陳破空氏の『常識ではあり得ない中国の裏側 中国人だからよくわかる』から、中国人の民族性、「騙す方が賢く、騙される方が馬鹿」というのが良く分かる話を紹介します。漢民族は嘘つきが当り前です。まあ、日本人経営者も東芝、てるみくらぶ、籠池氏を見ていると他人のことも言えませんが。メデイアと教育の責任は大きいと思います。彼らに騙されないように眉に唾して見ないと騙されます。
・共産党は今も昔も「“人民元”の為に働く」(P.67)。これは毛沢東が言った“為人民服務”をもじったもの。拝金教の意味です。
・中国嫌いで西洋崇拝者の世界一の殺人者—「建国の父」毛沢東の知られざる素顔(P.85)。ヒトラーは600万人のユダヤ人を虐殺し、スターリンは1200万人のロシア人を虐殺した。だが毛沢東が虐殺した中国人は少なくとも3000万人以上に上る。大躍進に因る餓死者を合わせれば7000万人以上(8000万人以上との説もある)の中国人が命を落としている。(P.86)
・危険な覇権主義、冒険主義の行き着く先(P.96~98)。中国政府にとって軍拡の本当の目的は、実は対外的なものではない。国内、すなわち中国の民衆に対してであり、独裁政権の存続を守ることが目的。第一段階は中国人民をターゲット。第二段階は台湾をターゲット。第三段階は周辺諸国をターゲットにし、アメリカを挑発すること。中国共産党が狂ったように軍拡を押し進めるその目的は、中国国内のみならず世界をコントロールするため、中国人民のみならず世界の人々を奴隷化するため。
・最強の友人関係か、はたまた従属関係か?—隣国ロシアとの100年に亘る愛憎劇(P.106)。これまでの歴史のどこを見ても、ロシア人が中国に入ってくるたびにもたらされたのは、例外なく大きな災難。
・19世紀のドイツの哲学者ヘーゲルは中国について研究し、次のように指摘している。「中華帝国は神権政治を実施する全体主義国家である。父親が個人を制御する家父長制の思想が、その政治体制の根幹を為す。この暴君は多くの等級を通してただ一つの組織系統をもつ政府を指導する。個人は精神上の個性を有していない。中国の歴史とは本質的には歴史がなく、ただ君主が入れ代わり立ち代わり減亡しては復興しているにすぎない。そこからは如何なる進歩も生まれることはない」
へーゲルの判断は基本的に正しい。
思想と文化に対する厳しい取締りは、歴代王朝はみな似たり寄ったりで、このため民族の生命カはがんじがらめに抑制され、中華民族を保守的で活力のない民族へと変貌させた。今日の中国共産党による独裁の世は、これが極限に達した状態である。
今の中国は、過去数十年にわたる経済成長を経験し、再び繁栄の世を謳歌しているかのようだが、中国の市場経済はいまだに強固な一党独裁の政治制度に阻まれて、これ以上前に進むことができないでいる。「復興した」中国は、再びさまざまな面で泥沼にはまり込み、 あちらこちらで綻びが生じている。いわゆる「空前の盛世」とは一時の強がりの言でしかなく、実を伴わないため、持続的に維持していくことは難しい。今日の中国の「盛世」と は、漢唐の盛世にははるか及ばず、時代に逆行して継続し続ける一党独裁のもとで咲いた“あだ花”だから、今にも崩壊寸前なのである。(P.148~149)。やはり中国で民主主義の芽が育つのは難しいのでは。香港という小さな土地ですら民主主義を認めないのですから。
・モンゴル人は漢人が反乱を起こさないよう、漢人の武器所有を禁じた。包丁ですら何家族かで1丁を共用しなければならず、しかもその包丁は村を管轄するモンゴル人の家にあり、許可がなければ、漢人はそれを使って調理することもできなかった。このため、漢人はモンゴル人を「老竈爺(“竈の旦那様)」「老竈姐(“竈の奥様)」と呼んだ。
また、毎年旧暦の12月23日には、漢人の各家庭はモンゴル人の家へご馳走を届けてご機嫌うかがいをしなければならなかった。これが今に伝わる「祭竈(竈の神を祭るしきたり)」の由来である。モンゴルによる中国滅亡は、遊牧民が農耕民族を征服し、遅れた文明が進んだ文明を減ぼした世界史上初の例であった。これは中国にとって大きな不幸であり、人類史に暗い1 ページを刻んだ。ある歴史学者は「崖山の後、中華は消滅した」と述べた。
