『改めて国歌認定された抗日「義勇軍行進曲」異聞 日本に留学した劇作家が作詞。賞賛、逮捕、歌唱禁止を越えて』(9/15日経ビジネスオンライン 北村豊)について

9/17NHKニュース<臨時国会の冒頭 衆院解散の見通し>

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170917/k10011142751000.html

10/22補欠選挙と同じ日に合わせて総選挙が行われる可能性があります。10/29総選挙となれば10/22補欠選は総選挙に吸収されるとのことですが。10/18中国共産党大会終了後の米軍攻撃がいつ行われても大丈夫なように早めた可能性もあります。

9/15ZAKZAk<「10月衆院選」議席予測で自公300超、小池新党が第3党浮上の衝撃 民進支持率はジリ貧>の予想のように「維新」を入れれば衆院の2/3は確保できるというのであれば、野党の態勢が整っていない今がチャンスと言うところでしょう。

http://www.zakzak.co.jp/soc/news/170915/soc1709150008-n1.html?ownedref=articleindex_not%20set_newsList

北村氏の記事で分かることは、中国が如何にご都合主義かという事です。中国の現在の国歌(将来も続くかどうか分かりません。共産党が崩壊すれば別な国歌になる可能性もあります)である「義勇軍行進曲」の作詞者“田漢”を文革時には裏切り者扱いして、毛沢東の死後名誉復活したことやユダヤ系ロシア人の作曲者の存在をなかったことにしてしまうことなどがそうでしょう。満州事変から抗日が始まったと言いますが、満洲は元々漢民族の土地ではなく、満州族の土地です。万里の長城の存在を考えれば分かるでしょう。南モンゴル、ウイグル、チベット同様彼らに返すべき土地です。中共は歴史を改竄・捏造した虚構の上に成り立っている国です。

毛沢東は「日本の侵略のお蔭で、中国大陸を共産党が手に入れることができて感謝している」といった話を佐々木更三社会党委員長にしています。日本は愚かにも、左翼に利用されて戦争を拡大していったという事です。それが今でも中国にいろんな意味で利用され続けています。北の挑発も裏に中国(例え瀋陽軍と雖も)がいるのは明らかです。中国を利する行動(日本企業の中国進出や投資等)は利敵行為です。

5/22人民網は<外国人が驚く中国の新「四大発明」>として、高速鉄道、ネットショッピング、支付宝(アリペイ)、シェア自転車を挙げています。

http://j.people.com.cn/n3/2017/0522/c94475-9218688.html

どこが中国人の発明なのか、言葉の定義をきちんとしてから発表した方が良いのでは。高速鉄道なんて日本の新幹線のパクリでしょう。ただ総延長距離は世界一かもしれませんが、赤字もまた膨大になっている筈です。ネット購買・決済やシエア自転車も中国人の発明ではないでしょう。それでも中国の新「四大発明」と言い切ることができるのは恥を知らないからです。

北村氏の言うように日本人は「中国は国歌にまで抗日を盛り込んでいる反日国家である」ということを胸に刻んでおいた方が良いでしょう。日中友好何て彼らが日本を利用する手段です。騙されないように。

記事

1949年10月、“国歌”を演奏する中華人民共和国軍楽隊(写真:Ullstein bild/アフロ)

9月1日午後、中国の「第12期全国人民大会常務委員会第29回会議」は第3回全体会議を開催し、票決により『国歌法』を採択した。同法は2017年10月1日から施行される。

中国では1990年に『国旗法』が、1991年に『“国徽法(国章法)”』がそれぞれ制定された。国旗法は“五星紅旗”を国旗と定めているし、国章法は穀物の穂と歯車の丸い縁の中に五つの星と天安門を配した図案を国章と定めている。しかしながら、その後20年以上にわたって『国歌法』は制定されずに放置され、2004年に憲法で国歌は「義勇軍行進曲」と規定されたものの、それ以上の法的裏付けはないままに歌い継がれて来た。2017年6月22日に『国歌法(草案)』が全国人民代表大会常務委員会第28回会議に上程され、8月28日の修正案審議を経て、『国歌法』は9月1日に正式に採択されて成立した。

改ざんによる侮辱には15日以下の拘留も

国歌法は全16条で構成されるが、重要と思われる条項を示すと以下の通り。

【第1条】国歌の尊厳を擁護し、国歌の演奏・歌唱、放送、使用を基準化し、国民の国家概念を増強し、愛国主義の精神を発揚させ、社会主義の核心的価値観を育成・実践するため、憲法に基づき本法を制定する。

