与作氏はある週刊誌のコメントで、ソウルの清雲閣という 有名な妓生ハウスで、大野伴睦や伊藤忠の重役たちが金鍾泌と遊んでいるのを目撃したと語っている。
しかし、妓生がらみのスキャンダルでなんといっても衝撃的だったのは、一九七〇年(昭和四十五年)三月に起こった鄭仁淑殺害事件であることに異論はあるまい。事件というのは、妓生ハウス仙雲閣の売れっ子妓生・鄭仁淑(本名•鄭金枝)が実兄の運転する車で漢江沿いの麻浦区付近を高速道路を移動中、 物陰から出てきた“何者か”に狙撃され死亡するという(実兄の証言)ショッキングなものだった。
鄭は女優上がりの美貌で政財界にも広く知られた存在だったという。もっとも妓生といいながらも、 舞踊や楽器の素養に関しては怪しい限りで、いわゆる枕営業専門だったらしい。とはいえ、彼女のお相手は政府高官や財閥の子弟といったVIPクラスばかりであり、さらには日本やアメリカの政治家も彼女の密戯の虜になったともっぱらの噂だったという。いうならば、韓国のデュ•バリー夫人である。
実は彼女、独身でありながら、事件の三年前に父親不明の男児を出産していた。その子の父親を巡っては、彼女自身が朴正熙大統領であることをほのめかしていたともいわれ、また、丁一権首相から養育費とも思われる手当が毎月払われており、彼が父親でないかという説も濃厚だった。さらには李厚洛や朴鐘圭とも関係があったことも明らかになっている。そもそも、朴大統領に彼女をあてがったのは朴鐘圭だったという。
どちらにしろ、事件時、彼女が乗っていたコロナのナンバーが、政府高官用のものナンバーだったことからも、単なる高級コールガール以上の地位にあったのは確かだった。同時に彼女と長男の存在は常に朴政権中枢の頭痛の種だったのは理解できよう。「私が一言いえば大使のクビくらいすぐにすげ替え ることができる」と豪語していたという証言もある。
そのためか、一時期、朴鐘圭によって母子が東京に処払いされていたこともあった。東京での彼女の生活の面倒を見たのが朴鐘圭のヒョンニム、町井久之だったという。
P.142~143
—佐野さんの紹介で柳川さんと会われたのですか?
菅沼いや違う。朴正熙の死後、KCIAが力を失って、代わりに駐日韓国大使館の武官室に保安司令部からから要員が派遣されてきた。その武官室のあまり偉くない武官補佐官が着任のあいさつにきて、その後何度か酒を飲んでいるうちに柳川さんに会わないかということで、赤坂の韓国クラブで紹介されたんです。柳川さんとはその場ですっかり打ち解けてね、いましたような話をいろいろしてくれました。
その後、柳川次郎が和歌山の病院で亡くなったとき(一九九一年十ニ月)には、焼香に行きたかったんたけどね、立場上まずいだろうということで行けなかった。そのころです。 武官室の補佐官から、「菅沼さん、本部からNo.2と3がアメリカ経出で日本に来ることに なっているので会ってくれませんか」と言われて、熱海の伊豆山の有名な旅館に出かけた。 そこで会津小鉄の高山さんと初めて会った。柳川さんの跡継ぎとして宜しくお願いしますと。日本にいる韓国系のヤクザというのは韓国政府というよりも情報機関と関係している人が多いんですよ。
—ヤクザを通して日本の情報も向こうへ行っているということですか。
菅沼 そうです。北朝鮮(総連)と闘うばかりではなくて、政界のスキャンダルとかなんとかいろいろあるでしょう、そういうことを彼らはよく知っていた。だって自分たちが情報を提供したりしているんだから。それは全部韓国の情報機関がつかんでいる。だからこそ日本の政界に影響力も行使できる。場合によっては情報機関を通じてカネもくる。