『苦境の習主席、頻繁な軍視察の深い意味』(10/12日経)、『逮捕3回、服役23年「元・大富豪」の波乱万丈 3度目の釈放、75歳でなお捲土重来を期す』(10/7日経ビジネスオンライン 北村豊)について

10/10産経ニュースでは瀋陽軍区+北朝鮮VS習近平の構図で捉えています。中国が分裂した方が戦争は起こりにくいと思いますので、分裂に賛成ですが、中国の持つ債務や南シナ海の基地はどうなるのでしょうか?

http://www.sankei.com/premium/news/161010/prm1610100010-n1.html

また、北京の国防部前で元軍人がデモを行いました。軍規の乱れ、習近平に対する反感の表れと思います。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161012/k10010726471000.html

日経記事は、習近平は未だ軍権を確立していないという記事です。ですから冒険主義で臨む確率も高くなります。鄧小平が中越戦争を越したように、習近平も東シナ海か南シナ海で戦争を起こすかもしれません。油断大敵です。

北村氏記事は中国人のバイタリテイを垣間見せる記事です。政治と結びつかなければ、大きなビジネスができないのが中国です。でも足を引っ張る輩は必ずいて、落とし穴に嵌まる場合も多く、場合によっては命まで奪われてしまいます。それだけ生存競争が激しいという事です。大多数の日本人はこれが理解できません。賄賂を贈る方も受ける方も命懸けです。日本では社会的に非難される行為ですが、中国は社会にビルトインされている行為です。悪徳の栄える国に生まれなくて良かったとつくづく思います。

日経記事

最近、中国国家主席の習近平が、人民解放軍の視察を繰り返している。かなりの頻度だ。そこには今、習が置かれた厳しい環境も絡んでいる。

まず8月29日。習は、新設した「戦略支援部隊」の視察に訪れた。これは、杭州で開いた20カ国・地域(G20)首脳会議に出席するため北京を離れた9月3日の前だった。

戦略支援部隊は旧来の戦闘部隊ではなく、「未来の軍」といわれる。中国紙、環球時報のインターネット版などによると、戦略支援部隊は3つの部門で構成される。

(1)ハッキングに備えるインターネット軍=サイバー戦部隊

(2)偵察衛星や中国独自の衛星ナビゲーションシステム「北斗」を管轄する宇宙戦部隊

(3)敵のレーダーシステム・通信をかく乱する電子戦部隊

これらはすべて、南シナ海などで対峙する米国や、中国周辺部の局地戦において、きわめて需要な役割を果たすとみられる。

■戦略支援部隊、ロケット軍など次々

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新設した「戦略支援部隊」を視察し、幹部一人一人と握手する習近平国家主席(8月29日、国営中国中央テレビの映像から)

そして9月13日。習は中央軍事委員会の下に新設した「聯勤保障部隊」の設立大会に出席した。この組織と関係が深い旧総後勤部は伝統ある陸軍4総部の1つだったが、汚職の巣窟でもあった。すでに谷俊山・前副部長が断罪されている。

総後勤部は、習が推し進めた軍再編で後勤保障部に改編。その核心を担うのが聯勤保障部隊とされる。総合的に全軍を後方支援する兵站(へいたん)部門で、食糧供給や戦闘員の確保・投入のほか、軍事衛星・通信衛星と連動する衛星ナビゲーションシステム「北斗」の運用にも関わるという。

さらに9月26日。新設した「ロケット軍」を視察した。これは大陸間弾道弾を含む戦略・戦術ミサイル部隊だった「第2砲兵」を格上げし、陸海空の3軍と同格にしたものだ。ロケット軍は、近代戦の主役であるばかりではなく、戦略支援部隊と同じように宇宙戦の核心を担う。

10月11日。人民解放軍機関紙、解放軍報は1面で、前日に北京で全軍の重要会議が開かれたと報じた。「全軍大組織・軍事委員会機関各部門共産党委員会書記の専門会議」と称するものだ。習自身は出席しなかったが、軍事委主席として習が批准した会議であると、あえて冒頭で説明した。

会議のテーマは、前中央軍事委員会副主席で断罪された郭伯雄、徐才厚(故人)らが軍内に浸透させた腐敗という「毒」の流れを断つという、おどろおどろしいものだった。

■軍の足場固めの重要性認識

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習主席は軍再編で「ロケット軍」を新設した(2015年9月3日、北京の軍事パレードに登場した弾道ミサイル「東風21D」)

