佐伯啓思 著『アダム・スミスの誤算』について

佐伯氏の問題意識は定説として言われている「アダム・スミスは自由主義、グローバリズムの祖」と言うのは違うのではないかということである。

結論的に言えば、道徳家でもあったので(『道徳感情論』を著した)経済面だけでなく道徳哲学、絶対者の存在を意識した自己規律をも主張したということ。

  1. 重商主義批判・・・保護貿易主義を取り、輸出振興による貨幣の蓄積を目論むmercantilismを批判。
  2. 土地と労働重視・・・グローバルな市場での貨幣の動きの不確かさに信頼を置くのではなく、労働こそが国民の富(マルクスに繋がる)を作る。
  3. 国防の重要性・・・「国防は富裕より重要である」「放埓に近いほどの自由が許されるのは、ただ主権者が軍律正しい常備軍によって安全を保たれている国においてである」とスミスは言っている。強い国家の基盤は「軍事力」「経済力」「国民精神」であるが、富裕になればなるほど人民は好戦的でなくなり、防衛精神を失っていく。これは憂慮すべき事態。
  4. 資本投下の自然な順序・・・国内>海外。海外は遠方で非効率、かつリスクがある。国内は国内労働者の雇用にもプラスかつ商業においてもプラス。農業→製造業→海外貿易の順。「見えざる手」は「かれ(あらゆる個人)は、公共の利益を促進しようと意図してもいないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるかを知ってもいない。外国貿易を支持するより、国内産業のそれを選好することによって、彼は自分自身の安全だけを意図し、また、その生産物が最大の価値をもちうるような仕方でこの産業を方向付けるとき、彼は自分自身の利益だけを意図しているのである。しかし、彼はこの場合でも多くの場合と同様、見えない手に導かれて、自分が全然意図してもみなかった目的を促進することになるのである」から採ったもの。重要なのはモノの生産によって国富を増大することであって、金融と商業は補助的手段に過ぎない。
  5. 「徳」の重視・・・「徳」とは「慎慮」「正義」「慈愛」。「高貴な目的」へ向けられた偉大な行為をなしうる知力や武勇、義務感、慈愛などが最高の「慎慮」であり、最高の「徳」。「英雄的な徳性」「愛国心」を尊び、「虚栄」や「根拠を持たない名声、名誉」への憎悪。
  6. 自己規律・・・「見えざる手」ではなく、「見えざる目」について。心の問題が大切。本書から引用。

「(神の)見えざる目」による自己規律

何がスミスをしてこれほど強い「内部の法廷」への確信へと向かわせたのだろうか。世間の評判など愚かな「人類の大群衆」のいいかげんな気分のゆらぎにすぎない、とでもいわんばかりのシニシズムにスミスを向かわせたものはいったい何なのだろうか。

確かなことはわからない。しかし、カラス神父事件がひとつのきっかけを与えたことは間違いないようである。カラス神父事件とは一七六ニ年フランスのトゥルーズで起きた事件で、新教徒のカラス神父が、旧教に改宗した長男を殺したとされる事件で、実際無実 あったにもかかわらず、世間は彼を有罪だとし、実際、有罪判決の末に処刑された事件である。後にヴォルテールらの再審請求によって六五年に無罪が証明されたが後の祭りであった。スミスは六四年から六五年にかけてトゥルーズに滞在し、まさにこの事件に深い関心をもった。罪を告白するよう勧めた修道士たちに対して、カラス神父は、「神父様、あなた自身、私が有罪だと自分に信じさせることができるのですか」と述べた、とスミスは書いている。

法廷は彼自身の内面にあるのである。世間の評価や「外部の法廷」よりも、この「内部の法廷」の方が絶対なのである。内部の法廷をさばくのは「すべてを見ているこの世界の裁判官」なのだ。ここでカラスという新教徒の神父の例が持ち出されるのはあるいは象徴的というべきかもしれない。むろん、彼は「神」に対してのみ義をもっており、「神」の審判のみを信じていた。地上の審判は「神」の審判に対しては「下級の法廷」であった。だから、スミスが明示的に述べているわけではないが、この「内部の法廷」の裁判官、「すべてを見ている裁判官」は究極には「神」である、といっても間違いではないだろうと思われる。

いやすでにスミスは第1版で書いていた。「神的存在の意志に対するわれわれの顧慮がわれわれの行動の最高の規則であるべきだということは、彼の存在を信じるものならだれも疑えない」と。あるいは「行為の値打ちと欠陥を決定する一般的規則が、こうして、全能の存在の諸法として顧慮されるようになり、この全能の存在は、われわれの行動を監視するのである」と。こうして、道徳原理においても「(神の)見えざる手」は働いているのである。あるいは、監視するという意味でいえば「(神の)見えざる目」とでもいうのが適切かもしれない。「(神の)見えざる目」によって内面の法廷は監視されており、ここに初めて「世間の評判」を超えた絶対的な基準の根拠がでてくることになる。

そうだとすれば、もはや、「中立的な観察者」は「世間」でもなければ、財産をもった上流階級である必要もない。「(神の)見えざる目」によって、人は自己を規律できるはずである。この自己規制を行った人はもはや上流階級の人である必要もない。そもそも上流階級に道徳のモデルを求めることは、それ自体が、「称賛を欲する」という虚栄と結びついているのではないか。世間の評価などというものも、この上流であることに対する感嘆と結び付いているのがこの世の習わしというものだろう。なぜなら「人類のうちの大群衆は、富と上流の地位の感嘆者であり崇拝者」だからであり、「たいていの人にとっては富裕な人と上流の人の高慢と虚栄が、貧乏な人の確固とした値打ちよりもはるかに感嘆されるものなのである」からだ。

