1/9日経ビジネスオンライン 北村豊氏『大みそかの惨事より指導者の祝辞を優先 報道規制撤廃のカウントダウン、はるか遠く』の記事について

昨年末に起きた上海市の事故を挙げて、中国には報道の自由=言論の自由(政府を批判する自由)がないことを憂えている記事です。何清漣の言う党の喉と舌の役割を担う宣伝部がある限り言論の自由は望むべくもありません。事故は金券を撒いたことが原因と言う報道もありますが真偽のほどは分かりません。嘘で塗り固められた国ですので。今世紀に入って、政府批判でなければ報道を許されるようにはなってきている(=一部の表現の自由)ので少しは進歩しているとは思います。

話は変わりまして、フランスでイスラム過激派が左翼リベラル新聞社を襲いました件につき、欧米は表現の自由の侵害として非難しております。テロを容認・称賛するつもりは全くありませんが、表現の自由に値するかどうかはもっと議論があって然るべきかと。他者の信仰する宗教の預言者を風刺の対象とするのは如何なものでしょう。裏に人種差別とキリスト教優位の臭いがあるようで不快な気になります。世の中を導いてやるといった傲慢・横柄な白人の像です。日本のリベラルの好きな多文化共生から逸脱するのでは。他者を尊重しない風刺はヘイトスピーチ以外の何物でもありません。日本の左翼リベラルは何故声を上げて止めさせないのか不思議です。まあ、彼らは人権を手段にして、日本を貶め、日本の弱体化を図ろうとしているだけですから。

記事

上海市は2015年の幕開けを悲しみの中で迎えることとなった。あと25分で新年を迎える12月31日の11時35分にカウントダウンを楽しもうと集まった群衆による雑踏事故が発生し、死者36人、重軽傷者47人を出す悲惨な事件が発生したのだった。

光の祭典が一転、死者36人

2014年12月31日の夜、上海市民は4年前に始まって毎年の恒例行事となったカウントダウンの光の祭典を見ようと、“黄浦江”に面した“外灘(がいたん、バンド)”へ続々と押し寄せた。カウンダウンの光の祭典は、昨年まで外灘で開催されていたが、今年は会場を外灘の上流にある“外灘源”の“文化広場”に移して、5D(5次元)イルミネーションによる光の祭典が開催されることになっていた。ところが、この案内は12月30日に上海市政府「新聞弁公室」の“微博(マイクロブログ)”「“上海発布(上海公表)”」で通知されただけで、大多数の人々は会場が変更されたことを知らず、昨年同様に外灘で開催されるものと考えて、全長1.5kmの外灘の中心に位置し、一番見晴らしの良い陳毅広場横の堤防へ続々と押し寄せた。堤防の対岸は“浦東新区”であり、真正面には浦東のランドマークの一つである高さ468mのテレビ塔、“東方明珠広播電視塔”がそびえ立っている。

陳毅広場は上海のメイン通りである“南京東路”が外灘に沿って走る“中山東一路”にぶつかるT字路の外灘側にあり、中山東一路から石段を10段上ったところにある。陳毅広場とは、初代上海市長の陳毅(1901~1972年)の銅像が建てられたことから命名されたもので、広場から黄浦江の堤防に上るには、石段を3段上ったところに広いテラスがあり、そのテラスから幅5mの石段を8段上って1.5m幅の踊り場に到り、さらに幅5mの石段を9段登ることが必要である。なお、外灘の陳毅広場と外灘源の文化広場は約600m離れている。

この夜にカウントダウンの光の祭典を見ようと外灘へ詰めかけた群衆は約30万人。どこもかしこも、見渡す限り人、人、人の波で立錐の余地もない有様で、11時を過ぎると群衆の数はさらに増えていった。11時30分に文化広場で光の祭典が始まると、人々は我先にと堤防に上る石段に殺到し身動きとれない状態になった。ところが、すでに堤防の上にいた人々は光の祭典が外灘ではなく、外灘源で行われていることを知り、文化広場の祭典を見ることができる場所へ移動しようと石段を下ろうとした。

