“希望(xi1wang4)之党馬上就変成失望(shi1wang4)之党“。中国語普通話では「希望」と「失望」は似た発音です。日本人では聞き分けが難しいでしょう。今次選挙(衆議院&都知事?)で希望の党を選べば確実に失望に変わります。小池・前原は保守を標榜していますが真っ赤な嘘でしょう。二重国籍の蓮舫元代表も泥舟を捨てて乗り換えるのですからどうしようもない。参院議員ですが。この三人には責任感と言うものが微塵も感じられません。反安倍だけで集結するとか言っていますが、国民の生命を守る気概を持ったのはいません。インチキ政党です。人を批判するだけで仕事ができない無能の人の集団です。中山恭子氏も小池の野心の為に保守の看板として利用されているだけです。自民党に復党した方が良いでしょう。まあ、希望の党は本当に左翼・リベラルを加入させないというのであれば、それは歴史的意義のある存在となるでしょうけど。小沢・枝野・岡田・辻元・有田・白真勲・福山・小西・小川・赤松等は当然入れないのでしょうね?(今回の前原の決断は小沢がシナリオを描いたという説もありますが)。
本記事の毛新宇について福島香織氏も論評していましたので9/23本ブログでも取り上げました。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=7248
習近平が毛新宇等太子党メンバーの名を共産党大会の名簿から外したのは、太子党は自分を守ってくれる味方だとは思わず、反旗を翻す力を持った存在と見ているという事でしょう。金三胖が実の兄である金正男を殺害したようなものです。一人独裁は猜疑心が強くなり、周りが総て敵に見えます。スターリンやヒットラー、毛沢東もそうでした。蒋介石も228事件を引き起こし、台湾人民に中国人に対する怨嗟の感情を持つようにさせました。
習の政敵を早めに粛清するやり方は相手の恨みを買い、どこかで高転びに転ぶ気がします。また、金三胖の相手が無能のオバマでなく、トランプである限り、殺害されるか亡命するかのどちらかでしょう。亡命するにしても世界の笑いものになってでも生きることを欲するかどうか。また亡命に成功しても暗殺の可能性もありますし。やはり米朝戦争まで行くのではと思っています。
9/28宮崎正弘氏メルマガに<「考えられないことを考える」と、中国が北朝鮮を攻撃するのではないか 米国の介入を事前妨害の動きなく、しかも米朝開戦なら「中立」と放言>とあります。この中で宮崎氏は「「掌握できていない旧瀋陽軍区を北朝鮮攻撃に際して先頭に立たす」とどうなるか。軍権を掌握できるから「一石三鳥」となるかもしれないではないか。」と書いています。朝鮮戦争時、毛沢東が投降した国民党軍を前線に立たせ壊滅させた故事を彷彿とさせます。
http://melma.com/backnumber_45206_6589058/
9/19本ブログでもEast Asia Forumに賈慶国(Jia Qingguo)北京大学教授が寄稿した記事を紹介しました。それによると北の難民の管理の為、PLA(人民解放軍)を北に派遣することが米軍攻撃の一条件でした。米軍と連携して、中国が北を攻撃することは充分あり得ます。
http://dwellerinkashiwa.net/?p=7218
習が毛新宇を大事にしないのは、毛沢東時代の北朝鮮との「血で固められた同盟」はありえないという意思表示なのかもしれません。
記事
中国共産党“中央軍事委員会”の機関紙「解放軍報」は9月6日付で、「“中国人民解放軍”(以下「解放軍」)と“武装警察部隊”(以下「武警部隊」)が中国共産党第19回全国代表大会に出席する代表を選挙で選出」と題する記事を掲載した。同記事は、「解放軍と武警部隊の31選挙単位が“党代表大会”あるいは“党代表会議”を招集して共産党の第19回全国代表大会に出席する代表303名を選挙で選出した」と報じ、選出された代表の名簿を姓の画数順で公表した。303名の内訳は、解放軍253名、武警部隊50名であり、そこには女性が前者に26名、後者に1名含まれていた。
