戸部良一著『外務省革新派』について

一読して如何に理念外交が国を危うくするかという事と、人事で遇されない私怨が世界情勢を見る目を曇らせたと感じました。しかし、白人の植民地主義を非難するのであれば、「日本は当時どうだったのか」と聞かれたときにキチンと答えられるようにしておかないとダメだと思います。確かに天皇の開戦の詔勅、政府声明を読みますと格調高いですが、やってきたことは外形上欧米列強と同じように見えてしまいます。勿論、日本は欧米の定義するような搾取もせず、投資して持出になり、識字率も上げる努力をしたことなど欧米流の植民地とは違うと言えなくもありません。しかし「植民地の福利厚生を図るのは(白人宗主国の)神聖な使命」というのとどう違うのかをキチンと説明できないと反論されるでしょう。

石原莞爾は満州事変を起こしましたが、満州は元々満州族の土地で漢族とは関係ないとはいえ、後に武藤章の「大本営の不拡大方針」に反して支那まで戦線を拡大した原因を作りました。先が読めなかったというべきか。欧米の植民地主義と同じことをしたのでは道義的に見たら同じように浅ましく見えてしまいます。また、辻政信のようにシンガポールやフィリピンで市民の虐殺を命じた軍人もいます。明治維新から時代を経ておかしな軍人も出てきました。

京都学派の近代の超克も日本のやり方を批判的にとらえることはできませんでした。神風が吹くことを期待していたとしか思えません。霊的な存在も大事にしないといけませんが、科学的な物の見方をすることも同じように大切です。

戸部氏の言う無通告開戦は軍の要請でと言うのは真実ではないでしょうか。外務省が軍の要請に乗ってわざと遅らせと思います。でないと遅らせた岡崎、井口、寺崎が次官にまで昇進できるのかという事ではないかと。「宣戦布告」は必要がないと思っていたのでしょう。

白鳥敏夫の考えは今の馬渕睦夫氏に受け継がれているのでは。ユダヤ人陰謀論は今に始まったことではないという事です。

【天皇の開戦の詔勅】

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有衆ニ示ス

朕茲ニ米國及英國ニ対シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ

勵精職務ヲ奉行シ朕カ衆庶ハ各々其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ

達成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ抑々東亞ノ安定ヲ確保シ以テ世界ノ平和ニ寄與スルハ丕顕ナル

皇祖考丕承ナル皇考ノ作述セル遠猷ニシテ朕カ拳々措カサル所而シテ列國トノ交誼ヲ篤クシ萬邦共榮ノ

樂ヲ偕ニスルハ之亦帝國カ常ニ國交ノ要義ト爲ス所ナリ今ヤ不幸ニシテ米英両國ト釁端ヲ開クニ至ル

洵ニ已ムヲ得サルモノアリ豈朕カ志ナラムヤ中華民國政府曩ニ帝國ノ眞意ヲ解セス濫ニ事ヲ構ヘテ

東亞ノ平和ヲ攪亂シ遂ニ帝國ヲシテ干戈ヲ執ルニ至ラシメ茲ニ四年有餘ヲ經タリ幸ニ國民政府更新スルアリ

帝國ハ之ト善隣ノ誼ヲ結ヒ相提携スルニ至レルモ重慶ニ殘存スル政權ハ米英ノ庇蔭ヲ恃ミテ兄弟尚未タ牆ニ

相鬩クヲ悛メス米英両國ハ殘存政權ヲ支援シテ東亞ノ禍亂ヲ助長シ平和ノ美名ニ匿レテ東洋制覇ノ非望ヲ

逞ウセムトス剰ヘ與國ヲ誘ヒ帝國ノ周邊ニ於テ武備ヲ增強シテ我ニ挑戰シ更ニ帝國ノ平和的通商ニ有ラユル

妨害ヲ與ヘ遂ニ經濟斷交ヲ敢テシ帝國ノ生存ニ重大ナル脅威ヲ加フ朕ハ政府ヲシテ事態ヲ平和ノ裡ニ囘復

セシメムトシ隠忍久シキニ彌リタルモ彼ハ毫モ交讓ノ精神ナク徒ニ時局ノ解決ヲ遷延セシメテ此ノ間却ツテ

益々經濟上軍事上ノ脅威ヲ增大シ以テ我ヲ屈從セシメムトス斯ノ如クニシテ推移セムカ東亞安定ニ關スル

帝國積年ノ努力ハ悉ク水泡ニ帰シ帝國ノ存立亦正ニ危殆ニ瀕セリ事既ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲

蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ皇祖皇宗ノ神靈上ニ在リ朕ハ汝有衆ノ忠誠勇武ニ信倚シ祖宗ノ

遺業ヲ恢弘シ速ニ禍根ヲ芟除シテ東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

  御 名 御 璽

【帝國政府聲明】

恭しく宣戦の大勅を奉載し、茲に中外に宣明す。

抑々東亜の安定を確保し、世界平和に貢献するは、帝国不動の国是にして、列国との友誼を敦くし此の国是の完遂を図るは、帝国が以て国交の要義と為す所なり。

然るに殊に中華民国は、我が真意を解せず、徒に外力を恃んで、帝国に挑戦し来たり、支那事変の発生をみるに至りたるが、御稜威(みいつ)の下、皇軍の向ふ所敵なく、既に支那は、重要地点悉く我が手に帰し、同憂具眼の十国民政府を更新して帝国はこれと善隣の諠を結び、友好列国の国民政府を承認するもの已に十一カ国の多きに及び、今や重慶政権は、奥地に残存して無益の交戦を続くるにすぎず。

然れども米英両国は東亜を永久に隷属的地位に置かんとする頑迷なる態度を改むるを欲せず、百方支那事変の終結を妨害し、更に蘭印を使嗾(しそう)し、佛印を脅威し、帝国と泰国との親交を裂かむがため、策動いたらざるなし。乃ち帝国と之等南方諸邦との間に共栄の関係を増進せむとする自然的要求を阻害するに寧日(ねいじつ)なし。その状恰も帝国を敵視し帝国に対する計画的攻撃を実施しつつあるものの如く、ついに無道にも、経済断交の挙に出づるに至れり。

凡そ交戦関係に在らざる国家間における経済断交は、武力に依る挑戦に比すべき敵対行為にして、それ自体黙過し得ざる所とす。然も両国は更に余国誘因して帝国の四辺に武力を増強し、帝国の存立に重大なる脅威を加ふるに至れり。

帝国政府は、太平洋の平和を維持し、以て全人類に戦禍の波及するを防止せんことを顧念し、叙上の如く帝国の存立と東亜の安定とに対する脅威の激甚なるものあるに拘らず、堪忍自重八ヶ月の久しきに亘り、米国との間に外交交渉を重ね、米国とその背後に在る英国並びに此等両国に附和する諸邦の反省を求め、帝国の生存と権威の許す限り、互譲の精神を以て事態の平和的解決に努め、盡(つく)す可きを盡し、為す可きを為したり。然るに米国は、徒に架空の原則を弄して東亜の明々白々たる現実を認めず、その物的勢力を恃みて帝国の真の国力を悟らず、余国とともに露はに武力の脅威を増大し、もって帝国を屈従し得べしとなす。

かくて平和的手段により、米国ならびにその余国に対する関係を調整し、相携へて太平洋の平和を維持せむとする希望と方途とは全く失はれ、東亜の安定と帝国の存立とは、方に危殆に瀕せり、事茲に至る、遂に米国及び英国に対し宣戦の大詔は渙発せられたり。聖旨を奉体して洵(まこと)に恐懼感激に堪へず、我等臣民一億鉄石の団結を以て蹶起勇躍し、国家の総力を挙げて征戦の事に従ひ、以て東亜の禍根を永久に排除し、聖旨に応へ奉るべきの秋なり。

惟ふに世界万邦をして各々その處を得しむるの大詔は、炳(へい)として日星の如し。帝国が日満華三国の提携に依り、共栄の実を挙げ、進んで東亜興隆の基礎を築かむとするの方針は、固より渝(かわ)る所なく、又帝国と志向を同じうする独伊両国と盟約して、世界平和の基調を糾し、新秩序の建設に邁進するの決意は、愈々牢固たるものあり。

而して、今次帝国が南方諸地域に対し、新たに行動を起こすのやむを得ざるに至る。何等その住民に対し敵意を有するものにあらず、只米英の暴政を排除して東亜を明朗本然の姿に復し、相携へて共栄の楽を分たんと祈念するに外ならず、帝国は之等住民が、我が真意を諒解し、帝国と共に、東亜の新天地に新たなる発足を期すべきを信じて疑わざるものなり。

