『日本も戦場になりかねない!ARの野放図な発展が引き起こすリスク』(8/15JBプレス 伊藤乾)について

ESLI=Ethical, Legal and Social Issues、AR=Augmented Reality=拡張現実とのことのようです。今の若者はすぐ分かるのでしょうけど、定義から説明して貰わないとチンプンカンプンです。

8/15日経 デュアルユースについての記事を紹介します。

軍民両用研究、揺れる科学者 「戦争の危険性高める」 

「軍事目的の科学研究はしない」。科学が原爆や化学兵器などの大量殺りく兵器を生み出した反省から戦後、日本の科学者が生み出した“誓い”が揺らいでいる。国が軍事用にも民生用にも応用できる「デュアルユース(軍民両用)技術」の後押しを始めたからだ。戦後70年が過ぎ、日本学術会議で是非の議論が始まる中、科学者も賛否で割れている。

「軍事研究が戦争の危険性を高めていくのは明白だ」。今月1日、神奈川県横須賀市で開かれた原水爆禁止世界大会・科学者集会には市民など約100人が詰めかけた。「防衛力強化といっても最終的には抑止力のための核に行きつく」などと訴える科学者の講演に熱心に耳を傾けた。

集まった科学者らが懸念するのは防衛装備庁が昨年度から導入した「安全保障技術研究推進制度」だ。レーザーシステムやロボットなどによる遠隔作業など研究テーマを示し、防衛装備品の開発に役立つ提案に対し、年間で最大3千万円程度の研究費を提供し、成果を防衛装備品の研究開発に活用するほか、民生分野でも活用してもらう。

研究資金の不足に悩む大学から多数の応募があり、昨年度の競争率は10倍以上、今年度も5倍ほどとなった。

集会で講演した名古屋大学の池内了・名誉教授(宇宙物理学)は「民生分野の活用をうたっていても狙いは軍事。大学が軍事研究に関わることは、平和国家としての道を踏み外しかねない」と警鐘を鳴らす。ネットなどで呼びかけ、科学者など約2200人分の署名を集めた。

岡山大の野田隆三郎・名誉教授も新制度に反対する一人。「大学の軍事研究に反対する署名運動」を展開し、9千人分の署名を集め、新制度に応募した大学などに研究反対を申し入れたという。

一方、「軍事と安全保障は別物」とみるのは横浜国立大学大学院の上野誠也教授(航空宇宙工学)。上野氏は「現在は国家間の戦争よりも、対テロ政策などの安全保障が重視されている」と指摘、「国民の命や安全を守る技術開発は推進されるべきだ」と主張する。

さらに「テロリストの監視に役立つ安全保障の技術は、山などで遭難者を発見する安全保障外の目的としても役に立つ」と説明する。

日本の科学者の代表機関である日本学術会議は過去の戦争の反省から、1950年と67年に「軍事目的のための科学研究を行わない」という趣旨の声明を出し、長い間その方針を貫いてきた。

だが同会議は5月、新制度を機に軍事目的の科学研究について検討する「安全保障と学術に関する検討委員会」を設置。民生用の技術は軍事用にも使えることもあり、7月28日に開いた第2回会合では「何を軍民両用技術とするか」の定義が焦点となった。次回以降も定義を集中的に議論する予定で、どこまで認めるのか議論の行方が注目されている。>(以上)

日本学術会議が学問の軍事利用禁止を申し合わせたのも戦後の米国の圧力や共産主義者の浸透があったからではないかと考えています。原水協(共産党系)や原水禁(社会党系)だって、当初は平和運動として始めたものが、結局左翼政党に牛耳られる始末。ソ連と中国という共産主義国家の思惑を斟酌したためにその平和運動も分裂しました。如何に平和運動と言うのが胡散臭いかです。

左翼リベラルは国連憲章第51条で保証された自衛権の発動とか抑止力の概念について知っていながら無視します。共産革命を起こすのに都合が悪いからでしょう。自衛隊を「人殺し」呼ばわりする日本共産党は政権を取ったら(まあ民主主義国家では無理でしょうけど)、赤軍創設を必ずやするでしょう。スターリンがトハチェスキー将軍を冤罪で処刑したようなことが起こります。日本人は共産主義の独裁の危険性に余りにもウブ過ぎますというか、現実の悪い手本を見なさ過ぎです。左翼メデイアを信用しているからです。いい加減覚醒しないと。

池内了の兄が池内紀(独文学者)だから脳内お花畑は似たようなもの。中国の脅威をどう見ているのか聞きたいです。リベラルを装っているが共産党シンパかもしれません。池内紀の息子の池内恵の方が中東研究者だけあって、現実を見据えた判断をしていると感じます。現実社会から遊離した世界に住んでいれば、共産独裁国家にいいように利用されるだけです。

