2/6日経ビジネスオンライン The Economist『国王が交代したサウジアラビアの明と暗 サウド家が抱える3つの課題』記事について

ISIL、ボコハラム、タリバン討伐はイスラム圏の国々が一致して当たるべきです。本来なら他教徒の力を借りずに自分たちの力で何とかしないといけないと思うのですが。オバマ大統領は木曜日の大統領朝食会でのイスラムのテロリストについて語ったときに、十字軍を引き合いに出して強く非難されています。『我々はこれが全く他では行なわれた事が無いかのような傲慢な態度でいてはならない。十字軍や宗教裁判が行われていた頃には、人々はキリストの名によって酷い行ないをしていた事を思い出すべきだ。我々の国では、奴隷制度やジム・クロウ(人種差別主義の代名詞)がしばしキリストの名前で許されていたではないか。』と演説したことが「テロリストを十字軍と同列に置いた」と反発されています。スタンド・アメリカの創始者であるE.W.ジャクソン司教が金曜日、TVに反論のメッセージを託しました。『大統領閣下、もしあなたがテロリスト達に対して、新メンバー募集の動機を与えるつもりがないならば、グアンタナモ収容所を閉鎖するより、あけすけに申し上げて宜しいなら、ご自身の口を閉じられた方が良いでしょう。何故なら、あなたはたった今、彼らの為のプロパガンダの道具を与えてしまわれましたから。彼らは我々を十字軍と呼び、あなたはそれを認めてしまわれたのですから。』と。

大統領が過去の歴史のことを言うのであれば、「インデイアン虐殺」「原爆投下」も言わなければ。そんなことより、今起きている無法なことを抑える方が大事と言うことが分かっていません。地上軍を派遣しない限り、ISILは生き延びます。やはり判断基準がずれています。

サウジは厳格なイスラム主義を採っていますが、石油の枯渇を考えていろいろやっています。東大大学院教授をサウジの大学に呼んで、次のエネルギーを研究しています。また住友化学の石油精製工場も稼働しています。2030年くらいにはトルコの世俗主義までは行かなくとも、女性の車の運転は出来ているように思います。漸進主義で変わっていけば良いと思います。

記事

年老いた歴代サウジアラビア国王の中で、これほど迅速に動いた王は珍しい。1月23日、アブドラ国王の死去に伴い異母弟のサルマン皇太子が新たな王となった。そしてサルマン国王は即位するやいなや、自らの治世において最も切迫した問題の1つを早々と解決してしまった。つまり、次期国王となる皇太子と、さらにその後の王となる副皇太子を決めたのである。あるサウジアラビア人は「新国王は仕事の9割をわずか1日でやり終えた」と笑った。

 王位継承の問題は君主国サウジアラビアを長らく揺るがしている。現王家の創始者であるアブドルアジズ初代国王の死後、王位は数十人いる息子たちの間で順ぐりに受け継がれてきた。だがこの世代も高齢化が進み、亡くなった者もある。6人目の息子であるサルマン新国王もすでに79歳。遅かれ早かれ初代国王の孫に当たる「第3世代」に実権を引き継がなければならない。だが多数いる王子の中で次の王にふさわしい人物は誰なのか。

 サルマン国王は、アブドラ前国王が副皇太子に定めていたムクリン王子――サルマン国王の最も若い異母弟――の後は、甥のムハンマド王子を王にすると決めた。ムハンマド王子は内相を務めており、国内のジハード(聖戦)主義者に対処する上で優れた手腕を持つと評価されている。イスラム過激派の「アルカイダ」が2009年、ムハンマド王子の暗殺を謀った。内謁を許された戦闘員が下着の下に隠していた爆弾を爆発させたが、王子は無事だった。

サウジの体制を支える王家と聖職者の関係

 今回、継承予定者がこのように円滑に決まったことで、海外に広まる「数々の困難な矛盾を抱えるサウジアラビアはやがて崩壊する」という見方が必ずしも正しいとは言えなくなった。

 ここで言われる「矛盾」の例を1つ挙げてみよう。サウジアラビアにはソーシャルメディアの熱心な利用者が多い上、多数の若者が公的な奨学金を得て西欧諸国に留学している。にもかかわらず、この国におけるイスラムの教えは特に厳格で、女性の権利を厳しく制限している。例えば、女性は男性保護者の許可がなければ車を運転したり海外に行ったりすることができない。