今や皇国の隆替、東亜の興廃は此の一挙に懸かれり。全国民は今次征戦の淵源と使命とに深く思を致し、苟(かりそめに)も驕ることなく、又怠る事なく、克く竭(つく)し、克く耐へ、以て我等祖先の遺風を顕彰し、難儀に逢ふや必ず国家興隆の基を啓きし我等祖先の赫々たる史積を仰ぎ、雄渾深遠なる皇謨(こうぼ)の翼賛に萬遺憾なきを誓ひ、進んで征戦の目的を完遂し、以て聖慮を永遠に安んじ奉らむことを期せざるべからず。

内容

P.67人事の停滞

革新派と呼ばれるようになる外交官たちは、白鳥と同じく、あるいは白鳥の影響を受けて、満洲事変による日本外交の転換の意義を強調し、その転換を推進するために人事の刷新と機構の改革を主張した。機構改革の手始めとされたのが考査部設置の要求であり、人事刷新としては白鳥あるいは彼らの主張に同調的であると見られた外務省幹部(例えば斎藤博) を省の指導的地位(外相あるいは次官)に就けることが目標とされた。

ところで、こうした革新派の要求の背後には、外務省の沈滞した人事への潜在的な不満もあったとされる。特に、一九二〇年代前半に大量採用された外務官僚たちが人事停滞への不満を鬱積させており、それが革新運動に伏在していたと言われる。

P.99人事への不満

重光派閥の支那に対する政策は、その人事行政に於いて分明する所である。対支人事は、しばらく以前より刷新の叫びにつつまれてゐたにも拘らず、その配置は統制本位で形成せられてゐる。無能なる者を上海、南京、北京等の重要ポストに配し、有能を辺境夷撩の郷に閉ぢ込めてゐる。〔前掲「霞ヶ関に於ける重光派閥の役割」〕

川村も、ニ・ニ六事件後に成立した廣田内閣の外相に有田八郎が就任したとき、新外相に期待を表明しつつ、外務省人事の現状を以下のように批判していた。

現在外務全機能を大観するに、徒らに老朽無能、尸位素餐の禄盗人を以つて充満し、大使と云ひ公使と云ふも、只只栄職に齧りつくのみで女郎外交に其の日を過し、老後の為の文化住宅建築費や、鼻たれ小僧、あばずれ娘のぜいたく三昧費の稼ぎ高を数へてヤニ下るサラリーマンの古手ばかりではないか。こんな手合に外交刷新を望むことはまことに百年河清を待つに似たり。〔於曾四郎「有田外交の本質」『南北』一九三六年十一月号〕

P.116

有田は外務省革新派に属したわけではない。ただし、過去に「白鳥騒動」での諍いがありながら、白鳥が有田への敬意を失わなかったのは、有田が往年の革新同志会のリーダーであったことに加え、彼の政策論の中に革新派に近い部分があったからだろう。のちに有田が外相となったとき、川村が彼に対する期待を表明したのも、同じ理由からであったと思

われる。

有田が白鳥の所見に対して異議を唱えたのは、ソ連に関する観察である。アジア大陸においてスラヴ民族と大和民族とが雌雄を争うべき運命にあるとか、ソ連が大国と戦争すれば、内部崩壊を来すことは明瞭であるとか、いま手を打たなければ軍事力を強化したソ連が「赤化の禍害か然らずんば鉄火の侵略か」攻撃に出てくることが必然である、といった見 方に有田は反論を加えた。ソ連の脅威を切迫したものと捉え、性急かつ理不尽にソ連と衝突することは、どの国の支持も得られず、とるべき策ではない、と有田は主張した。

有田は返書の最後で皮肉っている。自分は対ソ開戦の立場をとらないが、もし日本の国内情勢がきわめて険悪で、これを転換する方法として「外征」以外に方法がないとの見地から対ソ方針を決定すべきものとするならば、それはおのずから別問題である、と。有田が白鳥を皮肉ったのは、白鳥が、本国の陸軍部内ではソ連との一戦を不可避とする空気が日を逐って濃厚となりつつあると観察して、自らの対ソ強硬論を陸軍の動向と関連づけていたからである。

P.121~123 支那事変

事変の「本質」

一九三六(昭和十一)年末、白鳥は正式の帰朝命令によりスウエ―デンから帰国した。帰国後、次のポストが決まるまで、彼は活潑な言論活動を展開する。特に翌一九三七年七月に支那事変が勃発すると、事変の「本質」を論じる彼の論考が雑誌等に掲載される機会が増えてゆく。現役の外交官でありながら、政府の外交に対して白鳥は歯に衣着せぬ批判を加える。 そうした彼の言説を肯定的に受け入れる素地が、当時の日本にはあったということになろう (白鳥の著述目録については、表5〔一ニ五~一ニ七頁〕を参照)。

