『朝日も読売も優生思想丸出し記事連発の過去、過ちを認めないマスコミ』(5/17ダイヤモンドオンライン 窪田順生)について

国際関連記事ではありませんが、最近読んだ本で面白かった内容と関連していますので紹介します。今も昔もメデイアは自分の所業を棚に上げて批判することしかできない能無しです。彼らは、戦前・戦中は戦争を煽って亡国の一歩手前まで追いやり、戦後は打って変わって外国の手先となって日本を安全保障の面で丸裸にし、外国からの攻撃に対抗できなくして、国を危殆に瀕するように仕掛けています。戦前・戦中・戦後ともメデイアは方法こそ違え国を滅ぼし共産主義化しようとしているのではと勘繰ります。戦後教育でも悪いのは右翼・軍部と日教組が刷り込んでいますが、自分達のアジテーションについては一言も触れません。

筒井清忠氏著『戦前日本のポピュリズム 日米戦争への道』が読んだ本です。松岡洋右と近衛文麿も国民世論(実質新聞世論)に迎合して、政治の舵取りを誤ったと批判しています。昔からメデイアは無責任だし、下種な発想を煽情するのが得意という事です。でも騙される方も悪いのです。今はインタラクテイブに情報が交換できる時代。時代の利を生かしませんと。情弱ではまともな民主主義社会の構築は出来ません。

新聞と大衆

次に重要な論点として新聞と(日比谷公園焼き打ち)事件との関連という問題がある。何よりも河野広中、小川平吉ら事件関係者が、暴動の波及が急速となった原因として警察への憤懣が浸透していたこととともに「新聞が是を煽動的に報道せることを挙げて居る」のであるが、取り締まる側もこれを「傾聴に値すると思う」と著していることは見逃せない(社会問題資料研究会〔一九七四〕七五頁)。

この点について松尾尊兊は次のような重要な指摘を行っている。

「調査しえた各種の地方新聞によるかぎり、まず注目すべきは運動の組織には必ずといってよいほど、地方新聞社、ないしはその記者が関係していることである。新聞は政府反対の論陣を張り、あるいは各地の運動の状況を報ずることで運動の気勢を高めただけではなく、運動そのものの組織にあたったのである」(松尾〔ニ〇〇一〕ニ六頁) すなわち、以下のような事例が挙げられる。

八月二十日、九月八日二回にわたる和歌山県民大会。『和歌山実業新聞』『和歌山新報』(政友会系)、『紀伊毎日新聞』『南海新報』(憲政本党系)四社共催

九月三日、五日、十八日 三次にわたる呉市民大会•広島市民大会。地元新聞記者団主催。名古屋市民大会•愛知県民大会。記者団が準備

九月九日静岡県民大会。『静岡新報』(政友会系)、『静岡民友新聞』(憲政本党系)両社と静岡県選出の政・憲両党代議士が発起人

九月十二日新潟県民大会。『東北日報』『新潟新聞』『新潟公友』『新潟日報』四社発起

同日長崎市民大会、九月二十日長崎県民大会。『長畸新報』『九州日の出新聞』『鎮西日報』『長崎新聞』四社と、県会•市会の両議長などが発起人

同日市制施行地でないところでも、愛知県豊橋町や新潟県長岡町などで地方新聞社の発起による町民大会開催

「判明するかぎりのほとんどすべての集会には、新聞記者が発起人あるいは弁士の一員として参加しているのが実状である」(松尾〔ニ〇〇一〕ニ六〜ニ七頁)

こうした新聞の激しい反対運動が日比谷焼き打ち事件を誘発した有力な原因であることは間違いないが、それがのちの憲政擁護運動(護憲運動)•普通選挙要求運動(普選運動)につながったことも否定できない。」(P.30~32)

「日本の行動がよくないと指弾されても、制裁などはないのだから無視してそのまま(国際連盟に)居つづければいいということになるわけである。これは「頰かぶり」論と言われることになる。

十一月三〜七日、松岡はモスクワに滞在したが、リトビノフ外務人民委員から不侵略条約を提議されている。その後、松岡は十一月十八日にジュネーヴに到着した。政府はこの日、 リットン報告書に対する意見書を提出するが、翌日の新聞各紙はリッ卜ン報告書を一斉に非難した。新聞との同調の本格的な始まりである。

