『中国人の火葬嫌いと自殺見物と村上春樹と「早く飛び降りろ」と中国の死生観』(7/26日経ビジネスオンライン 山田泰司)について

7/21日経<村上春樹さん小説、香港「下品図書」認定に批判の声 「騎士団長殺し」を18歳未満に販売禁止>自慢ではないかも知れませんが村上の本は一冊も読んだことがありません。読まないで批判するのは気が引けるのですが、『騎士団長殺し』の中に南京虐殺で40万人殺したとの記述があるので猶更読む気になりません。彼は東中野修道氏の本や毛、鄧が虐殺に触れたことはない、遺体の処理をどうしたのか等考えたことがないのでしょう。戦勝国の敗戦国を貶めるプロパガンダと分かりそうなものですが。そう言う意味で嘘を広める下品図書の指定を受けるのは当然のことです。山田氏の記事で最後に村上の「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」と中国人の死生観「全身而退」と繋がるとありますが、それはどうか?中国人に死生観がそもそもあるのかどうか疑わしいです。生生観しかないのでは。徐福伝説に見られるように「永遠の命」を欲する強欲さだけではないでしょうか。葬式時にも冥銭を燃やしたり、冥婚をさせたり、来世は現世の延長線上にあるという風にしか小生には見えません。村上の言っていることと中国人の考え方が一致しているのかどうか分かりませんが、普通の日本人でしたら中国人のような考えにはならないと思います。でも村上が禅や浄土宗の影響を受けてその文章を書いたとも思えませんけど。

https://www.nikkei.com/article/DGXMZO33253200R20C18A7CR0000/

7/26阿波罗新闻网<习内忧外困 中共元老政变底气不足 习最怕这件事=習は内憂外患 中共の元老たちは政変を起こす意欲が足りない 習が最も恐れるのはこの件>習は今外遊しているが、政変の可能性があれば取りやめした。しなかったのは政権が安定しているから。華国鋒が権力奪取されたときとは状況が違う。元老と言っても、あのときは鄧小平、陳雲、葉剣英等大物がいたが、今は技術官僚上りばかり。

習が直面している最大の脅威は経済崩壊で、それが社会及び政治危機を齎すことである。

7/25付の中共《人民法院報》は貿易戦争時の破産と債務が大きく、在庫が膨らみ過ぎ、ゾンビ企業の整理時の破産とは違いがある。貿易戦時に考えられる破産は6つある。

①産業連関における前段部分の原材料、部品の高額関税によるコストが大幅増となる

②いろんな原因による重要な原材料や部品の販売禁止措置を受ける

③国外のアンチダンピング、反補助金、高額関税が大幅なコスト増を齎す

④貿易を保護するため、突然市場を閉鎖し、製品販売ができなくなる

⑤サービス貿易の中で、技術が禁輸されれば、製品は作れなくなる

⑥債務の構成が不合理であれば、債務危機が起きる

習の反対派は「経済と言う下部構造が政治と言う上部構造を決める」と信じている。中米貿易戦争にあって、中国経済は崩壊するかもしれない。それは習の政治危機を引き起こす。中共は「弾薬不足」と「愛国感情不足」とで習は困難に陥っている。

http://www.aboluowang.com/2018/0726/1149055.html

7/26阿波罗新闻网<北戴河会议前 习面临新危机 高级黑外还有更狠的?——借疫苗案之题发挥 习近平面临一场危机? 叫停“梁家河项目”内幕流出=北戴河会議の前に習は新たな危機に臨む 高級黒(黒5類の上の部類)以外でも更にひどくなるか? 偽ワクチン事件を口実に 習は危機に臨む 習の下放時代の粱家河(地名)項目(彼の体験を勉強する)をストップした内幕>北京に足場のある海外メデイアによれば、強調されて来た粱家河項目は、理由は発表されていないが高級黒と看做されてストップされた。偽ワクチン事件への国民の怒りは凄まじく、権力者の子供にも同じように偽ワクチンを打たせろとの思いがあり、以前は泣き寝入りしていた人たちも、権利を主張し、場合によっては反抗している。共産党の危機である。=習近平の危機でもある。この他西部戦区の劉小午中将が取り調べを受けている。粛軍の始まりかも。