近代以降の戦争の形態は総力戦となり、戦闘員・非戦闘員の区別がなくなりました。フランス革命(1789年)の血の粛清の影響を受けてか、南北戦争(1861年)では勝者が虐殺・掠奪など恣にしました(勿論、米国独立戦争(1775年)がフランス革命にも影響を与えましたが)。自由の女神(1886年)もフランス政府から送られたものです。ハーグ陸戦条約(1899年)は近代戦で戦闘員・非戦闘員の区別がなくなったことを危ぶみ、民間人(civilian)への攻撃を禁止しました。日本はパールハーバーで軍事施設のみを攻撃したにも拘らず、米軍は東京大空襲、原爆投下など非戦闘員を虐殺しました。ハーグ陸戦条約違反は明らかです。流石南北戦争の伝統を持つ国です。日本も重慶爆撃したと言われますが、中国人の便衣兵と同じく、蒋介石が民家に対空砲台を設置、隠したためでもあります。流石中国人と言うほかない。今のイスラム過激派の戦法に繋がります。民間人を犠牲にするという意味では、沖縄左翼の基地傍の学校を移転しないのも似た理由でしょう。

近代科学の発展は軍事利用からはじまりました。船、飛行機、インターネットなど今我々が便利に使っているものが多いです。開発自体の善悪の問題ではなく、使う人間の問題でしょう。プロメテウスの火だって火災を齎すことがあっても、人類に大いなる利便性を与えてくれました。

外国ではロボットも無人兵器として考えています。日本では介護用とか癒しとかに限定して考えていますが。中国の「騙す方が賢く、騙される方が馬鹿」という価値観を持った人に騙されないようにするには騙す手口を知らないと防げません。別に日本人も騙せと言っている訳ではなく、相手が汚い手を打ってきたときに反撃できるようにする、これが抑止力でしょう。平和と言う念仏を唱えるだけでは決して平和は守れません。リアリズムの世界に生きなければ。この点で伊藤氏の見方は甘すぎるのでは。村上春樹の影響を受けている気がします。

記事

coast of Nice, France

84人が死亡したトラック突入事件が起きた仏ニースの海岸沿いの遊歩道、プロムナード・デザングレ前のビーチでくつろぐ人々(2016年7月16日撮影)〔AFPBB News

今日は8月15日、終戦記念日ですので、ELSIの話題が戦争(の回避)とどれだけ深く関わっているかという橋渡しの内容を記しましょう。

先週の8月9日、東京大学の安田講堂で行った長崎原爆忌「火垂るの墓」上映と演奏、ラウンドテーブルの「哲学熟議・哲楽遊戯」に多くのご参加をいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

このような場、学外での演奏も含め、より拡充していく考えです。どうか引き続きよろしくご支援いただけますようお願いいたします。

さて、ライブの場では私は音楽家としてのみの行動ですが、それとこの連載で扱う内容とが表裏一体であることは、少し丁寧に記さないと分かりにくいかもしれません。

安田講堂でも金子兜太さん、高畑勲さんも話しておられた通り、私たち日本人はおっちょこちょいであり、軽率にノリに任せて限度というものをわきまえず、何となく進んでしまうところがある。

では、そういうノリで東アジアが再び全面戦争に突入してしまうか、と問われると、私個人はあまりそういう可能性は高いと思っていません。

では戦争は起きないのか・・・?

いやそうではない。戦闘とも冷戦とも違う、「別の戦争」が起き得るし、と言うより既に起きていると言っていいのかもしれない。

その背景にはGPSという技術が深く関わっています。今回は両者をつなぐ議論を記しておきましょう。なお、ポケなんとかというゲーム名は、議論とかみ合うところがないので、タイトルに記さないよう、編集部にはお願いしました。

21世紀型のテロとGPS

7月のニース、3月のブリュッセル空港、昨年11月のパリ。欧州の生活実感として「テロ」は既にかなり身近なものになってしまいました。

8月第1週、夏休みのベルリンで市が立ち、アレクサンダー広場など人々の集まる場所には子供向けの遊具や縁日、小劇場の小屋掛けなどがならびましたが、ポケモンGOなどARゲームに興じる人は全く見かけませんでした。

個人的には、昔ながらの風景の夏休みに心和らぐ気がしたのですが、ドイツ人の友人とその種の話をしたとき「下手に目立つことがあって、おかしな標的にされては堪らない、という考えがあるのかもしれない」と反応され、安易な自分の思考停止に冷や水を浴びせかけられ恐縮せざるを得ませんでした。

