池田信夫『戦後リベラルの終焉』を読んで

本書を読みますと日本をダメにしたのは過剰なサクセシズム(立身出世主義)ではないかという気がします。公益よりも私益、東芝の不適切会計にも見られるように、自分だけ良ければ良いという発想にリーダーがなっているというか、そういう人でないとトップになれない所が大きな問題でしょう。東芝はすぐに見つかり、責任を取らされますが、朝日新聞は責任を取っていません。誤報をして世界を誤導し、国益を大いに損ねた訳ですから、国際的にキチンと数か国語で「慰安婦報道は事実でなかった」と謝罪記事を掲載すべきです。

左翼が日本を蝕んでいます。沖縄でも、今度の集団安保法制の国会周辺デモでも、左翼くずれの老人と2万円貰ったアルバイトで、警察発表6千人のところメデイアは10万人とか発表する訳ですから、捏造以外の何物でもありません。中国共産党のやり方と一緒です。ひどいのは保守派のデモの方が数が多い場合があるのに一切報道しません。腐っています。こんなメデイアを信じるから誤判断する訳です。やはり、不買をしなくては経営陣には分からないでしょう。といっても小生は当然朝日新聞を取っていませんので、取っている人が不買しないと効果はありません。

今は、反日メデイアは反戦を貫いていますが、日本人が中韓に怒っていることを感じていません。中国が尖閣に侵略を開始しても何も言わなければ部数を今以上減らすでしょう。朝日・毎日はどういう報道をするのでしょうか?部数が減っても今と同じ主張(反戦)を貫くのでしょうか、それとも打って変わって戦争をアジるのでしょうか?興味のあるところです。間違いなく中国は尖閣を取りに来ます。いつとか言えないだけです。裏でアメリカと握る可能性もありますけど。アメリカは正義の警察官ではありませんから全面的に信用するのは危険ですが、今の所日米で中国に対抗するしか方法はありません。

内容

P.29~43

大誤報の主役は植村記者ではない

一九九ニ年の大誤報を書いたのは、報告書にも書かれたように、東京社会部の辰濃哲郎記者(のちに別件で懲戒解雇)だった。彼は当時、厚生省クラブだったのに、なぜか吉見義明(中央大学教授)からの売り込みで陸軍省の副官通達を記事にしたと書いている。

しかも売り込まれたのが九一年十二月二十四日ごろで、記事にしたのが正月休みをはさんだ一月十一日だという。その記事と一緒に出た「メモ」に「挺身隊の名で強制連行」と」 書かれていたことが、問題の発端だった。辰濃はこう書いている。

この「メモ」は私が書いたものではないのだが、一面の記事の執筆者として誤リ気づかなかったことを問われれば、全責任は私にある。おそらく「メモ」を書いた記者はデスクに指示されて、過去のスクラップを参考にして書いたに違いない。【中略〕

この点については謝罪させていただきたい。少なくとも、両者の混同が明らかになった時点で、それを修正すべきだった。(『朝日新閒日本型組織の崩壊』P.158)

この説明は不自然だ。一面トップで政府の方針をゆるがすような記事が、正味一週間で書けるものではない。しかも書いたのは、歴史には素人の医療担当記者。それをチエックしたデスクが複数いるはずだ。その記事が宮沢訪韓の直前に出たのも、偶然とは考えられない。 ただ辰濃もいうように、本質的な責任は「两者の混同が明らかになった時点で修正」しなかった編集体制にある。少なくとも九ニ年四月には「強制連行」は嘘だという事が判明していたのに、いまだにそれを認めない。

これを検証した第三者委員会にも問題がある。「朝日新聞の国際的な責住は重くない」と主張した林香里委員は、「吉見義明教授の裁判闘争を支持し、『慰安婦』問題の根本的解決を求める研究者の声明」の賛同者であり、第三者とはいえない。