なぜ、こうも頻繁に習の軍視察や、習が指示した軍の会議があるのか。かつて毛沢東は「政権は銃口から生まれる」と説いた。苦しい場面で軍を視察し、みずからのバックに軍が控えているとアピールするのは、毛沢東以来のセオリーに沿った行動である。

習は、清華大学を出た後、国防相だった耿飆(こうひょう)の秘書として中央軍事委員会で働いた経験を持つ。“青年時代から軍歴がある”というのが、習の自慢だ。その自信もあってか、苦しい局面で、あえて軍を訪問してきた。

今年は、軍トップとして軍の一大再編も指揮した。しかも肝煎りの戦略支援部隊、ロケット軍などは、中国の将来の安全保障を担う核になる。習は、それを一気に作り上げた功績を掲げ、難局を乗り切り、来年の共産党大会に臨みたい。

これだけの仕事をしたのだから、本来、すでに足場は固まったはずだった。しかし、この中国で軍を完全に掌握するのはそう簡単ではない。なにせ無期懲役に追い込んだ郭伯雄、周永康(前最高指導部メンバー)の元部下や関係者は、なお軍や武装警察の組織内に潜んでいる。彼らは表向き習の命令を聞いたふりをしつつ抵抗している。

それだけではない。習の「反腐敗」で身動きが取りにくくなった官僚組織そのものが、裏であらがっている。その一端が、図らずも露呈した事件があった。

■抵抗の実相、赤裸々に語る学者ら

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無期懲役になった陸軍のボス、郭伯雄・前中央軍事委副主席(2012年11月の共産党大会で)

この夏から秋にかけて、著名な中国の国際政治学者が内部向けに語った講演内容が大きな話題になった。それは彼の専門領域の話ではなく、内政に関して指摘した部分だった。

「習近平は柔らかい抵抗にあっている」――。こう題した文章は、講演録を基に別の人物が書いて、中国の公式なインターネットサイト上に流布された。きわめて刺激的な内容だった。習がトップに就いた2012年から14年まで、苛烈な「反腐敗」運動の目新しさから大衆人気も盛り上がった。官僚らも文句を抱えながらも、従うしかなかった。

だが、15年に一変したという。「反腐敗」をはじめとする習の指示は、実際上無視された。聞くふりをして誰も聞いていない。そして誰も仕事をしないので、経済もどんどんおかしくなっている。こんな内容だ。それを「柔らかい抵抗」と表現している。門外漢の国際政治学者が赤裸々に述べただけに、迫真のルポのような面白さがある。

しかし、その内容は数時間以内に中国のインターネット、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)監視当局によって削除されてしまった。中国内の一般庶民に苦しい習を取り巻く実態が流布されてはまずい、との判断だった。講演内容はいくつかのサイト上で繰り返し流れたが、その都度削除されている。いたちごっこだ。

この2、3年、習はずっと胸突き八丁のつらい坂を上ってきたつもりだろう。そして「反腐敗」、軍再編など力業の結果、ようやく苦しい局面から抜けられるかと思っていたら、そうは問屋が卸さなかった。目の前に再び高い壁が現れたのだ。

動かぬ官僚、不透明な経済、口うるさい長老たち……。17年党大会の最高指導部人事に向けて、まだまだ楽はできない。習の頻繁な軍視察は、政治情勢の厳しさを認識する彼の危機感の表れだろう。

習は今後の権力闘争を優位に進めるためにも、軍の後ろ盾を必要としている。とすれば、どうしても中国の対外政策、安全保障戦略は強硬に傾きがちになる。この点にも注意を払う必要がある。(敬称略)

北村記事

湖北省の“洪山監獄”は省都“武漢市”に属する“江夏区”の“廟山開発区”にある。9月27日朝6時15分、洪山監獄の正門脇に1台のワゴン車が横付けされた。車から降り立った1人の中年女性が正門脇の守衛所で入構の手続きを行った。入構許可を取得した女性が車に戻ると、守衛によって電動で開閉する正門の柵が開けられ、車は監獄の構内へ走り去った。それから35分後の6時50分頃、正門の柵が開けられて女性の運転する車が出て来たが、車の助手席には16年の刑期を終えて釈放された“牟其中(むきちゅう)”の姿があった。

かつての大富豪、詐欺罪で懲役18年

牟其中とはどのような人物なのか。筆者が牟其中という名を初めて知ったのは2006年頃で、まだ現役で東京都中央区勝どきに所在する商社に勤めている時だった。当時、中国へ送る書類がある時は会社が所在するビル群の中に事務所を構えるFedEx(フェデックス)社の国際宅配便を利用することが多かった。ある時、送付する書類があるとFedEx社の事務所に連絡を入れた所、送付する書類を受け取りに来たのがFedEx社の事務所長である中国人のX氏であった。X氏は業務の関係で我が社の入館証を持っていたようで、その後は我が社の社員食堂で何度も顔を合わせるようになり親しくなった。

