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1/27大礒正美氏『国際政策コラム<よむ地球きる世界>少数派に転落するか民主主義国』について

 

オバマは「戦争嫌い=武力行使嫌い」、「大きな政府」をモットーとし、リベラルにありがちな容共政策を取りたがっています。民主党政権はF・D・ローズベルトがそうでした。後にマッカーシー旋風が起きたくらいでした。ヒラリーもビルが大統領の時に医療保険をやろうとしていましたし、中国(今でも共産党支配です)から(米国在住の中国人ですが迂回でしょう)献金を受けたのが問題になっていました。

レジェンドが何もないオバマとしてはキューバと国交正常化して歴史に名を留めたいと思っているのでしょう。北朝鮮と違い核も持っていないのでやりやすいと言えばやりやすいでしょうが、フロリダに住む亡命キューバ人がどう思うかです。アメリカは中国について「豊かになれば民主化する」という安易な思いで豊かにしましたが、民主化されたでしょうか?結果はアメリカに対抗し、軍事覇権を目ざすモンスターを作ってしまいました。日本を戦争に巻き込み、中国の門戸開放を狙ったF・D・ローズベルトも彼の死後、戦後は中国大陸を共産党に牛耳られ、手出しできなくなりました。

キューバは中国と違い、人口も少ないので、脅威とはならないでしょう。但し、中国と同じで社会主義政権は役人の許認可権が生殺与奪の権を握り、政権を批判できるメデイアもありませんので、既得権益の固い岩盤を崩せるかどうかです。問題はニカラグアに運河を開こうとしている中国です。アメリカの裏庭に手を出そうとしているのに、表だって動こうとはしていません。ニカラグアは台湾と外交関係を結んでいる数少ない国で、中国の投資が実行されれば台湾と断交させられるのとパナマ運河が封鎖された時の代用施設を持っておきたいという軍事的な意味合いからだと思います。太平洋を分割統治しようという野望に沿ったものです。経済的には「不動産バブル」「理財商品」等でガタガタになっている中国ですが、いつまで帳簿改竄、「飛ばし」で持つのでしょうか。騙されてはいけないです。

安倍首相の戦後70年の談話は村山や小泉談話を引き継ぐ必要はありません。戦勝国史観に則って「植民地支配と侵略」へのお詫びを入れるというのは、倒錯しています。1940年代に植民地を多く持っていたのはどこの国かと言いたい。単に戦争に負けただけで、彼らと比較して悪いことをしたわけではありません。少なくとも日本は植民地(colony)ではなく併合(annexation)の形態でした。満州は中国の領土ではありません。満州族のものです。万里の長城の存在が物語っています。内蒙古自治区も新疆ウイグル自治区もチベット自治区も中国人というか漢族のものではありません。侵略を言うのであれば漢族でしょう。まあ、正面切って歴史を見直せばアメリカにとって「不都合な真実」がいっぱい出てきますので、過去に焦点を合わさず、未来の日本の姿を言うのが良いと思います。

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アメリカ政府が、というよりオバマ政権が、いつの間にか中国に対して民主化や人権を言わなくなった。日本でもそういう変化に気がついていたが、先月、オバマ大統領が突然、キューバ封じ込め政策を転換すると発表したことで、米国の変心が決定的になった。

 オバマはその前年2013年9月に、「世界の警察官ではない」と言い切っていた。キューバの共産党政権を認めるという決断も、その延長線上にあることは確かだ。

 この大転換は人類の歴史に刻まれるほどの衝撃である。冷戦後の世界が、実は間違っていたと言っているようなものだからだ。

 ソ連の完敗は近代民主主義の勝利と受け取られ、今後の世界は挑戦のない退屈なものになるだろう、というような楽観論が世界に広まった。

 その楽観論には、ロシアと中国が早期に自由民主主義を取り入れるだろうという期待が含まれていた。それが裏切られてもなお、ある国の総理大臣は、世界の紛争を「友愛」で解決できると言い続けた。

 その期待を「プーチン大帝」はアッサリと裏切って、昨年ウクライナのクリミア半島を電撃回収した。2015年は「中ソ Vs.旧西側」の第2次冷戦が始まるのではないかという見方もある。

 西側は何を間違えたのだろうか。

 答は民族のDNAを忘れたことである。「民族性」は簡単には変わらない。ロシアもチャイナも、何かに反発して、潜在していた民族性を吹き出させたと言えよう。

 ロシアに関しては「タタールの軛(くびき)」という古い表現で説明できる。タタール(韃靼)とは中央アジアの遊牧民を意味し、くびきは牛を使役に使うとき首を固定する道具のことである。

 つまりロシア民族は「ロシア的専制」と言われ、押さえつける支配と被支配の歴史・文化が特徴だということである。

 プーチンがウクライナに固執しているので誤解されることがあるが、ロシア帝国の前身はキエフ公国ではなくモスクワ大公国で、そのまた前身は大モンゴル帝国が残した諸「汗国」の1つの「キプチャク汗国」である。

 それが大モンゴルと同じように、アジア大陸の北半分を版図とする大帝国に発展したのである。

 つまり歴史上、このDNAは、モンゴル帝国、ロシア帝国、ソ連と、3回も同じような大帝国を繰り返し実現しているわけで、ただただ驚異(脅威)と言うしかない。

 次に、中国が米国と対等の地位を要求しているのは、いうまでもなく歴史的チャイナの中華思想ゆえである。この版図には朝鮮半島も入っているが、もともと中華思想には「国家」という概念が薄い。周辺の民族には服属の度合いによって序列を与える。

