今年の7/31のブログ記事『井上和彦著『パラオはなぜ「世界一の親日国」なのか』について』でパラオを紹介しました。その続編です。
今回は、太平洋戦争(大東亜戦争)後でも、ペリリュー島に残って戦い続けていた人達のことを紹介したいと思います。戦後の日本人はGHQによるアメリカの価値観を植え付けられ、刹那主義・快楽主義・拝金主義が跋扈するようになりました。先人たちの生き方を見て、如何に生きたら良いか考えるキッカケになればと思います。是非本を手に取ってお読みいただきたく。
内容
第4章奇跡の生還
洞窟に潜んでいた三十四人の日本兵
昭和二十二年の日米銃撃戦
昭和二十年(一九四五)九月ニ日、東京湾に錨を降ろした米戦艦「ミズーリ」艦上で、連合国と日本国との降伏調印式が行われ、三年八力月に及んだ「太平洋戦争」 (大東亜戦争)は正式に幕を下ろした。ところが一年半後の昭和二十ニ年(一九四七)三月の末、あの激戦の地ペリリユー島で突然、激しい銃撃戦が起こった。米軍と複数の日本兵による銃撃戦である。
パラオ本島(バベルダオブ島)や、コロール島で敗戦を 迎えパラオ地区集団の陸海軍将兵の大半は、前記したように昭和.二十年十月から翌二十一年三月にかけて日本本土に復員している。ところが集団司令部が引き揚げ船 に乗る直前になって、「ペリリュー島に敗残兵がニ、三 人いる」と、米軍から連絡を受けた。そこで集団司令部付の日系二世の通訳浜野充理泰少尉が二回にわたってペリリユー島に派遣され、米軍とともに捜索にあたったが 発見できず、捜査は打ち切られた。
このとき、実際は山口永少尉ら歩兵第ニ連隊と海軍の将兵三十数名がジャングルや洞窟内に潜んでいたのだが、 日本側による捜索はこれが最後で、パラオの日本軍将兵は日本本土に引き揚げていった。米軍もその後の捜索は行わず、再開したのは統撃戦後の昭和二十二年三月末だ ったのである。
その日——夜になるのを待って海軍の千葉千吉兵長と塚本忠義上等兵は、パパイアを採るため洞窟を出ていった。そのとき浜田茂上等兵は自分たちの壕からニ、三十メートル離れた「エ兵隊グループ」の壕を訪れ、斎藤平之助上等兵たちと談笑していた。そして千葉兵長と塚本上等兵が歩いてくるのを目撃した。
浜田上等兵は二人に小声で声をかけた。 「おい、拳銃でも手榴弾でもいいから持っていけよ」「いや、すぐ帰るから 」
そう言い残して二人は消えていった。だが、浜田上等兵の危惧は当たってしまった。まもなくニ人は米軍のパトロール隊に発見されてしまった。
そのときの模様を塚本上等兵はこう説明する。 「待ち伏せを食ってしまったんです。逃げたのだが、前を走っている千葉兵長が二人の米兵に捕まってしまった。 工兵隊の壕までは百メートルもないところだった」
塚本上等兵は救いを求めるために、無我夢中で壕に向かって走った。二人の米兵に両脇からベルトを摑まれて.いる千葉兵長は、逃げる塚本上等兵の姿を見やった。そして〈塚本が逃げたから、時問を稼げば必ず助けに来て くれる〉と考えた。
しかし、米兵たちも興奮していた。米兵たちと鉢合わせになったとき、二人はなんとか逃れようとしてジャングル内を走ったのだが、千葉兵長は壕の跡に足をとられ、倒れたところを捕まえられている。そのとき〈もうだめだ〉と思った千葉兵長は帯剣を抜き、米兵に突っ込んだのだ。傷を負った米兵は千葉兵長の顔を殴り飛ばし、強引に連行しょうとしたのだった。
一方、塚本上等兵の知らせを受けた日本兵たちは、それぞれMlラィフルの安全装置をはずして夜のジャングルを突っ走った。十二、三名はいた。山口少尉も工兵隊壕の近くに居たため、千葉救出に加わった。つい半年ほど前にも仲間の一人が待ち伏せに遭って死んでいる。なんとしても救出しなければならない。山ロ少尉は発砲を許した。洞窟生活に入ってからは部下の発砲を禁じていたのである。