十一月二十一日、リットン報告書を審議する国際連盟の第五回理事会が開かれ、松岡と顧維鈞中国代表が演説、さらに十二月六日、総会で松岡と顔恵慶中国代表が演説した。 十二月七日、サイモン英外相が演説し波紋を呼んだ。次のようなものであった。 報告書は両国を正確に批判している。中国に排外感情がないと擁護する向きもあるが報告書は排外感情が疑いなく存在していると結論づけている。中国はワシントン会議の国際協力の道を歩み始めたのだから一〇年間その道を歩んでおればいいものを排外的宣伝の悪意のためにそれを妨げられた。批判ばかりでなく実際的妥協が必要なのである。

中国の激しい運動に苦しめられてきた英国は日本に好意的であったことがわかる。松岡は喜び、中国は憤慨した(臼井〔一九九五〕一四四〜一四五頁)。しかし、松岡にはこれを日本の利益に結びつける工夫に乏しかった。

十二月八日、松岡が著名な十字架演説を行った。日本を十字架上のキリストに喩えたのだが、キリスト教国にプラスであったのか疑わしいところであった。

十二月十五日、一九人委員会は十五日の総会決議に基づき、総会報告案文を日中に提示した。決議案•理由書で構成されているが、和協委員会を設置し、そこに米ソ両国を招請するとし、理由書第九項において「満洲における現体制の維持および承認は解決と見なされない」として満洲国を否認していた。日本代表部は米ソ招請を「快諾」と上申したが、内田外相は紛糾させるだけと拒否した。

十二月十九日、全国の新聞一三ニ紙がリットン報告書受諾拒否共同宣言を出した。これだけの規模と量を合わせた共同宣言はかつてないものであった。ロンドン海軍軍縮条約に賛成で歩調を合わせた新聞メディアは、それをはるかに上まわる対外強硬論で一致したのである。 一九三三年一月一日、山海関事件が起きた。満洲国と中国の国境の山海関を日本軍が占領したのである。これを聞いた対日強硬派のスチムソン米国務長官は、出淵勝次駐米大使に「日本は国際連盟やパリ不戦条約から脱退したほうがよい」と言明した(臼井〔一九九五〕一五〇頁)。

このあと、日本軍は満洲国を固めるため熱河作戦を展開。天皇は国際連盟から除名されることを心配したが、五月の塘沽停戦協定に至る。」(P.196~197)

「このように見てくると、日本が「頰かぶり」主義でじっと黙って待っている戦略を取っていれば、その後の国際情勢の変化のなか国際連盟で生き延びえていた可能性はきわめて高かったと言えよう。勧告を聞きつつ脱退せずにすませるという「頰かぶり」戦略を放棄したことが、日本の失敗の最大の外交的原因であった。

先に見た松岡の文章には「国家の前途は、一に国民精神の如何に依る、断じて一時の便宜、若くは物質的損得に依り決せらるべきものに非ず」とあったが、日米開戦の前にも政府は同種の決断をすることになる。これは政党政治といえば「党利党略を排斥すべきだ」という見方に類似している。外交や政治の主体を「利益」の観点から見ることができない、成熟のない政治観が根本にうかがえるのである。もちろん、「利益」がすべてではない。そこには例えば「価値」「理想」なども必要なのだが、「利益」の追求は合理性を担保することになり、 政治主体が置かれた環境を無視した非合理的行動に走らせないという視点が重要なのである。 それが現実性・合理性を踏まえた外交世論の熟成につながるのである。この視点をたえず保持していた石橋湛山から今日学ぶべきことが多い理由でもある。

ポピユリズム的世諭の問題

松岡は四月二十七日、横浜港に婦国したが、「数万人の山」と言われる大群衆が出迎え万歳の歓呼の声が怒濤のようにわき上がった。「JOAK〔NHK〕のマィクを通じて河西アナウンサーがこの盛観を全国氏の胸へ伝える……官民一同の熱狂歓呼のあらし」(『朝日』四月二十八日夕刊)という有り様であった。鉄道省は横浜駅から東京駅まで「全権列車」を特別編成。東京駅には全閣僚、陸海軍代表らが参列、宮城に向かう車の両側はやはり群衆が万歳を歓呼して迎えたのだった。

著名な外交評論家清沢洌は、このころ松岡に「松岡全権に与ふ」(一九三三年)という文章を書いている。この文章こそ、この問題の本質を最も的確に表現したものであった(緒方〔一九七〇〕)。

清沢は日露戦争後のポーツマス会議と今回のジュネーヴ会議とを比較し、三つの相違点を指摘している。

第一に、日露戦争当時、桂太郎首相と小村寿太郎外相は一体となって、いかに民論による迫害があろうとも断乎として講和会議をまとめる意志があった。これに対し、ジュネーヴ会議の場合には、斎藤実首相、内田康哉外相は民論の赴くままに動くというよりも、むしろ民論に責任を転嫁して、「與論の趨向」「国民の総意」と言って、この蔭に隠れようとした。