偽ワクチン事件が政局を作っています。習の権力も安泰ではないという事です。粱家河項目の停止は、習の肖像画の掲示を止めたのと同様、個人崇拝を止めさせることです。劉小午は落伍した張陽、房峰輝の部下だったそうです。軍部の反発も物凄くなるでしょう。

http://www.aboluowang.com/2018/0726/1149275.html

https://joy.secretchina.com/news/b5/2018/07/27/865789.html

記事

家族の墓。畑の片隅にある。土まんじゅうを盛り上げた土葬だ(河南省・2015年)

中国で先月、ビルから飛び降り自殺しようとしている若い女性を見物しに集まった観衆から「早く飛べよ」とはやし立てる声がいくつも上がった、というニュースを聞いたとき、私はとっさに、10年以上前に私から離れていった友人の引きつったような顔を思い出したのだが、少なくない中国人が思い出したのは魯迅の文章の一節だったらしい。

自殺の一件は、飛び降りた女性が「#MeToo」で世界的に問題意識が高まっているセクハラの被害を受けていたこともあり、日本でも比較的大きく報じられたので、ここでは概要のみまとめる。

中国内陸の甘粛省慶陽という町に住む李さんという19歳の女性は、2年前から教師によるセクハラ被害に遭っていた。しかし学校側は問題の解決に消極的で、かつ支援に当たった心のケア担当の人物が専門家でなかったこともあり、李さんはさらに心を病んでしまう。そして先月20日、自ら命を絶つ道を選んだ李さんはビルの8階から飛び降り自殺を図ろうとした。駆けつけた消防が説得を試みること数時間。野次馬の中から、冒頭で紹介した心ない野次がいくつも飛び、それを聞いた他の野次馬から笑い声が上がった。様子を動画投稿サイトで実況中継する者もいたという。李さんは、ビルによじ登り近くで説得に当たっていた消防隊員に礼を述べ、「飛び降りなきゃいけないみたい」の一言を残して身を投げ出し絶命した。

事件を伝える中国メディアには「冷血」「鬼畜」といった言葉をタイトルに並べ、野次馬を厳しく非難するものが目立った。中国ではその後、6月23日には広東省汕頭で33歳の男性、同26日には江蘇省南通で女性、7月3日には湖南省長沙で30代の女性といった具合に、ビルから飛び降りようとする人と、それを見物する野次馬が心ない野次や嘲笑を浴びせるという事件が相次いだ。どの現場でも野次馬が「暑いんだから早く飛べよ」と大声で叫んだり、「飛べ!飛べ!飛べ!」の大合唱が起きたりしたのだという。

「冷血」「鬼畜」なのか?

心ない野次を飛ばした者たちを擁護するつもりはさらさら無い。ただ、そのような野次を飛ばしたり、笑ったりできるのは、その人らが中国メディアの書くように「冷血」で「鬼畜」だからなのか、ということについては、考えてみる必要がある。

上海のネットメディア『澎湃新聞』のコラムニスト張豊氏は、甘粛省慶陽の李さんが飛び降りた5日後の6月25日、同紙の評論欄「深観察」でこの問題を取り上げた。「飛び降りた若い女性と沸き起こる嘲笑 魯迅の書いた『看客』はアップグレードしたのか」と題する文章で張氏は、中国近代文学を代表する作家の魯迅が今から96年前の1922年、『吶喊』という短編小説集の序として書いた「『吶喊』原序」という文章を取り上げている。

葬儀帰りの参列者ら。炎をまたいで厄を落とす(上海・2016年)

