『習近平がどうしても「核心」の座が欲しかった理由 中国はどこへ向かうのか?ますます強まる党内統治』(11/1JBプレス 阿部純一)、『「六中全会」は習近平の勝利なのか コミュニケに残る、激しい権力闘争の跡』(11/2日経ビジネスオンライン 福島香織)について

阿部氏と福島氏の記事を並べて見ました。どちらかと言いますと、福島氏の見立ての方が合っているかと。習近平の権力奪取は未だしではないか?いくら「核心」の地位を得たとしても、「政権は銃口から生まれる」中国では①軍の経験(毛沢東、鄧小平にはあった)があるか、②金儲けを容認するか(多額の賄賂や兵器の横流しを含む、江沢民のやり方)が支持の前提となります。習近平には両方ともありません。況してや反腐敗運動に血道をあげ、パナマ文書で親族の儲け話が暴露されるのに及び、庶民や共産党幹部・軍の支持を得られるとは思えません。中国人だったら誰でも賄賂を取るのは当り前と思っています。政敵を倒すための手段として反腐敗運動を使っていることは誰でも理解しています。「反腐敗運動」は①、②ともに逆の方向を向いています。これでは支持はおろか、暗殺やクーデターの危険は増すだけでしょう。

毛沢東は根っからの人殺しで、自分のスパイをあらゆるところに根を張らしていたと思います。別に証拠がある訳でもなく、本を読んでの感想でもありません。ただ、今よりもっと権力闘争が激しかった時代に勝ち抜いたのには、理由があると思います。「自分は何時殺されても良い」という覚悟と、「いつでもどこでも簡単に人が殺せる」という姿を見せ、かつ「自分には草をいっぱい張り巡らせていて、裏切ればすぐ分かる」というのを、中国人全体に体の隅々まで沁み渡らせたから権力が取れたのでは。周恩来、劉少奇、鄧小平、林彪には唯々諾々か、放逐、クーデター失敗と恐怖政治が成功しました。大躍進や文化大革命は情報が今と比べ簡単にコントロールできる時代でした。今でも中共は情報をコントロールしていますが、完全に外界の情報を遮断は出来ません。その点でも習近平は毛沢東と比べて、権力集中は出来にくいです。

今後の問題として、常務委員の人事、定年年齢、習の後継者についてが、今後の中国を判断するに当たり、ポイントとなるのは間違いありません。ただ、「反腐敗運動」の「新たな情勢下における党内政治生活の若干の準則」と「中国共産党党内監督条例」が採択されたことは、習にとって両刃の剣となるのでは。党主席を降りた瞬間に、韓国同様弾劾される恐れがあります。今、韓国では朴槿恵大統領が、在任中ですが、その危機にあります。習がそれを防ぐには自らがずっと主席を務めるしかありません。内規を変えるのでは。息のかかった人間を後任にするとしても、自らは江沢民から指名を受けたにも拘わらず、かつ江沢民は団派を押えて習を指名した恩義があるにも拘らず、裏切りました。自らの行動を振り返ってみると、後任を選ぶことは怖くてできないのでは。「刑不上常委」という潜規則も打ち破ったのだから、江藤新平のように自ら定めた法によって裁かれる運命となりかねません。

阿部氏記事にありますように、軍事冒険に走る危険性もあります。日本人も惰弱な平和主義に染まっている時期は過ぎました。覚醒せよと言いたい。

阿部記事

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天安門広場で行われた抗日70年行事の軍事パレードで閲兵する習近平国家主席(2015年9月3日撮影、資料写真)。(c)AFP/GREG BAKER 〔AFPBB News

10月24日から27日にかけて、北京の京西賓館で「中国共産党第18期中央委員会第6回全体会議」(6中全会)が開催された。来年秋の第19回中国共産党大会を控えた事実上の最後の中央委員会全体会議である。

今次の6中全会の最大の注目点は、次期党大会に向けて習近平主席がどこまで権力を固めるか、であった。次期党大会の直前に7中全会が開かれるが、これは党大会に向けた最終調整の場となる。6中全会が注目される所以である。

「反腐敗」キャンペーンを今後も継続

6中全会の主な議題は、「新たな情勢下における党内政治生活の若干の準則」と「中国共産党党内監督条例」であり、この2つの文件はともに審議され採択された。これらに通底するテーマは、「全面的な厳しい党内統治」である。