吉田清治に関する一九八二年の記事についても、朝日の論説委員だった長岡昇が二〇一四年十二月二十三日のブログ記事でこう指摘している。

今年八月の慰安婦特集で、この記事を執筆したのは「大阪社会部の記者(66)」とされ、それが清田治史記者とみられることを、このブログの丸月六日付の文章で明らかにしました。清田もその後、週刊誌の取材に対して事実上それを認める発言をしています。

ところが、朝日新聞は九月二十九日の朝刊で「大阪社会部の記者(六六)は当時国内にいなかったことが判明しました」と報じ、問題の吉田講演を書いたのは別の大阪社会部の.記者で「自分が書いた記事かも知れない、と名乗り出ています」と伝えました。しかも、今回の報告書ではそれも撤回し、「執筆者は判明せず」と記しています。

彼もいうように「第二社会面のトップになるような記事を書いて記憶していないなどということは考えられません」。誰かが嘘をついているが、清田も記者会見に出てこない。元役員だったのだから、責任は重大である。

この問題の主役は植村ではない。彼はデスクに命じられてニ本の署名記事を書いたにすぎない。このキヤンぺーンの責任者は、当時の大阪社会部デスクの鈴木規雄である。この点は、植村も『現代ヒジネス』で、青木理のインタピユーにこう答えている。

ところで、韓国への出張取材は、どうして植村さんが行くことになったんですか。

植村「僕は慰安婦問題の取材はしたことがなくて、在日韓国人政治犯の問題をずっとやっていたんですけど、韓国語もできるし、規さん〔鈴木規雄〕は広い目で(部下を) いろいろ見ててくれたから、そういうのがあって派遣されることになったんだと思います」

これは重要である。というのは、報告書にも鈴木が登場するからだ。

辰濃は上記朝刊1面記事を中心となって執筆したものの、従軍慰安婦の用語説明メモの部分については自分が書いたものではなく、記事の前文もデスクなど上司による手が入ったことによリ、宮沢首相訪韓を念頭に置いた記載となったと言う。用語説明メモは、デスクの鈴木規雄の指示のもと、社内の過去の記事のスクラップ等からの情報をそのまま利用したと考えられる。

なんと一九九一年八月に植村に韓国出張を命じた大阪社会部の鈴木デスクが、翌年一月には東京社会部に転勤して、宮沢訪韓の直前の記事の執筆を指揮したのだ。これは書いた記者も別であり、偶然とは考えられない。大阪から東京に拠点を移し、社を挙げて慰安婦キャンぺーンを張った責任者は、明らかに鈴木である。

それだけではない。鈴木は一九九七年の慰安婦特集のときは、大阪社会部長としてその原稿をチエックする立場にあった。若宮啓文政治部長は「吉田清治の証言は虚偽だ」という訂正を出すべきだと主張したが、清田外報部長と鈴木部長が握りつぶして「真偽は確認できない」といった曖昧な記事になった。

その後、鈴木は東京社会部長になり、大阪本社の編集局長になった。つまり慰安婦問題は、植村個人の誤報ではなく、朝日新聞の幹部が企画し、社を挙げて実行したキャンべーンであり、これは朝日の構造問題なのだ。それがこの問題が嘘とわかってから、二十年以上も隠蔽された原因である。

左翼的な出世主義

鈴木規雄は一九四七年生まれの団塊の世代である。早稲田大学を卒業して朝日新聞社に入社し、大阪社会部の記者として活躍し、社内では「規さん」と呼ばれて親しまれた。蜷川京都府知事や黒田大阪府知事などの革新自治体が誕生したー九七〇年代には、朝日新聞として彼らを支援するキヤンペーンも張った。

新聞社にはデスクから編集幹部などになる行政職コースと、編集委員や論説委員になる専門職コースがあるが、行政職が本流である。鈴木の歩んだキャリアは本流中の本流だった。 彼が二〇〇六年に死去したとき、ある記者は彼が大阪本社の編集局長だったときの思い出をこう書いている。

個人情報保護法をめぐる論議がふっとうしていたころ、規さんが大阪朝日の勉強会に呼んで下さったことがあった。そのうちあわせのため夜十一時半に編集局に電話した。 「こんな遅い時間に編集幹部がいらっしゃるんですか」

