『「知識青年」は文革を懐かしく振り返った 歴史的な悲劇を繰り返してはいけない』(5/24JBプレス 柯 隆)、『「エイズ誤判定」で10年、放置された男の悲劇 幾多の人生を狂わす、中国検査体制のお粗末』(5/27日経ビジネスオンライン 北村豊)について

中国重慶市で台湾・蔡英文総統就任の祝賀横断幕を貼りだした17人を逮捕するという記事がありました。

http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20160523/Recordchina_20160523026.html

中国に民主化を希望する人間がいたとしても弾圧されるだけ。邪な人間が権力を牛耳り、富を独占する悪辣な社会が中国です。共産党統治の正統性など微塵もないでしょう。

柯氏の記事には「知識青年」は文革を懐かしく振り返るとありますが、やはり感覚がずれているのかと。紅衛兵で有為の人材を虐殺したのも忘れて懐かしむようでは民主化なんぞ夢のまた夢。民度の問題でしょう。

北村氏の記事では中国のエイズ患者は100万人とありますが、もっと多いと思います。売血する人も多いし、エイズ患者は絶望のあまり注射器で道行く人にエイズをうつそうとして射した話もありましたから。中国の医療機関は金儲け主義で、小生が駐在していた2005年までは救急車も金がなければ乗せてくれない状態でした。偽陰性で政府を訴えても多分勝てないでしょう。役人同士で結束し、人民法院の裁判官も賄賂で動きますので。

https://www.youtube.com/watch?v=trh0gi_qUSo

http://www.epochtimes.jp/jp/2012/08/html/d12288.html

柯記事

Mao's portrait at Tenanmen-3

文化大革命を指導した毛沢東の責任は追及されなかった(資料写真)

 2016年は、文化大革命が発動されて50年目の年である。1966年5月16日、党中央政治局拡大会議は「文化大革命小組」(指導グループ)の設立に関する通達を発表し、これが実質的に文化大革命のスタートとなった。

 それから文革は10年間続き、1976年、毛沢東の死去とともに終焉した。共産党中央委員会は文革が誤りだったことを認め、文革によって打倒された知識人や共産党幹部たちの多くが名誉を回復した。

 しかし、鄧小平の主導による文革の清算は不十分だった。文革のほとんどの責任は毛沢東が負うべきものだったが、共産党中央委員会の総括では毛沢東夫人の江青女史をはじめとする四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)に責任が押し付けられた。

 四人組は毛沢東が死去してから1カ月後に逮捕された。のちに開かれた四人組の裁判で江青女史は「私なんかは毛主席の番犬のようなもので、毛主席に言われるがままに人を噛んだだけだ」と弁明した。四人組には死刑または無期懲役、懲役20年の刑が宣告された。だが、毛沢東の罪は問われなかった。これこそが鄧小平主導の文革処理の最大の問題である。

なぜ毛沢東の責任は問われないのか

 中国国内では、文革に関する多くの資料がいまだに公表されていない。文革研究のほとんどは、毛沢東の秘書や共産党幹部の一部が記した回顧録をもとに行われている。

 文革が発動された理由として最も説得力のある解説は、毛沢東が、文革の前に自らが発動した「大躍進政策」が失敗したため、責任を問われることを恐れて文革を発動したというものだ。

 大躍進の過ちを批判したのは劉少奇国家主席である。毛沢東は劉少奇に権力を奪われることを恐れ、文革を発動した。要するに、文革は劉少奇を打倒するための権力闘争だったということである。

 この解説には一理ある。だが、全国民が巻き込まれた理由については言及されていない。劉少奇を打倒するために、なぜ全国民を巻き込む必要があったのだろうか。

 実は毛沢東にとっては、理想的な社会主義国家を建設することよりも、絶対的権力者としての地位を確立することが最大の目標だった。大躍進政策が失敗したことで、党内において毛沢東に対する批判が台頭していた。その急先鋒だったのが国家主席の劉少奇である。毛沢東は自らの地位と権力を固めるために文革を発動し、自らに批判的だった知識人と共産党幹部を一網打尽にした。その結果、毛沢東は人民の上に君臨する“王様”になった。毛沢東にとって文革は一石二鳥の革命だったのである。

 こうして毛沢東は国民を巻き込んで政敵を倒した。毛沢東の責任を問う必要があることは明白である。それなのに、なぜ責任が問われなかったのか。

 毛沢東が死去したあと鄧小平が復権したが、毛沢東にとって代わるほどの権力は手にしていなかった。中国で毛沢東はすでに神様と同じような存在になっていた。一方、鄧小平は「最高指導者」に過ぎない。毛沢東の責任が問われれば、共産党そのものの正当性が揺るぎかねない。