 これでは、根本的に民主主義とは相容れない。世界史の分け方では、近代どころか、まだ前近代にも達していな

いということになる。

 日本と比べてみると、その大きな差が分かるはずだ。

 日本は「忠孝」とか「忠義」「忠誠」という熟語で分かるように「忠」が最高の価値であるが、中華思想では「孝」が最高である。儒教より古い価値観だ。

 司馬遼太郎が「項羽と劉邦」(1980年)に書いているように、「儒教以前の土俗倫理も儒教以後の倫理においても、親がもとで、子は枝葉にすぎず、孝の思想はあくまで親が中心であった」。

 つまり、日本では家族・一族の親に対する「孝」よりも、主君への「忠」が重んじられ、それが武士階級を生み育てた。平安末期に源平の武家頭領が成立し、次第に主君と所属藩への「忠」が確立して約7百年後に、忠の対象が日本国にスムーズに移行して近代国家となった。

 中華思想の世界では武士階級が生まれず、国民国家の基盤が用意されなかった。日清戦争で日本が打ち破った相手は、国軍でなく北洋大臣・李鴻章が育てた私兵だった。孫文の辛亥革命のあとも、軍閥割拠になっただけで、国民軍も国民国家も成立せず今日に至っている。

 宗主国の制度をありがたがる朝鮮では、文官優位がもっと徹底していた。 

 10年ほど前、「武士(MUSA)」という韓国映画が日本でも公開された。日本の時代劇のパクリだが、主人公の武芸者が、なんと貴族官僚に仕える「奴隷」という設定になっていた。現代の韓国民でさえ、武人はイコール奴隷でないと納得がいかないのである。そうすると当然、幕末までの日本は奴隷が支配する国、奴隷民族だという理解になる。

 実際、韓国では「倭奴」(こびとのどれい)という蔑称が、「チョッパリ」(豚野郎)などと共に復活している。産経新聞ソウル支局長の名誉毀損裁判で、傍聴席から反日団体がこういうヘイトスピーチを大声で叫び、退廷させられたと報道されている。

 あまりにバカらしい「ナッツ・リターン」騒動も、その遠因である歪んだ財閥依存経済がどうして形成されたのかを考えると、「忠」がなくて「孝」だけだからだと分かるだろう。

 日本では、高度成長期に、「社蓄」とまで言われる会社への忠誠心が批判されたが、韓国は財閥の創始者に一族郎

党すべてが「孝」を尽くし、一般の社員はその秩序に従わねばならない。

 大統領も当選すると、本人はともかく、一族郎党が利権を漁るのが当然とされていて、必ずスキャンダルにまみれて5年の任期を浪費する。

 大統領は、彼らの「孝」に報いなければならず、その対価は極めて大きい。近代国家にはほど遠い段階である。

 宗主国のチャイナも、そのパターンを極大化させたものと思えばいい。習近平が自ら皇帝化してきたと言われるが、忠誠を誓う人民はひとりもいない。あるのは、支配組織としての共産党独裁体制と、2千年以上の昔からの一族社会である。

 愛国心を植え付けようとしても、近代国家の基盤である「忠」がどこにもないので、対象がない。そこで、「歴史的に領土を奪われた」という恨みを植え付けるしかないことになる。

 ひるがえってみれば、オバマ大統領はもともと人権派弁護士が出発点だったのに、今その初心を捨てて、冷戦終結後に残った3大共産党独裁国のうち2つの現状を容認し、民主化要求を後退させた。残る北朝鮮をどうするか。

 それだけでなく、中東への地上部隊派遣を否定した結果、イスラム過激派勢力の拡大をも許したことになる。

 イスラムのDNAと中東諸民族のDNAは、複雑にからみあっている。もともと民主主義の基盤はない。  

 歴史をさかのぼると、これも大帝国だったオスマン帝国に行き着く。いまのトルコ国民とはだいぶ違っていて、中央アジアから移動してきた民族が建てたと言われる。

 そうなると、将来の世界で、民主主義国はやはり西欧と北米と日本だけの少数派になるかもしれない。

 オバマにそういう歴史観はない。だから日本を軽視して「中韓に従え」と圧力をかけ続けている。

 面と向かって安倍総理が、民主主義の旗振り役を引き受けると宣言したら、どんな顔をするだろうか。

 終戦70周年の安倍談話を、こういう視点で「創成」する絶好の機会である。

1/23日経ビジネスオンライン 長尾賢 『周辺国への介入を嫌うインドと、遠交近攻の日本 日本とインドが「同盟」を組む可能性』記事について

 

インドで思い浮かぶのはカレー、カースト制、貧困、賄賂、マザーテレサ、IIT(インド工科大学)と言ったところでしょうか。アジアであっても遠い国のイメージになると思います。顔つきも日本人と違うので、あまりなじみがない感じがします。

以前、アフターブ・セット元駐日インド大使と飲んだ時に「日本とインドは歴史的に見てぶつかった時がない。仏教を初めとして長い間、友好が続いている。」と言われました。確かに、インド国民軍のチャンドラ・ボースやパル判事等第二次大戦前後に日本の立場を良く理解してくれた人たちもいます。

青山繁晴氏が以前TVで「チャンドラ・ボース・ジャパン大学」を作ろうと提案していた記憶があります。戦後、日本は戦勝国に歴史を書き換えられ、不名誉なこと(南京虐殺、慰安問題)まで押し付けられました。西欧中心の歴史観、中華思想に立脚した歴史観でない立場で歴史を眺め、世界に発信する基地となれればいいと思っています。本来、日本がやるべきなのでしょうが、まだまだ外圧に弱いのと歴史を改竄するのかと言われそうだからというのがあると思います。歴史の改竄が得意なのは中韓ですが。