習近平主席は、政権の座について以来、「トラもハエも一緒に叩く」という「反腐敗」キャンペーンを持続させてきた。その過程で、これまで暗黙の了解事項(「潜規則」)とされてきた「党中央政治局常務委員とその経験者は罪を問われない」を打破し、前常務委員の周永康を「落馬(紀律検査委による立件)」させた。さらに、徐才厚、郭伯雄といった中央軍事委副主席経験者をも「落馬」させ、人民解放軍内部の腐敗状況を白日のもとにさらした。

習近平主席は、この「反腐敗」キャンペーンを今後も継続させることを強調している。その意味において、6中全会で検討された2つの文件に共通するのが党中央の権威を高めることであったのは当然のことであった。

そして、まさにその帰結として、習近平主席は「核心」に位置づけられたのである。

6中全会閉幕後の10月27日に発表されたコミュニケ(「公報」)ではこう書かれている。「第18回党大会以来、習近平同志を核心とする党中央が身をもって実行し、率先垂範し、全面的に厳格な党統治を断固として推進し、思想による党建設と制度による党統治の厳密な結合を堅持し、腐敗を厳しく取り締まり、党内の政治生態を浄化し、党の政治生活に新たな状況が出現させ、党心、民心を勝ち取り、党と国の事業の新たな局面を切り開く上で重要な保証を提供した」

江沢民を「核心」に位置付けた鄧小平の仕掛け

これまで中国共産党で「核心」に位置づけられたのは毛沢東、鄧小平、そして江沢民の3人だけである。

江沢民が核心に位置付けられたのは、鄧小平による「仕掛け」だった。1989年6月の天安門事件の後、失脚した趙紫陽に代わってヒラの政治局委員から党総書記に抜擢された江沢民(当時、上海市党委書記)を権威付けるためである。このとき鄧小平は「いかなる指導者集団にも1人の核心が必要である。第1世代の指導者集団の核心は毛沢東同志であり、第2世代では実質上私が核心だろう。第3世代となった指導者集団にも核心が必要であり、それが江沢民同志なのである」と語ることで、党中央に何の権力基盤を持たない江沢民をバックアップしたのである。

しかし、「核心」に位置づけられた江沢民は、第2世代の「核心」である鄧小平がまだ政治的に多大な影響力を持っている間はおとなしくしているしかなかった。実際、1989年5月に訪中したソ連のゴルバチョフ書記長と会談した趙紫陽が明らかにしたように、1987年秋の第13回党大会直後の1中全会で、「以後も重大な問題は鄧小平同志の舵取りに委ねる」という秘密決議が行われ、鄧小平が「最終決定権」を持っていたからである。

鄧小平が90歳になり「完全引退」した1994年、9月に開催された党14期4中全会でようやく「江沢民を核心とする中央指導集団」が明記され、第3世代への権力継承の完了が確認された。それ以後、江沢民は権力強化に励み、翌1995年秋の5中全会では「江沢民指導部が自主的に政策を決定する」との秘密決議が採択され、これによって江沢民が鄧小平に代わり、「最終決定権」が付与されたのであった。

「核心」の座を自分の力で手に入れた習近平

では、6中全会で「核心」に位置づけられた習近平主席も、同様に秘密決議によって「最終決定権」を付与されたのだろうか。現在のところ、それを証明する情報はない。しかし、実際はそれと同等の権限が習近平主席に与えられたと見るべきだろう。その理由は2つ考えられる。

第1に、習近平主席が「核心」に位置づけられたことによって、江沢民を「核心」とする時代が事実上終わったと考えることができるからである。

「第3世代の核心」とされた江沢民はまだ存命であり、「完全引退」を自ら表明しているわけではない。しかし、習近平主席の反腐敗キャンペーンによって、江沢民に近い周永康、徐才厚、郭伯雄等が追い落とされる中で、江沢民が徐々に追い詰められてきたという文脈から導き出せる事実は、習近平が江沢民との勝負に勝ったということであり、その結果が習近平主席の「核心」という位置づけなのである。そうだとすれば、習近平主席が江沢民に代わり、「最終決定権」を事実上保持していると見なすことができるだろう。ちなみに、今年8月、江沢民は90歳になった。鄧小平の「完全引退」の年齢とも平仄が合うのは偶然だろうか。

第2に、江沢民は「核心」の座を鄧小平に用意してもらったのに対し、習近平は「核心」の座を自分の力で手に入れたからである。同じ「核心」でも習近平主席のほうが実力の裏付けがあることになる。