 実は鄧小平自身も文革の被害者だった。だが、リアリストの鄧小平は政治的必要性から毛沢東の責任を問わないことにした。そこで、四人組が逮捕され、投獄されたのである。

文革時の歌劇が復活

 文革は中国に何をもたらしたのだろうか。

 まず、中国の経済は崩壊寸前に陥った。文革で直接殺されたのは数百万人に上ると言われている。また、数千年にわたって脈々と流れてきた中国文化も完全に破壊してしまった。文革は完全に「罪」である。

 しかし、中国では今なお文革に関する議論は自由にできない。38年前に採決された共産党中央委員会の決定では、文革が「過ち」だったとされた。その後、文革によって打倒された共産党幹部と知識人の多くが名誉を回復した。いわゆる文革の後処理である。しかし、文革自体は完全に否定されていない。

 現在、中国で文革のイメージを象徴するのは当時作られた歌や歌劇である。近年、文革の時代の歌と歌劇を上演するイベントが相次いでいる。中国人は、なぜあの悲劇をこんなに早く忘れてしまうのだろうか。

「知識青年」は文革を懐かしく振り返る

 現在の共産党幹部のほとんどは文革に直接参加した世代である。彼らにとって、文革はある意味で青春そのものだった。

 彼らは学校で勉強しなければならない年頃にもかかわらず毛沢東の呼びかけに応じて勉強を放棄し、恩師たちを迫害した。彼らは文革の被害者であると同時に加害者でもある。

 筆者は、当時、農山村へ下放された「知識青年」と呼ばれる人々にインタビューしたことがある。意外にも、彼らの多くは当時のことを懐かしく語っていた。彼らが振り返る様子を見ると、文革はとりたてて悲劇ではなかったようである。

 歴史的な悲劇は、人々が悲劇を忘れたときに繰り返される。中国では、多くの有識者が文革の再来を懸念している。

 もちろん今は毛沢東時代のような大規模な文革が再び起きる可能性は低いと思われるが、より“洗練”された新しい形の文革が起きる可能性は十分ありうる。

「造反有理」は今も生きている

 そもそも文革という悲劇が引き起こされたのは、毛沢東を守るという大義名分のもと社会の秩序を決定する法律が無視されたからである。

 劉少奇が紅衛兵に暴行されたとき、劉は憲法の本を持ち出し、「革命的な若者よ。私は国家主席である以前に、公民として憲法で保障される権利を享受できる」と主張して抵抗した。むろん、毛沢東を守ると主張する革命的な若者たちが、劉少奇国家主席の話を聞き入れるはずはない。

 中国人には、「ある目的を達成する場合、手段は選ばなくていい」という傾向が往々にして見られる。文革世代のDNAには「造反有理」(体制に逆らうのには道理がある)の遺伝子が埋め込まれている。

 しかし、この考えこそ悲劇を生む土壌である。法治国家であれば、目的はどうであれ、手段が合法的でなければならない。中国が法治国家になるまでの道のりは、依然として長いと言わざるをえない。

北村記事

 中国では「エイズ(AIDS)」を“艾滋病(aizibing)”と呼ぶ。12月1日は“世界艾滋病日(世界エイズデー)”であるが、その前日の2015年11月30日に“中国疾病予防控制中心(中国疾病予防抑制センター)”傘下の“性病艾滋病予防控制中心(性病エイズ予防抑制センター)”は中国におけるエイズ流行に関する最新情報を発表した。その概要は以下の通り。

(1)2015年10月末までの時点で、生存しているエイズウイルス(HIV)保菌者とエイズを発症しているエイズ患者の総数は57.5万人、死亡したエイズ患者は17.7万人であった。

(2)2015年1月から10月までに新たに報告された病例は9.7万件であった。これら病例がHIV感染した主たる経路は、性感染、血液感染および母子感染であり、異性性接触感染が66.6%、男性同性性行為感染が27.2%を占めた。男性同性性行為感染の比率は明らかに上昇しており、2015年の全国男性同性愛者のHIV感染率は平均8%に達している。

(3)ここ数年、若者や学生の間でエイズ感染が急速に拡大している。2015年1月から10月までの間に新規に報告された学生のHIV感染者およびエイズ患者の数は2662人に達し、昨年同期に比べ27.8%増大している。