盧溝橋事件直後、白鳥は次のように述べている。「日本の大陸政策は、消極的には西力の不法侵入を防ぐ事であり、積極的には支那四億の人民と共に東洋の倫理道徳に基き、所謂王者の政治を実現して共にその恵沢に浴し人類の文明に貢献する事,」なのだが、中国は「日本を西洋並に侵略者と見、日本の真意を解しないで、夷を以て夷を制し、ロシア、英米の力を借りて対日解決を図らんとする」するから、衝突が起こるのである〔「切迫せる国際危機」『経済マガジン』一九三七年八月号〕。

それからニ力月後、支那事変の「本質」は、白鳥によって以下のように把握されている。

満洲事変と殆ど時を同じうして、日本国内に一つの精神運動、思想運動が台頭したことは、世人周知の通りである。この所謂日本主義運動或は国体明徴の叫びと、満洲事変とは決して関係のない二つの事象ではないのである。表裏密接の関繫を持った不可分の現象であつて、日本民族が漸く自己の真の姿を発見したと云ふことを物語るものである。今回の 日支事変も、この日本民族の思想的覚醒の対外的表現として見なければならない。〔中略〕日本国民が欧米追随の長夜の夢から醒めて、本来の我を見出した時に、内に在っては日本主義運動となり外に向っては大陸政策となり、内外合して「亜細亜に還れ」の絶叫となり、大亜細亜建設の運動となるのである。この一大思想運動が未だ国内戦線の統一をか ち得ないのが今日最大の憂であって、他の半面たる大陸政策のみ.が跛行的に着々と進捗しつつあるのが曩の満州事変であり、今回の日支事変である

元来日支間今日の不和を来したのは根本に於ては思想の衝突である。我は欧米追随の旧套を脱ぎ捨てて、亜細亜に還り、東洋の倫理道徳に基いて東亜の諸民族と新しき理想郷を造らんとして居り、彼は依然として欧米依存の迷夢より醒めず、遠交近攻の誤った政策を弄し、抗日排日の極は容共連蘇の邪道にまで踏み迷って、遂に亜細亜の反逆者となり畢ったのである。之が日支事変の真相ではないか。〔「支那事変の本質」『大亜細亜主義』一九三七年十月号〕

中国が日本の「真意」を誤解し、「以夷制夷」策を弄して欧米列国に追随したがゆえに、事変が勃発し拡大したのだ、と考えるのは当時の一般的理解であったと言ってよい。白鳥の場合は、これに加えて、大陸の軍事行動と国内の思想運動あるいは革新運動との連動が強調された。そこで用いられた「亜細亜に還れ」は、かつて森格とともに白鳥も使ったレトリックであった。白鳥は日本の大陸政策の道義性を主張する。「我が大陸政策はその本質に於ては文化史的使命を持っもので、人類社会改造の企図であり、現代文明の行詰りを打開せんが 為の一念発起」である、と〔「大陸政策の世界史的意義」『改造』一九三七年十月「支那事変臨時増刊号」〕。

P.128~130「支那から軍備を無くせ」

白鳥の支那事変に関する議論が独善的であったことは否めない。だが、その中に見るべきものがなかったわけでもない。例えば、彼は事変の原因が中国側の誤解と抗日政策にあると述べながら、同時に日本の態度をも批判し反省を迫っていた。

従来我々の為し来った所にも過誤はなかったか、支那人をして帝国の公正なる意図を理解せしむる事に何程の努力がなされたか、この点国民として猛省する必要があると考へる。〔中略〕日本としては、亜細亜民族を救ふの天業を自覚し只管この使命の遂行に精進し苟も、西洋流の物質的侵略的臭みがあってはならぬ。〔中略〕今回の北支事変に方って我 朝野の言説は甚だ調子が低い様に思ふ。依然として自衛権だの特殊権益だの、と覇道的ジヤルゴン〔ジャーゴン(専門家の特殊用語)〕を耳にするのは遺憾である。〔前掲「切迫せる国際危機」〕

