3/4日経ビジネスオンライン 北村豊『元最高指導者「華国鋒」の銅像に取り壊し命令 サッカー場14個分の陵墓、銅像完工から21日目に』について

3/5池内紀氏の『カント 永遠平和のために ~私が歩んだ戦後70年~』講演会に参加しました。予想通り、岩波・朝日文化人の反権力を標榜するリベラル(自由人)です。戦争は儲かるからやるとの話、それはそうで赤字になるなら誰もしないでしょう。領土奪取・賠償金というメリットがなければ。米国のイラク侵攻も石油と$の基軸通貨維持のためと言われています。日本の戦前のアジア進出も資源確保のためです。物事が起きるのには動機が必要です。それが経済or名誉or倫理なのか千差万別です。石川明人氏の『戦争は人間的な営みである』の中では、確か総力戦となる近代戦では、利益のためだけでは戦えなく、友のためにと言う大義が必要とあったと思います。本の紹介には「戦争は「純然たる悪意」のみの産物ではない。むしろ、愛や、希望や、真心や、正義感があるからこそ、人は命をかけて戦うことができ、戦争を正当化できてしまう」とあります。物の見方は一様でないという事です。自由な国に生まれて良かったという事。中韓のような国でなくて本当に良かったと思います。

プラハの春の時に池内氏はチエコにいて、20年後民主化が実現したことで言論の力を感じたとのこと。言論で共産党支配の状況が変わった訳ではなく、レーガンのSDI計画でソ連の国防費が肥大化して、衛星国の面倒が見られなくなったためです。歴史解釈が現実を見てなく、都合の良い解釈=脳内お花畑になっています。理想で解釈するのではなく、現実(経済的利益面をも考慮)で判断しないと、間違うのでは。マルクス経済学だって「下部構造が上部構造を規定する」と言っているではないですか。そもそもチエコはZB26軽機関銃を開発したことで有名な国です。日本の九六式軽機関銃はそれを模倣して作られました。それだけ東欧諸国の中では技術先進国です。軍事技術が民生技術をリードしてきたのは、インターネットや飛行機を上げるまでもなく、便利な社会を築いてきました。戦争が人類の進歩にも貢献してきた部分もあります。でなければ戦争は国際法違反として禁止されるべきでは。自衛戦争は許容されると言いますが、線引きできないでしょう。中国に言わせれば、南シナ海も東シナ海も自衛だと言い張るでしょう。

ワイツゼッカーの話もドイツは国として謝罪したわけでなく、全部ヒットラーのせいにして言い逃れしている事実についても触れませんでした。ワイマール憲法下で独国民にヒットラーは選ばれたことを今の独国民はどう思っているのか。

難民の受け入れでメルケルの決断を褒めていますが、100万人も受け入れして大きな問題を抱えたため、支持率は極端に下がったことには触れていません。「独メルケル連立政権の支持率が13年以来最低に=ビルト紙

[ベルリン1月19日 ロイター] – 日刊紙ビルト紙が世論調査会社INSAに委託した調査で、ドイツのメルケル首相(キリスト教民主同盟)率いる、保守大連立政権の支持率が2.5%下がり、2013年9月の総選挙以来最低水準の32.5%になった。同紙が19日伝えた。(ロイター)」とあります。

全般的に理念先行型の発想で、その理想を現実のものにするプロセス構築が弱いと感じました。現実把握が正しくできていないせいと思います。また反権力を貫くためには反共でなければならないことを分かっているかどうかです。でないと銅鑼湾書店メンバーのように拉致されますよと言いたい。民主主義と自由は表裏一体で、自由の中には精神の自由だけでなく、経済的自由も含まれるという事です。

本記事のように為政者の一存で物事が簡単にひっくり返る国でなくて良かったと本当に思います。この自由な国を守るためには、ありとあらゆる手段を使う必要があります。世論戦にも負けないような国際広報も考えて行かないと。ATO(Asian Treaty organization)も発足させたい。なお、周も鄧も、後世墓を暴かれるのを恐れて散骨したと言われています。

記事

Mao & Hua Guofeng

華国鋒(右)と毛沢東(写真:AFLO)

 2月18日、山西省“交城県”では3万人以上の県民たちが“県城(県政府所在地)”から北へ約3kmに位置する“呂梁人民英雄広場”に建てられた“華国鋒(かこくほう)”の銅像を取り囲むように集まり、当該銅像の取り壊し反対を唱えて気勢を上げた。高さ約10mの銅像は、2月16日が華国鋒の生誕95周年記念日であることから、交城県の県民たちが資金を出し合って建設したもので、1月27日に完成した。しかし、記念日翌日の2月17日に、地元の“交城県政府”は銅像が建設に必要な申請・承認の手続きを経ていないとして取り壊しを命じた。このため、関係当局は銅像を赤い布で覆い、その周囲には取り壊し作業用の足場を組んで、取り壊し作業を今にも開始しようとした。