第二に、「桂と小村が絶対に、わが国の国際的孤立を避けんとしたに対して、斎藤、内田は寧ろわれから進んで孤立を選んだ傾き」があった。

第三に、日清、日露の戦争中には、「衆論に抗して毅然として立つ少数有力者があった」のに比べ、今回は国家の危機に直面してそうした主張をする者がなかった。「国家の絶大なる難局に面した場合には、暫らく輿論を無視し、国家のために一身を橇牲にするのも国民、殊に指導者の任務」ではなかろうか。かつての日本は小村をはじめこの種の指導者に事欠かなかったが、「今や、こういう国士的矜持を有している者が何処にも見あたらなくなった。

こう主張して清沢は次のように結論づけていく。外交においては「断じて」とか「常に」という断定的な言葉は禁句であり、また結果を急ぐことも外交に求めてはいけない。これまでのいかなる公文書よりはるかに日本の立場を認めたリットン報告書に対して、松岡のやったことは連盟脱退という恫喝と妨害だけであり、戦術として拙劣極まりないものだった。日本で絶賛されている松岡の外交は真の外交ではなく「背面外交」とでもいうべきものだ。背面の国民世論と傍聴席を喜ばせているだけで、肝賢の世界の裁判官席には何も届いていないのだ。

明治末、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎は、息子が生きているのに驚いたというほどの轟轟たる国民的非難を浴びたが、これ以上ロシアとは戦えない日本の国力を知っていた小村は、断然講和条約を結んだのだ。満罵を浴びても本当の国民の利益を考えて一身を犠牲にしてまでやり抜くのが真の指導者だ。かつてはわが国には確かにこういう指導者がいた。しかし今こういう「国士的矜持」を持つものがどこにいるか。彼らは「キング・モッブ(群衆王)の前に平伏し、恐怖して、ただその御機嫌を失わざらんことにつとめているではないか」。このように「輿論を懼るる政治家」が闊歩する現状の危険性を、清沢は激しく指弾したのであった。

この違いは言うまでもなく、普通選挙が始まりマスメディアが発達した今日に続く大衆政治の時代と、そうでない時代との政治家の差であった。以後、「群衆王」に突き動かされた日本は日中戦争から日米戦争への道を走る。

清沢は自由主義者として、外交と同じく思想においても左右両極の極論を排した。また、海外経験の長かった清沢は、欧米には老練のジャーナリストが多く、彼らは知力で勝負しており優れた分析力を見せるのに、日本の新聞記者は若者ばかりで、ジャーナリズムは体力で勝負するものだと日本人は勘違いしていると嘆じた。また、欧米のジャーナリズムは厳密な統計など正確なデータに基づいた報道を熱心に心がけているのに、日本のジャーナリズムでは不正確なものが平気で横行しており、ボピュリズムに足を取られやすい危険性の高いことも強く指摘している。

すでに見たように、日比谷焼き打ち事件は日本のポピュリズムの起源となるものだが、それでもそこには小村のような指導者がいた。しかし、国際連盟脱退の時点では下から上まで大衆世論に覆い尽くされていたというわけである。すなわち外交問題における日本のボピュリズムが明治と異なり昭和前期には、ある完成段階に達したことを告げたのが国際連盟脱退事件なのであった。」(P.206~210)

新聞の無反省

無罪判決の日の『大阪朝日』「天声人語」(一九三七年二月十七日)は次のようなものであった。

「この事件は政界と財界と官界とにわたる複雑なる事件であって、その法律的審理が尽されたとしても、何か割り切れないものが国民の脳裏に残るのであり、部分的には疑雲のはれやらぬものがないとはいえないであろうが、それにしても法律によって罰するには無理であるのを、或る前提されたる観念をもって予めこの事件に対したという印象が、司法ファッシヨの名をもって世間を恐れしめていたのである。

斎藤内閣の総辞職が国家にどれだけの損害をかけたかは、今日において計量し得る限りではないが、十六名の被告が全部無罪となり、一部には国家賠償の途があるとしても、その社会的、個人的の損害は到底補うことは出来ないのである」

事件発覚時に「暴露された株売買の裏面 驚くべき策謀と醜悪な犯罪事実 背任として最も悪質 検察当局の鋭いメス」と「犯罪」が存在したかのごとく書き立てた自らの責任には、まったく何の反省の言も報道事実についての確認もなかった。(今のモリカケ騒動と一緒。進歩していない)