日本は「領土的物質的の自己本位の解決を求めてはならぬ」。重要なのは日中の精神的提携あり、中国の民生の安定化と向上であるから、中国の「資源や経済提携の問題は重要で はあるが、畢竟枝葉末節である」「日支事変善後策」『大亜細亜主義』一九三八年二月号〕中国の資源の「開発」という言葉は、イギリスがインドを搾取するために設立した「東印度会社を造るやうに聞える」と白鳥は批判する〔座談会「支那事変の将来」『文藝春秋』一九三七年十一月号〕。

もう一つ、支那事変に関する白鳥の議論の中で注目に値するのは、中国から軍備を撤廃せよ、という主張である。白鳥は事変の「抜本的解決」策として、これをかなり早くから提起していた。彼によれば、「生なか支那が近代式軍隊を持つが故に〔中略〕自己の力を過信し、抗日侮日の誤つた政策を採り〔中略〕軍隊あるが故に打たれるのである」。もし中国が軍備を撤廃すれば、「兵力なき国を犯すが如きは日本の武士道が許さぬ」し、他国が中国侵略の暴挙に出るような場合には、日本が自らの意志と必要に基づいてその侵略を排撃するだろう。〔白鳥「歴史的大業を完成せよ」一九三七年七月、『国際日本の地位』所収〕。

さらに、「支那の国民も多年軍閥私兵の横暴に苦しみ抜いたゝめ」、軍備撤廃は「支那国民大多数の歓迎するところであり」、「支那国民の安寧福祉のためにも絶対必要」である。 軍備撤廃によって国民生活の向上、購買力の上昇、国内の安定が実現すれば、市場としての中国の価値が上がり、列国としてもこれを歓迎するに至るだろう、と彼は言う〔「事変も 外交関係」『報知新聞』一九三八年一月一日付、

こうした主張に対して、軍備撤廃は国家の主権独立の尊重と矛盾するのではないか、との当然の反論があり得る。これに対する白鳥の回答は、「日支の関係を従来西洋において発達した国際法の観念並に原則のみを以て律することは不可である」というものであった〔前掲 「日支事変善後策」〕。ここにも仁宮の『綱領』と同種の論理を見ることができるだろう。 日本による権益の拡張を否定し、中国の軍備撤廃を提起する白鳥の主張は、一見したところ道義的であり、また理想主義的であった。現役外交官でありながら政府の方針に拘束されない外交評論家としての白鳥が、一部の日本人に受けた理由はそこにあったのだろう。白鳥にはその名も「支那から軍備を無くせ」〔『経済マガジン』一九三八年二月号〕という論文がある。このタイトルを彼が付けたのか、それとも掲載雑誌の編集部が付けたのかはわからないが、いずれにせよ、この種の主張が何らかの注目を浴びていたことを示すものであったと考られよう。

たが、武力衝突が拡大し激化するなかで、精神的提携を追求し、「領土的物質的の自己本位」を抑制することは甚だ困難であった。軍備撤廃も、実際には日本による中国の軍事的管理に等しいものであったと言ってよい。白鳥自身も、「これがため期せずして日本の支那に対する発言権といふものは殆ど絶大になる」と本音を漏らしている〔「戦争と国民生活座談会」『国民評論』一九三七年十二月号〕。ただし、白鳥がこのとき軍備撤廃論を述べていたことは、以後の歴史の展開を考える上で、暫く記憶にとどめておく必要があろう。

P.258~260日米戦争

南進を媒介にした日中提携

一九四一年の年頭に、『朝日新聞』は数回にわたって「輝く廿七聖紀」と題する識者のインタヴューを掲載した。神武紀元によれば前年がニ六〇〇年であったから、この年、日本は新しい世紀に入ったことになる。インタヴュー特集のトップを飾ったのは白鳥である。記者は「日本は二十六聖紀で世界の水準に達し二十七聖紀で世界の王座を目指して進まねばな らぬ」と前置きし、白鳥のことを次のように描写している。

「僕の意見はいつも半年位先走るやうだ」外務省顧問の白鳥敏夫氏は斯う呟く、低いが信念の籠つた不敵な音声である、過去に於て目まぐるしい国際政局の変動が、時に白鳥さんを革新児にしたり異端者にしたりした、昨秋枢軸の盟ひ成って帝国外交の大本が確立したとき、白鳥さんは今度は時代の予言者と持囃されたものである、霞ヶ関の水先案内として 白鳥さんには半年どころか百年も先をヂッと睨んで貰ひたいのだ〔『朝日』一九四一年一月一日付朝刊〕