【第2条】中華人民共和国の国歌は「義勇軍行進曲」である。

【第3条】中華人民共和国の国歌は、中華人民共和国の象徴と標識である。全ての国民と組織はすべからく国歌を尊重し、国歌の尊厳を擁護しなければならない。

【第4条】下記の場合は国歌を演奏・歌唱しなければならない。 (1)全国人民代表大会会議と地方各級人民代表大会会議の開幕、閉幕。中国人民政治協商会議全国委員会会議と地方各級委員会会議の開幕と閉幕、(2)国旗掲揚式、(3)重要な外交活動、(4)重要な体育競技会、(5)その他、国歌を演奏・歌唱することが必要な場合、など

【第7条】国歌を演奏・歌唱する時は、その場にいる者は起立しなければならず、国歌を尊重しない行為をしてはならない。

【第8条】国歌の商標や商業公告への使用、個人の葬儀活動など不適切な使用、公共の場所のバックグラウンドミュージックなどへの使用をしてはならない。

【第15条】公共の場で故意に国歌の歌詞や曲を改ざんして国歌の演奏・歌唱を歪曲、毀損した、あるいはその他の形で国歌を侮辱した場合は、公安機関による警告あるいは15日以下の拘留とし、犯罪を構成する者は法に基づき刑事責任を追及する。

日本では『国旗及び国歌に関する法律』(略称:国旗国歌法)が1999年8月13日に公布されて即日施行となったが、同法は「第1条:国旗は、日章旗とする、第2条:国歌は、君が代とする」の全2条で構成されており、中国の国歌法とは好対照をなしている。ちなみに、日本の国旗国歌法には国歌斉唱時に起立する規定が明文化されていないが、中国の国歌法は多くの諸国と同様に起立が明確に義務付けられている。

国歌法が成立した9月1日に記者会見を行った全国人民代表大会常務委員会「法律・制度作業委員会」“国家法室”主任の“武増”(女性)は、ある記者から「国歌(義勇軍行進曲)を携帯電話の着信音やアラーム音に使うのは違法か」と問われて、言葉に詰まり、明確な回答をすることができなかった。これが適法か違法かは興味深いところであるが、最終的な結論はどうなるのか。

新たな長城を築こう

ところで、中国の国歌である「義勇軍行進曲」とはどのような内容なのか。曲は中国関連のニュース番組やスポーツ番組で中国国旗が掲揚される際に演奏されるので誰もが何度も聴いたことがあるはずである。しかし、その歌詞の内容を知っている人はそれほど多くないと思われる。そこで、「義勇軍行進曲」の歌詞を示すと以下の通り。

《義勇軍行進曲》 起来!不願做奴隷的人們! (立ち上がれ! 奴隷になるのを望まぬ人々よ) 把我們的血肉築成我們新的長城! (我らの血と肉で我らの新たな長城を築こう) 中華民族到了最危険的時候, (中華民族が最大の危機に到る時) 毎個人被迫着発出最后的吼声。 (誰もが最後の雄叫びを余儀なくされる) 起来!起来!起来! (立ち上がれ! 立ち上がれ! 立ち上がれ!) 我們万衆一心, (我々万民が心を一つにして) 冒着敵人的炮火,前進! (敵の砲火を冒し、前進!) 冒着敵人的炮火,前進! (敵の砲火を冒し、前進!) 前進!前進、進! (前進! 前進! 進め!)

主題は「十四年抗戦」

「中華民族が最大の危機に到る時」とは何を意味するのか。それは日本の侵略であり、「義勇軍行進曲」は抗日戦争を主題としている。2017年1月、中国政府“教育部”は学校教材の抗日戦争の記述を従来の“八年抗戦”から“十四年抗戦”に改めると発表した。“八年抗戦”とは、1937年(昭和12年)7月7日に発生した“七七事変(盧溝橋事件)”から1945年(昭和20年)9月9日に日本国支那派遣軍総司令官の岡村寧次が“中華民国”陸軍総司令の“何応欽”に投降するまでの8年間続いた抗日戦争を指す。一方、“十四年抗戦”とは、1931年(昭和6年)9月18日に中華民国遼寧省の“柳条湖”で発生した“九一八事変(柳条湖事件)”から1945年9月9日の日本軍の投降までの14年間の抗日戦争を意味する。