この上流階級では、成功と昇進は無知高慢な上長者たちの気まぐれしだいなのである。ここでは「社交界の人と呼ばれる、あのさしでがましくばかげたしろものの、外面的な品位、とるにたらぬ身だしなみ」こそが感嘆を受けるのだ。そして大衆は、富裕な人々と上流の人々を感嘆し模倣しようとする。だからどちらも同じ穴のムジナだ。虚栄に満ちた上流階級とこれに追従しようとする大衆、これらが「世間の評判」というものの正体である。 この不確かに移ろいゆくものの中には、是認の確かな根拠など存在しない。それがあるとすれば「(神の)見えざる目」を内部にもった自己規律以外にないのである。

自己規制はいかにして可能か

むろん、自己規制(セルフ•コマンド)といっても、自然に発揮されるものでもなければ、また神を信じれば直ちに手に入るというものでもあるまい。むしろ、スミスは通常の人」が、いかにしてこの自己規制をもちうるのか、またそれはどのような場合に高度に発揮されるのかを論じてみようとしているのである。人はそれを社会生活の中で学ぶのである。次の一節をみてもらいたい。

真に恒常不動の人、すなわち自己規制の偉大な学校であるこの世間の雑踏と事業のなかで十分に教育され、また暴力、不正、戦争の困難と冒険にさらされてきた賢明な正義の人は、彼の受動的諸感情に対する制御をもちつづける。……繁栄においてであれ逆境においてであれ、味方の前であれ敵の前であれ、彼はこの男らしさを保持する必要のもとにおかれてきた。彼は、中立的な観察者が彼の諸感情と行動に与えるであろう判決を決して一瞬たりとも忘れようとはしなかったのである。彼は、常に、自分に関係するどんなことであれ、この偉大な同居人の目をもって観察するように習慣づけられてきた。

自己規制こそが、自らを中立的な観察者とするのであり、それこそが「恒常不動の人なのだ。浮遊する世間の評判には左右されないのである。この「恒常不動のもの」、いいかえれば「確かなもの」こそ、自己規制によって自らの内部に獲得する以外にないのである。

だが、ここでスミスは大変興味深いことを述べている。自己規制は、「世間の雑踏」と同時に「暴力、不正、戦争の困難と冒険」の中で獲得される、というのである。しかもこれは「男らしい」ものだという。

スミスは、一七九○年、すなわち死の数カ月前に修正された第六版の最後の部分を「自己規制について」と題しているが、ここで、もっと明確にこの問題を扱っている。たとえば次のようなことだ。

恐怖と怒りは、人間のもっとも抑制しがたい情念であろう。恐怖や怒りにひとたび襲われると、それを制御することはきわめて困難である。そこで、恐怖や怒りの真っ只中で自己の平静さを保持し、利害関心のない観察者の気分を保持することほど難しいものはないだろう。 いいかえれば、それができてこそ、最大級の自己規制がある、ということ になろう。危険の中で、死の拷問の中で、中立的な観察者の態度を保持しうる者はきわめて高い感嘆を獲得する。もし彼が人間愛と祖国愛のために受難するならば、彼はもっとも熱烈な同感的感情を「もっとも熱狂的でうっとりとした崇拝へ燃え上がらせるのである」。

これは実際スミスが書いていることだ。だから、と彼はいう。「戦争は、この種の度量を獲得するためにも、練習するためにも偉大な学校である」。戦争は死に対して人を慣らしてしまう。危険と死を前にして恐怖は制御される。そこで「危険と死についてのこの慣行的な軽蔑が兵士という職業を高貴なものとし、人類の自然な見解の中で、それに対し何にもまさる地位と尊敬をあたえるのである」。

戦争こそが自己規律のための学校である、とスミスは述べるのだ。危険や死を前にして恐怖心を制御することこそが自己規制の基本なのである。これは大きな美徳である。そしてこの美徳は、「勇気」や「誇り」、それに「崇高さ」といったものと結び付いている。それは、もう一つの、そして伝統的な美徳の群である「礼儀」や「謙虚」「節制」といったものとは大きく異なっている。

「噫病という性格ほど軽蔑すべきものはなく、もっとも恐るべき危険の真っ只中で平然と沈着を維持する人の性格ほど感嘆されるものはない。われわれは、男らしさと不動性をもって苦痛に酎え、拷問に酎える人を尊敬する。そしてわれわれは、それらに負けて、無益な叫びや女らしい嘆きに身を任せる人に対してほとんど顧慮を払わない。」

ここでスミスが「男らしい」と「女らしい」という語法を用いていることに多少注意しておくべきかもしれない。明らかに、彼は「勇気」「誇り」といった徳に「男性的」という形容詞を付加し、そこに自己規制の基底をみていた。あるいは、そこに「不動性」を見ていた。恒常的なもの、不動なもの、もっといえば「確かなもの」をそこにみようとした。 社会の中で相互に「見る/見られる」という相対性の中からでてくる評価や「世論」などというものを突き抜けたところに、スミスは、もっと「確かなもの」を発見しようとしていた。そこで彼が取り出したのが、古代的で「男性的な」美徳に裏付けられた、また神的な存在という絶対者をヴエールの後ろに隠した「自己規制」であった。このときはじめて人間は「確かな自己」を少なくとも感じ取ることができるはずなのである。

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