ハンチントンは『文明の衝突』の中で、「イスラムと儒教文明圏が手を結んで西欧文明に対抗する」と主張したとあるメルマガで読んだ記憶があります。(申し訳ありませんが、本は読んでおりません)。儒教は宗教ではなく、礼と楽を教えた道徳なのではと思います。それが一神教のイスラムと手を結ぶことは考えにくいです。中国が「孔子学院」を世界に作っても広がらず、というか共産党の都合の良い話しか教えないと言うので閉鎖しているところも出て来ています。儒教の影響を最も受けたのは日本で、中国・韓国は残っていたとしても形だけでしょう。日本は神道、仏教、儒教とあらゆるものをうまくミックスさせ、換骨奪胎してきました。

最後に、中国の台頭を抑えるためには遠交近攻が必要です。今オバマがインドに行っていますがもっと地政学を勉強してほしいです。日本ももっともっと交流していくべきです。

記事

日本とインドが接近する動きが加速する傾向にある。昨年はその傾向を示す事態が相次いだ。1月にはインドの共和国記念日の軍事パレードの主賓として安倍晋三首相を選んだ。5月に就任したナレンドラ・モディ首相は、主要国で最初の訪問国として日本を選んだ。この1月に訪印した岸田文雄外務大臣は、中国が領有権を主張しているインドのアルナチャル・プラデシュ州は「インドの領土」であると明確に表明した。

 日印間の連携はこのまま強化が進んでいくのだろうか。これを疑問視する見方もある。インドは同盟関係を結ぶことによって、かえって、外交政策を自ら主導的に決めることができなくなることを恐れているからだ。だからインドでは、「非同盟」という言葉が、一定の支持をもって受け入れられている。

 一方、日本にもインドを低く評価する向きがある。インドはまだまだ貧困にあえぎ、多くのトラブル・犯罪の話に事欠かない国である。軍事的にも、米国のように世界的なレベルで強い国ではない。そもそもインドは、日本から遠すぎるのではないか。疑問は尽きない。

 こうした疑問を解消する一つの指標は、インドの外交戦略上の傾向を分析することだ。インドはどのような国と同盟を組む傾向があったのか。その原因は何だったのか。これらを分析することで、今後を占う基準にすることができよう。本稿はこの課題に取り組む。

インドは自称「非同盟」

 筆者は、インドが1947年に独立した後に経験した軍事行動を28に分けて分析した(注1)。その結果、興味深い特徴をみつけることができた。

 特徴の1つ目は、インドが自称「非同盟」であることだ。独立当初、インドは本当に非同盟だった。しかし、1962年に中国との戦争に負けて以降、米国との軍事協力を進め、その後、ソ連との関係を強化するに至った。これは事実上の「」つき「同盟」である。だから、今後もインドが「同盟」を組む可能性を示している。

(注1)インドの軍事行動28の分析は、筆者が2011年に書いた学習院大学における博士論文。ミネルヴァ書房より出版する予定

南アジア全域に及ぶ縄張り意識

 では、インドはどこと「同盟」を結ぶのだろうか。インドは、国益を脅かされたと感じた時に「同盟」を結んでいる。ではどのような時に国益を脅かされたように感じるのだろうか。インドは、インドの本土を脅かされた時だけでなく、インドの周辺国に外国が介入した時にも国益を脅かされたと感じ、「同盟」を結ぶのだ。これが2つ目の特徴である。

その典型的な例は、1971年にインドとソ連が結んだ印ソ平和友好協力条約である。この時、米国はソ連を封じ込めるために、中国との接近を図った。しかし米国と中国とは、直接国交がない。だから、米中両国と国交があるパキスタンが中継地となった。インドからみれば、米中がパキスタンとの関係を強化した形になる。しかも当時、インドはパキスタンと戦争寸前の状態にあった。米中両国がパキスタン側に立って参戦することを恐れていた。だから、インドはソ連との「同盟」関係を構築して対抗したのである。

india alliance

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

図:1971年当時の各国の位置関係

同じようなことが1980年代にも繰り返された。80年代には米国がスリランカとの軍事的な関係を強化した。中国もネパールに武器を輸出した。こうした行動はインドを強く刺激し、インドとソ連の軍事的関係を強化することにつながった。80年代にインドがソ連から大量の武器を輸入した事実が、このことをよく示している。

 さらに、同じ傾向が現在も続いていると言ってよい。1990年以後、インドと米国の関係は強化される傾向にある。しかし、米国がパキスタンに武器を売ると、米印関係の進展の障害になる。同じように、昨今、ロシアがパキスタンに武器を売ることを決めると、インドはロシアに対して強い警戒感を示した。

インドの外交の3つのグループ

 こうして見ると、インド外交の対象は、大きく3つのグループに分かれるように見える。1つは、インドの周辺国である。インドに比べれば圧倒的に小さい国々だ(注2)。これらの国々を、インドは自らの「縄張り」ととらえている。

 2つ目のグループは、そのインド周辺国に介入するかもしれない国々である。特に中国だ。

 そして3つ目のグループは、インドの周辺国に介入することなく、介入してくる国々を牽制する国々だ。中国の外側にいる国、つまりロシアは、このグループといってよい。

 このグループ分けでややこしいのは米国だ。冷戦時代、米国はパキスタンやスリランカを軍事的に支援した。この点ではグループ2に当たる。しかし、インドが中国に対抗する際、米国はグループ3に属する国だ。

