上橋泉氏講演録より「絶対者との出会い」について

上橋泉氏が柏市会議員の立場でなく『21世紀の浄土思想』を著しましたが、本年3/23にその出版記念講演会があり、『宗教新聞』9/20号に全内容が掲載されましたので、表題に関する部分を抜粋する形で紹介したいと思います。小生は絶対者との出会いはありません。でも神秘体験はあります。会社勤務の時、尊敬する先輩が癌で入院、手術前に励まそうと病室を訪ね、いろいろ話をしました。でも何故か部屋が暗いのです。実は小生が訪ねた時間にはもう手術室で手術が始まっていたとのこと。科学では説明できません。その後、先輩は亡くなりました。小林秀雄も終戦後の間もないころ、酔って一升瓶を抱えながら水道橋のプラットホームから転落した話があります。ちょうどコンクリートの塊りと鉄材の間にある一間ほどの石炭殻と雑草に覆われた間に落ちて、命拾いしたというのです。 小林は「一升瓶は、墜落中、握っていて、コンクリートの塊りに触れたらしく、微塵になって、私はその破片をかぶっていた。私は、黒い石炭殻の上で、外灯で光っている硝子を見ていて、母親が助けてくれた事がはっきりした」と書いてます。

<抜粋>

道元も晩年には、「読経などしなくてもいい、只管打坐でひたすら坐禅せよ」 と言った。絶対者は本の中にはいない、 日常生活の中にいる。日々出会う人の中に絶対者は生き、日々の出来事の中に絶対者の思いが秘められている。法華経の常不軽菩薩品は、釈迦の前世の姿である常不軽菩薩について書いてある。常不軽菩薩は出会う人ごとに手を合わせ、「あなたは仏となる生命だ」と言って拝んだ。 中には怒って石を投げつける入もいたが、常不軽菩薩は石が届かないところま で逃げて、そこからまた拝んだと言う。

大衆と同じ重荷を背負ったものでなければ、大衆を導くことはできない。絶対者によって与えられる人生の課題と格闘する中で、絶対者の思いを感じ、絶対者を恋い求めて、涙を流して祈った者でなければ、絶対者に出会うこともないし人を導くこともともできない。絶対者と出会うということは、必ずしも眼前に絶対者が姿を現すことを意味するものではない。常不軽菩薩のように、同胞一人ひとりに仏の姿を見いだせば、これ以上の絶対者との出会いはない。空海の『性霊集』は空海の詩、碑銘、上表文、啓、願文などを弟子の真済(しんぜい)が集成したもので、空海の言行録である。そこで空海は、「貴方の眼が明るく開かれていれば、出会うもの全て宝となる。正しい道は遠くにあるのではない。貴方の心一つで目の前が開かれる」と述べている。キリストも山上の垂訓で「目は体のあかりである」と説いている。その目は単数形で表現されている。だから、キリストは肉眼のことを言っていな い。心の目のことを言っている。つまり、心次第で人生は明るくなり、周りの世界が姿を変えると言っている。

宗教は理屈ではなく体験の世界である。学問や家柄、過去の罪なども一切関係がない。宗教ほど平等な世界はない。私は宗教知識では梅原猛や古田紹欽に及ばないが、絶対者の声を聞いた、絶対者から直接真理を伝えられたという絶対的自信がある。絶対者と出会う体験を持たない学者に負けるはずがないという自信がある。