遺言を残した毛沢東の座像と同じ理由で

 河南省の“通許県”では、地元の人々の資金で建設された高さ36.6mの巨大な“毛沢東”座像が、同様に必要な申請・承認の手続きを経ていないことを理由に、竣工を間近に控えた1月7日に取り壊された<注1>。メディアの報道を通じてこの毛沢東座像の取り壊し事件を知る交城県の県民たちは、銅像の取り壊し作業が開始されようとしていることに焦りの色を隠せず、交城県は緊迫した空気に包まれた。県民たちは居ても立ってもいられぬ気持ちで、何としても銅像の取り壊しを阻止しようと、大挙して呂梁人民英雄広場へ集まったのだった。

<注1>毛沢東座像の取り壊し事件については、1月29日付の本リポート「なぜ完成直前の毛沢東座像は壊されたのか」参照。

 交城県は、山西省中西部に位置する“呂梁市”の管轄下にあり、黄河を挟んで陝西省と隣接する。交城県の面積は1821km2で日本の香川県(1877km2)とほぼ同じ、人口は約23万人で香川県(98万人)の4分の1に過ぎない。また、同県はこれといった特産品のない平凡な農村地帯だが、中国の重要仏教寺院の一つである“中玄寺”が存在していることで知られる。中玄寺は中国に伝来した浄土宗がその教えを広める起点となったところで、日本の浄土宗や浄土真宗とも関係が深く、日本の仏教界でもその名は広く知られている。

 さて、その交城県が誇りとするもう一つの事柄がある。それは交城県がかつて中国の最高指導者であった華国鋒の出身地であるということである。華国鋒は1976年9月9日に逝去した“毛沢東”の後継者として、1949年の中華人民共和国成立以来で唯一、“中国共産党中央委員会”主席、“国務院”総理、“中国共産党中央軍事委員会”主席を兼任して「党」・「政」・「軍」の最高指導者となった人物である。華国鋒は死に瀕した毛沢東が彼に残したとされる「“你辦事,我放心(貴方がやれば、私は安心だ)”」と書かれた遺言を根拠に毛沢東が定めた後継者であると名乗り出て最高指導者の地位を得た。彼は“葉剣英”(当時は国防部長)などの古参軍人の支援を受け、当時権勢を誇っていた「四人組」<注2>を逮捕して、毛沢東が主導した“文化大革命”を終結させた。

<注2>「四人組」とは、文化大革命の中で実権を握った中国共産党中央政治局委員4人(王洪文、張春橋、江青<毛沢東夫人>、姚文元)を指す。

華国鋒は1976年10月7日から約5年にわたり中国共産党中央委員会主席として最高指導者の地位にあったが、「毛沢東が決めた政策を絶対に擁護し、毛沢東の指示に従う」という通称“両個凡是”と呼ばれる方針に固執し、毛沢東に対する個人崇拝を継続し、鄧小平を始めとする“老幹部”の復活を妨害し、経済政策を急ぎ過ぎたなどと批判され、1981年6月28日に党中央委員会主席の職を辞した。その後は党中央委員会委員の職に形式的に留まったが、ほとんど表面に出ることはなく、趣味の書道に没頭する日々を続け、2008年8月20日に北京市で死去した、享年87歳。

 但し、伝えられるところによれば、華国鋒は2000年頃に中国共産党を脱退しており、その脱退声明には、「現在の共産党は過去の国民党と区別がない。当時の中国共産党は腐敗反対、専制反対のスローガンを唱えて国民党政府を打倒したが、中国共産党が政権を執ってから50年以上にわたる、一党独裁の堅持、人権の抑圧、国民の自由のはく奪、汚職腐敗、司法の濫用などは当時の国民党政府の比ではない」と述べられていたとされる。

孫文をしのぐ陵墓に非難轟々

 それはさておき、華国鋒の葬儀は2008年8月31日に北京市“八宝山革命公墓”<注3>で元国家指導者としての体面を保つ形でしめやかに行われた。華国鋒の遺体は荼毘に付された後、その遺骨は八宝山革命公墓に預けられた。一方、華国鋒は生まれ故郷の山西省交城県に埋葬されることを望んでいたことから、華国鋒の遺族は交城県当局と交渉を重ね、中国政府当局の承認を得て、交城県の景勝地である“卦山(かいざん)”に“陵園(陵墓を中心とした林園)”を作ることを決定した。