巻き添え避ける人が殺到、2度目の将棋倒しに

石段を下ろうとする人々と上ろうとする人々が横幅5mの石段に殺到した。下ろうとする人々の押し下げ圧力と上ろうとする人々の押し上げ圧力が衝突した結果、前者が後者を上回り、上ろうとした人々が将棋倒しとなり、石段に人々が積み重なる事態になった。この時、時間は11時35分。この突然の事態の発生に驚いた人々は巻き添えになるのを避けようと逃げ惑い、陳毅広場を横切って中山東一路へ出る石段へ殺到した。ここでも下ろうとする人々と上ろうとする人々が正面から激突し、上ろうとする人々が将棋倒しとなった。何と人々の将棋倒しは1度ならず2度も発生したのだった。両地点は阿鼻叫喚の巷と化し、人々の悲鳴と連れの家族や友人を探し求める悲痛な叫び声が辺り一面に響き渡った。

 この時、堤防の上から数人の若者が、逸早く堤防へ上ろうと石段へ殺到する群衆に対して“向后退(後退しろ)”と大声で叫び続けていた。これが事故の拡大を防いだことは、事故現場のビデオ映像から判明している。彼らの懸命な叫び声が無かったら、前へ前へと押し出す人々の圧力でさらに多くの人々が将棋倒しとなり、死者数は倍増していたことは想像に難くない。

 人々からの通報を受けた“公安局”の警官ならびに“消防局”の救急車は直ちに現場へ急行し、事故現場を封鎖すると同時に死傷者の搬出を行い、負傷者は“上海市第一人民医院”、“瑞金医院”、“長征医院”、“黄浦区中心医院”の4カ所に分散収容された。各医院は医師や看護師を総動員して不眠不休の態勢で懸命の救護活動を行った。中でも長征医院の青年医師“施曉雷”は12月31日の夜、退勤後に同僚と一緒に光の祭典を見ようと外灘へ出かけたところで偶然にも雑踏事故に遭遇し、率先して救護活動に参加し、負傷者の長征医院への救急搬送に付き添い、救急車の中で心肺蘇生を行うなどして活躍し、白衣の天使として賞賛された。

2015年1月1日午前11時に「“上海発布”」は「2014年12月31日外灘の陳毅広場における群衆による雑踏事件」による被害者数を死者36人、負傷者47人と発表したが、翌2日午前11時の発表では負傷者数が2人増えて49人に訂正された。1月3日午後1時には、「“上海発布”」で36人の死者の名簿が公表された。死者の名簿は1月2日までに2回に分けて公表されていたが、1月3日の午前中に死者36人中の最後の1人が“劉亜傑(女)18歳”であることが確認されたのだった。

最年少は12歳、多くの若い命が失われた

死者36人の名簿を見ると、最年少は“毛勇捷 (男)12歳”であり、最年長は“都双華 (男)37歳”であった。死者の年令別では10代7人、20代27人、30代2人であり、男女別では、男11人、女25人であった。死者36人の中には、台湾から短期出張で上海に滞在していた会計事務所職員の“周怡安(女)23歳”並びにマレーシア国籍の華人留学生“Tan Wei<中国名:陳蔚>(女)21歳”が含まれていた。10代の7人の構成は、12歳の男の子1人を除くと17歳1人、18歳1人、19歳4人であり、20代の27人を加えれば33人が最も楽しい青春時代に尊い命を事故によって失ったことになる。負傷者47人の中の7人は傷が軽微で応急処置後に医院を離れたが、残る40人の内訳は重傷13人、軽傷27人であった。なお、負傷者には死亡した周怡安の同僚の台湾人2人とマレーシア人1人が含まれていた。

 さて、事件発生後、目撃者の証言により、事故現場から約60m離れた外灘18号番地にある“麦加利銀行大楼(チャータード銀行ビル)”3階の窓から米ドル紙幣に類似した“代金券(クーポン券)”がまかれ、群衆がそれを拾おうとして将棋倒しが発生したとの疑惑が浮上し、大きな反響を呼んだ。しかし、上海市公安局が調査を行った結果、クーポン券がまかれたのは11時47分頃で、雑踏事故の発生後であることが判明した。公安局は1月1日夜8時過ぎに、クーポン券のばらまきは将棋倒しとは無関係であったと正式に発表した。