ドイツでは先月もミュンヘンのショッピングセンターで大量殺人事件が発生したばかりで、特に子供を持つ親の生活実感として、不安要素は極力避けねばという暗黙の前提があります。

ミュンヘンの事件もそうでしたが、必ずしも組織的、政治的な背景がなくとも、日常生活と突発的危険事態との間に境目が判然としない。

これは相模原の事件も並行して話題に上りました。親としては、例えば登下校中の子供の安全を考え、理由が政治的であろうと、個人の犯罪であろうと、事件や事故に巻き込まれないことが重要であって、それに結びつき得る要素は極力排除したい。

タクシーを呼ぶようなアプリケーションでも、ゲームとして遊ぶのでも、目的用途の別は問わない。小さな子供がどこにいるかの位置情報、親としては安全が確保される範囲であれば把握したいし、見ず知らずの人間が容易にそれを知ってしまうようなシステムは絶対に排除したい。

で、そこでの結論としては「子供と手をつないでの送り迎え」「見知らぬ第三者が介入し得るあらゆる情報メディアと子供とのプラグオフ」が無難という、平凡かもしれませんが古典的な解決が現状では一番確かなのではという話になりました。

なぜ21世紀型のテロ状況が起きるようになったのか?

この連載でも繰り返し触れる通り、1つにはGPSによって地上のほぼ全域が(軍事的に)常時監視可能な状況になっていることを挙げておくべきでしょう。

8月9日 安田講堂での一ノ瀨正樹教授の講演でも触れられましたが、先進国が介在する戦闘では1982年のフォークランド戦争をほぼ最後に「白兵戦」は戦われなくなりました。

もちろん誤解のないように、中東でもアフリカでも途上国の紛争では現在に至るまで白兵戦の状況は続いていると考えるべきでしょう。

ただ、ベトナム戦争が端的と伝えら得ますが、白兵戦はしばしば兵士に、克服困難なPTSDの症状を遺します。帰国後、内地でフラッシュバックを起こして犯罪事件発生、あるいは自傷・他傷・自殺など、極めて重篤な影響を帰還後、さらには退役後の軍人にも及ぼしてしまう。

軍としては、そうした2次的波及も含め「被害を最小」に、かつ「効果を最大」にするよう軍事テクノロジーを高度化させていった。

そのたどり着いたところが、特殊・一般双方の相対性理論効果も考慮して10メートルオーダーの精度で地球上あらゆる場所をピンポイント爆撃できる精密攻撃の軍事ネットワークであり、それを可能としたGPSシステムであったわけです。

こうなってしまうと、前線とそうでない銃後の区別が全く消えてしまいます。「ビッグブラザー」アンクルサム(Uncle Sam)は常時世界を空から睥睨している。

不穏な動きをすれば、直ちに察知され、従わなければピンポイントで掃討されてしまう。

「先進国」と「それ以外」の勢力とが軍事的に緊張関係に入ってしまうと、上に記した「白兵戦の回避」という先進国の事情から、前線の設定が困難・・・しばしば不可能な「見えない最前線」=「至る所が戦場」という21世紀型の空爆戦争状況が成立してしまう。

軍事勢力はしばしば「テロリスト」に規定され、討伐の対象となりますが、実は一枚岩では全くなく、複数の軍事勢力同士が複雑な対立関係を作り出し、それを後援する先進国間の利害なども絡まっておよそ簡単でない状況が生まれている。

そんな彼ら非先進国側軍事勢力の立ち位置からは、普通に市民が暮らす街中が随時最前線として攻撃され、女性や小さな子供も砲火の直撃にあう等身大の現実が目に入らざるを得ない。家族に回復不能なダメージを負う人も決して少なくないでしょう。

「貧者の核」という言葉が周知と思います。

A=アトミックつまり核を持てない弱小軍事勢力がBC兵器=生物〔バイオ〕兵器・化学〔ケミカル〕兵器を手にするリスクがあり、オウム真理教による地下鉄サリン事件の後は、米国から製造実行犯たちに対して、サリンなどの化学兵器をテロリストが使用するリスクを前提に対策構築のヒアリングがありました。

いまここで起きているのは「貧者の戦線(不在)」という状況にほかなりません。つまり「ここは戦場、こちらは非戦闘員の一般市民が生活するエリア」という区別が消えてしまった。