外交の実権は松岡の手に握られていたが、ジャーナリズムでは白鳥は時代の寵児であったと言ってよい。「当局からも余り喋つて呉れるなといふ註文を受けて居る」と言いつつ〔「三国同盟と日本」『日本評論』一九四○年十一月号〕、また自分の述べるところは政府の方針や意向ではなく、全くの個人的見解だとしながら、白鳥は言わば縦横無尽に持論を述べまくった。 彼はまず、東亜新秩序を拡大した大東亜新秩序、大東亜共栄圏を論じた。

吾々は目前先づアジア十億の民を解放せよ、生気を与へよといふ。今まで白人の一部がこれを侵して居つた、彼等はひどい搾取をして居つた、これを救はうといふのが吾々の目標である、信念である。〔前掲「三国同盟と日本」〕

日本当面の問題は、最早や支那から白人の勢力を駆逐するといふことだけではなし今 や更に南方へと進んで、従来白人の領土として壟断され、搾取されてゐたこの地方力ら その不当な勢力を駆逐せねばならぬ。〔中略〕いまこそ、これらの地方に於けるアジア伊 族を解放し、土地と人民とをアジアの手に取戻す、絶好の機会でなければならない 〔「三 国同盟と日本の前途」『現代』一九四〇年十二月号〕

日本当面の問題は、最早や支那から白人の勢力を駆逐するといふことだけではない。今や更に南方へと進んで、従来白人の領土として壟断され、搾取されてゐたこの地方から、その不当な勢力を駆逐せねばならぬ。〔中略〕いまこそ、これらの地方に於けるアジア民族を解放し、土地と人民とをアジアの手に取戻す、絶好の機会でなければならない〔「三国同盟と日本の前途」『現代』一九四〇年十二月号〕

白鳥のアジア民族解放論は明快であったが、それが日本盟主論とセットになっていたことにも言及しておくべきだろう。アジアにおいては「他の民族に比して最も優れたる日本民族がその盟主」でなければならず〔前掲「日独伊世界再建の原理」〕、しかも「アジアの独立、アジア諸民族の解放といふ聖業に従事して現に大きな犠牲を払ひ、絶大の努力をしてゐる」日本民族が、「アジア諸民族のうちの最も恵まれたる民族、富裕なる民族となることは極めて至当」であり、「絶大の犠牲に対する当然の報酬である」とされた〔「生産力拡充第一主義」『偕行社記事』ー九四ー年二月号〕。                           

P.264~268

革新派は対米決戦を唱えたわけではない。彼らは、アメリカの強硬姿勢に直面して、またしても妥協を排し、アメリカ以上の強硬態度で対抗することを主張したのである。ただし、ここでも革新派の主張が外務省の方針をリードしたのではなかった。松岡外相は、彼らの発言を封じ込めつつあった。だが、白鳥だけは、おそらくは彼の独断で、「攻撃的なる言論戦 を展開」し続けた。一九四一年、年頭のインタヴューで彼は次のように述べている。

大東亜共栄圏をアメリカは認めることが出来ない、搾取が出来なくなるからだ、欧洲にも新秩序が出来、アジアにも新秩序が出来たのではアメリカの資本主義は没落の外はない〔前掲「輝く廿七聖紀」〕

白鳥にとって、アメリカは新秩序の敵であった。そして三国同盟の対米抑止効果も疑わしくなっていた。

ユダヤ的金融寡頭政治

むろん白鳥もすぐさま日米戦争が不可避になったと見なしたわけではない。一九四一年ニ月段階ではまだ、「私は今日のアメリ力はどうしても戦争に入らぬだらうと考へざるを得ない」と述べている。アメリカは軍備が不足しているし、人種の寄せ集めという弱点を抱え大恐慌の傷も完全には癒えていない。日独伊の同盟に対抗することは不可能で、「日本が敢然起つたならば何も仕切らぬだらうと思ふ」〔「南進に於ける日本の地位」一九四一年二月十三日講演、『戦ひの時代』所収〕。