官製統計57.5万人、実数は100万人超か

 上述したように中国の官製統計はHIV保菌者とエイズ患者の総数を57.5万人としているが、専門家の多くはこの数字は少なすぎると疑問を呈し、その実数は100万人以上に達していると考えられている。生存するHIV保菌者とエイズ患者の総数を100万人と仮定すると、2015年末の総人口(13億7500万人)に占める比率は0.07%となり、人口1万人当たり7人のHIV保菌者とエイズ患者が存在することになる。この数字は世界的に見れば決して高い水準ではないが、中国ではエイズに関する正しい知識の普及が十分でないため、人々のエイズに対する差別と偏見は日本以上に激しく、一度HIV保菌者の烙印を押されると社会から疎外されるのが常である。

 河南省南西部に位置する“南陽市”の管轄下にある“鎮平県城郊郷四里庄村”の農民、“楊守法”もHIV保菌者の烙印を押されたことで苦しい日々を送ることを余儀なくされた犠牲者の1人だった。今年(2016年)53歳の楊守法は小学校卒業の学歴しかない。1985年に22歳で結婚した楊守法は、妻との間に3人の子供(一女二男)を得た。彼は農業に従事し、農閑期には工事現場で働いて生計を立てていた。

 2003年に四里庄村は河南省疾病予防抑制センターによってエイズの中度感染村に認定された。このため、同年12月に四里庄村の特定集団に対してHIV感染状況の調査を目的とする採血が行われることになり、楊守法はその調査対象に選定された。この調査は四里庄村の医師である“胡明道”から“健康普査(健康調査)”という名目で調査対象に選定された村人たちに通知されたのだったが、楊守法は12月15日に胡明道の診療所で採血を受けた。

 数か月後、胡明道が楊守法の家を訪ねて来て、「あんたはエイズに感染している」と通告した。四里庄村にはエイズに感染した者が多く、当時もエイズ感染は低水準ながら流行が続いていたので、楊守法は胡明道の言葉を何らの疑問を抱くことなく素直に受け入れた。しかし、胡明道が去った後に緊張が解けた楊守法は心の張りを失って落ち込み、「死ねばそれまで」と自分に言い聞かせたのだった。1992年頃、鎮平県では闇の売血が盛んに行われ、採血に使う注射針が使い回しされたことにより、多数の貧困な農民たちがエイズに感染した。楊守法の記憶によれば、1992年頃、超過出産による「一人っ子政策」違反の罰金を支払うために家計が逼迫(ひっぱく)したことから、楊守法は一度だけ売血を行ったことがあった。血液は大きな袋1個が50元(約850円)だったが、楊守法は一度に袋2個分も採血され、その量の多さに驚いて、2度と売血には行かなかった。楊守法はそのたった1度の売血で不運にもエイズに感染したのだと理解した。

感染通告、恐怖、無気力、離婚…

 エイズ感染の通告を受けた後、楊守法は幾度も自殺を考えたし、心中は常に恐怖に打ちひしがれていた。それ以前の楊守法は至って健康で病気一つしたことが無かったが、通知を受けてからは1日働くと全身に痛みを感じるようになった。楊守法はエイズ感染の事実を家族に告げることができなかった。当時すでに学校を中途退学していた長女と長男は妻と一緒に四川省へ出稼ぎに行っていた。次男は四里庄村に残って学校へ通っていたが、2006年に学校を中途退学して母と姉兄がいる四川省へ出稼ぎに行ってしまった。

 エイズ感染を告知されてからの楊守法は農業を止めて無登録の輪タク<注>を始めたが、気力がないから仕事にも身が入らず、毎週必要とする生活費15元(約260円)すら稼ぐことができなくなった。その頃には楊守法がエイズ感染者(HIV保菌者)であることは村の公然の秘密と化し、村人たちが群れている場所に楊守法が顔を出すと、人々は彼を避けて四散するようになった。こうした事が度重なると、楊守法は親類や友人との付き合いを断ち、村の冠婚葬祭にも参加せず、家に閉じこもるようになった。

<注>「輪タク」とは、自転車の後部に客席を取り付けた営業用の三輪車。

 そうこうする内に、楊守法のエイズ感染は四川省にいる彼の妻の知る所となり、2010年に妻は“鎮平県人民法院(裁判所)”へ離婚訴訟の申し立てを行ったが、裁判所は楊守法が病気であることを理由に保留とした。2011年7月に再度離婚訴訟を申し立てた妻は、裁判で「自分は“人販子(人身売買業者)”に誘拐され、鎮平県へ売られて楊守法と結婚させられた。結婚後は双方に何の感情もなく、2004年からずっと別居生活を送っている」などの理由を述べ立てた。楊守法は裁判には一度も出席しなかったが、最終的に裁判所は離婚を認めた。後に妻が語ったところでは、彼女が人身売買業者に売られたというのは嘘で、実際は鎮平県には従兄(いとこ)に連れられて来たし、楊守法との関係も決して悪いものではなかった。全ては離婚するための方便だった。離婚が成立すると、楊守法と子供たちとの関係は次第に疎遠になり、そのうちに連絡は途絶えた。楊守法は全く一人ぼっちになったのだった。