(注2)米ドル換算で計算すると南アジア諸国の国防費の合計額の約8割をインド1国が占める。パキスタンも含め残りすべての国を合わせても約2割にしかならない。

インドにとっての日本

 さて、このような傾向の中で、日本はどこに含まれているだろうか。実は、日本はこのグループ3に含まれるものと考えられる。インドが日本に注目する時、その理由には共通点があるからだ。

 例えばインドは、英国からの独立運動を支援した存在として日本を高く評価していた。冷戦末期、ソ連の力が弱くなり、米国に対抗するための新しい国を探していた時に、インドは日本との「同盟」関係に注目した。日本の経済成長が著しく、米国内には日本脅威論すら生まれていたからだ。そして現在、中国との関係を考える際に、インドは日本との「同盟」関係強化に注目する。

 つまりインドにとって日本は、インド周辺国に介入することなく、介入してくる国々を牽制する国々の一つと言える。今後、インドと中国の関係に問題が生じると、日本との関係をより重視するようになる可能性があろう。

日本はどこと同盟を結ぶか

 一方、日本の外交戦略上の傾向は、日印の「同盟」関係強化を後押しするものだろうか。

 過去に日本を分析した有識者の中には、日本にはバンドワゴンの傾向があると指摘する向きがある。バンドワゴンとは、「最強国との提携」を意味している。例えば日本が同盟を結んだ時、英国は世界の海を支配する大帝国だった。日本がドイツと同盟を結んだ時、ドイツはヨーロッパの全域を支配する勢いがあった。そして日本が米国と同盟を結んだ時、米国は世界で一番強い超大国であった。このような見方をする有識者には、例えばハーバード大学教授だった故サミュエル・ハンチントンがいる。

 ハンチントンが大変優秀な学者であることに疑いの余地はない。しかし、日本は本当にバンドワゴンなのだろうか。もしバンドワゴンだとすると、米国の力が後退し、中国の影響力が最も強くなった時、日本は中国の興隆を認め、その秩序に順応することになる。ハンチントンは日中が手を結ぶ可能性すら指摘している(注3)。ところが実際には、昨今の日本は中国の台頭へ対抗しようとしているように見える。これは、ハンチントンの予測とはまったく逆の傾向だ。

 もしかしたら、日本はバンドワゴンではなく、遠交近攻によるバランシング(勢力均衡策)を好むのかもしれない。遠くの国と同盟を結んで、近くの脅威に対抗するという意味だ。例えば日英同盟には、ロシアの南下政策に対抗する意味合いがあった。日本がドイツやイタリアと同盟を結んだ時も、関係が悪化し始めた米国を牽制する側面があったと指摘できよう。戦後、日本が米国と同盟を結んだ時は、冷戦初期で共産主義が拡大する脅威が存在した。つまり、日本は近くの脅威に対抗するために、その反対側の国と同盟を結ぶ傾向があることになる。

 もしそうであれば、日本は次にどこと同盟を結ぶであろうか。ここに、中国の脅威に対抗してインドとの同盟を考える可能性を指摘できる。昨今、実際に起きている日印の接近は遠交近攻に近い。

 つまり、日本とインドは、共に同じような傾向を示しながら、お互いひかれ合っていることになる。明確な条約で結ばれた「」なしの同盟にはならないかもしれない。でも、どのような形であれ、日印「同盟」は、両国の外交戦略上の傾向から、実現する方向にあると言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

佐伯啓思 著『アダム・スミスの誤算』について

佐伯氏の問題意識は定説として言われている「アダム・スミスは自由主義、グローバリズムの祖」と言うのは違うのではないかということである。

結論的に言えば、道徳家でもあったので(『道徳感情論』を著した)経済面だけでなく道徳哲学、絶対者の存在を意識した自己規律をも主張したということ。

  1. 重商主義批判・・・保護貿易主義を取り、輸出振興による貨幣の蓄積を目論むmercantilismを批判。
  2. 土地と労働重視・・・グローバルな市場での貨幣の動きの不確かさに信頼を置くのではなく、労働こそが国民の富(マルクスに繋がる)を作る。
  3. 国防の重要性・・・「国防は富裕より重要である」「放埓に近いほどの自由が許されるのは、ただ主権者が軍律正しい常備軍によって安全を保たれている国においてである」とスミスは言っている。強い国家の基盤は「軍事力」「経済力」「国民精神」であるが、富裕になればなるほど人民は好戦的でなくなり、防衛精神を失っていく。これは憂慮すべき事態。
  4. 資本投下の自然な順序・・・国内>海外。海外は遠方で非効率、かつリスクがある。国内は国内労働者の雇用にもプラスかつ商業においてもプラス。農業→製造業→海外貿易の順。「見えざる手」は「かれ(あらゆる個人)は、公共の利益を促進しようと意図してもいないし、自分がそれをどれだけ促進しつつあるかを知ってもいない。外国貿易を支持するより、国内産業のそれを選好することによって、彼は自分自身の安全だけを意図し、また、その生産物が最大の価値をもちうるような仕方でこの産業を方向付けるとき、彼は自分自身の利益だけを意図しているのである。しかし、彼はこの場合でも多くの場合と同様、見えない手に導かれて、自分が全然意図してもみなかった目的を促進することになるのである」から採ったもの。重要なのはモノの生産によって国富を増大することであって、金融と商業は補助的手段に過ぎない。
  5. 「徳」の重視・・・「徳」とは「慎慮」「正義」「慈愛」。「高貴な目的」へ向けられた偉大な行為をなしうる知力や武勇、義務感、慈愛などが最高の「慎慮」であり、最高の「徳」。「英雄的な徳性」「愛国心」を尊び、「虚栄」や「根拠を持たない名声、名誉」への憎悪。
  6. 自己規律・・・「見えざる手」ではなく、「見えざる目」について。心の問題が大切。本書から引用。