中国共産党の全国代表大会とは、中国の政治を指導する中国共産党の最高指導機関であり、日本の国会に相当する“全国人民代表大会”より上位に位置付けられ、5年に1回開催される。今年はその開催年に当たり、中国共産党第19回全国代表大会(以下「第19回党大会」)が10月18日から約1週間の予定で挙行される。第19回党大会に出席する代表は合計2300名で、全国の40選挙単位から選挙によって選出される。代表は中央選出と地方選出の2つに区分されており、中央選出は(1)党直属機関、(2)国家機関、(3)企業系列、(4)金融系列、(5)解放軍と武警部隊からなり、地方選出は、(a)直轄市<4市>、(b)省級行政区<台湾省を含む23省>、(c)民族自治区<5自治区>からなる。
太子党優遇の常識、もはや通じず
さて、9月6日付の「解放軍報」が303名の解放軍と武警部隊の代表名簿を報じると、香港の日刊英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト(South China Morning Post)」は「“太子党”<注1>の中で毛沢東の孫は第19回党大会に選出されず」と題する記事を掲載して次のように伝えた。
<注1>太子党とは、中国共産党の高級幹部の子弟たちで特権的地位にいる人たちを指す。
32歳の時、祖父・毛沢東について書いた自著を持つ毛新宇氏(写真:ロイター/アフロ)
毛沢東の孫である“毛新宇”少将、元国家副主席“朱徳”の孫で“空軍指揮学院”副院長の“朱和平”など、中国軍隊内部の太子党の看板と言える人物たちが、第19回党大会の代表に選出されなかった。解放軍と武警部隊が最近発表した303名の第19回党大会代表団の中に毛新宇と朱和平の外に、元国家主席“劉少奇”の息子で元“上将(大将と中将の間)”の“劉源”、元国家主席“李先念”の女婿で“国防大学”元政治委員の“劉亜洲”、元共産党総書記“胡耀邦”の女婿“劉暁江”の名前がなかった。彼ら5人は2012年11月に開催された第18回党大会では党代表であった。
彼らが“習近平”政権の第2期指導部の陣容と新たな指導部による中国最大の政治活動を決定する党大会の代表に選出されなかったことは、彼らが権力の中枢から排除され、事実上今後の軍隊内部における昇進対象から外されたことを意味する。今まで革命元老の子弟に党代表の資格を付与するのは当然の事とされていたが、習近平の政権掌握後は、この政治的背景が影響力を発揮しなくなった。この点について、マカオ国際軍事学会会長の“黄東”は「彼らがそろって党代表に選出されなかったのは、習近平が党元老の子弟の影響力を故意に抑制しているからではなく、習近平が彼らを信頼できない人物、あるいは軍隊を率いる能力がないと考えたからだろう」と述べた。
祖父の威光で最速出世も、陰では…
そこで、「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」紙が当該記事の表題にその名を挙げた毛沢東の孫である毛新宇に焦点を当てて、黄東の言葉を検証してみると以下の通り。
【1】毛新宇は1970年1月17日生まれの47歳。彼は毛沢東の次男“毛岸青(もうがんせい)”を父、その妻“邵華(しょうか)”を母として北京市に生まれた。“族譜(家系譜)”に登録する際の名前である“譜名”を“毛世新”という。後述するが、彼は毛沢東の唯一の“嫡孫(嫡子とその正妻の間に生まれた男子)”という運命を背負って生まれた。2014年3月にメディアの記者が目測したところによれば、毛新宇の体格は身長178cm、体重110kgというから巨漢である。写真で見る限り、彼は幼少期から肥満気味であったが、青年期になるとその体躯はますます肥満の度合を強め、30歳を過ぎる頃に相撲取り同様の体躯に成長して、現在に至っている。
【2】毛新宇は1988年7月に北京第六十七中学を卒業し、1992年7月に“中国人民大学”の“歴史系(歴史学部)”を卒業した。専攻は“明清史(明朝・清朝の歴史)”であったが、“不修辺幅(服装に頓着しない)”ので汚いことで知られ、巨体の彼はどこにいても分かるほどだった。実は、中学卒業時点で、母親の邵華が“北京大学”校長の“丁石孫”を訪ねて、⽑沢東の孫だから北京大学に⼊学させろとごり押ししたが、丁石孫に体よく断られた経緯があったという。その後の毛新宇は、1992年9月から1995年5月まで“中央党学校”の“理論部(理論学部)”修士課程で学び、1993年に中国共産党へ入党、2000年に“軍事科学院”の博士課程へ進学し、それと同時に解放軍へ入隊した。その後順調な軍隊生活を送った毛新宇は2008年7月には軍事科学院戦略部の副部長に抜擢され、2003年7月に博士学位を獲得したが、3500字の博士論文は2005年の全国優秀博士学位論文に選ばれた。2008年には“胡錦濤”総書記の推薦を受けて第11期全国政治協商会議全国委員に選出され、2009年に39歳でこの時点の解放軍内で最も若い少将に任命された。