「何か割り切れない」で始まり、自ら同調した検察を「司法ファッショ」などと糾弾して、「斎藤内閣の総辞職」にまったく無関係のごとく書き、「その社会的、個人的の損害は到底補うことは出来ないのである」としたのであった。

すなわち新聞は、当初検察に乗って財界・官界要人を激しく攻撃しておきながら、無罪となると今度は検察を糾弾、自ら内閣を倒したことには無関係を装い、損害に対する補債も無頓着のままやりすごしたのだった。新聞は政党攻撃を開始してから、田中義一内閣攻撃では天皇周辺•貴族院による倒閣を支えた形になり、五・一五事件裁判では陸海軍とともに世論を煽動するなどしてきたが、今度は司法官僚の「社会革正」と組み、無罪の人たちを攻撃し内閣を倒したのだった。

一九三四年に起きた事件の判決が三年後に無罪と出たとしても、内閣が倒れ、天皇機関説事件がありニ・ニ六事件などがあった後では、人々の記憶が大きく修正されるものではないだろう。こうして、この事件は政党•財界の腐敗を印象づけ、正義派官僚の存在をクローズアップさせた事件として記憶に残るものとなった。言い換えれば、政党の後退と官僚・軍部の擡頭の方向へのマスメディアによるポピュリズムに大きくプラスした事件なのであった。」(P.223~224)

「しかし、このような達見の士は、極く少数であり、沸き立っている大衆の耳からは遠く、かすかであった。・・・これを批判したり、水を掛けるようなことを言うものは、袋叩きに会うのである。・・・武藤も、軍務局長として、政府と軍部との連絡役という立場で、いろいろと調整に努めてはいた。しかし、ドイツ大勝に煽られ、バスに乗りおくれるな、という大衆の昂奮や、参謀本部将校団の焦燥感とが、相乗作用を起こすし、沸き立つような「反米内」の風潮の中で、次第に戸迷いを見せていた」(矢次〔一九七九〕下巻)

この気運のなか、六月二十四日、近衛は「新体制確立運動」のため枢密院議長辞職を発表、事実上の出馬表明であった。

七月六日、近衛はブレーンの矢部と軽井沢で会談した。新党は「職能的国民組織」を基礎とし、そのなかから優秀な人材を集めて中核体を作り「挙国的な国民運動」を展開する、という方針にした。内容は明確でないが、中身よりドイツの電撃的勝利による気運に後押しされて、近衛自身もはや引き戻せないのである。

そして、この中身のない気運だけの新党運動にすべての政党が慌てて、それこそ「パスに乗りおくれるな」と合流し、解党していくことになる。この言葉の初出は『朝日』(六月二日)のようだ。」(P.274)以上

5/17NHKニュース5:24<北京で香港のカメラマンが連行される 人権派弁護士を取材中>

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180517/k10011441311000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_057

こういう場合、中国に対して日本のメデイアは何も発信しません。取材の自由が侵されている同業者との連帯を重視するのであれば、何らかのコメントを出すべきでしょう。そうすれば北京から取材の制限を受けるとか考えて黙るのであれば、窪田氏の言うように「社会の木鐸」とか言う言葉は使わない方が良い。国内で政府が反撃しないことをいいことに、事実を曲げてまでも批判するのはおかしいでしょう。我が身を安全地帯に置いて批判するのは卑怯者のすることです。中国へ行って政府を批判して来たら。大好きな共産主義国ですよ。

窪田氏の記事で、過去の不法行為についての損害賠償は20年の時効にかかるのではと思いますが。96年に法案が廃止されたなら時候の中断がない限り、時効と思いますが訴える側に成算があるのでしょうか?(手術は96年以後も続いた?それなら医者の違法医療行為の問題でしょう。訴える先が違います)況してや当時の医療技術水準が妥当と判断したわけですから。行政訴訟も民事訴訟も同じでしょう。多分アカが嫌がらせで訴訟提起を勧めたものと思われます。窪田氏によれば、自分達が立法化に尽力したくせに自分の責任は頬被りです。まあ、左翼の特徴ですが。オペされた方には気の毒ですが、子供を産みたい気持ちを抑えて20年以上も生きて来たのに今更それを思い出させるのは悪質でしょう。政府の信頼を失わせるためにやっているとしか思えません。こんな刷り込みに乗せられないようにしませんと。

5/16ブルームバーグ<ZTEの技術利用禁じる文言、国防権限法案に残る公算-米共和党議員>

https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2018-05-16/P8SVK26KLVR601