ある時、X氏が国際宅配便で送る書類を受け取りに来社したのに、書類がまだ整っておらず、10分程待ってもらう必要があった。その待ち時間を筆者はX氏と会議室で雑談したのだが、その時にX氏の前歴を聞いたところ、彼から出たのが日本へ来る前は牟其中の秘書だったという話だった。当時は牟其中などという人物を知らなかった筆者は、「牟其中っていうのは誰」とX氏に質問したが、X氏から出た言葉は「中国の大富豪だったが、詐欺罪で懲役18年の刑を受けて、今は刑務所に収容されている」とのことだった。この時、X氏はそれ以上のことを話したくなさそうだったし、筆者も己の無知を恥じて、詳しいことは聞かなかった。X氏が帰ってから慌てて牟其中について調べてみると、後述するように驚くべき人物であることが判明したのだった。

X氏がそんな異色の人物の秘書だったと知って、牟其中について詳しい話を聞こうと思っていた矢先、X氏が勝どきにある超高層マンションの自宅から飛び降り自殺して亡くなったという訃報を聞いた。X氏はFedExの輸送機で毎週金曜日の夜に上海へ行き、日曜日に東京へ戻る日程で、中国国内でも個人的にビジネスを行っていたようだから金回りは良かったと思うが、見るからに精力的であり、人懐こく笑顔の絶えないX氏に一体何が起こったのか。筆者にはX氏の死が信じられなかった。牟其中が刑期満了で釈放されたというニュースを知って、筆者はすでに死後10年になろうとするX氏を思い出したのだった。X氏には筆者の中国人の友人が中国政府“国家安全部”により国家機密漏洩の容疑で逮捕された時にも、FedExの国際宅配便で“国家安全部長”宛に日本の友人が作成した嘆願状を届けるのにも尽力してもらった。

それはさておき、牟其中とはどのような人物なのか。牟其中は1941年6月19日に四川省重慶市“万県”(現在の重慶市万州区)に生まれたから、現在の年齢は75歳である。小学校時代の牟其中は非常に活発な生徒で、ある教師は牟其中を評して、もし彼が大言壮語する性格を改めることができれば、将来必ず出世するだろうと述べたという。若い頃の牟其中の夢は将来新聞記者になることだったが、1959年に受験した“高考(全国統一大学入試)”に不合格となったことで大きな挫折を味わった。その後も何とか大学に合格しようと湖南省や新疆ウイグル自治区にまで足を伸ばしたが、結局大学生にはなれずに故郷の万県へ戻った。

政治活動で死刑判決、釈放後に投機商売で拘留

万県で牟其中は最初の仕事につき、地元のガラス工場でボイラー工になった。しかし、牟其中は他の工員たちとは異なって政治に情熱を燃やし、マルクス・レーニンや毛沢東の著作を読み漁り、法律や哲学の書物まで目を通し、いつの間にかガラス工場内で最もマルクス・レーニンや哲学に精通した人物となった。1974年の春、すでに万県の青年たちの中で信望を集めていた牟其中は、情熱の赴くままに気心の知れた仲間と『中国は何処へ向かうのか』と題する文章を書くと同時に個人で2編の過激な文章を書いて世間に発表し、大いに宣伝を行った。ところが、こうした行為が社会に混乱を招くとして問題になり、牟其中は逮捕されて監獄に収監され、死刑に処せられることが内定した。幸運にも死刑は執行されず、4年4か月を獄中で過ごした牟其中は1979年12月31日に釈放された。

釈放されたが無職となった牟其中は、1982年4月に借金して賄った300元(当時のレートで約4万円)を元手に“万県中徳商店”(以下「中徳商店」)を開業した。当時の万県では、商品の販売に“三包(返品・交換・修理の保証)”の習慣は無かったが、牟其中は中徳商店の顧客に“三包”を導入し、都市部の顧客には3日以内、農村部の顧客には7日以内の商品交換に応じるなどして商売を発展させ、1年目で8万元(当時のレートで約1050万円)もの驚異的な利益を上げた。これは牟其中が商売で天賦の才を発揮する契機となった。1983年初旬に牟其中は、重慶市の兵器工場から超安値で買い取った銅製の鐘を上海市の多数の商店に相当の高値で売りさばき、驚くほどの暴利を得た。その後も同様な手口で投機的な商売を行って金儲けに専念した。