<注3>“司局級(局長クラス)”以上の幹部が埋葬される資格を持ち、一般大衆用の“八宝山人民公墓”とは区別される。

 2009年に工事を開始した“陵園”は完工を間近に控えた2011年4月に、メディアの記者に公開されたが、その規模は度肝を抜くものだった。華国鋒の陵墓は卦山の南側半分を占め、敷地面積は10ha(=10万m2:標準のサッカー場14個分)と広く、江蘇省“南京市”の“紫金山”にある“孫文(別名:孫中山)”の陵墓“中山陵(敷地面積8万m2以上)”に匹敵する規模だったのである。孫文は台湾では“国父”と呼ばれるが、中国では“中国偉大的民主革命開拓者(中国の偉大な民主革命の開拓者)”と定義付けられ、革命の先駆者として尊敬されている。華国鋒の陵墓はその孫文の陵墓をしのぐ規模であるばかりか、その総投資額は1億元(約18億円)を上回ると、中国メディアは一斉に批判的な記事を報じた。

後に、交城県当局の関係者は、華国鋒墓陵、華国鋒記念館および華国鋒広場の総工事費は2500万元(約4億5000万円)前後であったと述べたが、当時一般大衆の華国鋒陵墓に対する反発は激しいものがあった。このため、交城県政府は華国鋒墓陵を一時的に閉鎖し、当初予定していた“華国鋒広場”の名称を呂梁市に因んで“呂梁人民英雄広場”に、“華国鋒記念館”を“晋綏革命歴史記念館”<注4>に各々変更すると同時に、華国鋒墓陵は呂梁人民英雄広場の一部分とすることを決めた。交城県政府はこれら変更によって華国鋒墓陵に対する世論の反発を躱し、墓陵の一時閉鎖によって嵐の過ぎ行くのを待つ作戦に出たのだった。

<注4>“晋綏”とは「晋(山西省)」+「綏(綏遠省;現内モンゴル自治区の一部)」を指す。

郷土の誇りを、新たな台座に

 それから半年後の2011年11月初旬、北京市の八宝山革命公墓から移送された華国鋒の遺骨は、華国鋒墓陵内の石室に収められた。本来は逝去3周年当日に当たる8月20日に納骨式を挙行する予定であったが、庶民の反発により2か月延期されたものだった。こうして華国鋒は、1921年2月16日に出生し、少年時代を過ごし、青年時代は日本軍に対するゲリラ戦を展開した故郷の交城県へ戻ったのだった。彼の墓陵の前に置かれた石碑を兼ねた台座は、彼の名前“華国鋒(Hua Guofeng)”の頭文字であるアルファベットの大文字「H」の形状で、彼が国家の最高指導者となった時の年齢である55歳に因んで5.5mの高さだった。本来、台座の上には高さ10mの華国鋒の銅像が据え付けられる計画だったが、庶民の反発を恐れた交城県政府は銅像の据付を取り止め、すでに完成していた銅像は倉庫内に放置された。

 このような状況に心痛めた交城県の県民たちは、郷土の誇りである華国鋒の銅像を本来なら「華国鋒広場」と呼ばれるべき「呂梁人民英雄広場」に建てたいという思いを募らせた。そこで、県民たちは、墓陵前の台座に銅像を据え付けることがいけないなら、呂梁人民英雄広場に新たに台座を作り、その上に放置されたままになっている華国鋒の銅像を据え付ければよいという結論に至った。華国鋒の生誕95周年に当たる2月16日以前に銅像の据付を完成させることを目標に、華国鋒の親友たちが中心となって地元に商人たちの支援を受けて資金集めを行い、呂梁人民英雄広場の中心に台座を建設した。こうして1月27日、呂梁人民英雄広場に新たに建設された台座の上に華国鋒の銅像が据え付けられた。県民たちはその威風堂々たる華国鋒の銅像を目にして、郷土の偉人に対する尊敬の念をより深いものとしたのだった。

 ところが、上述したように、交城県政府は建設に必要な申請・承認の手続きを踏んでいないという理由で、2月17日に華国鋒の銅像の取り壊しを命じたのだった。

取り壊し反対の声は「削除」

 これを知った県民たち1万人以上が「華国鋒の銅像を守れ」の合言葉の下、交城県の県城内のデモ行進を行った上で、呂梁人民英雄広場に集まって「取り壊し反対」の集会を開いた。翌18日には早朝から3万人もの県民たちが呂梁人民英雄広場に集まって「反対」の気勢を上げた。県民たちの一部は当局によって派遣された警察部隊と衝突し、双方に負傷者を出すに至った。同日午後、“交城県党委員会”副書記の“李義祥”は県民の安全を考えて、18日中の取り壊しは行わないと表明した。また、その後、交城県政府は文書を公布して、県民に対して銅像は必要な手続きを経ていないため取り壊さざるを得ない旨の説明を行った。李義祥は、「銅像取り壊しの命令は上部からの指令であり、交城県党委員会ならびに交城県政府は何も言えない立場にある。上部の説明は銅像の建設には手続きが必要であると述べただけだった」とメディアに語ったという。