モンゴルのチンギス•ハンも、自分の死後、中国人が自分を「中国人」だと見なして盲目的に崇拝しようなどとは、思いもよらなかったであろう。征服され奴隸化された人々が、征服者をなおも拝するとは、非論理的であり得ないことだ。中国はあたかも「ストックホルム症候群」に冒された病態にあるともいえるのである。(P.153)
・辛亥革命が生んだ成果が維持されなかった原因はいくつかある。まず、2000年もの独裁体制を経験してきた中国において共和思想を育む土壌は肥沃ではなく、いまだ独裁観念が支配的だったことだ。人々に国民としての自覚が欠けていたため、ちょっとした問題が起こると耐えることができず、「何が新しくて共和国で民主的だ」「全体主義で独裁の昔の中国と同じじゃないか」という潜在意識が働き、新国家建設への支持や意欲を結局なくしてしまう。政治的野心を持つ者も権力に目が曇ったまま蜂起し、軍事力の増強や縄張りの拡人に躍起となり、権力の獲得に夢中になってしまった。
外国の強敵、ソ連や日本はこの機に乗じて中国を分割しようと企み、中国の知識人に影響を与えて転向を促した。また、ある思想家は「救亡が啓蒙を圧倒する」(滅びつつある国を救うことは、啓蒙を行うことよりも緊急の一大事である)と提起した。こうして言論界は衰退していき、これにより政治的野心家や独裁を復活させようとする者たちを、さらにのさばらせることとなったのだ。こうしてついに共和制中国は消滅し、民主という胎児は生まれ得ぬまま一生を終えた。これが近代中国にとって非常に大きな悲劇なのだ。
だが歴史はまだ終わってはいない。今日の共産中国は歴史における1つの過程にすぎない。フランス革命に成功した後も、共和制がいったん中断され、独裁勢力が一時勢力を盛り返したこともあった。共和制と独裁制を繰り返しながら、第2次世界大戦後、5回目の共和国を建設し、フランスの民主と憲政はやっと定着したのである。
人類の歴史とは曲がりくねった道である。どの国も理想へ一直線などといううまい話はないということを、肝に命じなければいけない。(P.158~159)
・この時、袁世凱と宋教仁の関係は良好だったが、孫文と宋教仁の関係は決裂していた。まさに絶好調の宋教仁に孫文は深く嫉妬していたのだ。
孫文は宋教仁暗殺事件を口実として、袁世凱への攻撃を開始する。1913年7月、「第2次革命」を発動して袁世凱陣営を破り、袁世凱は日本へと亡命する。(?)孫文は1911年の暮れに中国に帰国して以来、袁世凱を倒して自分が出世することだけを目的としてきた。
国家の大局などにはおかまいなしであった。
孫文はただ大総統になりたかった。当時の情勢では、選挙によってそのチャンスを獲得するしかなかった。だが、孫文は自分が党内でも、また国民からも人望がないことをよく知っており、選挙によって大総統に選ばれることは難しいとわかっていた。だから、「第 2次革命」の狼煙を上げ、共和への道を歩き出した新生中国を再び、ぶち壊し、自分が総統になるために最初からやり直ししようとした。自分以外の者によって実現された共和政治は孫文にとっては価値がなく、自分自身の手によって実現してこそ価値があるものであったのだ。
そのためには誕生したばかりの中華民国を再び混乱に陥れることもいとわなかった。「天下為公(天下は公の為に)」とは笑わせる。「天下為私(天下は私の為にこそが彼の本心だったのだ。(P.164)
・打ち続く「天災3割、人災7割」の去則—未だ報われない「大躍進」での犠牲者3800万人
1959年から1961年まで数千万人の中国人が餓死したことについて、中国の教科書は「3年間の自然災害」「困難な3年問」などと表記している。
当時の劉少奇主席は毛沢東の「天災7割、人災3割」との言葉を看過できず、「7 千人大会」で「私が思うに天災3割、人災7割であった」と発言。これが毛沢東の逆鱗に触れ劉少奇は後に文革で死に追いやられる。