1983年9月17日、牟其中は投機商売を行った罪で拘留されて取調べを受けた。ところが、留置所の中で牟其中は突然に政治への情熱を復活させ、拘留11日目に中国共産党への『入党申請書』を書き上げると、大胆にも当時の総書記“胡耀邦”宛てに発送した。また、『中国の特色ある社会主義と我々の歴史的使命を論ずる』と題する文書を書いて、胡耀邦総書記に宛てて発送した。これらの文書が四川省“成都市”から北京市の“中国共産党中央委員会”へ届き、関係部門が注目したことで、1984年初旬に牟其中は11か月間の拘留を経て釈放された。

1984年9月18日、牟其中は慌ただしく「中徳商店営業再開懇談会」を招集して、中徳商店から“中徳実業開発総公司”(以下「中徳実業」)への格上げを決定すると、速やかに営業許可を取り付け、正式に営業を開始した。牟其中はたゆまぬ努力の末に、“重慶市農業銀行”から創業資金として250万元(当時のレートで約2.6億円)を借り受けることに成功した。この250万元は後に大きな成功を収める牟其中にとって実質的な起業資金になった。しかし、この1980年代初頭の時期に、重慶市農業銀行が大したカネも無い牟其中に250万元もの大金をどうして貸し出したのかは大きな謎だが、恐らく何らかの政治的意図があったものと思われる。

ソ連のジェット旅客機、仲介に成功

中徳実業が本格的に動き出すと、牟其中は1984年の年末までに、観光資源開発の“小三峡旅游資源開発公司”を皮切りに、“中徳服装工業公司”、“中徳竹編工芸廠”、“中徳造船廠”など10社以上の会社を設立した。1985年には中徳実業の本社を故郷の万県から重慶市の中心にある“中華路”に移し、企業名も“南徳集団”に変更して本格的に国内および国際貿易に取り組むことになった。

1989年のある日、牟其中は北京市で竹・籐編製品の販売促進を行うために万県から北京行きの列車に乗った。牟其中は車中で知り合った1人の河南省出身の男ととりとめのないほら話に興じていたが、その男の口から耳寄りな話を聞いた。それは、解体の危機に直面しているソビエト連邦(以下「ソ連」)が3発ジェット旅客機Tu-154(ツボレフ154)を売りたがっているが、買い手が見つからないということだった。男と話すうちに牟其中の飛行機取引への興味は掻き立てられ、北京市へ到着すると竹・籐編製品の販売はそっちのけにして、ツボレフ154の買い手探しに奔走した。飛行機の知識が皆無な牟其中は、手当たり次第に買い手になりそうな相手を訪ねて打診していたが、そのうちに1988年の開業を予定する“四川航空公司”が国産のプロペラ機である“運‐7(Y-7)”と“運‐12(Y-12)”に替えて大型飛行機の購入を計画していることを知った。

すぐさま四川航空公司に連絡を入れた牟其中は、押っ取り刀で四川省成都市にある四川航空公司の本社を訪ねてツボレフ154に対する興味を打診すると、先方は渡りに船の話に大乗り気であった。当時ツボレフ154の販売価格は1機当たり5000~6000万元(当時のレートで約18.4~22億円)であるのに対して、米国のボーイングなら2~3億元(当時のレートで約73.4~110億円)したから、ツボレフは格安だった。四川航空公司は速やかに中国政府“国家計画委員会”の承認を取得し、“中国民用航空総局(略称:民航総局)”の同意を取り付けると、牟其中にツボレフ154を4機買い付けるよう正式に依頼した。

それからが牟其中の面目躍如たるところで、山東省、河北省、四川省など7省の300か所以上の工場から売れ残っていた軽工業品(シーツ、靴下、皮コートなど)や食品(缶詰など)を買い集めて貨車500両以上に乗せてソ連側へ供給し、その交換として4機のツボレフ154の引き渡しを受けることに成功した。この取引によって牟其中は8000万元(当時のレートで約29.4億円)から1億元(同約36.7億円)の利益を上げた。

1995年2月に米誌「フォーブス(Forbes)」が発表した「1994年版世界富豪番付」で、牟其中は番付入りした中国の民営企業家17人中の第4位にランクされ、富豪の仲間入りを果たした。当時の牟其中の個人資産は20億元(当時のレートで約226億円)を上回っていた。一方、南徳集団は1994年にロシアと投資協定を結び、BS放送用の直接放送衛星である「航向1号」をロシアのバイコヌール宇宙基地から発射して軌道に乗せることに成功し、1995年11月には「航向2号」の発射にも成功した。衛星発射には莫大な費用がかかるが、1995年から始まった中国政府による経済の緊急引締め政策は南徳集団の経営に大きな打撃を与えた。