区別がつくようでは、弱者の側には最初からビッグブラザーに対抗することなど不可能だから。

そこで、全く普通の市民生活が送られるパリ市内が、ブリュッセルの空港が、リヨン郊外の避暑地が抵抗者たちによって「戦場」第一線とみなされ、突然の攻撃を受け多大な被害が発生してしまう。

無辜の市民を突然巻き込むテロの暴力はとうてい容認することができません。

ただ、そのとき、私たち自身が同時に、後進地域の人々に対して全く同様の「無辜の市民を突然巻き込む空爆」などをしていない、ということが何より重要なポイントになることでしょう。

「足を踏んだ側」はしばしばその事実を忘れますが「足を踏まれた側」は決して忘れないという話があります。

これらテロ被害が日常の問題になっている欧州では、例えばARのゲーム1つとっても「これをテロリスト側が手にし、意図的に兵器GPSとみなして活用したら、いったいどんな軍事作戦行動が、全世界の見かけ上は平和な市街地などで採られてしまう可能性があるか、を予防的に検討するという考え方になる。

つまり「貧者の核」ならぬ「弱者の戦略技術」「テロリストのGPS」としてAR機器が濫用されるリスクを、最悪の状態を前提にしっかり検討していきましょう、という議論の進め方になる。

アンクル・サム的な楽天性の下ではしばしば見落とされるポイントと言えるかもしれません。これは日本でも同様でしょう。

ネットワークを活用した新製品が発売される。こんな便利な使い方もある、こんなユーティリティも、こんなサービスもと言うとき、

「その同じ利便をテロリストが最大に用いて、平和な市民生活を混乱の極に陥れたら・・・?」

なんてことは普通絶対に考えません。むしろ、

「みんながゲームで楽しく遊んでいるのに、水を差すようなことを言うというのは、ヒットが悔しいのか?」

とか、およそピント外れな反応が返ってきたりもする。言うまでもなく、そんな話をしているわけではありません。戦場だけが戦争の現場ではない、その残虐を最もストレートに描いた1つが、実話に基づく「火垂るの墓」の状況だと思うのです。

「火垂るの墓」の教え:爆弾より恐ろしいもの「人間」

亡くなった野坂昭如さんの小説「火垂るの墓」は、昭和20年8月から9月にかけて、実際に神戸で作家自身の身に起きた現実を基に書かれました。

戦争が終わり、社会は戦時統制のタガが外れ、経済システムが機能不全に陥る。軍票や旧円券は紙くず同様となり、「これだけあれば当分大丈夫」と思っていた規模の資産が消えてなくなってしまう。

物々交換の直接経済の中、その歯車とかみ合うところのない弱い存在、子供たちが飢えて命を失ってしまう・・・。

もしかすると爆弾よりよほど恐ろしいのは人間ではないか、と痛感させられる、実話に基づく「わたしたちの現実」がここにあります。

この「火垂るの墓」の舞台、既にポツダム宣言を受け入れ、戦闘は終わっているはずの「市街地という戦場」が、今現在世界中の「前線を失った戦場」至る所に発生しているのではないか?

この原稿は8月10日に書いていますが、8月9日「哲学熟議・哲楽遊戯」では、こういう能書きを何一つ述べませんでした。

私はここで場を設定する側そして聞く側であって、当事者として戦場から復員された金子兜太元中尉をはじめ、もっぱら直接戦争を経験された方のお話をうかがうこと、それも、極力、何かマニュピュレートするようなことがないように、できるだけ無政府状態的に、管理を離れた人間の生の声がそのまま出てくるよう、時間などは常に長大に伸びてもよしとし(音楽の本番演奏さらには生放送のテレビなど仕事では秒単位でコントロールしますし、そうでないところでは1時間伸びても何の問題もない)そこでこそ初めて立あらわれる一期一会が重要で、それが分からなかったら意味がない、それがあってこそテレビその他のお仕着せと無縁な、何らかの価値に初めて触れることができると思うわけです。

今後仮に日本が空爆などに参加する側に立つなどし、また五輪などの国際行事に関わったりした場合、「足を踏まれた側」から加害者とみなされ、日本国内を「前線なき戦場規定」される可能性は誰も否定できません。

またそのようなとき、既存のあらゆるテクノロジーは武器として利用される可能性があります。位置情報を伴うテクノロジーは仮想的なデータを物理的な相互作用に直接反映させる力を持っています。

遊戯も可能だし、配車などもできるし、危害を加えるといった意図を持ったとしても、同様に活用することができる。

いま欧州でこうしたリスクとその予防を社会的、法的、また倫理的にどのように考え、対策を立てているか。

ELSIの諸問題は全く値引きなしに「火垂るの墓」の世界と地続きなわけです。

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