「月夜だったので、目を透かしてみると百メートルばかり先の道路に二人のアメリカ兵に捕まっている千葉さんの姿が見えた」
と浜田上等兵は言う。救出隊は道路の両側からできるだけ近づくことにし、真っ暗なジャングル内を進んだ。
そのとき、千葉兵長がいきなり道路にパタッと倒れた。 これが合図となって、道路の両側から一斉に銃が乱射された。
しかし、米兵を射殺した場合の後難は誰もが知っていた。日本兵たちは米兵らの頭上すれすれのところを狙ってラィフルや自動小銃を放った。驚いた二人の米兵は、 千葉兵長を放置して逃げだした。
この日米の銃撃戦がきっかけとなって、日米合同の大投降作戦が開始され、三十四名の日本兵が戦後1年八カ月目に救出されるのである
米軍の帰順工作開始
千葉千吉兵長の救出が成功した夜、工兵隊壕周辺の日本兵たちは山ロ少尉の判断で別の壕に移動した。救出に参加した兵たちの大半は、弾倉を空にするまで撃ち尽くしている。おそらく現場には真新しい米国製の空薬莢が山になっているに違いない。その数から推して米軍がこちらの人員を割り出すことは、そう難しくはあるまい。必ず掃討戦を繰り広げてくるに違いない、そう考えたからであった。
一方、米軍は緊急対策を立てていた。 グアム島の海兵隊司令部に「ペリリュー島に武装した大勢の日本兵が潜んでいる」と報告、応援部隊の派遣を要請した。 そして翌朝、約一個大隊の海兵隊が二機の輸送機で送られてきた。
当時のペリリュー島には米軍の戦闘部隊はいない。基地の保安要員とその家族だけであった。そこで米軍は島に戒厳令を布き、婦女子は舟艇に乗せて沖合に避難させ、本格的な掃討戦を展開することにした。米軍側は、この千葉兵長事件の起こる前から島の住民の情報や、たび重なる食糧盗難などから日本兵の存在は知っていた。それが乱射事件によって決定的になったため、この際ー挙に解决をしなければ島の住民と米軍家族の安全ははかれないとの結論を出したのである。
しかし、いかに武装集団とはいえ、戦 争はとっくに終わっている。できることなら無事に救出してやりたい。いや、あの三年八力月に及んだ太平洋戦を生き抜いてきた兵士たちに、いま死を与えるのはあまりにも悲しいことである。それに掃討戦を決行すれば、米軍側の損害も相当数覚悟しければならない——軍司令部は平和的解決を求めた。日本兵の帰順工作の実施である。それが失敗したら、 そのときに武力掃討を検討すればいい、そう結論したのである。
米軍は帰順工作の有力手段として、二人の旧日本軍将官を起用することにした。
米軍が白羽の矢を立てたのは、日本の第四艦隊参謀長であった澄川道男海軍少将であった。
当時、澄川少将はグアム島で行われていた戦犯裁判の証人としてウィッドネス・キャンプ(証人キャンプ)に抑留された形になっていた。そこを米軍に呼び出され、こう告げられた。
「ぺリリユー島にホールド・アウトが五十人ばかりいて、米軍や島民とトラブルを起こしておる。ついてはペリリユー島に行って、彼ら日本兵に降伏を勧告してくれまいか」
ホールド・アウトとは、殺してもかまわない無法者の兵隊という意味である。 米軍は「貴方はアドミラル(将官)だから、行けば皆が言うことを聞くだろう」という。そこで澄川少将は条件を出した。
「ホールド・アウトの兵隊たちを救出したら、命の保障と戦犯にはかけないと約束をしてくれますか」
米軍は両方とも承知し、ただちに澄川少将を米軍機でペリリユー島に運んだ。 澄川少将は昭和五十四年(一九七九)に亡くなったが、生前、太平洋戦争研究会の取材に語ってている。 「私には島にどういう人たちが残っているのかわからないし、一応、戦争は終わったことを伝えようということで、メガホンでふれ歩いた。渓谷部にいるらしいということはわかっていたが、いくらやっても反応がない。そこで自分で文章を書いて、島民から聞いた『日本兵の通り道だ』という場所の木にぶら下げておいたです。