【3】こう見てくると毛新宇の人生は順風満帆そのものだが、そこには隠された秘密があった。中国の庶民は毛新宇を陰で“猪八戒”と呼ぶ。そう、中国古典小説『西遊記』に登場する“猪八戒”である。西遊記の中で“猪八戒”は“猪臉人身,黒猪模様(豚の顔に人の身体で黒豚の様)”と形容され、“孫悟空”には常に“呆子(間抜け)”と呼ばれ、コミカルな人物として描かれている。毛新宇の写真を見れば分かると思うが、巨漢の彼は誰が見ても“猪八戒”そのものなのである。
【4】毛新宇はその不可解な言動がしばしば注目を集める。彼の揮毫(きごう)好きは有名で、頼まれると喜んで色紙などに様々な文句を書いて署名するのだが、その文字が余りにも幼稚かつ悪筆で、小学校低学年並みと人々から嘲笑されている。あるネットユーザーは毛新宇の文字を“果真, 字如其人(やっぱり、文字は人を表す)”と評している。人々は彼の体形や言動などを総合して、人民大学卒業や党学校修士課程と軍事科学院博士課程の修了は全て毛沢東の孫としての特別待遇によるものであり、全国優秀博士論文に選ばれた博士論文は他人が代筆したものと考えている。そんな彼に解放軍の少将が務まるとは誰も思っていないが、毛沢東の嫡孫であるために公然と文句を言う人間はいなかった。
毛家を絶やさぬために
【5】さて、毛沢東には4人の妻がいた。最初の妻、“羅氏”との間には子供はいなかった。2番目の妻、“楊開慧”との間には3人の息子、“毛岸英”、“毛岸青”、“毛岸龍”を授かったが、毛岸龍は4歳で死亡したため、成人したのは毛岸英と毛岸青の2人だった。3番目の妻、“賀子珍”との間には3人の息子と3人の娘が生まれた。しかし、5人を行方不明や病死で無くし、成人したのは3女の“李敏”だけだった。4番目の妻、“江青”との間には4女の“李訥(りとつ)”が生まれた。要するに、毛沢東には10人の子供がいたが、成人したのは毛岸英、毛岸青、李敏、李訥の4人だけであり、毛家を継げるのは毛岸英と毛岸青の2人だった。
【6】ところが、長男の毛岸英は朝鮮戦争中の1955年11月に解放軍部隊(中国人民志願軍)の司令部付ロシア語通訳として派遣されていた朝鮮で、米軍機の爆撃を受けて死亡した。これには諸説あるが、米軍機の襲撃時に毛岸英は悠然と卵入りの炒飯を作っていたが、米軍機はそこから立ち上る煙をめがけて爆撃を行ったのだという。とにかく、毛岸英は朝鮮戦争従軍中に28歳で戦死し、後に残されたのは次男の毛岸青であった。しかし、毛岸青は30歳頃から精神分裂症を患い、“中南海”<注2>内の医院に入院した後、大連市で療養生活を送っていた。このままでは毛家が絶えると考えた毛沢東は、1960年1月に毛岸英の妻“劉思斎”の妹の邵華(当時21歳)を毛岸青(当時37歳)の嫁として向かえ入れた。当時、邵華は北京大学の学生だった。
<注2>中南海は北京市中心部にある中国共産党や中国政府の重要機関や要人の住居がある場所。
孫に会わなかった理由は
【7】邵華と結婚はしたものの、精神分裂症が進行していた毛岸青には妻と性交渉を行うことができず、子供が生まれる可能性は絶望的だった。一説によれば、この状況を心配した“国務院総理”の“周恩来”が、解放軍301医院に命じて人工授精を行わせ、二回目で成功した結果、1970年1月に毛新宇が生まれたという。しかし、中国で最初の人口受精は1983年に“湖南医学院”で成功したとされており、この説には説得性がない。毛新宇誕生の報告を受けた毛沢東は、全く興味を示さずにこれを無視し、2回目の報告を聞くと読書中の手を休めて、他人事のように「ああ、世界に飯を食う口がまた一つ増えた」と述べたという。毛新宇という名前は毛沢東が命名したというが、不思議なことに、毛沢東は1976年9月9日に亡くなるまで、嫡孫である毛新宇と会うことはなかったという。一方、毛新宇は生前の毛沢東と何度も会ったと吹聴しているが、これは多くの人が嘘と断定している。