1950年代末、毛沢東は「大躍進」運動を発動した。「米英を追い越せ」をスローガンに、「中国人民には勇気があり、広大な土地という財産を持っている」と人々にハッパをかけ、農工業全般の大増産を求めた。毛沢東自ら「衛星を打ちあげる」よう鼓舞、(大躍進中に虚偽の生産量を記した生産物を衛星に見立てて描き、ポスタ—化した)。こうして、無意味な政策のもと、設定された高すぎるノルマを達成するため、「1ムー(1畝=6.7アール)当たり5000キロの収穫」などという水増し報告が横行した。さらに、全国で乱獲や森林伐採が行われ、生態系は壊滅的な状態に追い込まれたのだ。さらに致命的だったのは、国民経済の崩壊を招いたため、大飢謹の速鎖をもたらしたことだ。1960年代初頭、大躍進の失敗で少なくとも3800万人(4300万人という 説もある)が餓死した。わずか3年という短期間で発生した餓死者数は、中国数千年の歴史における餓死者の総数を超えたのだ。
同時に中国共産党政府は原爆製造に国カを惜しげもなく注ぎ、人民の財産を浪費した。 中国が製造した1発目の原子爆弾は41億ドルかけて製造された。イギリス在住の中国人作家張戎は、もしもこの1発の原爆にかけた費用を国民のために使っていたなら、当時の物価に基づいて計算すれば、「餓死した3800万人は、本来1人として死ぬことはなかった」 と指摘している。また、中国人作家楊継縄は大量の資料を分析し中国大飢饉の真相を暴いた『墓碑』を上梓し、米ハーバード大学から「ルイス• M .ライオンズ賞」を受賞した。だが中国政府は楊氏が受賞のために出国するのを禁じたのだ。
この大躍進による飢饉も含め、中国共産党の統治下で起きたほぼすベての災難は天災より人災による側面のほうが大きい。たとえば1976年に唐山大地震が起き、死者24万 人、重傷者16万人という甚大な被害が生じた。だが、その死傷者の数を政府が公表したのは発生から3年も経ってからだ。死者が最も多く、損失が最も大きく、救援が最も乏しく、 復興が最も遅い、という点で世界に類を見ない地震災害といえよう。(P.178~179)
陳破空氏は天安門事件で広州での民主化運動のリーダーとして活躍、4年半に及ぶ投獄生活を送りました。如何に共産党一党独裁が人権無視のひどいシステムか分かるでしょう。日本の左翼人士はこういう現実を見ながら、日本を中国のものにするため策動しているのですから。今回の森友問題も日本共産党、反日民進党、社民党、自由党(一番自由でない党、中核派に牛耳られている)、同和が倒閣の為、共同戦線で動いています。ネットでは裏の動きを伝えています。メデイアが反日民進党の恫喝に屈しというか、元々仲間だと思いますが、フジ・産経以外は辻元議員の嘘を報道しません。籠池氏も、辻元議員も公の場での嘘つきです。日本人の劣化も極まれりです。まあ、日本人のなりすましの可能性もありますが。
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香港の行政長官選挙は茶番であり、北朝鮮の代表選びと何ら変わることがありません。一番問題なのは国際的な公約である「一国二制度」を中国が反故にしているのに、英国が何も言わない所でしょう。英国も落ちぶれたとしか言いようがありません。まあ、EU離脱でそれどころではないのかもしれませんが。
記事
香港の行政長官選挙では親中派の林鄭月娥が、世論調査で高い支持を集めていた曾俊華を大差で破ったが…(写真:ロイター/アフロ)
先週の日曜日は香港の行政長官選挙であった。2014年秋の“雨傘革命”はまさに、この選挙において“普通選挙”を実施しようと願った反政府運動、反中国運動であり、結局は挫折したのだった。なので、今回の選挙は約1200人の「選挙委員」による間接選挙のままである。結果から言えば、中国共産党中央が推していたとされる、元政務官の林鄭月娥(キャリー・ラム)が、香港大学の世論調査で56%とラムより27ポイントも高い支持率を誇る曾俊華(ジョン・ツァン)候補にダブルスコアの大差で勝利し、香港初の女性行政長官となった。世論調査の支持率と選挙結果が違うのは、米国大統領選挙の例もあるので、不思議なことではないが、米国選挙と違うのは、世論調査結果が操作されているのではなく、選挙結果の方が“コントロール”されているということだろう。しかもそのコントロールバーを握っているのは中国である。
中国への返還から20年目、選挙結果から香港の行方を考えてみたい。
777票にまつわる噂と汚れ役の責務