「(神の)見えざる目」による自己規律

何がスミスをしてこれほど強い「内部の法廷」への確信へと向かわせたのだろうか。世間の評判など愚かな「人類の大群衆」のいいかげんな気分のゆらぎにすぎない、とでもいわんばかりのシニシズムにスミスを向かわせたものはいったい何なのだろうか。

確かなことはわからない。しかし、カラス神父事件がひとつのきっかけを与えたことは間違いないようである。カラス神父事件とは一七六ニ年フランスのトゥルーズで起きた事件で、新教徒のカラス神父が、旧教に改宗した長男を殺したとされる事件で、実際無実 あったにもかかわらず、世間は彼を有罪だとし、実際、有罪判決の末に処刑された事件である。後にヴォルテールらの再審請求によって六五年に無罪が証明されたが後の祭りであった。スミスは六四年から六五年にかけてトゥルーズに滞在し、まさにこの事件に深い関心をもった。罪を告白するよう勧めた修道士たちに対して、カラス神父は、「神父様、あなた自身、私が有罪だと自分に信じさせることができるのですか」と述べた、とスミスは書いている。

法廷は彼自身の内面にあるのである。世間の評価や「外部の法廷」よりも、この「内部の法廷」の方が絶対なのである。内部の法廷をさばくのは「すべてを見ているこの世界の裁判官」なのだ。ここでカラスという新教徒の神父の例が持ち出されるのはあるいは象徴的というべきかもしれない。むろん、彼は「神」に対してのみ義をもっており、「神」の審判のみを信じていた。地上の審判は「神」の審判に対しては「下級の法廷」であった。だから、スミスが明示的に述べているわけではないが、この「内部の法廷」の裁判官、「すべてを見ている裁判官」は究極には「神」である、といっても間違いではないだろうと思われる。

いやすでにスミスは第1版で書いていた。「神的存在の意志に対するわれわれの顧慮がわれわれの行動の最高の規則であるべきだということは、彼の存在を信じるものならだれも疑えない」と。あるいは「行為の値打ちと欠陥を決定する一般的規則が、こうして、全能の存在の諸法として顧慮されるようになり、この全能の存在は、われわれの行動を監視するのである」と。こうして、道徳原理においても「(神の)見えざる手」は働いているのである。あるいは、監視するという意味でいえば「(神の)見えざる目」とでもいうのが適切かもしれない。「(神の)見えざる目」によって内面の法廷は監視されており、ここに初めて「世間の評判」を超えた絶対的な基準の根拠がでてくることになる。

そうだとすれば、もはや、「中立的な観察者」は「世間」でもなければ、財産をもった上流階級である必要もない。「(神の)見えざる目」によって、人は自己を規律できるはずである。この自己規制を行った人はもはや上流階級の人である必要もない。そもそも上流階級に道徳のモデルを求めることは、それ自体が、「称賛を欲する」という虚栄と結びついているのではないか。世間の評価などというものも、この上流であることに対する感嘆と結び付いているのがこの世の習わしというものだろう。なぜなら「人類のうちの大群衆は、富と上流の地位の感嘆者であり崇拝者」だからであり、「たいていの人にとっては富裕な人と上流の人の高慢と虚栄が、貧乏な人の確固とした値打ちよりもはるかに感嘆されるものなのである」からだ。

この上流階級では、成功と昇進は無知高慢な上長者たちの気まぐれしだいなのである。ここでは「社交界の人と呼ばれる、あのさしでがましくばかげたしろものの、外面的な品位、とるにたらぬ身だしなみ」こそが感嘆を受けるのだ。そして大衆は、富裕な人々と上流の人々を感嘆し模倣しようとする。だからどちらも同じ穴のムジナだ。虚栄に満ちた上流階級とこれに追従しようとする大衆、これらが「世間の評判」というものの正体である。 この不確かに移ろいゆくものの中には、是認の確かな根拠など存在しない。それがあるとすれば「(神の)見えざる目」を内部にもった自己規律以外にないのである。

自己規制はいかにして可能か

むろん、自己規制(セルフ•コマンド)といっても、自然に発揮されるものでもなければ、また神を信じれば直ちに手に入るというものでもあるまい。むしろ、スミスは通常の人」が、いかにしてこの自己規制をもちうるのか、またそれはどのような場合に高度に発揮されるのかを論じてみようとしているのである。人はそれを社会生活の中で学ぶのである。次の一節をみてもらいたい。

真に恒常不動の人、すなわち自己規制の偉大な学校であるこの世間の雑踏と事業のなかで十分に教育され、また暴力、不正、戦争の困難と冒険にさらされてきた賢明な正義の人は、彼の受動的諸感情に対する制御をもちつづける。……繁栄においてであれ逆境においてであれ、味方の前であれ敵の前であれ、彼はこの男らしさを保持する必要のもとにおかれてきた。彼は、中立的な観察者が彼の諸感情と行動に与えるであろう判決を決して一瞬たりとも忘れようとはしなかったのである。彼は、常に、自分に関係するどんなことであれ、この偉大な同居人の目をもって観察するように習慣づけられてきた。

自己規制こそが、自らを中立的な観察者とするのであり、それこそが「恒常不動の人なのだ。浮遊する世間の評判には左右されないのである。この「恒常不動のもの」、いいかえれば「確かなもの」こそ、自己規制によって自らの内部に獲得する以外にないのである。