今年1月、地方指導者を中心に、習近平を中国政治における「核心」と位置づける発言が相次いだ。習近平の意思が働いた動きであることは間違いない。その後、習近平主席を「核心」と呼ぶ動きは下火になったが、6月末には、習近平主席の側近である栗戦書・党中央弁公庁主任が党直属機関の幹部表彰式で習近平主席が「核心」であることを強調した。また、年初の習近平「核心」キャンペーンの先頭に立っていた天津市の党委代理書記の黄興国が9月に突然「落馬」したものの、後任の李鴻忠・天津市党委書記が、繰り返し習近平主席が「党中央の指導核心」であることを強調したことで、6中全会直前には再び習近平主席を党中央の「核心」に位置づける機運が高まっていた。こうして、周囲から声を上げさせることによって、習近平は「核心」の座を手中に収めたのである。

習近平が「核心」の位置づけを欲した理由

習近平主席は、なぜ党の機関決定による「核心」の位置づけを欲したのだろうか。言葉を変えれば、重要な政策決定における「最終決定権」になぜこだわったのだろうか。考え得る理由は3つある。

第1に、習近平主席自身が持つ中国共産党体制維持への危機感がある。経済的には、世界第2位の経済規模にまで上り詰めたものの、高度成長期が終わり、国内産業構造の変革期にあって、貧富の格差拡大や環境問題を含め、これまでの経済成長がもたらした「負の遺産」をうまく処理するために強力な権限とリーダーシップが必要だという認識である。

第2に、全国の政治指導層から官僚組織、国有企業、さらに人民解放軍にまで蔓延した腐敗状況を是正するために、習近平主席が抵抗勢力を無力化できるだけの絶対的権威付けを求めたことである。執政開始から4年にわたる反腐敗キャンペーンで、組織的な抵抗や不作為(サボタージュ)に直面するなかで、党の体制を維持し求心力を持たせる必要性を痛感してきたはずであり、そのために「核心」の位置づけを望んだのだろう。

第3に、軍事改革の関連である。昨年末から今年前半にかけて、習近平主席は、組織を改編しすべてを中央軍事委員会が仕切ることになる人民解放軍の抜本的な機構改革を実施した(参考記事「海軍重視にシフト、人民解放軍が進める再編の中身」http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43910)。中央軍事委員会のトップは主席を務める習近平自身である。いわば、米国大統領が米軍の総司令官であるように、習近平主席が人民解放軍の総司令官になったわけであり、そのためにも自らの権威付けが必要とされたのである。

功をあせって軍事強硬策に走る可能性も

最後に、「核心」に位置づけられた習近平主席の今後について考察する。あくまでも考察であるから、可能性を論じるにとどめたい。

第1に、次期(第19回)党大会に向けた人事である。

人事に関する問題は2つある。1つは政治局常務委員会における「七上八下」という定年制の問題だ。67歳以下なら継続可能だが68歳以上であれば引退という「潜規則」で、この規定に従えば2017年に69歳になる中央紀律委書記の王岐山に再任の目はない。しかし、「余人を持って代えがたい」ことを理由に定年の潜規則を打破して習近平主席が再任を求めれば、それが実現する可能性はありうる。これは、2022年の第20回党大会への布石ともなる。というのも、その時点で李克強総理はまだ67歳で再任の資格があるが、68歳になった習近平主席は退任を余儀なくされる。「七上八下」の潜規則を打破しておけば、習近平主席の「続投」も可能になる。

もう1つは後継者の問題である。江沢民、胡錦濤時代の慣例を踏襲するなら、次期党大会で後継者を政治局常務委員に入れなければならない。胡錦濤も習近平も、「国家副主席」「中央党校校長」のポストで常務委員会入りした。習近平主席は「核心」に位置づけられたことによって、後継者指名権も手に入れたと見なすことができるが、もし習近平主席が自らの「続投」を意識するなら、そうした後継者を置かないという選択肢もあるだろう。

第2に、穿った見方として、「核心」に位置づけられたものの、習近平主席には反腐敗以外にこれと言った政治実績がないがゆえに、「功をあせる」恐れがある。

問題は、どこで「功をあげる」かだが、反腐敗取り締まりをこれ以上強化すれば「恐怖政治」になりかねないし、強い反発もありうる。国内経済に関しては、習近平主席は社会主義経済への「未練」が強く、国有企業優先の罠にはまって経済改革には後ろ向きであるから、実績のあげようがない。外交では近代以降の屈辱的歴史からの復興を強調する「中国の夢」を語ることで国内のナショナリズムに火を付けてしまい、「国家の主権・国益を守る」強硬路線をいまさら軟化させるのは難しい。