投票総数1194票、有効票1163票のうちキャリー・ラムの得票は777票。対抗馬のジョン・ツァンは365票。香港本土派が最も期待を寄せていた元裁判官の胡国興はわずか21票。ラムのスロットマシーンのジャックポットのような得票数は何かを暗示しているのかもしれない。七の広東語発音が、侮蔑語の発音と似ていることから、選挙管理当局がひそやかな抵抗の気持ちを込めて、この得票数にした、などという噂も流れた。
しかしながら、同じく行政長官選に出馬した親中鷹派の葉劉淑儀(レジーナ・イップ)と比べれば、政務官として、それなりに真面目に仕事をしてきた有能な官僚という印象もある。彼女の不人気は、「雨傘革命」が発生したとき、梁振英(CY・リョン)行政長官に代わって、メディアで政府の立場を発言し、学生代表らと対面したときの譲歩を拒否した強面の印象と、北京が露骨に後押していることがあるからだろう。だが、逆に言えば、一官僚としての立場と責務を自覚しての汚れ役を引き受けたわけで、少なくとも学生たちとの対面を逃げ回っていた行政長官よりもよっぽど、ましである。
生い立ちを振り返れば、湾仔のボロアパートで育った庶民家庭出身で、香港大学社会科学科で学位をとり、ヒラの一公務員からキャリアを積んで、最終的に香港初の女性行政長官に上り詰めた。その行政能力の高さは推して知るべしだろう。しかも出馬会見で「(出馬は)香港のために働けという神の思し召し」と締めくくるほどのクリスチャンでもある。
習近平はツァン推しだった?
そもそも、対抗馬のツァンも元財政官で親中派。雨傘の学生たちに理解を示すなどリベラルな面が注目されているが、香港基本法23条に基づく国家安全条例(詳細は後述)の制定に反対はしていない。どちらが当選したとしても、香港の明るい未来につながるとはいえない。ラムを推していたのは、党中央の中では、張徳江ら、上海閥や旧香港利権派で、習近平は実はツァンを推したかったが、党内権力闘争に負ける形で習近平サイドが妥協した、という説もある。香港でもっぱら流れているこの噂を信じるならば、香港の選挙であっても、その実は中国党中央のおなじみの権力代理闘争に過ぎなかったといえるかもしれない。
ちなみに、香港の今回の選挙が上海閥と習近平の代理権力闘争であり、習近平は実はツァンを行政長官にしたかったという噂の根拠は、ツァンが習近平の経済ブレーンと親交があり、習近平自身とも2回も握手したことがあるという香港紙「信報」などの報道や、中国太平保険(習近平に近い国有保険会社)の宣伝紙「太平報」がツァンを大絶賛し、ラムを批判する4000字の記事を書いた(2月27日付け)ことなどに求められている。
全人代常務委員長(国会議長に相当)の張徳江が深圳に赴き、香港の親中派議員や団体・組織の代表を呼びつけて、ラムを中国共産党中央が推す唯一の候補だと、全面支持するよう党の意向を伝えたと報じたのは香港紙明報(2月6日付)や成報。これらは、どちらかというと親習近平派と見られているメディアで、ラムが党中央とべったりだ、というマイナスイメージを流そうとしたのかもしれない。共産党が応援すると候補の人気が落ちるということは、彼ら自身もよくわかっているらしい。
中国メディアが、選挙一か月前に、ツァン持ち上げ報道をする、というのは異常な感じがするので、やはり党中央の意向が選挙直前まで割れていたという可能性はある。そういえば、選挙2日前の香港紙、星島日報で、「党中央は曾俊華を信用していない」と発言した全国政治協商委員会副主席の盧文瑞が、急に汚職で罷免されたという未確認情報(大紀元の独自取材)が流れたのも、ラム当選について、習近平自身が沈黙を守っているのも、奇妙といえば奇妙である。
実際、香港社会の急な不安定化は党中央の権力闘争とリンクしている。香港は少なくとも習近平政権発足前までは、上海閥、特に曾慶紅がその利権をほぼ完全に掌握していた。例えば国務院香港・マカオ事務弁公室トップを13年務めてきた廖暉も、中央政府駐香港連絡弁公室(中連弁=中国の在香港大使館のようなもの)のトップの張暁明も、曾慶紅の子飼いの部下であり、彼らの後押しで行政長官を務めていた梁振英も上海閥の利権とからんでいた。宋林(華潤集団元董事長)や蕭建華(明天系創始者)ら、香港経済・金融の重鎮も曾慶紅の側近だ。香港芸能界、スポンサーも、ほぼ曾慶紅人脈に牛耳られていた。