「何言ってるんだ。毎日ですよ。十二時前に局をはなれたことはないよ。一字一句川柳にいたるまで全部目を通すんだから」

それが彼の憤然とするような答えだった。

勉強会の帰路にたつとき、はにかんだような表情で一冊の本を下さった。赤報隊を名乗る集団の凶弾にたおれた小尻.記者のお母さんの句集だった。

鈴木が取り組んだのは、一九八七年に阪神支局の小尻記者がテロリストに殺された事件をきっかけに朝日が始めた、市民の「もの言う自由」の現状を検証する長期連載企面「『みる・き<・はなす』はいま」だった。彼は記者、デスク、部長として十五年間、このキャンペーンを続けた。

彼とともに慰安婦キャンぺーンを張った大阪本社論説委員が、北畠清泰だった。彼は一九九ニ年一月二十三日のコラム「窓」では、吉田清治の「国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、一年ニ年と監禁し、集団強姦し、そして日本軍が退却する時には載場に放置した」という話を紹介し、「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」という名言を残 した。

元同僚によると、北畠は一九八八年ごろから吉田清治と電話で連絡し、自分の嘘がばれることを恐れる吉田を説得していたという。さらに一九九六年の社説では「国費を支出するという枠組みを、解決への一歩とすることが、現実的な道だと思う」と主張している。 慰安婦報道の中心になった鈴木規雄(大阪社会部長→東京社会部長→大阪編集局長)、北為清泰(大阪企画報道室長→大阪論説副主幹)、清田治史 (外報部長→東京編集局次長→西部本社代表) などのポストは社会部の本流で、社論を決める立場である。彼らが方針を決めると、それが編集の基準になり、記者の書く原稿もそれにもとづいて採択される。

記者にとって自分の原稿が記事になることは生命線であり、なるべく大きな扱いにしてもらうことが出世の条件である。つまり新聞記事は言論であると同時に、記者にとっては業績評価の基準なのだ。メディアでは普通の企業とは違って、人間関係の調整しかできない人が出世することはない。ジャーナリストの仕事は言論なので、その内容が社の方針にふさわしくない人は、幹部になることはできない。

特に新聞社の地方支局は多く、記者の半分以上は支局勤務なので、社の方針に沿わない記事を書く記者は地方支局に飛ばされ、表現の場を奪われてしまう。鈴木のような左翼的な幹部が社論を決めているときは、リベラルな正義感に沿った記事を書く記者が出世し、彼らの記事が社内の雰囲気を決めるのだ。

「角度をつける」報道

朝日新聞の第三者委員会の報告書は、事務局である朝日新聞の意向が強く反映され、全体としてはあまり目新しい指摘はないが、おもしろいのは最後につけられた「個別意見」だ。

岡本行夫は次のように考えている。

当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新閒としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた。だから出来事には朝日新聞の方向性に沿うように「角度」がつけられて報道される。慰安婦だけではない。原発、防衛、日米安保、集団的自衛権、秘密保護、増税、等々。

これは朝日の特異な社風である(NHKで「角度をつける」という言葉は一度も聞’いた事とがない)。記事を書くときに何らかの仮説を立てること自体は悪くないが、朝日の場合はそれが事実と違っていても訂正せず、一つの社論に向けて事実を集め、角度をつける。このような「キヤンぺーン体質」は、北岡も指摘している。

この原因は単純な商業主義というより、官僚的な前例主義が出世主義とあいまったもので、それが問題の是正を遅らせたのではないか。報告書は、検証記事ができるまでの経緯でも経営陣がこう心配していたと書いている。

おわびをするとこの問題を放置してきた歴代の人達についても責任を問うことになってしまうのではないか、あるいは今朝日新聞にいる人違が責任をとらなければならないのか、謝罪することで朝日新閒の記事について「ねつ造」と批判している勢力を「やはリ慰安婦報道全体がねつ造だった」とエス力レートさせてしまう恐れがある。

