一読して、漢民族がエスニッククレンジング(民族浄化)を他民族にしたということです。南京虐殺で日本軍がした無道なこととか言っていますが日本人に性的虐待などをする文化はありません。デッチ上げですから彼ら自身がやってきたことを日本軍のせいにしているだけです。多分モンゴル族だけでなく、チベット族、ウイグル族にも同じことをしたと思います。後に胡錦濤がチベット族弾圧を、王楽泉がウイグル族弾圧をしました。中国人の弾圧と言う意味では蒋介石が台湾で起こした2.28事件も同じ構図です。何が民族の団結だと言いたい。彼らは口先だけです。この本を読んで多くの日本人も目覚めてほしい。中国人の言うことは嘘が多いということを。この本は税込で6480円もするので柏図書館で購入して戴きました。450頁の大作で読むのが大変でしたが、皆様も図書館での購入を是非して戴き、お読み願いたく。
長野朗は1930年代、『支那30年』でアメリカは金の力、ロシア人は軍事力、中国は人口の力と喝破しました。中国は先ず人を合法、非合法に拘わらず入れていき、その土地を乗っ取ります。これは ラルフ・タウンゼント( 米国上海副領事)の『暗黒大陸中国の真実』(1933年)にも描かれています。下はその纏め。()は小生の意見。
話しは変わって、『熬包相会』というモンゴル族の民謡があり、小生は好きでしたが・・・。残念乍ら中国語です。
- 人口150万人中、虐殺された数は2万~30万人と幅がある。大躍進~文化大革命中、中国全土で亡くなった方は2000万~1億人と幅があるのと同じ。(でも他民族に殺されるのは意味合いが違う。ナチスと同じジェノサイドである。)
- 革命を手引きするのは身内。文化大革命の先鞭をつけたモンゴルでもモンゴル人が、第二次大戦中のユダヤ人虐殺でもユダヤ人が手を貸した。言葉の問題があるため。(戦後の日本でGHQの手先になった東大教授のようなものである。)
- 何故モンゴル人を虐殺したか。当時はソ連修正主義との関係がおかしくなり、国境の緩衝地帯にしたかったこと。そのため、裏切りを恐れた。
- 残虐な刑罰を課した。性的な侮辱もある。(自分たちがやったことを南京虐殺とか言って喧伝しているが日本人には彼らのような阿漕なことをする文化、伝統はない。)
- モンゴル人は遊牧民だが、彼らの牧草地を漢人のものにして開墾させた。
- 強制移住もさせた。「共産党政府側から相次いで出された公文書や政策に呼応して、人民公社や生産大隊のような行政の末端レべルに至るまで、中国人たちは積極的に大量段戮に参加した。内モンゴル人民革命委員会が一九六九年三月七日に 許可して転送したウラーンチャブ盟における経験がその実態を如実にしめしている。ウラーンチャブ盟の経験によると、中国人たちはまずウラーンフーが過去に土地改革運動中に実施した「モンゴル族の地主と富農は一段と降格して区分」する政策の見直しから着手していることがわかる。農村と牧畜地域において、より多くのモンゴル人たちを搾取階級と認定することで虐殺の正統な理由を発見できたのである。貧下中農毛沢東思想宣伝隊はこのときに威力を発揮し、涎がでるほどに欲しかったモンゴル人の草原をついに手に入れことができたのである。こうした事実からみると、中国の文化大革命とモンゴル人大量殺戮は、実は中国人農民に多大な現実的な利益を確保するために発動された運動であると指摘できるのではなかろうか。」P.232。(これはアメリカのアンドリュー・ジャクソン第7代大統領がインデイアンを虐殺、強制移住させたのと同じ。)
- 少数民族は何の価値もない動物同然に見ている。P.249。
- 虐殺は今後も起こりうる。
- モンゴル語は畜生の言葉。P.310。
10.「遼寧省は多民族混住地域である。先住民はモンゴル人と満洲人で、中国人はあとから、近代に入ってから入植 してきた。中国人たちは満洲地域においても草原を開墾して農耕地にしたことで、民族間に激しい対立が生じた。 日本が満洲国を建立すると、満洲人とモンゴル人たちは日本の力を利用して、中国人の侵略を抑えようとした。 中国人たちは自身があとからの侵略者であるにもかかわらず、モンゴル人と満洲人を「対日協力者」とみなした。」P.318。
11.漢人女性兵士によるモンゴル人への性的虐待。「彼女は楊貴鱗と王継春、孫万巨などとともに、批判闘争を激化させていった。呉萍と李鈞、高元首たちを吊る しあげた大会で、彼女は王継春たちと一緒に「ジエット機式」に立たされていた李に五〇〇ワットの電 球をあてた。李鈞は電球に焼かれて汗びっしょりになり、何回も立たされていた椅子の上から落ちて気を失った。ラワ副部長を闘争するときに、彼女は孫万巨とともに、卑猥なことをして侮辱し、それで以て楽しんでいた。……」P.368.