この一回目の捜索は五、六日間続けたが手掛かりは得られず、米軍の要請でいったんグアム島に帰ったわけです」
澄川少将が書いた文書は「ペリリュー日本人諸君へ」という平易な文体のものだった。日付は昭和二十ニ年三月二十三日となっている„
投降勧告に揺れ動く洞窟内の日本兵たち
グアム島に帰った澄川少将の不安は募るばかりだった。少将はペリリュ—島で硬軟二通の呼びかけ文と一緒に、米マリアナマ地区司令官であるC・A •ポーネル海軍少将の『日本人へ』という文書の邦訳の手紙も同封して、木にぶら下げてきた。その邦訳文には、次のようなことが書いてある。 「若シ降伏ヲ拒絶スルニ於テハ、不法行為及犯罪者卜認メ、法ノ定ムル所ニヨリ捕縛シ、其ノ取扱ヲ受クべシ」とあり、さらに「パラオ島指揮官ニハ、諸君ガ降伏セザルカ捕縛ニ抵抗スルニ於テハ、捕縛及射殺ニ於ケル必要ナル兵力ヲ使用スルコトヲ命ジアリ。必要ニ応ジ増援隊ヲ送ル用意アリ」とも書かれてある。
澄川少将は米軍側に申し出、再びペリリユー島に飛んだ。〈彼等は日本が負けたことを信じていないからこそ出てこないのに違いない。それなら日本軍の上官としての「命令」なら聞き入れるかもし れない> そう思った澄川少将は、今度は旧海軍スタイルの命令調で投降勧告文を書いた。
「去ル三月二十三日余ハ諸子ニ対シ降伏勧告ノ為、当島ニ来リ。四日間滞在、諸子ト連絡ノ機会得ント努力セシモ遂ニ成功セズ一旦ガム島ニ帰投シ、写真及印鑑 (職印ハトラック島ニ於テ焼却セリ)ヲ携行再度来島セリ。茲ニ書面ヲ以テ改メテ諸子ノ誤謬ヲ解キ速ニ米軍ニ降伏センコトヲ望ム」
と始まる長文の『再度ペリリユー島残存日本軍将兵ニ告グ』と題された呼びかけ文である。しかし反応はない。
だが、日本兵たちは澄川少将の呼びかけや行動は逐一知っていた。そして 、一人一人に微妙な心境の変化を与えつつあったのだ。〈日本が負けることなどあり得ない〉と思いつつも、一抹の不安は誰もが抱いていたからだった。やがて単独でグループから“脱走”し、三十四人生還のきっかけを作る土田喜代一上等兵などは、「私は九分九厘まで日本が負けたと考えるようになっていた」と断言する。 しかし、単独で行動するには相当の覚悟がいる。澄川少将が最初に呼びかけを始めたときから、三十四人の日本兵たちは全員が実弾を込め、完全武装で洞窟内に潜んでいた。もし単独で洞窟を出た場合、背後から戦友の実弾が飛んでくる恐れは充分にあったからである。
“脱走”を決行した 土田上等兵
再びペリリュー島の土を踏んだ澄川道男海軍少将は、オブクルソン村長とともに投降作戦に協力してくれている島の男に、「もし日本の兵隊を見たら、この袋を渡してくれ」と一個の布袋を手渡した。中には澄川少将が旧軍スタイルで書いた、前記の『再度ペリリュ—島残存日本軍将兵ニ告グ』という昭和ニ十ニ年三月三十一日付の投降勧告文と煙草が入っていた。そしてチャンスはすぐに訪れた。 翌四月一日、斎藤平之助上等兵は缶詰の空き缶を捨てに米軍のゴミ捨て場に向かった。そこで、島の男にいきなり声をかけられた。 「ニツボンのへイタイサン?」
男はそう言うなり、何か物を投げて寄こした。澄川少将から預かった布袋だった。仰天した斎藤上等兵は工兵隊グループの壕に走り込み、「敵に発見された!」 と告げる。伝令が各グループのもとに走り、協議が行われた。そして島の男が投げてきた袋を取りに行くことになった。 武装した四、五名の者が現場に急行し、 袋を回収してきた。
みんなの前で袋が開けられ、勧告文が読まれた。「これはニセ物だ、だまされるな」