このように彼らが意識していたのは、自分や先輩の責任問題であり、「朝日を批判している勢力」である。検証記事のあと木村が社内に出したといわれるメールでも、彼は「偏狭なナショナリズムを鼓舞して韓国や中国への敵意をあおる彼らと、歴史の負の部分を直視したうえで互いを尊重し、アジアの近隣諸国との信頼関係を築こうとする私たちと、どちらが国益にかなうアプローチなのか」という。

彼は「偏狭なナショナリズム」を批判しているが、これは偏狭ではないナショナリズムがあるという意味ではなく、ナショナリズム=偏狭という意味だろう。彼はもと政治部の自民党担当記者だから保守派だが、社内向けには「進歩的」な思想を表明しないと出世できな い。今回の慰安婦報道でも、安倍政権と取引する一方で「偏狭なナショナリズム」を排撃する狡猾さがないと、社長にはなれないのだろう。

「社内野党」が政権を乗っ取った

社員の多くが指摘するのは、朝日新聞の官僚主義である。官僚的というのは必ずしも悪いことではなく、大きな組織は官僚が合理的に運営する必要がある。しかし朝日新聞の場合は、それが特殊な形をとっている。営業的に新聞を売るときに役に立つのは、社会面の事件•事故のおもしろい記事だが、大事な問題ではない。これに対して政治部や経済部の記事は大事だが、地味でおもしろくない。

これは日本の新聞に特有の現象で、たとえば高級紙として知られるニユーヨーク・タイムズの発行部数はニ〇〇万部ぐらいで、ウォール•ストリートジャーナルなども同じぐらいだ。これに対して朝日新聞は七〇〇万部、読売新聞は九〇〇万部だが、人口比でるとニユーヨーク・タイムズが1パーセント未満なのに対して、朝日新聞は七パーセントと世界的に見ても圧倒的に高い。このため高級紙と大衆紙の棲み分けができず、1つの紙面に報道と娯楽が同居しているのだ。

記者の動機も、社会部と政治部•経済部では違う。社会部はとにかく早く派手に大きな記事を書くことが出世の条件だが、政治部•経済部では政府や企業から重要な情報を得ることが大事で、ときには情報を抑えることが出世の条件になる。NHKの海老沢勝ニ元会長も「抑える記者」だった。

つまり「反権力」の社会部と「権力の番犬」である政治部•経済部が一つの組織に同居し、紙面でそれを使い分けている。たとえば政治家の政治活動は政治部が報道するが、汚職で逮捕されると社会部が報道する。企業の業績は経済部が報道するが、不良品などのスキャンダルは社会部が報道する。

このような使い分けは朝日だけではないが、朝日は両者の落差が最大である。朝日新聞社の経営者は権力者だから、反権力の社会部出身者がなることはなじまない。朝日新聞の社長は、政治部と経済部が交代で社長になってきた。今度の渡辺社長は、朝日の歴史上二人目の社会部出身である。

逆にいうと、社会部は決して権力を取らない(責任をもたない)という前提で、理想論をいうことが仕事になる。彼らはサツ回りから労働問題まで担当する「何でも屋」で、専門分野がないが、どの分野でもスキャンダルとして「角度をつける」習性がある。

今回の経緯を見て感じるのは、このようなニ極化が先鋭化し、「社内野党」である社会部が経営を乘っ取ったという印象だ。慰安婦報道の「主犯」だった清田治史が役員になり、国家賠償を求める社論を主張し続けたことはその一例である。

このように貴任をもつ「与党」と文句をいう「野党」が二極化する現象は、政治だけでなく日本社会に遍在する。問題は野党が存在することではなく、それが一度も責任を取らない「万年野党」になっていることだ。他方で与党的な立場の政治部は、政策に興味がなく、政局の記事ばかり書いている。