だが、ここでスミスは大変興味深いことを述べている。自己規制は、「世間の雑踏」と同時に「暴力、不正、戦争の困難と冒険」の中で獲得される、というのである。しかもこれは「男らしい」ものだという。

スミスは、一七九○年、すなわち死の数カ月前に修正された第六版の最後の部分を「自己規制について」と題しているが、ここで、もっと明確にこの問題を扱っている。たとえば次のようなことだ。

恐怖と怒りは、人間のもっとも抑制しがたい情念であろう。恐怖や怒りにひとたび襲われると、それを制御することはきわめて困難である。そこで、恐怖や怒りの真っ只中で自己の平静さを保持し、利害関心のない観察者の気分を保持することほど難しいものはないだろう。 いいかえれば、それができてこそ、最大級の自己規制がある、ということ になろう。危険の中で、死の拷問の中で、中立的な観察者の態度を保持しうる者はきわめて高い感嘆を獲得する。もし彼が人間愛と祖国愛のために受難するならば、彼はもっとも熱烈な同感的感情を「もっとも熱狂的でうっとりとした崇拝へ燃え上がらせるのである」。

これは実際スミスが書いていることだ。だから、と彼はいう。「戦争は、この種の度量を獲得するためにも、練習するためにも偉大な学校である」。戦争は死に対して人を慣らしてしまう。危険と死を前にして恐怖は制御される。そこで「危険と死についてのこの慣行的な軽蔑が兵士という職業を高貴なものとし、人類の自然な見解の中で、それに対し何にもまさる地位と尊敬をあたえるのである」。

戦争こそが自己規律のための学校である、とスミスは述べるのだ。危険や死を前にして恐怖心を制御することこそが自己規制の基本なのである。これは大きな美徳である。そしてこの美徳は、「勇気」や「誇り」、それに「崇高さ」といったものと結び付いている。それは、もう一つの、そして伝統的な美徳の群である「礼儀」や「謙虚」「節制」といったものとは大きく異なっている。

「噫病という性格ほど軽蔑すべきものはなく、もっとも恐るべき危険の真っ只中で平然と沈着を維持する人の性格ほど感嘆されるものはない。われわれは、男らしさと不動性をもって苦痛に酎え、拷問に酎える人を尊敬する。そしてわれわれは、それらに負けて、無益な叫びや女らしい嘆きに身を任せる人に対してほとんど顧慮を払わない。」

ここでスミスが「男らしい」と「女らしい」という語法を用いていることに多少注意しておくべきかもしれない。明らかに、彼は「勇気」「誇り」といった徳に「男性的」という形容詞を付加し、そこに自己規制の基底をみていた。あるいは、そこに「不動性」を見ていた。恒常的なもの、不動なもの、もっといえば「確かなもの」をそこにみようとした。 社会の中で相互に「見る/見られる」という相対性の中からでてくる評価や「世論」などというものを突き抜けたところに、スミスは、もっと「確かなもの」を発見しようとしていた。そこで彼が取り出したのが、古代的で「男性的な」美徳に裏付けられた、また神的な存在という絶対者をヴエールの後ろに隠した「自己規制」であった。このときはじめて人間は「確かな自己」を少なくとも感じ取ることができるはずなのである。

1/22日経ビジネスオンライン 高濱賛 『オバマ大統領がパリ行進に参加しなかった理由 「表現の自由」に制限はないのか?』記事について

フランスでのテロに続いてイスラム国による日本人人質の問題が発生し、日本におけるイスラム教のイメージが悪くなっているのではないかと思われます。彼らは宗教に名を借りた無法者です。どんな宗教であれ、悪い人間は出てきます。程度の問題と量の問題です。「シャルリエブド」については以前に数回コメントしました。本記事と小生の考えは殆ど一致しております。

イスラム国の人質で湯川さんは前に殺害されていて、今になってその映像を流したのではないかと考えています。後藤さんは母親のインタビューをTVで聞いていて「おかしい人」という印象を受けました。「嫁さんと今回初めて電話した」とか「子供が2週間前に生まれたばかりというのも初めて知った」とか普通の親子関係ではありえません。嫁さんがシリア人か何かであっても(日本人かも知れませんが)連絡は取り合うでしょう。また、TVではカットされたようですが「反原発」の話をしたようです。後藤さん自身も西早稲田の曰くつきの韓国系キリスト教団体「日本基督教団」(西早稲田2-3-18)の信者だったようです。(http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n188388)を参照ください。

湯川さん、後藤さん二人とも覚悟の上で行かれたのでしょうから、何があっても仕方がないのではと思っています。身代金を払うのはテロに加担することになるので反対です。

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イスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した仏週刊紙『シャルリエブド』の本社を襲撃するテロ事件から2週間が経った。欧州は「表現の自由」を錦の御旗に団結する。中東やアフリカのイスラム教国家は「預言者への侮辱は許せない」と反発する。

 そうした中で米国内では、事件直後に行なわれた反テロ行進にオバマ米大統領が参加しなかったことを巡って論議が続いている。この行進には、英仏独の首脳はもちろん、パレスチナ自治政府のアッバス議長まで参加した。

 興味深いのは保守派とリベラル派のそれぞれにオバマ支持派と不支持派がおり、議論が交差している点だ。オバマ批判の口火を切ったのは、保守系の米ウォールストリート・ジャーナル。それにリベラル派の米ワシントン・ポストが追い討ちをかけた。

