10/12『やぶれざるもの-天壌無窮の「国体」』セミナーに参加して

表題セミナーは日本国体学会主催で靖国会館で行われました。講師は長谷川三千子・埼玉大名誉教授とロマノ・ヴルピッタ・京産大名誉教授です。

長谷川三千子講演『神やぶれたまはず』

吉田沙保里はレスリング世界選手権で12連覇した。このまま引退すれば「敗れざるもの」になる。今日の話はそのような話ではない。この世の最後の審判を受け、神より信仰が厚いと認められ「復活」する「敗者復活」の考えがキリスト教にはある。でもこの世の戦いに敗れても神は不敗ではないかと言うこともできる。しかしこの意味でもない。「敗れる」ことが悪いことという前提に立っている。ローマに滅ぼされたエトルリア。今我々は何も分からない。文化破壊が行われたから。これを考えると「敗れる」のは悪いこととなる。日本文化は違うように考える。「敗れ去る」のが日本文化である。文化が上質なものは敗れ去った者に寄り添う形でできている。「平家物語」は一大叙事詩であるが敗れたものを中心に書かれている。私は幼いときに「源氏物語」は勝者の源氏を書いたものと思っていた。でも「源氏物語」も敗れ去った物語である。源氏が年を取り、紫の上とかも亡くなり、自分の女性たちも離れていく話である。時の流れによって敗れたものである。しかし敗れたものの考え方には落とし穴もある。「センチメンタルな同情や虐げられた者が偉い」という考え、これは嫌いです。民衆革命論にも繋がるし、弱者の視点でウジウジ、メソメソするのは負けたものの精神的退行ではないか。精神的なものがない人には退行もないが。「平家物語」「源氏物語」は高い精神性を有する。文学は何を目指すのか。ウジウジ、メソメソではない。滅びの底にある何ものかに視線を向ける。私は「時間」ではないかと思っている。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず。ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。」は仏教の受け売りに見えるがそうではない。道元(1200年生まれ)の『正法眼蔵』の有事の巻で、諸行無常が一般的な時代に「時間は単に過ぎ去っていくものではない」「この世を現出させるのは時の力」と言っている。主役は平家でも源氏でもない。時の現れ方が「勝ち」とか「負け」になって現れてくる。哲学的に見据える必要がある。そうすれば「敗れ去る」「敗れざるもの」もなくなる。日本文化は仏教と親和性が強い。「モノ」は「事物」の意味ではない。消え去っていくこと事態も「モノ」と表す。「世の中は虚しいモノだ」と言い、「世の中は虚しいコトだ」と言うと違和感を感じる。「祇園精舎の鐘の声~」は「モノ」、だから「モノガタリ」になる。失っていく後を追っていくのが日本文化である。「敗れざるコト」ではない。後姿を見るのが日本文化。古事記はモノガタリでもなく、天地の始まりの話。もう一つの時の話をすると古事記の中でコトアマツカミのウマシアシカビヒコジノカミが出て来るが、時の流れに発出している。生成現出、時が流れ消失していく。ここに日本人の世界観、時間観が出来上がっている。時の現出と後姿を見る日本人。大東亜戦争の敗北も生成流れ去るホンの一瞬の出来事。キリスト教のカイロス同様、それ自体が価値を持つ。それが終戦の瞬間。国体のジレンマは頂点に達していた。「国体」の核心とは「天皇と国民互いに総てを犠牲にして良い」と考え、行動すること。君民一体である。相互的なものであって丸山眞男の「国体」批判は的はずれ。皇祖皇宗からの遺訓である。それが血肉化したもの。戦争末期、降伏受諾は天皇が処刑される可能性もあったがポツダム宣言を受諾しなければ国民の命が失われる。8/9ソ連参戦時の御前会議で天皇が受諾を決めた。互いが互いを差し出すことが実現した一瞬。勝利していればそれは実現してなかった。「モノ」「コト」でも表現できない「敗れざるもの」の稀有な瞬間であった。

ロマノ・ヴルピッタ講演『偉大な敗北と神州不滅の理』

保田與重郎の考えていた偉大な敗北と神州不滅の理から話をする。日本は滅びることはないという宗教的確信を持っていた。「神は敗られ給わず」で日本は敗れることはできない。「日本」と「国体」は深く、広いので定義できない。「偉大なる敗北」はドイツ浪漫派から取った。保田は『セントヘレナ』でナポレオンを論じ、日本武尊、木曽義仲、後鳥羽上皇も論じた。英雄には負けたからなった。国民の英雄になるには敗北、不運な死が必要である。負けた人に対する「判官贔屓」である。薄命の英雄に対する同情である。英雄は個人的なドラマであって歴史解釈の問題。英雄の敗北と国家の敗北の意味は違う。英雄の敗北は国民の心に残るが国家の敗北はそれを超克して生きる、復活するということ。

  1. 日本の敗北は偉大かどうか 2.偉大だとすれば国民の記憶に残っているか。理解しているか。

1.については偉大であったと思う。矢弾が尽きたので止む無く敗北した。戦闘継続の意思はあった。その観点で言えば8/15の敗北は偉大であった。疑う余地はない。

2.については9/2まで戦闘継続していたが外国軍の占領という屈辱的なことが始まる。講和条約締結まで主権を失う。昭和27年4月28日に締結したので占領終了して、4/29から主権国家になった。8/15の不名誉な敗北で総べての価値観が覆り、勝利者に媚びた。「マッカーサー通り」なんてとんでもないと思う。広島にも同じく「マッカーサー通り」がある。気持ちが分からない。占領の後遺症で国民の資質が変わってしまった。日本の歴史の中では例外的なこと。「一億総玉砕」から生き延びて「死に損なった(=不名誉なこと)」ためどうなっても良いと考えてしまった。「葉隠」には「武士道とは死ぬことと見つけたり」とある。偉大なる敗北かどうかは個人の問題。兵士の死は偉大であった。敗北の偉大さを戦後日本人は感じていたのか。日本の美点である薄運の英雄に対する同情がなくなった。日本人の歴史観は仏教の影響を受けている。負けたから戦争したのが悪い、犬死だ、東京裁判史観に立脚するのは結果論であって唐心(からごころ)である。

神州不滅というのは日本は永遠なることの意味である。日本は神により不滅と決められている。楽観的確信がある。保田は楽観的ではなかったが。宗教的確信に甘えるのは良くないと思っていた。国破れた後でも不滅・復活し、戦前日本の輝かしい未来を予言していた。それで大東亜戦争を称賛していたが戦況悪化してきて日本は敗けても不滅と言った。永遠の時は歴史の超克より上である。「国体」とは稲を養い、新嘗祭で神に報告、日本の暮らしを守ることである。一人の日本人になっても守れれば良い。今は大東亜戦争が継続されている。8/15当時より今は最も深刻な事態になっている。日本人の決意が試される時である。