ところで、年を越した翌1月1日の上海紙は前日の雑踏事故をどう報じたのか。1月1日付の“解放日報”は1面トップの見出しに「“習近平新年賀詞為偉大人民点賛(習近平が偉大な人民をたたえなければならないと新年の祝辞を述べた)”」を掲げ、雑踏事故については1面の最下段に“小小豆腐塊(小さな豆腐)”サイズで次のように報じただけだった。

“外灘陳毅広場昨夜発生群衆擁擠跴踏事故(外灘の陳毅広場で昨夜群衆の押し合いによる雑踏事故発生)”

本紙総合報道2014年12月31日夜23時35分頃、上海市黄浦区外灘の陳毅広場で群衆の押し合いによる雑踏事故が発生し、35人が死亡し、42人が負傷した。関係方面は迅速に救援活動を展開し、負傷者は上海市第一人民医院へ送られて応急措置された。

事故発生後、上海市はその夜のうちに作業チームを組織した。“韓正(上海市党委員会書記)”、“楊雄(上海市長)”は全力で負傷者の応急手当てと善後処置などの任務を果たすよう要求した。事故原因は現在調査中である。

元旦1面は習近平賀詞、事故は最下段に小さく

上海の3大紙は、解放日報、“文滙報”、“新民晩報”であるが、文滙報の元旦1面の構成は解放日報と全く同じで、雑踏事件に関しては1面最下段に「豆腐サイズ」で報じただけだった。一方、夕刊紙である新民晩報はさすがに1面トップが習近平の新年祝辞ではまずいと判断したのか、習近平の新年祝辞は2面に掲載し、1面トップには習近平が雑踏事件に関して「全力で負傷者を治療して救い、善後措置をちゃんとし、急いで原因を究明し、深刻に教訓を汲み取れ」という重要指示を行ったという記事を掲載した。また、2面の下半分および3~5面は全て雑踏事件関連の記事で埋まっていた。なお、1月2日付けの解放日報と文滙報の1面トップは上述した習近平の重要指示を掲載した。

中国、台湾、香港といった中華圏の国や地域にとって、西暦の1月1日は単に年が改まる「新年」であって、本来彼らが正月として新年を祝う“春節(旧正月)”とは異なる。従い、雑踏事件のような35人もの死者を出した大惨事が発生したのであれば、地元の上海紙は習近平の新年祝辞をさて置いても、雑踏事件を1面トップで報じるのがメディアとしての務めだと思うのだが、メディアを管轄する“上海市党委員会宣伝部”(以下「市宣伝部」)からの許可が無い限りそうできないのが中国メディアの悲しいところである。恐らく、1月1日早朝の新聞印刷を開始するまでには市宣伝部からの許可が間に合わなかったのだろう。現に台湾の“中国時報”、“聯合報”、“自由新報”は雑踏事件の発生を台湾人の死者1人、負傷者2人が出たことを含めて1月1日の1面トップで報じたし、香港の“蘋果日報(Apple Daily)”も1面トップで報じた。

一方、雑踏事件発生の翌日、2015年1月1日に市宣伝部は雑踏事件に関し、次のような厳しい報道規制の実施を上海市内の各メディアに対して通達した。

空前の報道規制、すり抜けるSNS

【1】ネット上ではニュースの出所を厳格にし、中央および上海市の主要ニュース機関の権威あるニュース原稿だけを採用すること。商業ウェブサイトの自主的な取材行為を厳禁し、“微博(マイクロブログ)”や“微信(中国版LINE)”などのソーシャルネットの情報、個人的な情報および海外メディアの情報を採用することを厳禁する。また、ネットユーザーが現場で発表した不完全、不正確な情報を採用することを厳禁し、現場の過激に凄惨で血なまぐさい写真を掲載することを厳禁する。