となると、自ら大胆な改革を実行した人民解放軍に手柄を立てさせ、国民の喝采を得る軍事強硬策に走る可能性は否定できない。その場所が南シナ海なのか、東シナ海の尖閣諸島になるのかはわからないが、日本としては用心しておくことに越したことはないだろう。

もちろん、習近平主席にとって、軍事作戦の失敗は政権の命取りにもなりかねない危険をはらむから、慎重に判断するだろうが、その成功のメリットが失敗のリスクよりも大きいと判断すれば、習近平主席は迅速に行動に出るだろう。

福島記事

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六中全会は習近平主席を“核心”として閉幕した(写真:新華社/アフロ)

共産党の秋の政治イベント、六中全会が10月24日から27日にかけて行われ、最終日にはコミュニケが発表された。六中全会コミュニケのポイントはおよそ五点。①「習近平同志を核心とする党中央」という表現が盛り込まれたこと②党内監督条例と党内政治生活準則という党内規律厳格化に関する二つの法律について審議、可決されたこと③集団指導体制の維持と党内民主の堅持が言明されたこと④遼寧省元書記の王珉、北京市元副書記の呂錫文、解放軍蘭州軍区副政治委員の范長秘、武装警察部隊元副司令員の牛志忠の解任、除籍の確認⑤いかなる党幹部の私有財産形成、派閥形成(人身依附関係=不正常な上下関係)を許さず、これについてはいかなる例外もない、としたこと。後、付け加えるまでもないが、第19回党大会を2017年下半期に北京で開催することも決定された。

ではこのコミュニケをどのように評価すればよいのだろうか。中国国内外の論評を見ながら解説を試みたい。

「習近平同志を核心とする」

まず、「習近平同志を核心とする」という文言を中央委員会全体会議のコミュニケに盛り込んだ点をどのように考えればよいだろうか。六中全会前に関心が寄せられていた点は、この「領導核心」を習近平とする表現が盛り込まれるか、68歳定年制や政治局常務委員会制度の変更に言及されるかという点だ。結果からいえば、「習近平同志を核心とする」という言葉は明確に盛り込まれた。だが、定年制については触れられず、また集団指導体制、党内民主の堅持という文言で政治局常務委員会制度も維持されることになった。

コミュニケではこう言っている。

「全会では、党中央の権威を維持することを固く決定し、全党において法令が厳しく執行されることを保障することは、党と国家の前途の運命がかかわることであり、全国各民族の根本利益のあるところであり、また、党内政治生活を規範化し強化するための重要目的でもある。党の指導を堅持するにはまず、党中央の集中統一指導を堅持することである。一つの国家、一つの政党、指導核心が、非常に重要であることは必至である。全党は思想上政治行動上、党中央の行動に一致した自覚を持たねばならない。党の各級組織全体の党員、特に高級幹部はすべて党中央に倣い(看斉)、党の理論と路線方針政策に倣い、党中央の政策配置に倣い、党中央が提唱する決定に呼応し、党中央の決定を執行し、党中央の禁止事項は決してしてはならない」

そしてコミュニケの結びでは「全会は次のように宣言する。全党は習近平同志を核心とする党中央を囲むように緊密に団結し、全面的に今回の全会の精神を深く貫徹し、政治意識、大局意識、核心意識、中央に倣えという意識を堅牢に打ち立て、党中央の権威と党中央の集中統一指導を動かぬよう定め、全面的に厳格な党の統治を継続して推進し、共同で政治生態の清らかで正しい風紀を作り、中国の特色ある社会主義事業の新局面を切り開くべく人民を指導するため党としての団結を確保しよう」

この表現を見る限り、習近平の権力集中が六中全会でさらに進められた、というふうに見てとれる。「核心」という言葉は、習近平が昨年暮れから周到に党内で浸透させようと画策していた権力集中の象徴的ワードだ。共産党の歴史において、この「核心」という形容詞を使われたのは毛沢東、鄧小平、江沢民だが、江沢民に関しては、鄧小平が江沢民を「核心」と位置付けたのであって、江沢民が自らそれを名乗ったのとは少し違う。自らを「党中央の核心」と呼ばせ、しかも全党が自分を核心とする党中央に「看斉」(右へ倣え)するよう求める「集中統一指導」を打ち出している。そういう意味では、習近平は自らを毛沢東、鄧小平に次ぐ三人目の核心、と言いたいようだ。