ただし、白鳥によれば、イギリスがヨーロッパの戦争を始めたとき、それはイギリス国民が望んだからではなく、政治を壟断している少数のユダヤ財閥とそれに連なる支配階級が戟争を欲したからにほかならない。そして、その「本家」はアメリカにある。したがって、アメリ力でも「大多数の国民は勿論反対であるが、ユダヤ的な金権寡頭政治の血迷うた判断か ら国民を引摺つて戦争をやらぬとも限らない」と白烏は憂慮を募らせた〔前掲「南進に於ける日本の地位〕。さらに彼は、「アメリカこそ戦争の煽動者、戦争業者ではあるまいか」と 述べ、「アメリカの支配階級に民衆を引摺るべき好箇の口実を与へぬやう細心の注意を要する」と警告した〔前掲「戦ひの時代」〕。

翌三月、白鳥はその判断と主張をひっくり返し、ついにアメリカの戦争参加は必至であると断定するに至る。「〔アメリカ〕輿論の反戦的傾向を過大に評価してはならない。イギリスにおいては勿論のことアメリ力においても、民主政治•か興論政治であつた時代は過去に属する」。金権寡頭政治に堕してしまったアメリカの支配階級は英仏のそれと一つであり、その意味で「アメリカは初めから戦争に参加してゐると言つても過言ではない」〔「アジアの役割」『読売新聞』一九四一年三月十日付〕。白鳥がアメリカ参戦必至に判断を転換させたキーポイントはナチスドイツの受け売りのように「国際的ユダヤ金融資本主義」を諸悪の根源と したことにあった。

アメリカのヨー口ッパ戦争への参戦が必ずしも日米戦争になるとは限らなかったが、ヨーロッパの戦争とアジアの戦争との結合を論じてきた白鳥からすれば、「アメリカの参戦は、当然日米戦争となる」「「世界戦争と新世界」『イタリア』一九四一年四月創刊号〕ことは論理的必然であった。白鳥はまた次のようにも述べている。

実際に於ては今は寧ろアメリ力が中心となつてこの戦争をやつて居るのであります。〔中略〕アメリカが戦争に入らなければ世界新秩序といふものは出来ない。〔中略〕私から見れば、アメリカこそこの戦争の張本人である。〔中略」もともとこの戦争はヒットラーとユダヤの戦争であります。〔中略」あれ〔日独伊三国同盟〕はアメリカを戦争に入らせるための条約だ。アメリカがどうしても入るだらう。又入らなければ世界の新秩序が出来ない。これはむしろ不可避であり、必然であり、必要であるといふ風に私は見るのであります。〔前掲「枢軸外交の勝利」〕

このように、三国同盟の狙いも逆転した。「日独伊同盟は、アメリカの参戦を阻止する為に結ばれたと云はれる」が、「実際に於ては〔中略〕却ってその参戦を不可避ならしめたとも云へる」とされたのである〔前掲「世界戦争と新世界」〕。 白鳥は、日米衝突を不可避とするに至った経緯を「天意」であるとし、来るべき国難、日米戦争を「天照大神が天の岩戸にお隠れになり天下が真暗になった時」になぞらえた(「興亜奉公日に際し内外時局を語る」一九四一年三月一日ラジオ講演、『戦ひの時代』所収〕。その国難たる戦争はどのようにして決着がつくのか。究極的には、アメリカに「一大社会革命」が起 こる。つまり、「旧秩序の牙城アメリカそのものに、内部から新秩序が盛り上ることによつて、ここに初めて歴史の大転換が完成されるであらう」と白鳥は「予言」した〔前掲「世界戦争と新世界」〕。

はたして、この時点での白鳥の日米戦争不可避論は、どのくらいまともに受け止められたのだろうか。

P.275~276無通告開戦

よく知られているように、一九四一年十二月八日、日本の対米通告は真珠湾攻撃から一時間以上も遅れてしまった。ただし、そのとき日本がアメリカに通告したのは開戦ではない。 交渉打切りである。また、マレー半島では、対米通告が予定されていた時刻より前に、イギリスに対する軍事行動が始まっていた。こうした意味で日本は無通告開戦に踏み切った。それは陸海軍が望んでいたことであった。東郷外相は、自らの所信に反するかたちで陸海軍の要請を受け容れざるを得なかった。だが、それは省内革新派の圧力に屈したものではなかっただろう。東郷は革新派の主張を採用したというよりも、軍事的必要性を掲げる陸海軍の要求を吞まざるを得なかったのである。

革新派は、政策を直接左右するほどの影響力は振るわなかった。けれども、彼らが陸海軍の要求を外交的見地から補強し正当化しようとしたことも軽視すべきではないだろう。一般に革新派の影響が過大に見られるのは、このように無通告開戟手続きや防共協定強化問題などをめぐって、軍と密接に協力したからである。そしてまた、彼らの主張が、旧秩序を否定し新秩序の建設と到来を声高に叫ぶ人々、社会の多数派ではないが声の大きな政治勢力と響き合っていたからであった。