12.嘘の自白の強要。P.410。
13.「暴力は「砲撃でも放火でもいい」 「内モンゴル人民革命党員が中国人たちを殺そうとしている」との「証言」が得られたことで、中国人たちの モンゴル人に対する「正当な反撃の理由」も成立した。約一週間後の一九六九年一月八日四家堯人民公杜は常務委員会拡大公議を開いた。革命委員会の主任兼書記の白高才はつぎのように指示した。
今回の会議は白兵戦だ。銃剣に血を浴びせよう。同志の皆さんは大胆にやってください。特に敵との戦いでは大胆にやってください。砲撃でも放火でもいい。壁新聞で世論を味方にしよう。内モンコル人民革命党員たちを殲滅するという人民の戦争を成功させよう。
このように、中国共産党の書記は正面から中国人たちに暴力の発動を呼びかけている。「今回の会議は白兵戦だ。銃剣に血を浴びせよう」との表現は公社主任の白高才の発明ではない。これは、内モンゴル自治区革命委員会主任で、最高権力者の滕海清将軍が一九六八年五月一一八日に、自治区南部の集寧市を訪れて演説したときに全自治区を震撼させた表現である(宋永毅2006;楊2008:434)。滕海清の演説がいかに自治区の末端レベルにまで浸透していたかをしめす証拠である。自治区の津々浦々に至るまで、中国政府と滕海清の忠実な部下たちはこの命令にしたがって銃剣をモンゴル人に向けていったのである。」P.411。
14.人道に対する罪で国連人権委員会に訴える時期が来ている。P.415。
内容紹介(抜粋)
レイプなど性的な侮辱
モンゴル人たちを拷問にかけている間、多くの女性たちがレイプされた。たとえば、スニト左旗では中国人の下放青年たちがモンゴル人女性を「人民大衆による独裁」(群衆専政)にかけ、目隠しをしてからくりかえし強姦した。その結果、何人もの女性が妊娠させられた。正蘭旗では、アディヤというニ〇代のモンゴル人女性が中国人にレイプされ、その上、長期間リンチされつづけた。
スニト右旗バヤンノール公社に住むある遊牧民は、一九六九年六月二七日にひとりで政府にやってきて直訴した。彼によると、中華人民共和国の成立前には国民党軍に家族六人のうちの三人を殺害されたという。そのため、何があっても毛沢東と共産党についていこうと決心していた。ところが、中国人たちは彼を裸にしてリンチし、そして一八か、一九歳の少女たちにみせつけながら、「毛主席に謝罪しろ」と強要した。
またスニト右旗バヤンノール公社ドントウス大隊に注むトンデゲはつぎのように政府に訴えた。一九六八年一一月一○日、 トンデゲは「政治学習班」に入れられ、髪を切られた上、同じ「政治学習班」にいたバトトクト、デレゲルらの髪とまぜて女性の陰部の形に編まれて、侮辱された。そして、ここでもまた「毛主席への謝罪」を何度ももとめられた。
同じスニト右旗バヤンジュリへ公社パヤンタラ生産大隊の遊牧民ハルラーは一家四人全員が「内モンゴル人民革命党員」とされた。中国人たちは彼らを裸にして、息子とその母親、義父と嫁が性行為をするよう強制した。 侮辱に耐えられずに、義父は井戸に身投げして自殺し、嫁は首吊り自殺し、息子は刀で自害した。そして、残された母親も狂った。
東ウジムチン旗ボラク公社では、革命的な中国人大衆が老齢のツエベクジャブ夫婦とその息子夫婦を逮捕し、群衆の前で息子とその母親、義父とその嫁とが性行為をするよう強制した。一家が抗議したところ、中国人大衆 はその母親を地面に抑えて、息子を体の上に乗せた。そして、義父と嫁をも同じ方法で侮辱した。中国人たちはそのような蛮行をやりながら、「恥ずかしいのか。お前らモンゴル人は昔からこんなものだろう」といいながら 笑っていた。ツエべクジャブの夫人は家に帰ってまもなく自殺した。
ウラーンチヤプ盟の実例
