山口昌子著『フランス人の不思議な頭の中』を読んで

1/31「士気の集い」で山口昌子氏の講演時に買った本です。会計をしていて殆ど話が聞けませんでしたので。フランスと言えばフランス革命、「自由・平等・博愛」、アラン・ドロンくらいしか思い出せませんが、国歌が中国と同じ血腥いものであるとは知りませんでした。因みに中国の国歌は

起来!不愿做奴隶的人们!(起て!奴隷となることを望まぬ人びとよ!) 把我们的血肉,筑成我们新的长城!(我らが血肉で築こう新たな長城を!) 中华民族到了最危险的时候,(中華民族に最大の危機せまる、) 毎个人被迫着发出最后的吼声。(一人ひとりが最後の雄叫びをあげる時だ。) 起来!起来!起来!(起て!起て!起て!) 我们万众一心、(我々すべてが心を一つにして、) 冒着敌人的炮火,前进!(の砲火をついて進め!) 冒着敌人的炮火,前进!(の砲火をついて進め!) 前进!前进!进!(進め!進め!進め!)

日本の「君が代」のトーンとは全然違いますね。日本のリベラルなマスメデイアはすぐ「平和」「平和」と言いますが、中国の国歌を知っているのでしょうか。共産中国に対抗できる軍事力を持たせないように足を引っ張る意図でしょう。彼らこそが戦争を起こしやすくしているとも言えるでしょう。バランスオブパワーの考えでないと、強い方が弱い方に戦争を仕掛けます。

この本を読めば、フランスも戦勝国とは思えませんね。ドイツ人にしてみれば信じられなかったでしょう。それと同じ意味で中国が戦勝国と言うのも日本人には信じられなかったと思います。首都南京まで陥落させ、蒋介石は奥地に逃げ、毛の共産軍は長征で逃げ回っていただけです。日本は軍事ではアメリカに負けただけです。

国連の改革案でP5以外の国には「拒否権」を与えないのであれば意味がないでしょう。そもそも国連の存在が必要あるのかどうかから議論すべきです。戦勝国クラブと言われるように70年前のことで既得権益を持ち続けるのでは。ましてや「敵国条項」があるのに、負担金だけは多く払わされている。こんな馬鹿げたことはない。基本的価値観を同じくする国と同盟の輪を広げ、中国を封じ込めるのが良い。

記事

国歌「ラ・マルセイエーズ」は軍歌 国歌はフランスの存在理由

フランス人の枕詞には「エレガント」「粋でシック」「気障」、あるいは「老獪」などがよく使われるが、「好戦的」という枕詞はあまり使われていないようだ。ところが、実際は極めて「好戦的」な国民である。モードやグルメなど文化面でのイメージが強く、どちらかというと軟弱な印象を与える「おフランス」の国民だと勘違いして接すると、ショックを受けること請け合いだ。フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」はその証左だ。フランス流血革命中に生まれた軍歌とあって、歌詞の隅々までが好戦性に満ち溢れている。

♪いざ祖国の子らよ 栄光の日は来たれり

われらに向かって圧政の血塗られし軍旗は掲げられたり・・・・・      

聞こえるか、戦場で、あの獰猛な兵士どもが唸るのを?

奴らは我らの腕の中にまで君らの息子を、妻を、殺しに来る♪

好戦的で挑発的な歌詞の後には、以下のリフレィンが続く。

♪武器を取れ、市民諸君!隊伍を整えよ、進もう!進もう!

不浄なる血が我らの田畑に吸われんことを♪

「ラ・マルセイエーズ」は七番まであるが、該当の部分を引用すると、

♪フランス人よ、われらがため、ああ!何という屈辱!

いかほどの激情を搔き立てることか!♪

♪何と!外国の軍勢が、

我らの故郷で我が物顔に振る舞うとは!♪

♪手を鎖でつながれ、くび木をつけられし我らの首が屈すると!

卑劣な暴君どもが

我らの運命の支配者になりおおせると!♪

♪我らの旗のもと勝利の女神が

御身の雄雄しい歌声を聴き駆けつけんことを!