抗日戦争は、1931年9月の柳条湖事件から1937年7月の盧溝橋事件が勃発するまでの期間は中国の東北地方に限定されたが、盧溝橋事件を契機として日本軍は中国への侵略を本格化させた。中国政府は抗日戦争の開始を従来は盧溝橋事件以降としてきたが、これを6年遡って柳条湖事件以降に変更して“十四年抗戦”としたのである。要するに、中国国歌である「義勇軍行進曲」は、中国を侵略する日本に抵抗する戦争に参加する義勇軍兵士の士気を鼓舞するための歌なのである。但し、日本軍と戦った主役は国民党軍であって、共産党軍は脇役に過ぎなかったはずだが、不思議なことに中国の歴史ではそれが改ざんされて、共産党軍が主役に転じている。

今年は日中国交正常化45周年に当たるが、その記念式典で両国国歌が演奏されたとすれば、日本は古歌に由来する「君が代」で戦争色は全くないのに対して、中国は抗日戦争に参加する義勇軍兵士の士気を高める「義勇軍行進曲」という奇妙な構図がそこにはある。

日本に留学した劇作家が作詞

さて、国歌として法的に認定された「義勇軍行進曲」はどのように作られたのか。同曲の作詞者は“田漢(でんかん)”であり、作曲者は“聶耳(じょうじ)”であるが、その概略は以下の通り。

【1】田漢(1898~1964年)は、湖南省“長沙市”出身の劇作家、詩人である。1917年に日本へ留学して東京高等師範学校で学び、同じく日本留学中であった“郭沫若”<注>などと親交を結ぶ。帰国後、多数の戯曲を発表して中国を代表する劇作家となり、“南国芸術学院”を創設。1932年に中国共産党に入党し、1935年に自ら脚本を書いた抗日映画『“風雲児女(風雲の男女)”』の主題歌の作詞を依頼されたが、国民党政府に逮捕され、獄中で『風雲児女』主題歌として「義勇軍行進曲」の歌詞を作る。1949年10月に中華人民共和国が成立すると、田漢は中国政府“文化部”の芸術局長に任命された。その後、田漢は中国劇作家協会主席となって活躍した。

<注>郭沫若(1892~1978年)は中国の政治家、文学者、歴史家。1914年に来日し、岡山県の第六高等学校を経て九州帝国大学医学部卒業。日本人女性を妻に迎えたが、1937年に盧溝橋事件が起こると妻を残して中国へ戻る。戦後は政治家として活動した。

【2】聶耳(1912~1935年)は、雲南省“昆明市”出身の音楽家。貧しい医者の家庭に生まれ、幼少から音楽に親しむ。“雲南省立第一師範学校”卒業後、18歳で上海市へ出て間もなく田漢と知り合う。音楽活動に従事し、左翼劇作家連盟音楽チームに所属して多数の映画音楽を作曲。1933年田漢の紹介で中国共産党へ入党。1935年、田漢が獄中で「義勇軍行進曲」の歌詞を作ったことを知ると自ら曲作りを志願して作曲を開始した。これを知った国民党政府が聶耳を逮捕する可能性が高まったことから、中国共産党の指示を受けて日本経由でソ連へ向かうことになった。聶耳は1935年4月18日に東京へ到着した後、「義勇軍行進曲」の原曲を修正し、田漢の歌詞を3回修正して曲を完成させ、完成した楽譜を中国へ送付した。7月17日、神奈川県藤沢市鵠沼海岸で遊泳中に溺死。享年23歳。

【3】聶耳が作曲した「義勇軍行進曲」は主旋律だけで、実際には当時上海で活躍していたユダヤ系ロシア人の作曲家「アーロン・アヴシャロモフ(Aaron Avshalomov)」が伴奏を付けて完成した。しかし、中国はアーロン・アヴシャロモフの名を作曲家から消し去り、その功績を聶耳に一本化したのだった。