「安寧の日を望めなくなった」

中国共産党中央文献研究室出身の在米共産党史研究家・高文謙がVOA(ボイスオブアメリカ、米国営華人向けラジオ)の対談番組でこうコメントしている。

「六中全会の最大の注目点は、習近平の核心としての地位が確立されたことだ。年初からあらゆる手段を使ってこの核心ブームを創ろうとしてきた。習近平がなぜ核心にここまでこだわるのか? 核心地位は“最後の決定権”を意味するからだ。鄧小平の言葉を引用すれば、“鶴の一声”というやつだ。かつて延安整風(1940年代の毛沢東による反対派粛清運動)を通じて、『主席は最終決定権を有する』という決議が明文化された。今(の集団指導体制)では、国家主席は大きな権力を有するが最終決定権はない。党内の駆け引きの中で、一票の権利はあっても否決権はなく、最終的には多数決で決定する。このままでは、習近平は第19回党大会で自分に有利な人事布石が打てないのだ。…現在、“核心”地位を得て、また手の内に『党内政治生活準則』や『党内監督条例』をもって、政治局常務委員に自分の意見を押し付けることが可能になった。反対者はこの準則・条例をもって処罰すればいいわけだから。『核心』の冠を得て、正真正銘の核心に一歩近づいたと言える。習近平のやり方が、人心を納得させることができるかは今後見ていく必要があるが」

ちなみに高文謙は引き続き、毛沢東が最終決定権を掌握した後、文革路線にひた走った歴史に触れて、毛沢東と似た性格の習近平が核心になったことで「党も国も民も安寧の日を望めなくなった」と不穏なことを言っている。

一方、このコミュニケのもう一つのポイントは「党内民主」「権力集中」の堅持を強く打ち出していることだ。これは「習近平の核心地位確立=否決権獲得」とはいかにも相反する内容ではないか。これについて、同じくVOAの同じ番組で、在米中国政治評論家の陳破空が次のようなコメントをしている。

「滑稽であり悲劇である」

「習近平は“核心”の称号を得て勝利したといえるが、完全な大勝利とはいいがたい。半分の勝利というべきだ。あるいは辛勝というべきか。なぜなら相当な妥協をせざるを得なかったからだ。つまり他の派閥と妥協した結果、“集団指導体制の堅持”を強調し続けなければならなかった。…これは、習近平の権力が相当の抵抗を受けた証拠といえるだろう。この種の抵抗勢力は、中・下層の党員、地方党員にはなくとも、ハイレベルの幹部、特に政治局常務員、政治局員、中央委員会の中には存在している。これら最高権力機構の中に親習近平派は依然少数なのだ。だから第19回党大会の人事こそが、最大の鍵となる。

習近平は“核心”地位を求めて、まるまる四年、苦しい権力闘争を経て、なんとか願いを叶えた。これは中国一党専制制度の疲弊が深刻であるということの証でもある。もし、民主国家ならば、指導者は選挙によって選ばれ、人民から権力を授与され、すぐに核心になって大きな権力を掌握できる。同僚との権力闘争によって“核心”の地位を勝ち取る必要も、政治老人(長老ら)の顔色をうかがう必要もないのだ。…まるまる任期一期分を、中国では狭い政治世界の権力闘争の中で喘がねばならないとは。これは一党専制が日ごと、袋小路に迷い込んでいるということだ。中国共産党が米国の大統領選を嘲笑する一方で、自分たちの共産党専制下の内部闘争を笑えないとは、滑稽であり悲劇である」

この二人のコメントは、私が感じた印象と近い。このコミュニケの一番の見出しは「習近平“核心”的地位を明文化」だが、現実にはかなり妥協を強いられ、集団指導体制の堅持に言及せざるをえなかった。習近平は一歩、権力集中、独裁体制に近づいたが、その道のりには相当の抵抗勢力が存在する。

ここで興味深いのは、党内の風紀粛清に関する法律、党内監督条例と党内生活準則を制定する狙いについてだ。この二つの法律を制定することは、鄧小平時代から不文律として続いていた「刑不上常委(政治局常務委員経験者は司法の刑罰に問われない)」を、はっきりと否定し、反腐敗キャンペーンに聖域を設けないという意味である。香港紙・明報が指摘していたが、2015年4月、王岐山(党中央規律検査委員会書記)が米国の政治学者フランシス・フクヤマらと対談した時、「私が捕まえた中に紅二代(親が革命戦争参加者や建国の功労者である二世官僚・政治家・企業家)はいない」とため息をつき、党内に完全な自浄作用を求めることが難しいと嘆いたという。