P.280~283「世界維新」

大東亜戦争の後半、白鳥の言論活動は『盟邦評論』を中心として展開される。だが、彼の言説にはもはや見るべきものはなかったと言ってよい。白鳥自身は、誇大妄想狂や神懸かりと言われたり、まだ病気が治らないようだと嘲笑されていることを知りつつ、意に介さない素振りを示した〔「世界維新」対談『国民評論』一九四ニ年六月号〕。

一九四ニ年段階で白鳥は、戦争を「人類最終戦であり、今後永久に地球上から戦争を絶滅するための戦争」、「世界恒久平和、人類共存共栄の地上岩戸開き」、「神を戴くものと、神に反くもの」との戦いであると描写した〔「人類最終戦のために「世界戦争の前途」『現代』一九 四ニ年六月号〕。その戦争の中で「ユダヤ米英の代表する旧秩序の崩壊は世界史の必然として約束されて居る」。建設さるべき新佚序は「神秩序」でなければならず、日本こそ「邪悪暗黒なるユダヤ勢力」から全人類を解放する世界雄新の中心であると白鳥は論じた〔「媾和なき戦争」『イタリア』一九四ニ年十月号〕

彼の議論はもはや外交論ではなかった。摩訶不思議な霊論とも言うべきものであった。 敗色濃厚になった一九四四年には、戦争は、「暗黒と光明、神と悪魔、日本と猶太の決戦」 とされ〔「日本神観の確立」『公論』一九四四年四月号〕、英米金融資本主義だけでなく、ソ連共産主義もユダヤの陰謀によるものと論じられた。白鳥にあっては戦争はあたかも宗教戦争であった。

今度の戦争は本質に於ては日本の八紘一宇の御皇謨とユダヤの金権世界制覇の野望との正面衝突であり、それは邪神エホバの天照大神に対する叛逆であると共に、エホバを戴くユダヤ及びフリーメーソン一味のすめらみことの地上修理固成の天業に対する叛逆行為である。〔「東西戰局の大観」『盟邦評諭』一九四四年七月号〕         

白鳥の日本中心主義は荒唐無稽と言うほかなかった。彼はムー大陸の実在を引き合いに出し、「アメリカの先住民族も中南米のそれも皆日本民族であつたのみならず〔中略〕多くの白色民族なども、本来は日本神族の分れであることがやがて了解されるであらう」と論じ 〔「ニ十世紀の神話」『盟邦評論』一九四四年十一月号〕、「世界最古の文明は日本にあつた。〔中略〕キリストであらうと、釈迦であらうと、何れも彼等の説の根本は日本から出てゐる」と主張した〔「世界の現実とその修理」『盟邦評論』一九四四年二月号〕。

白鳥と波長を合わせた議論を展開していたのは、藤村と同時に外務省を追われた仁宮武夫である。仁宮にとって、戦争は双方が相手の無条件降伏を追求する絶対戦争であった。彼は以下のように論じている。

この戦争は米英からすれば、「相手民族の本質的な強さを破壊しなければ収まらない戦争である。〔中略〕彼等の戦ふ対象は独逸の血でも民族でも無く、ナチス的な強さそのものでありファショ的な抵抗力である。それ故戦争は益々悪虐凄惨!の度を加へる当然性が明瞭であり、同時に彼等の講和は常に政体変革を前提条件とするに至る」。日本の強さは世界無比の国体にあり、したがって米英は日本の国体破壊を狙い、中途半端な妥協による戦争終結に甘んじるはずがない。「かうして大東亜戦争は米英猶太の国体破壊戦争を征伐する戦争であり、世界幕府討滅戦争であり、誠に明々白々たる世界維新戦争である。「自存自衛」とは国民が安穏に生き伸びることではない。日本のいのち世界のいのちをなす国体そのもの、自存自衛であり、大東亜戦争は国体護持の戦争である」〔「聖戦完遂と維新体制の確立」『公論.一九四 年一月号〕。

白鳥と同じく仁宮の議論は「惟神の道」を説き神道的概念と用語をちりばめていたが、連合国側が妥協による講和を求めず、世界の平和と秩序を再び脅かさないよう枢軸諸国の無力化を企図しているとの観察は正確であったと言えるかもしれない。