一方、エイズの知識が深まるにつれて、楊守法は定期的にエイズ治療薬を飲めば、発症を抑えられることを知った。最初の頃は、鎮平県疾病予防抑制センターから「1分(約0.17円)硬貨」大の白い錠剤を受け取り、1日1錠を3回に分けて飲んだが、飲むとすぐに激しい嘔吐に襲わるのが常だった。2005年10月に楊守法は城郊郷の“十里庄村”にあるエイズ治療所に収容された。ここではスタブジン(Stavudine)、ラミブジン(Lamivudine)などのアップグレードされた治療薬が供与されたが、服用後の反応は以前より緩和された。但し、毎日薬を服用することにより、楊守法の身体はますますむしばまれていった。夏は厚手の外套を着ても凍えそうに寒く、冬は布団にもぐり込んでも寒くて、ストーブが必需であった。また、手の震え、頭のぼやけ、耳鳴り、眼のかすみ、記憶力減退といった症状が進行した。

10年後の陰性判定

 2012年9月、楊守法は病状が悪化しため“南陽市第一人民医院”で治療を受けたが、その際に自分がエイズ感染者(HIV保菌者)であることを告知しなかった。その翌日、楊守法は前日に行われた検査の結果を受け取ったが、そこに書かれていた「HIV抗体陰性」の意味が理解できなかった。そこで医師に尋ねると、医師は「エイズに感染していないということだ」と答えた。そんな馬鹿なことがあるはずがない。楊守法は驚いて言葉を失った。今回の検査で、楊守法は食道炎、びらん性胃炎、胆のう炎、前立腺肥大などの疾病を患っていることが判明したが、これらはエイズ治療薬の長期服用による副作用と考えられた。

 楊守法は十里庄村のエイズ治療所に戻ると、HIV抗体の検査結果について意見を聞いたが、治療所の責任者は、「恐らくエイズ治療薬を服用していたために、陰性という結果が出たのだろうが、その検査結果は不正確だ」と断定したのだった。それならば、エイズ治療薬の服用を止めたらどうなるか。楊守法はエイズ治療薬を飲むのを止め、それから2年間が経過する前後に多数の医院を訪れてHIV抗体検査を受けたが、検査結果は全て陰性だった。

 こうして楊守法がエイズ感染者(HIV保菌者)でないことは確認された。思えば2003年から2014年までの約10年間に、楊守法はエイズ感染者として差別と偏見にさいなまれ、離婚により妻子からは見放され、治療薬の副作用で体はボロボロにされ、精神的にも追い詰められ、地獄の日々を過ごして来たのだ。

 2015年11月に楊守法の姪がネットの掲示板に楊守法が遭遇したエイズ誤判定事件の顛末を書き込んだことで、同事件はネットユーザーの注目を集め、転載を重ねることにより全国に知れ渡ることとなった。11月10日、“鎮平県衛生局”は7月15日に楊守法から要求を受けてHIV抗体検査を行った結果が陰性であった旨の発表を行ったが、2003年のHIV抗体検査時に残留していた楊守法の血液を今回改めて再検査した結果は陽性であったことから、その原因を残留血液のDNA検査を含めて究明すると表明した。

 ところで、エイズ感染者でないことが確認されたことで、楊守法は経済的に困窮することになった。エイズ感染者と認定された楊守法は、2人分の“農村低保(農村生活保護)”を支給され、毎月200元(約3400円)を受領していた。これ以外に2013年からは毎月200元のエイズ救済金をまとめて毎年2400元(約4万円)を1回払いで支給されていた。しかし、エイズ感染が誤判定であったことが確認されたことにより、2015年の年末にこれらの支給は停止された。

賠償請求の道は険し

 楊守法は2015年に6000元(約10万円)を費やして新しい三輪車を購入していたが、薬の副作用に蝕まれた体は長時間の労働を許さず、輪タクの稼ぎはせいぜい1日20~30元(約340~510円)にしかならなかった。切羽詰まった楊守法は、鎮平県政府に対して200万元(約3400万円)の賠償請求を提出した。2016年3月、城郊郷政府ビルにおいて、楊守法と姪は鎮平県疾病予防抑制センターとの間で賠償問題の協議を行ったが、センター側が提示したのは10万元(約170万円)にも満たない金額で、交渉は決裂した。5月10日前後に四里庄村の書記が25万元(約425万円)ならどうかと打診し、これでだめなら裁判に訴えろと言って来たが、楊守法は即座に25万元の提案を拒絶した。