この条例・準則の施行によって紅二代や太子党、政治局常務委員など従来、聖域とされていた党中央幹部に対しても汚職摘発できるというならば、これは習近平が江沢民や曾慶紅を反腐敗で追い詰めるつもりかもしれない。だが「いかなる例外も認めない」ということは、現役の党総書記、国家主席も例外ではないともいえる。習近平とて脛に傷がないわけではないのだ。文革ばりの聖域なき権力闘争を仕掛けるというなら、習近平自身も返り討ちにあう可能性はあるだろう。

「またやっているのか」

もう一つ、党内幹部の私有財産権を許さないと言明したことも、習近平にとっては諸刃の剣だ。党幹部の私有財産は90年代の改革開放による経済環境の激変にともなって出現し、今の権貴政治(産官結合、権力と富の結合)の温床となっている。この時代、最も私有財産を蓄えたのはいうまでもなく上海閥、江沢民派だが、習近平とて元・上海閥。彼の一族の不正蓄財疑惑はブルームバーグも報じている。

毛沢東が政敵に返り討ちにあうことなく、延安整風や文化大革命を通じて権力集中を発揮できたのは、そのカリスマ性による大衆動員力だった。では習近平には、その大衆動員力があるのだろうか。六中全会直前、CCTVが習近平の反腐敗キャンペーンの成果をまとめるドキュメンタリー番組「永遠在路上」(全8回)をゴールデンタイムに放送した。これは習近平政権下で汚職で捕まえられた党や政府の高官が出演して涙ながらに懺悔し、庶民に習近平を礼賛するコメントを語らせる、あからさまな習近平礼賛番組だった。

共産党の執政党としての地位の正当性を危うくしているのは党内の腐敗であるとし、習近平こそがその腐敗をただす英雄として描きつつ、合間に整風運動時代の毛沢東の映像などを差しはさみ、「毛沢東時代のようにクリーンな共産党に戻る」といったメッセージを発している。

だが、こうした宣伝番組は、農村の老人たちならばいざしらず、スマホ時代の若者に対して絶大な感染力があるかというとそうではなく、むしろ、またやっているのか、といった冷めた反応の方が強い。というのも4年間、反腐敗キャンペーンを行っても、若者の貧困問題も解決できず庶民の暮らしは改善されていない。その一向に改善されない生活苦の不満の矛先は、むしろ政権の方に向き始めている。

在米華字メディア明鏡集団総裁で、党中央にもディープスロートを持つ何頻がVOAにこんなコメントをしていた。

「多くの人が、習近平は(革命)戦争を経験しておらず、真の“核心”にはなれないと言っている。ただ、今の官僚は、ほとんどまともな功績を持っておらず、習近平は地位上の優勢がある。ただ情勢が変動する要素も非常に豊富にある。さらに言えば、彼はあえて責任ある地位を引き受け、多くの組織・機関の組長も務めている。権力を振り回すだけでなく、責任を担う勇気も必要なのである」

さらに何頻は別のVOAの番組のコメントでこう語っている。

「習近平がこのように早く核心地位を獲得できたということは、勇敢にも中国政治の一切の責任を自ら担うということである。だから中国問題をうまく処理できれば、習近平の功績であるが、問題が起きれば習近平の責任である」

しかしながら、何頻は政権に変数が出現する可能性が大きくなっていることも認識しており、「習近平の権力集中は中国共産党の新しい政権モデルになる可能性もあるし、中国共産党が習近平で終わる可能性もある」とも語った。

野望と孤立と攻防と

こうした論評を総じてみると、一つはっきり言えるのは、六中全会コミュニケの中に、習近平のあくなき権力集中の野望とその孤立、それを阻む強い反対派勢力との激しい攻防の跡があり、この激しい権力闘争は今後も一層、血なまぐさく、ひょっとすると習近平自身が返り傷を負いかねない激しさを見せるかもしれない、ということである。

本来、為政者が本当に権力を掌握していれば、わざわざ“核心”という言葉を持ち出す必要はない。“核心”に意味があるかどうか、習近平が勝利者であるかどうかは、政治局常務委員会の人事と今後の反腐敗キャンペーンの行方を見てからでないと何とも言えない。

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