瀕死の敵どもが

おん身の勝利と我らの栄光を見んことを!♪

仏独は政略結婚

ドイツは第二次世界大戦の負い目を戦後、あらゆる面で背負い、農業大国フランスがかなりの恩恵を受けている共通農業政策では黙って加盟各国最大の負担金を支払ってきたが、戦後生まれのシユレーダー首相は一九九八年に就任した時、たまりかねたのか、「もう戦後半世紀を過ぎたのでフランスに借りはない」と言って、フランス人から総攻撃を受けたことがある。

ドイツ人が心の奥底のどこかで第二次世界大戦で早々にナチ•ドイツに敗北したフランスが戦勝国であることに釈然としていないことは次の逸話からも窺える。一九九〇年九月に東西ドイツの最終合意文書が東西両ドイツと戦勝四ヶ国(米英仏ソ)による六ヶ国外相会議で調印された時、当時の西独首相ヘルムート・コールは声明文で、戦勝国側のフランスの名を書き忘れ、「コールよ、お前もか!」とフランス人を嘆かせた。

この逸話には前例があるからだ。一九四五年五月八日、ドイツが第二次世界大戦の降伏文書に調印するために着席した時、ドイツ代表カイテル元帥は戦勝国側の席に、フランス代表のラトル•ドタニシー将軍が座っているのを見て、「なんだ、フランスもか!」と叫んだ。元帥としては皮肉ではなく、心底、ドイツが四年間も占領していたフランスが戦勝国とは信じ難かったのだ。コールとミッテランは右派、左派の党派を超えて仏独中軸を自負して欧州統合の牽引力の役割を果たし、個人的にも親密な関係だった。二人が一九八四年に第一次世界大戦の激戦地ヴェルダンの記念碑に手を取り合って深紅のバラを献花し、永遠の友好関係を誓ったシーンも記憶に新しかった。ミッテランの外交上の最大の外交失点と指摘されているのはべルリンの壁崩壊直後に当時はまだソ連だったキエフに飛んで、ソ連大統領ゴルバチヨフと会談したことだ。東西ドイツ統一により「強国ドイツ」の復活を恐れ、フランスは本心では統一に反対だったのではないか、との疑念をドイツはもとより世界中に与えたからだ。仏独協力条約(エリゼ宮条約、一九六三年)を無効にしかねない浅はかな行動とフランスのメデイアからも批判された。

仏独関係がいまもって「恋愛結婚」ではなく「政略結婚」と言われるゆえんだ。

 

「ノルマンディー上陸作戦」を敢行したのは米英らの連合軍だが、ドゴールはレジスタンスの自由フランス軍とともに最終部隊として六月十四日に上陸した。その後の約一ヶ月は上陸直前に樹立した臨時政府を米英など各国政府に承認させるために各国を回って外交戦略を展開して帰国。八月ニ十五日にはパリ市庁舎のバルコニーから有名な「パリ解放」の演説を行ない、《フランス軍の協力の下に……戦闘するフランスの……支援と協力の下に解放された》と述べ、自由解放 にフランス軍が参加していたことを指摘し、「戦勝国」入りの準備をした。そのうえで、ドゴールは「共和制の復活」を宣言するものと考えていたが、ドゴールは「共和制は続いている。ヴィシーは無効」と言い放った。つまり、フランス共和国はドゴールが率いるレジスタンスとともに存続中との認識を示した。フランスの勝利国としての正統性とフランスが戦勝国の仲間であることを強調した。

ドゴールが「戦勝国フランス」を強調したのは一九四五年当時のアメリカのカナリー上院外交委員長が、国連安保理の構成問題が取り上げられた準備委員会で米英ソ中の四ヶ国の常任理事国を主張し、「四ヶ国は世界の残存のために血を流したが、フランスは今度の大戦で小国の役割しか果たさなかった」と指摘してフランスの常任理事国入りに反対したように、フランスを「勝利国」とみなす認識が一般的に薄かった。ドゴールの政治力がなかったら、フランスが果たして無事に「戦勝国」入りして常任理事国の地位を獲得できたかどうか——。 一九八九年のベルリンの壁崩壊後、国連改革の主要議題は、「東西統一をなしたドイツや経済大国の日本らを常任理事国に加えるべし」とする常任理事国拡大論だ。ところが五ヶ国内では新規常任理事国は「拒否権」は伴わない、というのが暗黙の条件となっている。五常任理事国の「拒否権」が、いかに国際社会で重みをもつかの実例は枚挙にいとまがない。冷戦時代にソ連が連発したことは記憶にまだ新しい。最近ではロシアや中国が、民間人への殺戮が続くシリア独裁政権の反体制派への武器支援や場合によっては軍事介入を含めた制裁決議に反対して、国際社会をやきもきさせた。