「これはスパイのだ」 次々否定する言葉が飛んだ。しかし、 土田喜代一上等兵は〈これは本物だ〉と思った。海軍上等水兵である土田さんは「澄川少将」なる提督の名前は知らなかったが、文の書式が海軍様式で書かれてあるからだった。だが話し合いの結論は、情況が悪いから一カ月ぐらい壕の中にいて様子を見ようということになった。土田上等兵は決意した。 〈このままでは全員が自滅してしまう。 日本は間違いなく負けたのだ。残る道は脱走以外にない〉
昭和二十ニ年四月ニ日の夜、土田上等兵は書き置きを記すために見張役を申し出て、ランプの明かりで短い鉛筆を走らせた。
隊長以下其の外の者に告ぐ
私の行動を御許し下さひ、私は飛行場に突込もうと思ひました、而し他の持久作戦部隊に迷惑をかけると思ひ、私はガダブス(注.ガドブス島)進撃をやり、敵と逢ひ次第交戰、華々しく散る積もりです。そして無事ガダブスを通り越した場合、本島へ渡り、そして其の畤は其の時で散る積りです。
おそらく本島へ渡れるのは、九分九厘まで不可能と思ひます。又気が向いたら本島より帰り、ニユースを持つて再び帰ります。其の時は後弾丸を喰うのは覚悟して帰る積りです。今後、持久作戦部隊の武運長久を御祈り致します。私の行動をヒキョウと思ふのが全部と思ひます。 而し、私のやることが其の本人の幸福なら心から許して下さい。五、六中隊、又通信、本部、とよろしく御伝え下さい。 又特に、千やん、横田、小林、斎藤さんは直接御世話になりました。厚つく御礼申し上げます。又相川兵曹は再び海軍へ帰えってはどうですか、心配致します。 隊長殿、以上の私しの行動を御許し下さい。(原文のまま)
土田上等兵は書き置きを置くと、さりげなく洞窟を出た。月の位置からみて午後の十時半ごろと思えた。
日本の敗戦を確認した土田上等兵
土田上等兵は、住民が住んでいる島の北部に向かって一目散に走り続けた。その途中、パトロール中の米軍に遭遇、保護されて飛行場に隣接した米軍のカマボコ兵舎で澄川少将と対面させられた。そこで土田上等兵は驚かされる。米軍側は確実な情報をつかんでいたのである。 「三十何名いるんだね」 澄川少将がズバリと言ってきたのだ。 「百名くらいいるのかと思ったら、三十何名なのか?」
少将はたたみかけてきた。 「はあ、そうです」 土田上等兵は思わず答えてしまってか ら、しまったと思った。日本軍の勢力を洩らしてしまったからだ。それに「澄川少将」と名乗っている男の頭は白髪で、 アメリカ人に見えなくもない。土田上等兵は質問した。 「あなたは、失礼ですが本当に日本軍の澄川少将ですか?」
「そうだ、私は澄川だ」 言葉は立派な日本語だった。しかし、まだ信用はできない。土田上等兵が「日本が負けた証拠を見せろ」と言うと、澄川少将は日本の現況を載せたアメリカの雑誌を見せて説明したが、「そんなもんはゴミ捨て場で何回も見たし、信用できん」と突っぱねた。
そのころ、隣のアンガウル島に燐鉱石の採掘作業に六百人近い日本人が来ていた。澄川少将は米軍と相談をして土田上等兵をアンガウルに連れて行き、日本人に会わせることにした。米軍はさっそく複座の戦闘機を用意し、士田上等兵をアンガウルに運んだ。ペリリユー島とアンガウル島は十キロ足らず、時間にしたら十分とかからない。
アンガウル島に着いた土田上等兵は、 日本人作業員たちに引き合わされた。 「日本は本当に戦争に負けたのか?」
と土田さんは聞き、続けて「戦友たちはあのペリリユー島でまだ戦っている」
と言うと、日本人たちは驚き、「日本はとっくに負けていますよ。戦争は終わって、こうしてわれわれは燐鉱石を掘りに来ている」と言う。
こうして土田上等兵が日本の敗戦を確認し、洞窟に潜む日本兵たちの氏名と階級が知らされた。何人かの兵の出身県もわかった。
その後、土田上等兵は澄川少将や米軍捜索隊とともに、仲問の投降呼びかけに参加した。ところが土田上等兵の呼びかけは、洞窟の□本兵たちに逆効果を与えてしまった。
「あのバカ、ただじゃすまさねえ、ぶっ殺してやる」