【4】1949年秋に“北平市(後の北京市)”で「中国人民第1期政治協商会議」が開催されたが、この会議の中で国歌をどうするかが議論され、田漢作詞、聶耳作曲の「義勇軍行進曲」こそ国歌にふさわしいとの意見が出された。但し、田漢の原詩にある「中華⺠族が最⼤の危機に到る時」はすでに過去の事で、国歌には不適当との意見が出て、聶耳の曲だけを採用して、田漢の詩は捨て、詩は郭沫若に依頼しようかとの案も出た。しかし、最終的にはフランス国歌の「ラ・マルセイエーズ」の例を挙げて、田漢の詩の歴史的意義を尊重することで決着した。

【5】この決定に対して“毛沢東”と“周恩来”の2人は、田漢の原詩は素晴らしく、“居安思危(治に居て乱を忘れず)”の精神も含まれていると絶賛した。1949年9月25日、毛沢東は“中南海”で座談会を開催して、国歌、国旗、国章などの問題を討議したが、この席上で討議を重ねた末に「義勇軍行進曲」を中国国歌とすることで意見が一致した。その後の政治協商会議で全員一致を取り付け、毛沢東が「義勇軍行進曲」を中華人民共和国国歌に採用する旨を正式に宣言した。

【6】しかし、それから17年後の1966年に毛沢東が“文化大革命”を開始すると、田漢は日本留学の影響で思想が毒されているなどの理由で紅衛兵によって批判され、逮捕・投獄されて過酷な虐待を受け、1968年に糖尿病、尿毒症などを併発して獄中で死亡したが、極悪人として死後の名前を“李伍”という仮名で呼ばれる始末だった。1970年、田漢は“四条漢子(四大悪人)”の1人に認定され、1975年には“叛徒(反逆者)”として中国共産党から永久除名の処分を受けた。これ以降、田漢が作詞した歌曲は歌唱することができなくなり、「義勇軍行進曲」も演奏だけで歌詞を歌うことは禁止された。1976年に文化大革命が終結したことにより、1979年に田漢の名誉は回復され、1982年に「義勇軍行進曲」は国歌としての地位を回復した。

【7】2004年、第10期全国人民代表大会第2回会議は“中華人民共和国憲法”を修正して、「義勇軍行進曲」を正式に国歌と明記した。中華人民共和国憲法の第4章は以下の通り。

憲法第4章:国旗、国歌、国章、首都  第136条:中華人民共和国の国旗は、五星紅旗である。       中華人民共和国の国歌は、義勇軍行進曲である。  第137条:中華人民共和国の国章は、真ん中に五星が照らす天安門であり、周囲は穀物の穂と歯車である。  第138条:中華人民共和国の首都は北京である。

日本には文化交流会、紀念広場

「義勇軍行進曲」を国歌と決める際に、フランスの「ラ・マルセイエーズ」の例を参考にしたというが、「ラ・マルセイエーズ」はフランス革命の時の革命歌であり、あくまでフランス国内の内乱で歌われたものだった。これに対して、「義勇軍行進曲」が対象としている敵は侵略者の日本軍であり日本なのである。そのような歌曲を国歌として未来永劫に演奏・歌唱し続けることは、何を意味するのか。この点を考えると「日中友好」という言葉が絵空事に過ぎず、中国が常に反日を政治カードとして持ち出して来る理由が理解できる。

田漢の姪に当たる音楽家の“田偉”(65歳)は日本へ嫁ぎ、現在は「NPO法人田漢文化交流会」の理事長を務め、音楽を通じて日中友好に努めているという。また、藤沢市の鵠沼海岸には1954年に藤沢市民の有志により聶耳の記念碑が建てられ、1986年には没後50年を記念して聶耳の胸像レリーフが建てられると同時に周囲一帯が整備されて聶耳記念広場が作られた。また、毎年7月17日の命日には聶耳追悼式典が挙行されている。

日本へ留学して日本文化の影響を受けた田漢、不幸にも若くして日本で客死した聶耳。聶耳は日本を経由してソ連で向かうはずだったが、居心地が良かったのか3か月間も日本に滞在し、死の当日は鵠沼海岸で遊泳を楽しんでいた。2人は決して日本と無縁ではなかった。その2人が作詞・作曲した抗日映画「風雲児女」の主題歌である「義勇軍行進曲」が、9月1日の国歌法成立によって正式に中国の国歌となったのである。国際スポーツ大会で中国選手が優勝し、その栄誉をたたえて「義勇軍行進曲」が演奏される中を五星紅旗が掲揚される際には、その歌詞が抗日の義勇軍を鼓舞するものであり、反日を意味していることを思い起こさねばならない。

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