碩直化した人事システム

慰安婦報道も吉田調書も、反日とか左翼とかいうイデオロギーの問題ではなく、朝日新聞の組織としての体質に原因がある。その背景にあるのは、抜きがたいエリート意識だ。序列意識が社内でも強く、本流と傍流の差が大きい。「キャリア」の本社採用と「ノンキャリ」の地方採用はまったく別で、地方採用の記者が本社に上がることはまずない。今度の渡辺雅隆社長は初の地方採用出身だが、もとは木村社長が「院政」を敷こうとして引き上げた人だ。

政治部•経済部•社会部の三部が本流で、学芸部や科学部などは傍流、政治部の自民党宏池会担当は本流で野党担当は傍流——といった序列が、あらゆる階層ではっきりしている。今でも東京本社と大阪本社の人事交流がほとんどないため、西日本が初任地の記者は東京本社に「上がる」可能性がほとんどない。

このような硬直した人事システムのために、社員の人事への執着が強い。「読売の記者が三人寄ると事件の話、毎日の記者は給料の話、朝日の記者は人事の話」という業界ジョークがあるそうだ。この点は、霞が関の官僚と似ている。どの部署に配属されるかで、仕事の中身がほとんど決まってしまうからだ。

こういうサラリーマン根性は朝日に特有のものではなく、多かれ少なかれ日本の会社にはあるが、それが報道に反映されると多くの国民(場合によっては世界)に影響を及ぼす。普通のメディアでは、良くも悪くもそういうバイアスが出ないようにチエックするシステムができているが、朝日では昔は本多勝一のようなスター記者は別格の扱いを受け、極左的な記事を書いても通る傾向があったという。

このような状態を是正しようという意識は九〇年代から出てきたようだが、「リベラル」な社風が邪魔して、読売のように上司が現場の記者に指示できない。特に大阪社会部は「モンロー主義」で慰安婦問題に執着が強く、東京本社が軌道修正しようとしてもできないという。こういう意思決定の混乱が大誤報の原因だ。

P.85~91

戦争は新聞の「キラーコンテンツ」

海軍だけでなく陸軍も、日米戦争に勝てないことは知っていた。それなのに満州事変などで既成事実を積み上げて「空気」を作り出した主犯は陸軍だが、近衛文麿などの政治家はそれに抵抗できず、日中戦争以降はむしろ軍より強硬になった。そういう「空気」を増殖させた共犯は新聞である。朝日新聞は、

〔満州事変の始まった〕昭和六年以前と以後の朝日新聞には木に竹をついだような矛盾を感じるであろうが、柳条溝の爆発で一挙に準戰畤状態に入るとともに、新聞社はすべて沈黙を余儀なくされた。(『朝日新閒70年小史)

と書いているが、これは嘘である。陸軍が記事差止事項を新聞社に配布して本格的な検閲を開始したのは一九三七(昭和十二)年で、それまでは新聞紙法はあったが、その運用は警察の裁量に任されており、発禁処分はほとんどなかった。なぜなら、ほとんどの新聞が自発的に軍国主義に走ったからだ。

その理由は検閲ではなく、商売だった。日露戦争のとき、戦争をあおって日比谷焼打事件を起こした大阪朝日と東京朝日の部数は合計一八•五万部から五〇万部に、大阪毎日は九• ニ万部からニ七万部に激増した。他方、非戦論を唱えた『万朝報』は一〇万部から八万部に落ち、片山潜や幸德秋水などを追放して軍国主義に転向してから二五万部に増えた。

これが「戦争をあおればあおるほど売れる」という成功体験になり、満州事変のあと新聞は従軍記者の勇ましい記事で埋め尽くされた。最後まで抵抗した大阪朝日も、在郷軍人会の不買運動に屈して軍国主義に転向した。このあと軍部を批判する新聞記者は信濃毎日新聞の桐生悠々ひとりになったが、ここでも不買運動が起きて桐生は1九三三年に辞職し、非戦論をとなえる記者はゼ口になった。