 アラブ世界の大半が激しい混沌状態に陥っているこの時代、石油市場とイスラム世界の中核的存在であるサウジアラビアに混乱が生じれば、とりわけ大きな不安を招くことになる。サウジアラビアにはメッカそしてメディナというイスラム教の聖地がある。また、原油がもたらす富は、批判者たちが「ワッハーブ主義」と呼ぶ極めて偏狭なイスラム主義が普及するのを後押ししてきた。

 これまで、サウジアラビアを否定する者はことごとく自らの誤りを見せつけられてきた。その理由の1つは、サウド家とワッハーブ派聖職者の間で交わされた盟約が脈々と続いていることだ。この関係において、聖職者は王家に宗教的な正当性を与える。代わりに王家は、過激な内容を定めるイスラム法を聖職者が実施するのを支援する。この法は、姦通者への石打ちや反体制派への鞭打ちなどを定めている。

 リベラルなブロガーのライフ・バダウィ氏は体制に反抗したとして鞭打ち刑を受けている。同氏は聖職者が「天文学はシャリーア(イスラム法)に対する懐疑心を誘発する」と主張したという理由で、彼らを嘲笑したりしていた。

オイルマネーで国民を懐柔

 サウジアラビアの現行体制をこれほど長く存続させている別の理由は潤沢なオイルマネーだ。この資金を元に、王家は約3000万人の国民に惜しみない恩恵や政府関連の職を提供してきた。サウジ国民は住宅ローンや教育、医療保険を享受している。奨学金を手にして留学する者は10万人を超える。

 このところ原油価格が半値になっているにもかかわらず、それでもなお、サウジアラビアは7400億ドル(約86兆円)の外貨準備高を持つ。王子や聖職者たちの横柄な態度を精算できるだけの豊富な現金が存在するのだ。

 サウド家の現状を「プロ意識が育ちつつある企業役員会」に例える者もいる。2006年、故アブドラ前国王は王位継承プロセスを円滑化するため、王家の本家とすべての分家から35人の代表者を集めた「忠誠委員会」を設立した。ここではムハンマド王子の指名について可否を問う投票が行われたという。

 これが本当ならサウジアラビアには珍しく民主的な手法がとられたことになる。もっとも王家内に限定されたものであったのだが。候補から外された者たち(前国王の息子で国家警備隊司令官を務めるムトイブ王子など)も、個人の野心より王家全体の存続が重要だという点を受け入れているようだ。

王家に対する固い忠誠

 ではワッハーブ主義の規定はどのようなものなのか。その一部は砂漠の民が元々持っていた風習を宗教が包み込んだものだと言える。そして多くの部族が国家樹立のための盟約としてその思想を受け入れた。

 サウジ国民の多くは、可能であればもっと緩やかな社会規範を望むことだろう。一日5回ある祈祷のたびに店が閉まることに、国民は苛立ちを感じている。だが、保守的なナジュド地方から遠いジッダなどの町では、女性たちは全身を覆うための「アバヤ」と呼ばれる衣装を比較的ゆるい感じで身に着けている。法に反して男性と交際することもできる。アブドラ前国王は、締め付けをさらに強めようとする聖職者や宗教警察の動きを押しとどめた。

 また、国民が保守的な思想を心底から持ち続けていることも、現体制の維持に一役買っている。サウド家の正当性に疑問を抱くサウジ国民はほとんどいない。多くの人は同国の歴史を示してこう言うだろう。1932年の建国以前には部族間抗争が絶えず、疫病も蔓延し、人々の寿命も短かった、と。初代国王となったアブドルアジズは戦争や婚姻、そして他の一族との盟約を通じて国を統治し、こうした問題に終止符を打った。

 「アラブの春」で生じた混乱は、サウジ国内で謳歌している安定と安全を危険にさらすことに対するサウジ国民の警戒心を強めるだけの結果となった。

 政治改革よりも、社会改革を求める声のほうが強い。あるサウジアラビア人研究者は、「我々が国内で“リベラル”と呼ぶものは、国外で“リベラル”と呼ばれるものとは違う」と言う。女性の限定的な解放を含む数々の変革を行ったとして前国王を評価する人は多い。中産階級の人々は、支配層のほうが国民全体よりも寛容だと考えている。保守派を強化しかねない民主主義よりも、王家が緩衝材として働く君主制のほうがいい、と彼らは言う。