【8】毛沢東はどうして待ち望んだ跡取りである嫡孫の誕生を喜ばなかったのか、また、亡くなるまでの6年9カ月の間に毛新宇と会わなかったのか。その理由は不明だが、毛沢東は毛新宇を毛岸青の子供とは認めていなかった可能性がある。ある説によれば、以下の理由によるという。
(1)21歳で毛岸青の妻となった邵華には当時1歳違いの恋人がいた。それは解放軍大将“徐海東”の息子の“徐文伯”であった。しかし、邵華の母親の“張文秋”は2人の仲を引き離して、邵華を無理やり分裂症の毛岸青に嫁がせた。この結婚を邵華がどれほど嫌がっていたかは想像できる。邵華は毛岸青に嫁いだものの、若い身空で夫との性交渉もない生活を余儀なくされた。そして嫁して10年後の1970年に邵華は毛新宇を産んだ。上述の通り、当時の中国には人口受精の技術はなかったというのなら、邵華はどうやって身籠ったのか。
(2)肥満体である毛新宇の頬はパンパンに張っていて、毛沢東のように垂れ下がっていない。もし彼が毛一族の血を引くのならば、頬も垂れ下がっているはずである。これに対して邵華との仲を引き裂かれた徐文伯は肥満体であり、その頬は毛新宇と同様にパンパンに張っている。「これは徐家の太り方であって、毛家の太り方ではない」と情報筋は語っている。
(3)2008年に邵華が69歳で死亡すると、毛新宇は翌年(2009年)12月26日の毛沢東生誕116年式典に、母親が在世中と同様に叔母に当たる李敏と李訥および“堂叔(父のいとこ)”である“毛遠新”と一緒に参加しようとしたが、彼らから拒否されたという。ここから見えてくるのは、毛家では毛新宇を一族とは見なしていないと考えられるのである。
(4)なお、徐文伯は1937年生まれで、現在80歳。邵華とは北京大学で学部は違うが先輩後輩の関係にあった。1990年から1999年まで中国政府“文化部”副部長を務め、その後は全国政治協商会議全国委員を2期(10年)務めた。
【9】話は変わるが、毛新宇は2回結婚している。最初の結婚は1997年12月で、彼が27歳の時だった。相手は旅行の途中で立ち寄った山東省“泰安市”にあるホテルの食堂でウエイトレスをしていた“赫明莉”(当時25歳)であった。一介のウエイトレスと嫡孫の毛新宇とでは全く釣り合わないが、毛新宇が赫明莉に“一見鐘情(一目ぼれ)”して強引に押し切ったと言われている。しかし、この結婚は長く続かず2000年に離婚した。
【10】毛新宇の2回目の結婚は2002年で、相手は当時25歳で解放軍医療従事者の“劉濱”(当時25歳)であった。毛新宇は2000年に赫明莉と離婚したすぐ後に、友人の紹介で劉濱と知り合って恋に落ちたという。劉濱は毛新宇との間に2003年12月26日の毛沢東生誕110周年の記念日に男児“毛東東(もうとうとう)”を、2008年8月に第2子となる女児“毛甜懿(もうてんい)”を出産した。2005年2月には毛東東の満1歳を記念した郵便切手が発行された。なお、最初の妻であった赫明莉は2002年に毛新宇が劉濱と結婚した直後に、秘密裏に北京市内の“秦城監獄”へ収監されたという。そして、赫明莉は毛東東が誕生した2003年12月26日の3日後に同監獄内で突然死を遂げたと言われている。その原因は、赫明莉が毛新宇の性的不能という秘密を外部に漏らしたためという説があるが、これが正しければ、劉濱は2人の子供を人工授精で出産したことになる。
さらなる大鉈を
毛新宇が毛沢東の嫡孫かどうかはDNA鑑定を行えば、簡単に判定結果が出るだろうが、中国の国家としての面子に関わることだから、敢えてそれが行われることはないだろう。上記の諸点を考慮すれば、毛新宇が解放軍の少将として相応しいか否かは明らかであり、習近平が第19回党大会の解放軍代表名簿から毛新宇を外したのは言わずもがなの事と言えるのではないか。大した能力もなく、努力もしないのに太子党という特権階級にあぐらをかき、解放軍内でスピード出世を果たす輩(やから)を野放しにすれば、解放軍内に腐敗が蔓延するのは必定で、深刻な戦力低下を来すことは間違いない。それを防止するために、習近平は太子党からの激しい反発を覚悟で無能者や不満分子に大鉈(おおなた)を振るったのではないだろうか。
中国の古典『淮南子』に「“見一葉落, 而知歳之將暮(一葉落ちて天下の秋を知る)”」とあるが、これを前触れとして、習近平は太子党に対してさらなる大鉈を振るうことになるのだろうか。
良ければ下にあります
を応援クリックよろしくお願いします。