オーストラリア企業との訴訟の末に

こうした金詰まりの中で南徳集団に資金提供を申し出たのがオーストラリア企業“澳華集団(Austway Group)”駐華代表の“何君”だった。何君の資金提供を受けて南徳集団は「航向3号」の打ち上げることができた。しかし、何君が資金提供をする条件には、澳華集団が担保を提供し、中国国内の輸入権を持つ企業(湖北省軽工業進出口公司)が銀行(中国銀行湖北支店)から香港の某企業宛ての「ユーザンス付信用状(Usance L/C)」を開設し、香港で某企業が現金を受領した上で、資金を南徳集団に貸与する形式をとることが含まれていた。これが後に中国銀行湖北支店が湖北省軽工業進出口公司や南徳集団などに対して信用状立替金および担保の返還を求める民事訴訟に発展した。

民事訴訟が進むうちに、南徳集団および牟其中が信用状詐欺を行った容疑が固まり、1999年2月8日に牟其中は“武漢市公安局”によって逮捕された。同年11月から審議が始まった南徳集団および牟其中などによる信用状詐欺事件の裁判は、翌2000年の5月30日に一審判決が下り、牟其中は信用状詐欺罪により無期懲役並びに政治的権利の終身剥奪が言い渡された。牟其中は判決を不服として控訴したが、2000年8月22日に“湖北省高級人民法院(高等裁判所)”は一審判決を維持する公訴棄却の判決を下し、牟其中の無期懲役が確定した。2000年9月1日、牟其中は武漢市第二看守所から市内の洪山監獄へ移送され、囚人として収監された。

2003年の秋に牟其中の無期懲役は懲役18年に減刑されたが、刑務所内の規則を守り、服役態度も良好であることからさらに減刑されて、収監から16年後の2016年9月27日に牟其中は刑期満了により釈放された。

長くなったが、以上が牟其中の人物紹介である。まさに波乱万丈の人生と言えるが、現在75歳の牟其中は合計3回の拘留・服役で23年間を社会から隔離されて過ごした。一時はフォーブス誌によって中国国内で第4位の富豪にランクされた牟其中だったが、監獄から出所した彼には資産と呼べるものは何もないだろう。

刑期を終え、なお再起に意欲

9月27日に洪山監獄へ車で乗り付けて釈放された牟其中を出迎えたのは、牟其中の妻の妹であり、彼の唯一の指定代理人である“夏宗偉”であった。27日の午前中に夏宗偉はメディアに対して「南徳集団理事会の牟其中氏刑期満了釈放に関する声明」を発表したが、その最後に記載されていた南徳集団理事会の署名欄には夏宗偉の名が明記されていた。

さて、その声明に記されていた内容の概要は以下の通り。

【1】信用状詐欺事件は偽造された証拠に基づき判決が出されたものであり、再審を要求する。牟其中は再審における必勝を確信している。

【2】再審に勝訴したら、南徳集団は直ちに「南徳試験(Ⅱ)」をスタートさせる。それは知恵を中心とする生産方式で、資本を中心とする生産方式に比べて全ての面で生産効率が高い。それを幅広い範囲で実践して証明し、全世界の新しい企業に普及させる。

【3】牟其中氏はすでに数えで76歳だが、健康にはまだ問題がない。最近、彼は「人生すでに齢(よわい)百歳を超えても、再び少年のように奮い立つ感情を持つのを妨げるものはない」という詩を作った。これは宋の詩人“蘇東坡(本名:“蘇軾”)”の詩『江城子・密州出猟』にある「老人である自分にしばし少年の奮い立つ感情を発揮させよ」という一節に相通じるものがあり、牟其中氏は精神的に若く、まだ老いてはいない。

【4】かつての南徳集団は廃墟と化し、何も残っていないが、我々は必ず“東山再起(失脚から再起する)”を果たし、南徳集団を再建してみせる。

壮年時の牟其中は、身長182cm、体重75kgの頑健な体躯で、押しが強く、怖いもの知らずであったと思われるが、満75歳の今となっては南徳集団を再興することは難しいだろう。しかし、中国に牟其中という波乱万丈な人生を送った人物がいたことは歴史の一コマに刻まれることだろう。天国にいるX氏も牟其中が刑期満了で釈放されたことを喜んでいるに違いない。最後に衷心よりX氏の冥福を祈ります。

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