ウラーンチャブ盟の犠牲者は死者が一六八六人で、負傷者は八六二八人で、身体に障害が残った者は四六五〇人に達する。虐殺がおこなわれていた時期のウラーンチャブ盟の人口は不明であるが、一九七〇年代初期には約五万七〇〇〇人のモンゴル人と二七〇万人の中国人が住んでいた。一九六七年における人口構成比もさほど変わらないだろう。
ウラーンチャブ盟のチャハル右翼後旗では二〇〇人のモンゴル人が殺害された。この旗のウラーンハダ公社サイハンタラ生産大隊では、「解放軍毛沢東思想宣伝隊」や中国人の「貧下中農毛沢東思想宣伝隊」の指揮下で、一八日間で一八人が殺され、三三人が重傷を負った。平均して、毎日ひとりのモンゴル人が殺害されていたのである。このような残虐な殺戮をはたらいた「解放軍毛沢東思想宣伝隊」や「貧下中農毛沢東思想宣伝隊」のメンバーたちは例外なく内モンゴルの外からやってきた中国人たちである。また、中国人の下放青年や、盲流と呼ばれる不良グループ、つまり目的もなく放浪していた中国人たちも積極的に加わっていたのである。
ウラーンチャブ盟盟政府計画委員会のビリクトは、中国人たちにペンチで歯をむりやりに抜かれた上、鼻と舌も切除された。ビリク卜は結局敗血症で亡くなった。
チャハル右翼前旗煤窑公社バャン生産大隊には合計三七戸、一四六人のモンゴル人が住んでいた。そのうちの八八人が「内モンゴル人民革命党員」とされ、一七人が殺害された。同旗のサイハンウス公社の三四戸一五五人 の住民のうち、ニ〇歳以上のモンゴル人は全員が「民族分裂主義者」とされ、一〇人が殺害された。
四子王旗チョクト公社の治安保衛主任のモンゴル人を殺害したあと、中国人たちは彼の遺体を隠して、「モンゴル人民共和国へ逃亡した」と発表し、その家族をも捕まえてリンチを加えた。しばらく経ってから、殺害されたモンゴル人の遺体が雪の中からみつかったが、野犬に食われていた。
性的な虐待
ウラーンチャブ盟共産党学校の教育長ルーイは、生殖器に紐をつけられて、むりやりに引っ張られて、完全にちぎられた。
集寧市熔接工場の書記で、女性の韓淑英は裸にされてから、陰部の毛をぺンチでむしりとられた。
四子王旗バャンオボー公社では、公社書記のノルブジャムソが郵便局につとめる中国人の潘秀玉によって刀で背中を大きく切られた。そして、傷口には大量の塩を入れられ、さらに体中を鉄のアイロンで痛めつけられた。 ノルブジャムソが殺害されたあと、その夫人のドルジソーは中国人たちに何回もレイブされた。そして、熱く焼いた鉄棒を陰部に入れられて、殺害された。二人の間に生まれた五力月未満の赤ん坊も面倒をみる人がいなく、凍死した。
同じ四子王旗バャンオボー公社では、公社の秘書をやっていた若いモンゴル人夫婦は刀で体中を傷つけられてから、傷口に塩を撒かれた。夫の死後には夫人が中国人たちにレイブされ、陰部が火で焼かれた。夫人の死後、残された赤ん坊はまだ母親の死を知らずに、その乳房を吸っていた。
卓資県では一万三〇〇〇人もの人々が「内モンゴル人民革命党員」とされ、九五人が殺害された。残忍な虐待方法は一七〇種以上になり、多くのモンゴル人女性たちがレイプされた。馬連壩生産大隊の書記の夫人は四〇人にくりかえし強姦された。劉光窖生産大隊でも若いモンゴル人女性がレイプされた。
涼威県人民代表大会の主任ナムスライが中国人たちに殺害されてから、その夫人も井戸に身投げして自殺した。 残された一六歳の娘はドータグラという。一九六九年五月以降に、彼女もモンゴル人たちが作った「寡婦上訪団」に加わってフフホト市へ上告に来ていた。しかし、中国人たちは「寡婦上訪団の中に娘がいる」といって彼女の人権を侵害し、人格を侮辱していた。
強制移住