しかし軍部もアメリカに勝てないことは知っていたのに、新聞記者が何も知らなかったはずはない。朝日新聞でも、むのたけじ記者は戦争責任を取って終戦直後に辞職した。しかし (ドイツと違って)日本の新聞社はGHQに解体されず、かつて戦争の旗を振った朝日新聞が、 最近は「原発ゼロ」や「解雇特区」つぶしの旗を振っている。これも商売のためと考えれば、それなりに一貫してはいる。

メディアにとって、戦争は最高のキラーコンテンツである。次ぺージの図1は昭和戦前の各新聞の部数の推移だが、満州事変や日華事変(日中戦争)など、戦争のとき大きく伸びた(太平洋戦争のときは紙が配給制になったので落ちた)。

newspaper issued number

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「リベラル」が戦争を主導した

今は朝日も毎日も「平和主義」なので過ちは繰り返さない、と思っている人が多いだろうが、大きな間違いである。一九二〇年代にも新聞は反軍だったのだ。一九三〇年のロンドン軍縮条約で日本の若概全権大使が軍縮案を受諾して帰国したとき、新聞はそろって「全権帰朝に際し今回の如く盛に歓迎せられる事蓋し稀有なるベし」と軍縮を歓迎した。

しかしその批准の過程では、論調がわかれ始めた。大阪朝日や読売は軍縮派だったが、東京日日(毎日の前身)は徐々に海軍寄りに立場を変えた。翌年、満州事変が起こると、各が は多くの特派員を派遣して号外を出し、戦争報道を競った。東京朝日も主筆の緒方竹虎の指導のもと「事変容認•満蒙独立」に舵を切り、最後まで残った大阪朝日も反軍派が処分されて容認派に転向した。

このとき東京朝日の主導権を握ったのは、緒方や笠信太郎などの「リベラル」な革新派だった。これは岸信介などの革新官僚と連携して日本を国家社会主義にしようとする人々で、彼らが満州国や日中戦争の中心だった。軍のなかでも、東條英機を始めとする統制派は計画経済を志向しており、緒方はのちに閣僚にもなって戦待体制に協力した。

だから平時に新聞が反軍的なのは普通である。反政府的な論調のほうが人気があるからだ。そして戦争が始まるとナショナリズム一色になるのも普通だ。あのニユーヨーク・夕イムズでさえ、「イラクは大量破壊兵器をもっている」という「スクープ」を飛ばして、開戦に賛成の論陣を張った(のちに誤報と判明)。

朝日新聞は敗戦の翌日から「平和主義」に転向したが、それは戦争に賛成したとき何の信念もなかったからだ。今の反原発も反秘密保護法も、彼らの「平時モード」としては普通だが何の論理的根拠もないので、「有事」になったらコロッと変わるだろう。特に緒方や笠のような「リペラル」が危ない。それは(国家)社会主義の別名だからである。

今後、尖閣で軍事衝突が起こったとき、もっとも懸念されるのは、マスコミが大きな声で報復を叫ぶことだ。それを煽動するおそれがもっとも強いのは、朝日新聞である。ニ〇一〇年十一月六日の朝日社説は、尖閣諸島の衝突事^のビデオが流出した事件についてこう書いている。

流出したビデオを単なる操作資料と考えるのは誤リだ。その取リ扱いは、日中外交や内政の行方を左右しかねない高度に政治的な案件である。それが政府の意に反し、誰でも容易に視聴できる形でネットに流れたことには、驚くほかない。[中略〕仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であリ、許されない。

この映像は「特定管理秘密」に指定されていなかったにもかかわらず、朝日新聞は機密を漏洩した者(当時は不明)の処罰を求めている。それは当時の菅政権がこれを激しく非難したからだ。このビデオは彼らの政治決着の誤りを暴露し、民主党政権の(すでに落ちていた)支持率はさらに落ちた。民主党を支持する朝日新聞は、ビデオを隠蔽したかったのだろう。 要するに、朝日新聞には一貫した原則も論理もないのだ。一貫しているのは、感情的世論に迎合しようという商業主義である。このように部数を増やすために戦争をあおった新聞が、日本を戦争に導いたのだ。