魯迅は医学で中国を救い近代化を果たそうと日本に留学し東北の医学校に在籍するが、その日本である日、ロシアのスパイを働いた同胞が日本軍にとらわれ、いままさに斬首されんとする様を、多くの同胞が取り囲み無表情、無言で見物しているニュース写真を見る。魯迅はこれに大きな衝撃を受け、取り囲む野次馬の同胞を「看客」すなわち「観客」と称する。そしてこう続ける。

「およそ愚劣な国民は体格がいかに健全であっても、いかに屈強であっても、全く無意義の見世物の材料になるか、あるいはその観客になるだけのことである。」(『吶喊』原序。井上紅梅訳。青空文庫)

この一件を機に魯迅は、「観客」になるだけの国民の精神を改変し祖国を救うのは医学ではなく文芸だと、文学の道に進むことを決めた。このエピソードは、太宰治が『惜別』でも書いている。

澎湃新聞コラムニストの張氏は、「多くの人が、今回の慶陽の飛び降り嘲笑事件と魯迅が『吶喊』原序で書いたことを関連付けて議論している。そして大半の人は、魯迅が描いた時代から100年後のいまなお、一部の国民は感覚が麻痺していて無関心なのかと嘆き、驚いている」と指摘。その上で、「ただ、今回の事件は麻痺しているのでも無関心なのでもない。『ハッピー』であり『カーニバル』なのだ。『観客』は、無関心よりもさらに悪い『消費者』になった」と断じ、嘆いている。

魯迅と張氏の指摘はその通りだとは思う。ただ、「観客」たらしめているのは、魯迅が指摘するように、人の精神を豊かにする文学の素養のなさだけなのか。また、張氏が指摘するように、人の死までをも快楽に換え消費するという、消費社会の行き着く先のことなのか。

私は、それだけでは説明がつかないと考える。仮にそれだけならば、中国以外の他の国でも同じようなことが起きているはずだからだ。

「暑いから早く飛び降りろ」「飛べ!飛べ!」という心ない激しい言葉は、自ら命を絶つという手段を選択する人を突き放す、中国人の死生観が、言わせている部分があると思っている。

「命あっての物種」を追求する中国人

ここで話は冒頭で書いた、私から離れていった友人の引きつった顔という話に戻る。

10年以上前のある日。私は、30代半ばになる中国人の友人から、仕事の相談を受けていた。安定してはいるが変化に乏しく退屈な国有企業の職を思い切って辞め、やりがいを求めてその1年前に独立。しかし、当てにしていた経験と人脈がなかなか具体的な商売に結びつかず、焦り始めていた。

「この仕事が上手くいかなかったら、年齢的に考えてもう選択肢は残されていない。失敗したら後がないと思うと、不安でたまらない」と彼は言った。

高速道路の開通で墓の移転を余儀なくされた家族が、墓のあった場所に建てられた橋桁に「新しい墓は東へ12メートル」と大書している(上海浦東)

それを聞いた私は、「失敗したら、死ねばいいじゃないか」と彼に言った。「好きで選んだ道。自分のやりたいことがやれたんだから、思い切りやって失敗して、例えそれで死んでも本望じゃない? オレならそうだな」と。

私としては、彼が実弟と同い年の6歳年下で親近感を持っていたということもあり、思い切りやって納得できれば結果は二の次なんだから、と励ましたつもりだったのだ。

ところが彼に目をやると、私の正面で彼は、体全体をこわばらせていた。

「どうして死ねなんて言うんですか。びっくりするよ。死んだらおしまいだよ」

30代半ばの男性が、青ざめた顔を引きつらせながら言った。声も幾分震えていた。

いくらやりたいことがやれ精神的な満足が得られたところで、死んだらオシマイ。それならば、納得も精神的な満足を得られなくても生きてる方がマシ――。

この日を境に、彼は明らかに私を避けるようになり、自然に疎遠になった。私は1人友人を失う代わりに、徹頭徹尾、「命あっての物種」を追求する中国人の死生観を教えられたのだ。