暗殺未遂三十一回

実はドゴールはフランス国内でも、軍人をはじめ政治家、経済界、知識階級などのいわゆる支配階級からは生前、特に戦争直後は嫌われていた。軍人がドゴールを嫌ったのは、「特権を奪われた」(歴史家の才デイル•リユデル)と感じたからだ。ドゴール自身も軍人でありながら、実は軍人を嫌っていた。二つの大戦を通じて凡庸で愚鈍だった軍人に失望していたからだ。レジスタンスのフランス国民解放委員会の共同委員長で米国に気に入られていた五つ星将軍のアンリ•ジローから「貴殿は政治の話ばかりしている」となじられた時、「戦争とは政治です」 と即答し、ジローの政治音痴ぶりを軽蔑している。

一方、政治家はドイツの占領に加え、ヴイシー政府の対独協力という同胞同士の「裏切り」で非難され、精神的に深く傷ついていたので、ドゴールに頭が上がらず、それゆえに嫌った。

経済界もドゴールの産業復活のための国営化政策で打撃を受けたうえ、既成の政治家との人脈が役立たなくなったことでドゴールを恨んだ。

知識階級は「軍人は愚か者」と思って蔑視していたが、第二次世界大戦に至る過程ではヒトラーの野望を許したミユンへン会議(英仏独伊がミュンへンでナチ・ドイツのチエコスロバキア・ズデーデン併合を巡る会議で最終的に併合を決めた)が代表する宥和政策に反対しないどころか同調し、レジスタンスにも大半が参加しなかったという負い目からドゴールを嫌った。ドゴールを「小ヒトラー」と呼んだ知識人の代表ジャン・ポール・サルトルもその一人だ。「ドゴールがフランスの伝統的知識人であるばかりか彼らよりずっと頭脳明晰だったことへの嫉妬から」 (哲学者のアンドレ・グリュックスマン)というわけだ。日本のいわゆる知識人にドゴール嫌いが多いのは、彼らにとっての神・サルトルの影響がありそうだ。しかも、気まぐれなフランス人は「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で「救国の士」の恩恵をたちまち忘れた。一方で、戦争レジスタンスに参加したのは「国民の一パーセントにも満たない」(ジャーナリストのフランソワーズ・ジルー)少数派で大多数は「一キロのバ夕―のためにさっさと対独協力に走った」 が、戦後は誰もがレジスタンスに参加したような顏をし、レジスタンスものの映画などが現在に至るまで大人気だ。

ドゴールはこうした四面楚歌の中で一九四六年にレジョン・ドヌール章に関する些事で、ヴイシー政府の残党から批判されたことに嫌気がさして、第四共和制の首相の座をさっさと辞任した。政界に復帰したのはアルジェリア戦争の真っ最中の一九五八年だ。アルジエリアは一八三○年以来、フランスの植民地だったので、一般のフランス人にとってはフランスの一地方ぐらいの認識しかなかった。当時、アルジェリアには一千万人のアルジエリア人と仏軍五十万、 約百万人のフランス人が生活しており、大半のフランス人にとってアルジェリアの独立は想定外だった。その結果、アルジェリアの民族解放戦線(FLN)と仏軍の戦闘は四年目を迎え、泥沼化の一途をたどっていた。時の左派系の第四共和制の政府には解決する能力がなかった。

アルジェリア戰争で再登場

当時の大統領ルネ・コティが一九五八年六月に「フランスで最も揮かしい人物」としてドゴールに首相就任を要請し、ドゴールは国民議会で大差の信任を得て、首相に就任した。同四日 にはアルジェリア総督府のバルコニーから総督府前の広場を埋め尽くした大群衆を前に演説し、「諸君のことは理解した!」と叫んだ。この言葉はアルジエリア独立反対の「フランスのアルジェリア」派と、アルジエリアの独立を支持する「アルジェリアのアルジェリア」派の双方から、「自分たちが理解された」と手前味噌的に解釈された。その結果、双方がドゴールに裏切られたと考えたが、特に軍人を中心にした独立反対派からはドゴールが軍人であるだけに、 「裏切られた」との思いが強かった。中にはレジスタンスに参加した軍人もいた。その結果、ドゴールは仏軍残党の極右勢力で構成された「秘密軍事組織(OAS)」から三十|回も暗殺の対象となった。