 事実、これまで現体制に強く抵抗してきたのはリベラル派ではなく敬虔なイスラム教信者たちだった。1979年にはジュハイマーン・アル・オタイビー率いる過激派グループがメッカにあるグランド・モスクを2週間にわたって占拠した。1990年代にはシャイフ(イスラム社会における部族の長)たちが集まる組織の1つ「サフワ」が、急進的な背教者だとして王族を批判した。そして2000年代初めには、アルカイダが首都リヤドで一連の爆破事件を起こした。「“十字軍”と共謀している」として外国人と王族を標的にしたものだった。

聖戦主義との戦い

 最近、サウジアラビアの安全を脅かすのは主に国外要因だ。例として、イランの拡大やイエメンの混乱、そして「イスラム国」に触発された聖戦主義者たちなどが挙げられる(イスラム国はイランとシリアの一部に「カリフ」=預言者ムハンマドの後継者=を頂く国家の樹立を宣言している)。サウジの官僚は、聖戦主義者は逸脱していると主張する。サウジアラビアのイスラム教は、厳格ではあるが統治者への従順を求めるものだという。

 そして聖戦主義についてサウジアラビア人は、エジプトにおける英国の植民地支配との戦いから生まれた組織、「ムスリム同胞団」の暴力的な反抗から生じたものだと断言する。これには一理ある。しかし、ムスリム同胞団の中でも比較的リベラルな派閥は民主主義的な政治を受け入れている。イスラム国の反シーア的な抗争主義や、打ち首や奴隷制などイスラムの古い慣習を文字どおり解釈する点は、ワッハーブ主義に由来するところが大きい。

 その結果、国際社会はサウジアラビアのシャイフたちによる宗教的な教えに注目するようになった。サウジ政権は国内において、聖戦主義を抑制すべく、厳しい圧制と様々な更生プログラムを織り交ぜて対処している。プログラムには教義に関する討論や社会的利益が盛り込まれ、元戦闘員の行動に対する一族の保証もとりつける。

サウド家が抱える3つの課題

 上述したように、サウジ国民の多くはムハンマド王子が副皇太子に決まったことを喜んでいるようだ。同王子はアルカイダ勢力を一掃した実績を持つ(ただし、彼が平和的な異議異論までも抑圧したとリベラル派は指摘している)。サルマン国王の末息子、ムハンマド・ビン・サルマンが王宮府長官(事実上は王の門衛)と国防相という2つの要職に起用されたことは、ムハンマド王子の就任ほど歓迎されていない。

 サウド家は、これまでの安定が将来の安全をも保証するとは考えないほうがいいだろう。現在いくつかの要因が王国を揺るがしている。1つは原油価格の低下だ。原油は今もサウジアラビアの歳入の8割以上を占めている。

 2つ目は格差の拡大だ。1人当たりの年間GDP(国内総生産)は、隣のアラブ首長国連邦が約4万3000ドル(約503万円)なのに対し、サウジアラビアは約2万6000ドル(約305万円)でしかない。若い国民を抱えるこの国では、経済を発展・多様化させ雇用を提供していく必要がある。若年層が不満を募らせた場合、過激主義者を大量に生み出すことになりかねない。

 3つ目の問題は、エネルギーに対するこの国の放蕩ぶりだ。今のペースで消費を続ければ2030年までに輸出用の石油がなくなるかもしれない。

 ソーシャルメディアの登場により、サウジでも表現の自由が一気に広がることになった。汚職に対する過去には見られなかった批判などが行われるようになっている。少数派であるシーア派国民などから出される異議を受け入れない雰囲気も高まっている。これが、反発を駆り立てるリスクをはらむ。

 資金を得て留学した者たちは、新たな見聞を得て帰国する。欧米の大学を卒業した女性たちは現在の制約がいつまでも続くことに耐えられないだろう。アブドラ前国王の後継者たちが変革に対してさほど熱心ではないと考え、懸念する声もある。

 後継者問題が片づいた今、サウド家は他の課題についても同じくらい迅速に対処する必要がある