最大の受難は「国家安全条例」の制定
だが、その曾慶紅の子飼いたちは、現在までにほとんど失脚させられている(張暁明は一時消息不明で双規の噂が流れていたが、彼は選挙直前になって無事が確認された)。しかも、すでにこのコラムでも取り上げた蕭建華事件などの例を見てもわかるように、この権力闘争とみられる現象のあおりで、香港の一国二制度があからさまに踏みにじられることも一度や二度ではない。
今回の香港行政長官選挙が、上海閥VS習近平派の代理権力闘争で、上海閥が勝利し、習近平としては、あまり面白くない選挙結果であるとしたら、香港の受難はむしろこれからである。最大の受難は、おそらく、基本法23条に基づく国家安全条例の制定を迫られることだろう。
国家安全条例は、いわゆる香港における治安維持法で、香港内に居住する市民、外国人に対して、中国共産党政権、体制に脅威を与える人間を反乱煽動の罪などで逮捕できる法律だ。民主活動家や法輪功学習者、香港本土派・独立派なども、こうした脅威とみなされる可能性があり、もしこの法律が制定されれば、香港の言論空間は厳しく制限され、中国本土と変わらない言論・報道・思想の統制が進むことになる。2003年の董建華長官時代、中国当局は一度、この法律の制定を試みたが、香港市民の激しい抵抗にあい、香港の安定を優先した中国・胡錦濤政権は、これを断念した経緯がある。
だが、習近平政権は、香港市民がいかなる反対運動、抵抗運動を展開しようとも譲歩をすることはないのではないか。
一般にキャリー・ラムのように世論調査で支持率が極めて低い候補を北京の操作によって無理やり行政長官につけた場合、世論の反感を抑えるために、政権発足当初は香港に対して厳しい要求をしないよう北京サイドが手心を加える様子見期間がある。せっかくできた傀儡政権を早々につぶすわけにはいかないからだ。梁振英が行政長官に就任したばかりのときの北京の態度がそうだった。
自らの失敗を政敵の失敗で相殺
だが、もしキャリー・ラムが習近平の“コマ”でないならば、その支持率が低迷し、香港市民から激しい抵抗運動が起きようとも、香港社会が不安定化したとしても、責任は張徳江ら上海閥のせいと突っぱねることができる。現在の香港の不安定化の根っこは、習近平政権になって香港・台湾のコントロール強化をあからさまに急ぎすぎたことで、市民が危機感に目覚めたからであり、ありていに言えば、習近平の対台湾、対香港政策の失敗だとされている。この失敗を相殺するには、より大きな、政敵による香港コントロールの失敗を招けばいい、ということになる。
すでに習近平は雨傘革命のときも、一切の妥協をせず、香港の混乱が2か月半におよび、その経済的信用が地の底に落ちても気にしなかった。それどころか、この香港の混乱の責任を理由に、曽慶紅人脈の筆頭であった廖暉を失脚させるなど、権力闘争に利用している。さらに、銅鑼湾事件や蕭建華事件のような香港の司法の独立を平気で踏みにじるようなこともしている。
秋には党大会が控えており、権力闘争はこれからも激化するだろう。香港は、間違いなくその権力闘争の一つの戦場だ。返還20年という今年の7月1日、新行政長官の就任も兼ねた香港の中国返還記念式典に、習近平は出席すると見られている。また習近平は解放軍駐香港部隊の閲兵式も行うとの観測も出ている。
このときにもし、香港市民による大規模デモがぶつけられたら、習近平はどうするだろうか。2015年に話題となった香港映画「十年」のシナリオではないが、習近平も、その政敵も香港の安定より権力闘争をいかに勝ち抜くしか考えていないとしたら、どのような流血沙汰の陰謀が仕掛けられるかもしれない。このときの政権の対応次第では、50年維持すると中英共同宣言で決められた一国二制度が、20年で放棄される可能性もゼロではなかろう。
ラムは当選を受けての演説で、自分の使命は、香港の分裂を修復し、一国二制度と香港の核心的価値を守ることだと語り、香港の若者たちの意見や主張を重視していきたいと殊勝に語った。その言葉に嘘がないならば、(クリスチャンの彼女が嘘をつかないとしたら)、彼女の行く先も、香港の行く先も、茨の道でしかない。
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