強制移住はだいたい夜に人民解放軍の兵士たちが突然やってきて命令を出して、モンゴル人全員をトラックに乗せて人民公社の本部などにむりやりに連れて行かれる、という方法をとっていた。そして、人民公社の本部で 初めて強制移住が伝えられて、すぐに実施に移されていた。簡単な生活用品以外は何ももっていけなかった。家畜や家屋、そして家財道具類などはすべて放棄せざるを得なかった。ウラーンチヤブ盟だけでも、モンゴル人たちの財産の損失額は四二万元に達する。
チヤハル右翼後旗でもモンゴル人民共和国に近いところに住んでいたモンゴル人七五戸が内地へ強制移住させられた。その代わりに農耕地帯の中国人たちが彼らの草原に入って住み着いた。
四子王旗のバヤンオボー公社ダライ生産大隊には合計ニ三戸のモンゴル人がいた。そのうちのニ一戸が一九六九年九月に強制移住させられた。彼らが去ったあとには、五七戸の中国人たちが人植した。
イケジョー盟の事例―政府の内部資料が伝える虐殺の実態
人民解放軍の兵士たちはモンゴル人を迫害するのに五○種以上の刑罰を用いた。具体的には以下のような残虐行為が横行していた。
一、棍棒を燃やして真赤にしてから女性の陰部や腹部を焼いた。被害にあった女性は陰部が破壊されて男性か女性かの区別もつかなくなった。腹部が破られて中の腸もみえるように大きな怪我を負わせた。
ニ、牛皮で作った鞭の先に鉄線をつけて人を殴る。打たれる度に皮膚が破れ、血が噴き出るが、少しも治療をさせない。そのように打たれた人は結局放置されて亡くなった。打たれて壁中に散った血の匂いは長く消えなかった。また、怪我した人間の傷口に塩を撒いたり、熱湯をかけたりして、殺害した事例もある。
三、太い鉄線で人間の頭部を巻いて、ペンチで徐々にきつくしていき、頭部を破裂させた事例もある。
四、「反革命的な犯人」とされるモンゴル人を燃えるストーブのすぐ傍に押さえて、長時間にわたって焼いた。真赤に焼いた鉄のショベルを人間の頭の上において焼き殺した実例がある。
五、両手を後ろ手に縛ってから梁の上から吊るして脱臼させた。また、吊るしあげた紐をナイフで切って、地面に叩き落されて死亡させた例がある。
六、モンゴル人女性を丸裸にして立たせ、牛の毛で作った太い縛を跨がせてから両側からくりかえし引っぱりあった。その結果、女性の陰部はひどく破壊された。
七、人民解放軍の兵士たちはモンゴル人の男を殺害して、その妻をくりかえしレイプした。モンゴル人少女を強姦した事例もある。
八、モンゴル人の財産を略奪した。ある中国人兵士はモンゴル人の貴重な腕時計を奪った。モンゴル人がイケジョー盟政府所在地の東勝まで追いかけてゆき、返すようにともとめたが、まったく無視された。
以上は中国共産党政府がその発行を一時的に認めていた内部資料に掲載された報告である。そのうちの一部の被害者については、私が追加調査をし、著書『墓標なき草原』(下、2009c)内で詳述している。
「人民の好い総理」周恩来と江青夫人からの激励
北京似にいる中国共産党の指導者たちは滕海清の粛清作業を強く支持していた。一九六八年ニ月一○日の深夜、「人民の好い総理」周恩来をはじめ、毛沢東夫人の江青と情報機関のボス康生らが滕海清を北京に呼んで接見した(楊2009a:l189-197)。周恩来は開口一番に、「ウラーンフーを批判闘争したか」と尋ねている。内モンゴル自治区では新聞紙上で名指して批判するキャンぺーンを開始しているが、全国紙にはまだ登場させていない、と滕海清は返事する。すると周恩来は「いずれ適当な時期に群衆にウラーンフーを渡して批判闘争させていい」とはっきりと指示している。周恩來の「人民の良い総理」というイメージは共産党によって作られたものである。実際の周恩来は卑劣な人格のもち主で、常に同志を売る行為に走っていた、との証言がある(司馬璐2004:402-414)。