 ウォールストリート・ジャーナルは1月13日付の社説で、「イスラム教徒たち(Islamists)は西洋の自由、西洋文明を脅かすという政治的イデオロギーを誇示したのだ。罪のない人たち、同盟国フランスが攻撃された。(オバマ大統領が行進に参加しなかったことは)イスラム教過激派が持つ脅威と性格およびその規模を(オバマ大統領が)評価できないことを示す新たなシグナルだ」と指摘した。

 見出しは「French Disconnection」。ロビン・ムーアによるノンフィクション小説、「フレンチ・コネクション」をもじったものだった。この小説は、ニューヨーク市警がフランスから密輸されてきた麻薬を押収、フランス人の黒幕を追及する筋書き。1971年には同名で映画化され、アカデミー賞5部門を受賞した。

(”French Disconnection,” Wall Street Journal, 1/12/2015)

 一方のワシントン・ポストは1月15日付の社説で、オバマ大統領が参加しなかったことについてこう指摘した。「オバマ大統領がパリ行進に参加しなかったことは、オバマ政権がイスラム教聖戦主義(Islamic Jehadism)と闘うモメンタムを広い意味で失いかけていることの表れだ。この攻撃はオバマ政権がイスラム教過激派武装勢力アルカイダとの戦争への意欲を改めて活性化させる動機とするべきものだった」

(”The U.S. fight against Jihadism has lost its momentum,” Editorial Board, Washington Post, 1/15/2015)

 さらに保守派ジャーナリストの重鎮、チャールズ・クラウトハマー氏は、ワシントン・ポストのコラム(1月15日付け)で、オバマ大統領が行進に参加しなかったことと反テロ戦争に対する姿勢を直結させて、厳しく批判した。「大統領はこれまで『Je Suis Charlie』(私はシャルリ)だったことは一度もない*。この48時間の間ですら『シャルリ』だったことはない。…テロと闘う戦争についての大統領の相反する感情がこれほど反映したことはない。オバマ大統領は就任以来、戦争という語彙をワシントンの公式辞書からパージしてきた。これまで同大統領は『戦争は終わらせねばならない』という概念と、『戦争は既に終結している』という概念の間を行ったりきたりしているだけだった」

(”Charles Krauthammer: Obama: Charlie who?” Washington Post, 1/15/2015)

*「私はシャルリ」はフランス人の合言葉になっている。「私は殺されたシャルリエブドの風刺漫画記者の考え方に同意するわよ」といった意味合い。つまりオバマ大統領は一度たりとも風刺漫画記者の考えには同意はしていない、無制限な「表現の自由」の信望者ではない、ということをクラウトハマー氏は言っている。

「シャルリエブドの風刺画は米大学新聞なら発刊停止」

 ウォールストリート・ジャーナルもワシントン・ポストも、そしてクラウトハマー氏も、シャルリエブドが預言者ムハンマドを愚弄する風刺絵を繰り返し掲載してきたことについては触れていない。

 この点を明確に捉えて、「表現の自由」のあり方について鋭く指摘したのは米ニューヨーク・タイムズの保守派コラム二スト、ディビッド・ブルックス氏だった。同紙自体はリベラル派だが、6人いるコラムニストの中には保守派(現在は2人)を入れるのが同紙の伝統になっている。

 同氏は、今回の襲撃事件が起こった原因に言及して、「私はシャルリエブドではない」、すなわち「表現の自由にはある種の自己規制が必要だ」と主張している。

 「もし、アメリカの大学新聞が同じような風刺画を載せたら発行してから30秒も立たないうちに発刊停止になるだろう。学生や教授はこれをヘイトスピーチとみなし、法的手段をとるに違いない。大学当局は大学新聞への予算を止め、この新聞を発刊停止にするに違いない。風刺や批判をする場合には、そうした表現によって感情を害するかもしれない人たちのことを察して寛容さをもって表現をすべきなのだ」

(”I Am Not Charle Hebdo,” David Brooks, New York Times, 1/8/2015)

「絶対的な表現の自由などあり得ない」

 「むろん、風刺画は『表現の自由』として認められるべきだ。しかし『絶対的な表現の自由』というものはないはずだ」と主張するのは、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のサリー・マクディシ教授だ。同氏は米国で生まれたパレスチナ系の米国人で、英米文学・比較文学の博士号を取得している。同教授は、「『表現の自由』が西洋文化の根幹であることは確かだ。しかし、シャルリエブドが掲載した風刺画がそのシンボルだと性急に決めつけるのはいかがなものか」と指摘して、こう続ける。

 「『絶対的な表現の自由』などというものは存在しない。表現する内容に関してなんらの制約もない、というわけではない。フランスにも『表現の自由』には法的制約がある。ヘイトクライムや政治的な暴力行為を支持する表現を禁じた法律がある。反ユダヤ的な風刺を繰り返していたカメルーン系フランス人のコメディアンはヘイトスピーチ罪で起訴されている。…偉大な風刺作家だったスウィフト、バイロンらは社会の弱者に対し、このような直接的な屈辱を与えることはしなかった。弱いマイノリティ(少数派)に対しこのように直接的に、人種的に愚弄するようなことはしなかった」

(”How ‘Je suis Charlie’ makes matters worse,” Saree Makdisi, Los Angeles Times, 1/16/2015)

ホワイトハウスはシャルリエブドに不快感を示していた

 「パリ行進不参加」に対する批判を憂慮したのだろう。ホワイトハウスのアーネスト報道官は1月12日の定例記者会見で、「大統領も参加するべきだったかもしれない」と述べ、こうした批判を受け入れる姿勢を示した。