【2】各ウェブサイトは一律に雑踏事件をトップニュースとしてはならない。

【3】この事件を“反腐敗(腐敗撲滅)”に関連付けることを厳禁し、地域を蔑視したり、悪意の攻撃を目的とした情報を断固削除し、この事件に乗じて共産党や政府を攻撃したり、我が国の社会制度を攻撃する情報を断固削除する。

1月2日付けの香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」は、市宣伝部の雑踏事件に対する報道規制に関して、上海市の消息筋の言葉を引用して、「市宣伝部による厳格な報道規制は史上空前のものであり、上海市の役人は誰もが緊迫した局面にあると感じている」と述べたと報じると同時に、警察関係者の話として、黄浦区の役人や警察官の多くは今回の事件の責任を負わされて誰かがスケープゴートになる可能性があるとびくびくしているとも報じた。

市宣伝部が厳しい報道規制を敷いた背景には、雑踏事件が韓正や楊雄などの上海市指導部の政治生命に傷が付くのを避けようとする意図が明白であるが、今やインターネットの掲示板のみならず、“微博”、“微信”といったSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)を通じて、ありとあらゆる情報が社会に流布する時代で、情報の隠ぺいは極めて困難である。それでも報道規制を敷くのは旧態依然として変わらぬ共産党の伝統と言える。

それでは雑踏事件の原因は一体何だったのか。上述したように、2014年大みそかのカウントダウンは、従来の外灘から場所を変えて外灘源の文化広場で開催された。このため、上海市公安局は警備の重点を外灘源に置いて多数の警官を配備したが、従来の会場であった外灘の警備は形式的なものに留めた。ところが、市民に対する外灘源への会場変更が周知徹底していなかったために、10~15万人もの人々が陳毅広場に集中し、混乱の中で将棋倒しが発生したものと考えられる。これは明らかに会場変更を広く市民に知らせることを徹底していなかった上海市政府の怠慢によるものと言えるが、これを認めれば上海市指導部の責任が問われることになりかねない。それを防止するには雑踏事件を報じるメディアを規制して、上海市指導部の責任が追及されないように市民を誘導するほかないのである。

報道規制がなくなるのはいつの日か

2012年6月30日の午後4時頃、天津市の管轄下にある“薊県”の繁華街にある5階建てのデパート“莱徳商厦”で空調の室外機から火が出たことによる火災が発生し、ビル1棟(焼損面積:約5000平方メートル)が全焼する大火となった。火災発生を知った同店の総経理(社長)は愚かにも、支払いを済ませていない客を逃すまいと、警備員にビル1階の出入り口のシャッターを下ろすよう命じた。このため、ビル内にいた多数の客と従業員は命からがら1階の出入り口までたどり着いたが、閉鎖されたシャッターに阻まれて脱出できず、相当数の人々が焼死した。これは火災の鎮火後にビル内から多数の焼死体が秘密裡に運び出されたことが確認されている。

しかしながら、7月6日に天津市政府が発表した同火災による死者数は10人に過ぎず、その内訳は従業員9人、客1人というものだった。これに異を唱えた民間の調査結果では死者は少なくとも378人で、公式発表の数字とは大きく食い違っていた。天津市政府の数字は、当時天津市党委員会書記であった“張高麗”が自己の政治生命に傷が付くのを恐れ、実際の焼死者数を隠ぺいすることを画策した結果であった。当然ながら、当時の天津市のメディアに対しては厳しい報道規制が敷かれたことは言うまでもない。この隠ぺい工作の結果、張高麗は2012年11月に中国共産党中央政治局常務委員に昇進し、2013年3月に序列第1位の国務院副総理に就任することができたのだった。

中国から報道規制がなくなるのはいつの日か。中国で大惨事が国家指導者の年頭祝辞より優先されて報道される日は果たして来るのか。大多数の庶民はそうした日がいつか来ることを望んでいる。ネット上に設けられた12月31日の雑踏事件の死者を悼む祭壇には1月1日から2日までの48時間に累計200万人が祈りを捧げたという。36人の死者の冥福を祈ります。

(下の写真は北村氏の記事ではなく、別のネットから探し出したものです)

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