 治療薬の服用を停止してから3年が経過し、楊守法の衰えた体はある程度まで回復したが、まだ歩くには杖が必要だし、手はいつも震えている、記憶力は依然として衰えたままである。「あいつらは誤判定で俺の人生を台無しにしておきながら、10~20万元程度のはした金でちゃらにしようとしている」と怒りを露わにしている楊守法は、適正かつ正当な賠償金を獲得すべく、裁判に訴えることを決意している。

 誤判定によりエイズ感染者にされた例は楊守法が初めてではない。2009年に江蘇省“常州市”の工場で長年働いていた“邳州(ひしゅう)市”出身の“呉長棟”もエイズ感染を告知されたことで悩み苦しんだ犠牲者だった。1975年生まれで当時34歳だった呉長棟を悪夢が襲ったのは2009年11月5日だった。この日、仕事が休みだった呉長棟は買い物の途中に献血車を見かけ、生まれて初めて献血を行った。多少は世の中に役立つことをしたと良い気分に浸ったが、その翌日に実家のある邳州市の疾病予防抑制センターから「あなたはエイズに感染している」との電話連絡を受けて奈落の底に突き落とされた。

 突然のエイズ告知を受けて動転した呉長棟は長年勤めた職場を辞して邳州市へ戻り、邳州市疾病予防抑制センター(以下「邳州市センター」)に出向いた。呉長棟が事の真偽を尋ねると、応対した医師は常州市で献血を行った際に採血した血液がHIV抗体検査で陽性と判定されたと説明したのだった。呉長棟は献血時に“居民身分証(身分証明書)”を提示したために、エイズ感染の連絡は身分証明書に書かれた住所がある邳州市センターへ連絡されたのだった。邳州市センターは呉長棟の実家に電話を入れて、「血液に問題がある」と理由を説明して呉長棟の居場所を確認した上で、呉長棟へ連絡してきたのだった。

 実家に連絡が行ったことは呉長棟にとって耐えがたい衝撃だった。すでに69歳の母親を含む家族が呉長棟の血液に問題があることを知っているのだ。呉長棟は離婚して一人娘を母親に預けて常州市へ出稼ぎに行っていた。自分がエイズで死んだら、母親と娘はどうなるのか。実家へ帰った呉長棟に対して家族は血液に問題があるとはどう意味かと尋ねたが、呉長棟はちょっとした病気だと言葉を濁し、人知れず涙を流し、眠れぬ日々を送った。

 しばらくして冷静になった呉長棟は、「自分がエイズに感染するようなことをした覚えがない以上は、誤判定の可能性は否定できない」という結論に達した。11月25日に“徐州市”内の医院で偽名を使ってHIV抗体検査を行ったところ、結果は陰性だった。その2日後の11月27日に徐州市疾病予防抑制センターで検査を受けたが、結果は陰性だった。さらに念を押すため、12月4日と12月21日に徐州市内の別の医院で検査を受けたが、全て陰性だった。こうして呉長棟のエイズ感染は誤判定だったことが確定した。彼は誤判定の責任を追及したが、関係機関は責任回避と責任転嫁に注力するだけで、呉長棟に対する謝罪もなければ、原因の究明すら行おうとしない。呉長棟は誤判定が確認されてから500日を経過しても依然としてエイズ感染のトラウマに悩まされている。

「偽陽性」を放置か?

 上記2例はHIV抗体検査の結果が陽性であったことからエイズ感染と診断されたものだが、実際は「偽陽性」であったものと考えられる。日本でもスクリーニング検査の偽陽性率は約1%であり、100人に1人の割合で偽陽性が出現している。但し、日本の場合には、検査は2段階方式で、スクリーニング検査の後に確認検査があり、偽陽性は確認検査では正しく陰性に判定されるため、誤判定が起こる可能性はほぼ皆無と考えられている。

 中国も日本と同様にHIV抗体検査の2段階方式を採っていれば、楊守法や呉長棟のような誤判定の被害者が出ることはないはずである。短期間に陰性が確認された呉長棟はまだしも、10年以上にわたって厳しい境遇を味わった楊守法の場合は悲惨であった。こうした誤判定や誤認が起こった場合に、当事者たる関係者に共通する常套手段は責任回避と責任転嫁であり、被害者に謝罪や賠償が行われることは滅多にない。

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