確かに、大礒氏の言うように日本の2つの憲法は上から付与されたものです。明治憲法は不平等条約改定のため、西洋人に安心感を与えるため法の整備をする必要があったからです。結果として日本の近代化、法治主義の徹底(どこかの国のように人治主義、情治主義ではありません。明治時代にです)が進められました。
昭和憲法はGHQの押付け憲法です。東大法学部を頂点とした国家統治の官僚システムでは、護憲に対し非常に威力を振るって来ました。憲法99条は「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあり、公務員試験・司法試験受験者はこれが頭に刷り込まれることになります。ただ、現憲法は96条に改正手続きがあるので、当然に変えられるはずです。それが不磨の大典のように扱われるのは思考停止しているとしか思えません。護憲派というのは適者生存できない(環境変化に対応できない)合理性に欠く人達か、外国の手先かどちらかです。学者、マスメデイアの権威者・知識人と言うのがこのレベルです。自分の頭で考える癖をつけましょう。
三島由紀夫の『文化防衛論』で天皇親政・天皇の軍隊を主張していましたが、小生は「天皇は“priest-king”で権威の象徴、政治の実権を握る権力者とは分離しておいた方が良い。戦争に負けたときに断絶させられる可能性もある。日本の悠久の歴史の中で守ってきたものが変わってしまうことになりかねない」と思っていますので、この部分は三島の意見に反対です。
そもそも憲法で天皇の地位を定める(明治憲法も含めて)のは間違っていると思います。日本の歴史の中で天皇が政治の実権を握った時代は短かったと思います。「君臨すれど統治せず」は王が実権を握った時代が長かった英国の知恵でしょう。天皇は憲法を超えた存在と言うのが正しいのでは。今上天皇が憲法に拘りを見せるのは憲法99条を意識してのことかも知れません。
ただ、今年の年頭の感想で「この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。」と日中戦争が満州事変から始まったと位置づけるのは東京裁判史観です。この発言は踏み込みすぎでしょう。リットン報告書も日本軍の侵略行為と認定していません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%B3%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E5%9B%A3
孫文は「革命が成功したら、夷荻の国満州は日本に売却してもいい」と言っており、エリザベス・シューペンターやヘレン・ミアーズも日本の満州での行動を欧米諸国の取った行動と同じと擁護しています。
記事
近代日本の不幸の1つは、たった2つしか持ったことのない憲法が、2つとも上から国民に与えられたものだということである。
その事実を知るだけで、憲法が国家権力を縛るためのものだという主張が、いかに後付けのこじつけか分かるはずだ。
明治の大日本帝国憲法は、天皇が「臣民」に与えた欽定憲法と言われるもので、政府・議会も国民投票で信任を得るという手続きは考えもしなかった。
つまり、上から順に「天皇」「憲法」「国民」という上下関係が初めから決まっていた。
戦後の日本国憲法は、マッカーサー憲法と呼ばれるように、占領軍から「天皇を含む日本国民」に与えられた。
したがって上から順に、「マッカーサー」「憲法」「国民」という上下関係になった。
当時の日本人がどんなに独裁的司令官を尊崇し敬愛したか、今でも語り草になっているほどだ。そのマッカーサーがいなくなれば、自然に憲法が最上位に位置し、国民が下につく。
これが、憲法至上主義を生んだ根本原因である。
分かりやすくいえば、憲法をあがめることで、その上にあるはずのマボロシの権威に従うという心理である。すなわち平和や民主主義を天与の宝物のように受け止めた。
こうなると宗教と同じで、憲法が神殿のようになり、もちろん9条が「ご神体」となる。当然、ご神体を毀損することなどバチ当たりの極で、神殿が古くなって改修が必要となっているのに、それさえも手を触れるなと大声で反対する。
そういう憲法至上主義論者たちは、日本国憲法を与えた米国自体の憲法を、都合よく無視しているのが常だ。
米国憲法はそもそも、英国からすれば反逆者となる13の植民地が、独立の理由付けと、連邦国家にまとまって英国の再攻撃に備えるために、妥協を重ねて作った外交文書のようなものだ。
国民が政府を縛るというような発想はなく、13の仮想独立国が連邦政府の権限を縛ることに集中している。通商交渉の権限が、政府でなく議会にあるのが典型的な例だ。
それよりも重要なのは、前文で独立が「神の御意志・祝福」(Blessings)だと宣言し、英国の反逆者呼ばわりを跳ね返している点である。
キリスト教、ユダヤ教、イスラムの文化では、明示しなくても一神教の神(造物主)を前提にした言い回しが普通に見られる。
米国憲法には、大統領を始め公務員は宣誓しなければならないという規定が複数あるが、その宣誓とは当然に「ゴッド」を対象としている(異教徒は別文言)。
つまり、米国民は憲法の上位に「ゴッド」を置いていると言ってもいい。ドル紙幣の裏面には「IN GOD WE TRUST」と明記されている。日本流に言うと「おてんとうさまが見てる」という価値観、
宗教観だろう。
では、アメリカを生んだ元の英国では憲法をどう見ているかというと、ここでは成文憲法がないのである。憲法がないのではなく、マグナカルタ(1215年)以来の重要法や判例の積み重ねが、不成典憲法として存在している。
どうしてそういう特異な最高法規が成立したのかというと、王権と宗教権が長期間に亘り激しく対立してきた歴史があるからだ。
結果として16世紀に英国国教会がローマ教会から独立し、国王が首長を兼ねて今日に至っている。
そうなると、憲法の上位にゴッドを戴く米国スタイルは都合が悪いということになる。
英国は、仏、米、日、独、伊の諸国と異なり、近代国家への脱皮が明確でないので、特に成文憲法を必要としなかったという事情もあるだろう。
逆に日本は、西欧と足並みを揃えようと焦って憲法を制定したため、今日に至る大混乱を生み出してしまったと言えるだろう。
悪いことに、マッカーサーなきマッカーサー憲法に、君主である天皇が国民の一部として、無条件に従っている。昭和天皇に比べ今上陛下は一段と、日本国憲法に思い入れが強いように推察されている。
こうした根本的な憲法誤解が続く限り、9条はおろか、神殿である憲法に一指も触れられない日本が、今後も続いていくのではないかと危惧される。
平和安全法制の審議が60年安保騒動になぞらえられるほど混乱してきたのは、思いがけず「戦後レジーム」の核心にぶち当たってしまったからだと考えられる。
そのため安倍首相は米国向けに、「戦後レジームからの脱却」という看板を下ろしますと宣言して見せた。
それが「戦後70年談話」の真意だと見ることもできよう。