「人民の好い総理」はさらに「内モンゴルでウラーンフー打倒に不平不満をもつ者がいれば、そいつらのボスを捕まえなさい」と具体的で、非常に厳しい方策を伝授している。そして、康生はいう。「王再天は陰険なやつだ。私は昨年八月に資料をみたが、彼はソ連修正主義者のスパイだ」。「モンゴル族が住む地域の悪者をモンゴル人の手で抓み出させよう」と康生も巧妙な方法を滕海清に直伝している。将来、問題が発覚しても、「モンゴル人同士の軋鑠にすぎなかった」と強弁するための事前の防備策をすでに設けている。
周恩来はまた一九四六年四月三日以降の内モンゴル人民革命党は反動的な組織だ」と断じている。周恩来の発言と平行して、江青夫人は「内モンゴル人民革命党のボスを迅理しなさい」と命令している。もうひとり、 民解放軍の文化大革命運動を管轄する代理総参謀長の楊成武は「王再天とテンへは一九六三年に国境地帯で行方 不明になつたことがあり、彼らは修正主義のソ連とモンゴル人民共和国のスパイだろう」と細かい事例を証拠にあげている。
流氓政治の邪悪な言語
文革言語に冷静に対処しなければ、文革批判者たちもまた同じ思想構造に陥ってしまう危険性がある、と吉越は呼びかけている(吉越2005:30)。しかし、この限界は簡単に越えられるものではなかろう。内モンゴル自治区に現れた滕海清将軍を批判した造反派たちの文章も、ほぼそのまま中国文化大革命中の言語と表現を踏襲している。批判の手法も文化大革命的であった。それでも、文化大革命は発動された群衆たちの内部からも疑問が突きつけられていた事実に注視する必要はあろう。
滕海清将軍の講話からマルクスやレーニン、スターリンの思想を抽出しようという試みはまったく無意味である。彼は確固たる思想を吐露していたというよりも、むしろ「現代のレーニン」だともちあげていた毛沢東の暴力的な闘争方式の方を信じていたにちがいない。中国人の社会主義思想は中味が貧弱だが、攻撃性は突出している。しかし、だからといって一九六〇年代におけるモンゴル人大量虐殺を単なる文化大革命中の暴力の結果だと 解釈してはならない。あるいは吉越が主張する「邪悪な政治言語」による煽動の結末だと理解しても物足りない。
滕海清将軍のような共産党の首長たちも、一般の中国人たちが夷狄たる北アジアの少数民族をどうみていたか、という大衆的な歴史観を引きずっていたのである。換言すれば、彼らは共産主義者だと標榜しながらも、実際のところは、中国人固有の夷狄観にもとづいて熱心に虐殺をはたらいていたのである。
たとえば、滕海清の部下のひとりで、ジェリム盟軍分区の司令官趙玉温は、「モンゴル的な心情(民族情緒)の強い人たちはしよっちゅう、私たちはチンギス-ハーンの子孫だとか、内外モンゴルの統一とか、モンゴル族の風俗習慣だとか云々する」と話していた。中国人たちには、モンゴル人のこうした当たり前の自己主張はやはり異質的にみえただろう。そして、その異貫性はときとしてイデオロギー的に「民族分裂主義一だと解釈され、排除の対象とされてきたのである。
中国による档案の改竄
档案と聞くと、「オリジナル資料だ」と多くの純粋な日本人研究者は簡単に信じてしまう弱みがある。しかし、現代中国が編集した档案は改竄を経ているという事実に私たちは直面しなければならない。中国政府は過去に少数民族に民族自決権の付与を約束していたという歴史を極力抹消したいという気もちが強い。それでも、才リジナルを焚書せずにタィプし直しただけの改竄だったため、その稚拙な行為が発覚しても、中国共産党に感謝しなければならないかもしれない。
内モンゴル自治区における文化大革命期の重要な档案(公文書)は一九八一年六月に中共中央紀律検査委員会によって北京へ運ばれてしまい、モンゴル人大量虐殺事件の善後処理に使うことも不可能となった(啓之 2010:522)。公文書を隠蔽し、あるいは改竄している国柄なので、少数民族の歴史研究を構築するのには独自に資料収集をつづける努力が必要であろう。