 行かなかった理由について同報道官は、「あれだけ多くの一般市民が参加した。しかも事件終結から35時間しか経っていない時に行進は行われた。そこにオバマ大統領が参加することには警備上の問題があった」と弁明した。

 だが、以下のように食い下がる記者団に同報道官はたじたじだった。「英独、イスラエルやパレスチナの首脳はなぜ警備体制を問題にしなかったのか」「13年12月15日に南アフリカのネルソン・マンデラ前大統領の葬儀が行なわれた際の行進にはなぜ参加したのか」「オバマ大統領自身が行かなくとも、代理としてバイデン副大統領、ケリー国務長官、あるいはヘーゲル国防長官が参列すべきだったのではないのか」。

 こうした記者団との質疑応答の中でおぼろげながら露呈したのは、オバマ大統領の「表現の自由」に対する基本的な考え方だった。

 米大手紙のホワイトハウス詰めのベテラン記者が、筆者にこう助言してくれた。「オバマ大統領はこの風刺新聞(シャルリエブド)に対して以前から不快の念を抱いていた。2年前のホワイトハウス報道官の発言を検索してごらん」。当時のホワイトハウス報道官はカーニー氏。米タイムのワシントン支局長などを歴任、バイデン副大統領のコミュニケーション担当補佐官を経て、オバマ大統領の報道官を14年6月まで務めていた。

 シャルリエブドは06年以降、預言者ムハンマドを茶化すイラストを掲載し続けており、フランスのシラク元大統領も「行き過ぎた挑発だ」と批判していた。2011年11月2日にはフランス当局から警告を受けていたにもかかわらず、ムハンマドのヌード姿のイラストを複数掲載した。この点について同年9月19日、ホワイトハウスの定例記者会見でカーニー報道官に記者団が質したことがある。

 同報道官は「はっきり言って、(こうした風刺画を)掲載した判断について疑問を抱いている。言い換えると、掲載に踏み切った背後にある判断に(「表現の自由」に関わる)権利があるかないかについて疑いを持っているということだ」

(”Press Briefing by Press Secretary Jay Carney, ” The White House, 9/19/2012)

 当然のことながら報道官の発言は100%大統領の考え方を反映している。「つまり2年前、カーニー報道官が明らかにした見解は、当時のオバマ大統領の基本認識(ムハンマドを侮辱するようなイラストを『表現の自由』と考えてよいかは疑わしい)だったわけだ。大統領の深層心理は今も変っていないはずだ」(前出のホワイトハウス詰め記者)。

「イスラム教を侮辱する風刺画は白人キリスト教徒の傲岸」

 「オバマ大統領がパリ行進に参加しなかったのは賢明だった」と言い切るのは、著名な日系人神学者のディクソン・ヤギ博士(西南学院大学名誉教授)だ。自らを仏教徒的クリスチャンと自負している。東西の宗教に精通している同博士はこう見ている。

 「『表現の自由』の名の下にこの風刺新聞が侮辱したのはイスラム教過激派テロリストではなく、15億人のイスラム教徒だ。この下品な風刺新聞は『表現の自由』を振りかざしてありとあらゆるタブーに挑戦してきたというが、唯一の例外はユダヤ民族だ。08年にはユダヤ人を侮辱したマリス・シネという記者を問答無用で解雇している。フランスの歴代大統領はこの新聞に何度なく警告を発してきたが、オランド大統領は一切行動を起さなかった。フランス人は元より欧米人が『シャルリエブド』の下劣な風刺画の存在には目をつむり、『表現の自由』にすり替えて声高に叫んでいるのは、まさに『Judeo-Christian-Caucasian Arrogance 』(白人のユダヤ教・キリスト教的傲慢さ)以外のなにものでもない。養父の国、インドネシアでイスラム教を学んだオバマ大統領にはそのからくりが見えているのだろう」

 ブッシュ政権は、一握りのユダヤ系米国人を中心とした「ネオコン」(新保守主義者)にそそのかされてイラク戦争に突入した。当時、欧州諸国にはそのからくりが見えていた。だから米軍においそれとは追随しなかった。今度はその逆だったのか。

 欧州のメディア・宗教事情に詳しい米主要シンクタンクの英国人客員研究員は筆者にこう語った。「一部ユダヤ系フランス人の無責任なイスラム挑発行為がイスラム世界全体を敵に回してしまった。それを事前に止めようとしなかった今のオランド政権にも問題はある。今回、テロの前提となったのは、イスラム教徒に対する卑劣な人種的宗教的侮蔑だった。彼らは『表現の自由』を弄んだ。『表現の自由』と『イスラム過激派によるテロ』を二項対立化させて論じている限り、今回の事件に潜むブラックホールは見えてこない。オバマ大統領はそのことを知っているのだろう」

水間政憲 著『ひと目でわかる慰安婦問題の真実』について

この本で読んでいた方が良いと思われるページを掲載しました。保守派の方はもう充分ご存じだと思いますが。如何に朝日新聞が嘘にまみれていたかと言うことです。こんな新聞がクオリテイペーパーとか言われるのですから。戦争を煽るだけ煽り、日本が負けたら「知らん振り」して、「軍が悪かった」と言うのですから。いい加減日本人は目覚めた方が良いでしょう。10年前に保守派が主張しても国民は聞く耳を持たなかったと思いますが、流石に今は「メデイアの言ってることはおかしい」と感じています。それが2012年、14年衆院選での自民党の勝利に繋がっていると思います。

1冊購入して戴くか、地元の図書館で購入してもらい多くの人の目に触れるようにして戴きたいです。

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