と息巻く親しい戦友もいた。残された兵たちにすれば、まさか米軍に投降などするはずはないという信頼と確信があったからであろう。ジャングルの日本兵たちは厳戒態勢に入った。
兵士たちの心を動かした肉親の手紙
澄川少将は出身県の判明した兵士たちの対策について、米軍に一つの提案をした。「日本政府に連絡して兵士らの肉親の手紙や新聞、雑誌などを届けてもらい、それを洞窟内の兵隊たちに見せてはどうか」というものである。米軍は即座にOKし、計画はグアム島の米軍司令部に報告され、東京のG HQ司令部(連合国軍総司令部)に打電された。そして電文は日本の復員局を通じて、四月十二日、それぞれの兵隊たちの出生地に飛んだ。山口少尉の自宅にも、森島通一等兵の自宅にも茨城県庁の世話部を通じて“朗報”がもたらされた。
肉親や友人、知人は、生存の報に涙を流しながら、ジャングルに潜む息子や兄弟に戰争が終わったことを信じさせようと必死の想いで書き綴った。農夫の父親は、何年ぶりかで筆をとり、幼い弟妹たちは、拙い文字で「あんちゃん、日本は 戦争に負けたが、みんな生き残っている。早く帰ってきて」と訴えた。そして父親や母親は、息子が信じるようにと、最後には実印まで押した。
情報は旧十四師団関係者にも伝えられた。多田督知参謀長もその一人で、多田大佐はかつての部下のために二百字詰原稿用紙十七枚に、日本が敗れ、パラオ集団が内地に引き揚げるまでのいきさつを事細かに書いた。
肉親や友人、知人、それにかつての上官たちが必死で綴った手紙は、日本の新聞や雑誌類とともに米軍機で急送され、ペリリューの澄川少将の手に渡された。
効果はただちに現れた。土田上等兵の案内で、日本兵たちの潜む洞窟に近づいた澄川少将は、大声で叫んだ。 「私は日本からお前たちを迎えに来た澄川だ。日本は戦争に負けたんだ。降伏し たのだから話し合いをしよう。山ロ少尉、 出てこい!」
シーンとして声はない。 「それでは、お前たちの家族からの手紙が今朝内地から着いた。土田上等兵が君たちの名前を教えてくれたので連絡を出し、米軍の飛行機で運んでもらったのだ。 私信の封を切って悪いが、いまから読むから聞いておれ。山ロ少尉のお父さん、 源一郎さんの手紙から始める」
澄川少将は、静かに、ゆっくりと読み始めた。(手紙は原文のまま) 「拝啓時下桜花開き多忙の季節となりました。御前には元気との事家内一同よろこび居ります。日本は昭和二十年八月十五日、天皇陛下の命によって終戦となり、今は平和なる農業国となって居り、 御前と友人の根本裕治君や山ロ六郎君は 復員して職務に従事して居るのであります。君は米軍に抵抗して居るとの事でありますが、其のような事は寸時も早く止めて米軍の光栄により一日も早く帰国せられ、楽しき生活をせられんことを家内一同待ち受けて居る次第であります。 先は健康を祈る早々不一
父より(実印) 昭和弐十弍年四月十六日 永へ 」 「兄さん、お元気ですか、おばあさんも元気で兄さんの帰りを待ってをります。 戦争は昭和二十年の八月十五日に天皇陛下の命により降伏してしまいました。 兄さんも降伏をして一日も早く家へ帰って来ておばあさんを喜ばせて下さい。と なりの六郎さんも元気でふくいんをしてをります。兄さんも一日も早くおばあさん、家中の人を喜ばせて下さい。兄さんお身をたいせつにさようなら。
昭和二十ニ年四月二十一日月曜 初五山ロ信子(認印) 山ロ永樣
洞窟内からはなんの反応もなかったが、兵隊たちは聞いていた。澄川少将は次から次へと読み進んでいった。四人目の兵隊の分が終わると、五人目の兵隊のものへと移っていった。
どのくらい時間が経ったであろうか、 洞窟の中から初めて反応があった。 「わかった、話はわかったから連絡員が出る」
という声がし、梶房一上等兵と浜田茂上等兵が這い出てきた。
かくして三十四人の日本兵は全員が姿を現し、米軍の施設に収容された。昭和二十二年四月二十二日のことであった。