 2月19日を境に、華国鋒の銅像の取り壊しに関する報道もネット上の書き込みも一切見当たらず、その後の銅像の状況については何も分かっていない。恐らく報道管制が敷かれ、ネットも規制されて、書き込みは削除されているものと思われる。銅像取り壊しが上部からの指令である以上は、たとえどんなに交城県の県民たちが取り壊しに反対を唱えようとも、最終的には銅像は力ずくで取り壊されたと考えざるを得ない。当初、華国鋒の遺族が交城県に陵墓の建設を相談した際に出した条件は、「農地を占用せず、古跡を破壊せず、環境を破壊せず、住民と土地を争わず」の原則で、荒地に埋葬すれば良いというものだったにもかかわらず、交城県が墓陵の規模を必要以上に巨大化したことが、その後に発生した全ての問題の出発点となったのだった。

それなら、華国鋒の銅像が取り壊された真の理由として考えられるのは何か。

習近平以外には考えられない

【1】華国鋒銅像の取り壊しを命じたのは、河南省通許県の毛沢東座像と同様に「上部」であった。華国鋒は毛沢東と同様にかつての国家最高指導者であり、その銅像の撤去を命じることができるのは、現在の最高指導者である中国共産党総書記の“習近平”以外には考えられない。しかも、華国鋒銅像は毛沢東の様に全国各地に多数の像が建てられているのと違い、恐らく交城県の銅像が唯一の物と思われるのに、その像すらも建てることを認めないのはどうしてなのか。

【2】上述したように、生前の華国鋒が中国共産党を脱退していたという事も、一つの要因と言えるのかもしれない。中国共産党を脱退し、その際に中国共産党を批判する声明を発表したことが事実ならば、華国鋒を賛美する象徴となるような銅像を建てることを認めるわけには行かない。

【3】華国鋒には隠された秘密があると言われている。それは彼が毛沢東の隠し子であったという噂である。毛沢東が女癖の悪い人物であったことはすでに周知の事実となっているが、1920年に毛沢東が湖南省“長沙市”に滞在中に知り合った“姚”姓の女性もそのうちの1人であった。この女性は山西省交城県から長沙市へ来ていた「たばこ商人」の娘で、1921年に故郷の交城県で毛沢東の子供を出産した。それが華国鋒であったという。華国鋒は、中華人民共和国成立直後の1951年には毛沢東の故郷である湖南省“湘潭県”の党委員会書記に任命されたのを皮切りに出世階段を駆け上ることとなる。なお、華国鋒の湘潭県党委員会書記在任中に、毛沢東は都合9回湖南省を訪れたが、その度に華国鋒との面会を手配させたという。

【4】これなら、毛沢東が上述した遺言を華国鋒に残した理由が説明できる。また、2002年12月26日、華国鋒が毛沢東の娘たちと共に北京の天安門広場にある“毛沢東記念館”を訪れて、毛沢東の冥福を祈った際に、彼が持参した花輪には「忠実な息子国鋒哀悼」と書かれていたという。花輪はその後すぐに撤去された。

【5】華国鋒が毛沢東の私生児だったとすれば、毛沢東が華国鋒に残した遺言は父から子への政権の世襲を意味することになり、北朝鮮の世襲統治に異を唱える立場の中国にとっては極めて都合が悪い話である。さらに、中国にとって毛沢東は革命の指導者であり、国家の偉人であり、神に等しい存在である。そんな人物なのに、女癖が悪いばかりか、非嫡出子までいたとなっては、国家の体面にも関わる問題となる。それなら、華国鋒には静かに交城県の墓陵で眠ってもらい、人々の目に触れる銅像などは建てないに越したことはないという結論に達するのである。

 なお、話のついでに、中国の国家指導者の死後について述べると以下の通り。

【毛沢東】中国の指導者の中で最初に火葬を推奨したのは毛沢東だったが、その本人の遺体は永久保存処理を施されて毛沢東記念館の中に安置されている。皮肉以外の何物でもない。

【周恩来】生前の遺言「遺骨は保存せず、まき散らせ」に従い、遺骨は4分割され、北京市や天津市など4地点の上空からまかれた。

【鄧小平】生前の遺言「角膜は寄贈、遺体は解剖、遺骨は保管せず、海へまく」に従い、遺骨はその希望である“回帰大海(海に帰る)”を実現して海にまかれた

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