ここで改めて、飛び降りて自死しようとしている人に対して心ない声をかける人たちのことを考えてみると、根底に横たわる死生観に照らして、「自分から死のうという理解不能な人は、どうぞ死んでください」という突き放した気持ちが、激しい言葉を躊躇なく発することにつながっているのだと私は思う。

ただここで言いたいのは、「死にたい人は死んでくれ」というのが、日本に昨今蔓延する「自己責任論」とはまた意味合いが違うということ。

「生きていれば世の中楽しいことだってあるかもしれないのに、死ぬことはないじゃないか。止めろよ自殺なんてバカなこと。そんなことが分からず死のうとしているあんたは大馬鹿だよ」という思いが無意識のうちにあるのだろう。

中国の火葬率は5割に満たない

中国人の死生観を知るのにもう1つ、興味深いデータがある。

それは、中国人の火葬率が一向に上がってこないということ。中国の葬儀事情を書いた、『中国嬪葬事業発展報告』(中国民政部一零一研究所編著、社会科学文献出版社)という本がある。これによると、1949年の中華人民共和国成立後、2度に渡って火葬の比率が下がるという「火葬の危機」があったのだという。

1度目は、文化大革命(1966~76年)が終わり、鄧小平氏が最高実力者として「改革・開放」の中国の舵取りをし始めた1978年直後のこと。中国政府は1956年に火葬を奨励するのだが、1978年に30%だった火葬率は、1982年に18%まで急落してしまう。

そして2度目は2006年。前年の2005年に53%まで上がった火葬率は、翌2006年に48%と5割を割り込み、2011年まで48~49%をうろうろした。『中国嬪葬事業発展報告』は2012年発行なので2011年までのデータしかないが、民政部の最新の統計によると、2014年45.6%、2016年48.3%。中国政府が2014年、火葬率100%を目標に掲げたにもかかわらず、2006年以降、一度も5割を回復せずに今日に至っているのだ。

同書は火葬率が低下した原因について、1978~82年にかけての1回目は、火葬を奨励したのが文化大革命を主導した「四人組」を中心とする極左だったとの見方が広がり、極左に対する反発から火葬を避ける動きが拡大したと分析している。

これに対して2006年以降の2回目については、当時、中国のトップだった胡錦濤総書記が打ち出した「以人為本」(人をもって本と成す)、すなわち共産党よりも国よりも経済発展よりも「人間を第一とする」考え方を、「自分本位で科学的根拠など無視してやればいいのだ」というように都合よく解釈する人間が増えたことが、火葬率の低下につながったのだという。つまり衛生面や用地の有効活用など「科学的根拠」に基づいて共産党や国が火葬を奨励しているにもかかわらず、「人間第一なのだから、自分の感情を優先すればいい。それならば身体が灰になってしまう火葬はイヤだ」ということになったという。

こうして火葬が減り、土葬が増えた。身体が生きている時と同様、「全く無傷」のまま土に還れる「全身而退」という中国の伝統思想の復活が進んだのだと同書は説明する。ここにも、死んでからも生きている時と同様の状態でいたいという、「命あっての物種」に通じる、中国の死生観を垣間見ることができる。

北京の日刊紙『新京報』(2018年4月21日付)によると、土葬が盛んな江西省では2020年の火葬率100%の目標を達成するため、今年6月以降、市民らが準備していた5000体に及ぶ土葬用の棺桶を強制的に取り上げることを決めた。別のメディアによるとこの政策は実際に実施され、対象になった市民らには補償金として1500元が支給されたという。

村上春樹が中国で受け入れられる理由

先の『中国嬪葬事業発展報告』が、「死生観とはなんぞや?」を説明するくだりで引用しているのは、村上春樹の『ノルウェイの森』の一節だ。

「死は生の対極としてではなく、その一部として存在している」(講談社文庫版、上巻、P54)

村上春樹が中国で熱狂的に受け入れられるのは、全く無傷のまま土に還れる「全身而退」と通じる死生観を村上の文学に感じるということもあるのだろう。

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