5/17ロイター<米FBI、中国ZTEのような企業に「深刻な懸念」=長官>

https://jp.reuters.com/article/usa-china-zte-fbi-idJPKCN1IH38E

ZTEの件で、トランプが習に営業再開を約束しても、議会の反対があればできないという事のようです。トランプが国防権限法に署名拒否すれば、軍全体の活動が停止してしまうためです。元々ZTEは経済問題ではなく安全保障問題ですから、議会の言うのが正しく、トランプが取引材料に使うのは間違っています。まあ、トランプは習の気を引くために営業再開について踏み込んで発言したのかもしれませんが。

記事

旧優生保護法問題でマスコミが国を糾弾している。しかし、同法の前身である旧国民優生法の時代から、朝日新聞を始め、マスコミ各社が「優生思想で日本民族を繁栄させる」ことをバンバン喧伝し、世論形成に絶大な威力を振るったことは報じられないままだ。(ノンフィクションライター 窪田順生)

旧優生保護法下の悪行をマスコミはこぞって取り上げるが…

旧優生保護法の前身にあたる旧国民優生法成立後、優生思想礼賛記事をバンバン掲載し、世論形成に大きな役割を果たしたのは他ならぬマスコミ各社。にも関わらず、自らの罪をスルーする厚顔無恥な報道姿勢は醜悪だ

なぜ彼らは、この問題をまったく自分たちに関係ないことのような顔をして平気で報じることができるのか。嫌味とかではなく、本気でその神経を疑ってしまう。

旧優生保護法のもとで、約1万6000人にも上る障害者が不妊手術を強制的に受けさせられた問題を扱う、マスコミの「報道スタンス」のことだ。

戦後間もない1948年、人口抑制や強姦などによる「望まぬ出産」の回避を目的として、旧社会党の女性議員たちが中心となった議員立法で成立した「優生保護法」は、その名の通り「優生思想」を色濃く反映しており、「総則」にも「不良な子孫の出生防止」が掲げられていた。

どんな悪法も、できてしまえば役人は機械的に実行していく。かくして、96年に母体保護法にとって代わるまで、膨大な数の障害者の方たちが、自分の意志に反して不妊手術を受けさせられるという悲劇が引き起こされたのだ。

「そんな非人道的なことを日本がやっていたなんて!」「政府は過ちを認めて被害者の方たちを救済すべきだ!」

そんな怒りの声が聞こえてきそうだが、この問題を扱うマスコミの基本的なスタンスも同様だ。わかりやすいのがNHKの「グローズアップ現代+」で4月25日に放送した「”私は不妊手術を強いられた”~追跡・旧優生保護法~」の番組紹介文である。

《番組では関係者を独自に取材。そこからは「社会のためになる」という国のかけ声のもと、社会に潜む“優生思想”を背景に強制手術が広がった実態が明らかになってきた》

クロ現らしい硬派なスタンスじゃないかと思うかもしれないが、筆者からすると、よくもまあそんな当事者意識ゼロの発言ができるものだ、という驚きしかない。

当時のマスコミは悪法の宣伝役を担っていた!

この法律ができたプロセスを振り返っていけば、「社会のためになる」と喧伝して、社会に“優生思想”を潜ませた「犯人」が誰かは明白である。そう、マスコミだ。

先ほど紹介した旧優生保護法の成り立ちは、この問題を扱うマスコミの解説を真似ただけで、本当のルーツはもっと時代を遡る。実は、この法律には前身となるものがあるのだ。それがナチス・ドイツをはじめ当時、欧州でポピュラーだった、優生学に基づく「断種法」にならって、日本政府が1940年に成立させた「国民優生法」である。

当時のマスコミは一大キャンペーンを行い、国民に「優生学」を啓蒙した。たとえば、1941年7月1日の読売新聞では紙面の半分以上を割いて、厚生省の課長のインタビューをデカデカと掲載。「日本の民族の繁栄へ・優生法實施」「悪質遺傳を減少」「よい子をどしどし産む」と、これでもかというくらいのPRを行った。

中でも特筆すべきは、しきりに「日本の危機」を煽っている点だ。「健全者」と「不健全者」の人口をグラフで示し、30~120年後にかけて「不健全者」が圧倒的に増えていくイメージを見せて、こんな記述をしている。

「国民の素質は現在のままに放置すればだんだん低下する。(中略)現在は不健全者と健全者が同数だとしても百二十年後には図のように真に恐るべき結果を来します。これを防止するためにこそ優生法は誕生したのです」

断っておくが、このような論調は「読売」だけではない。他の新聞やラジオでも当たり前のように、「危機」を煽って「優生法」の重要さを力説した。

つまり、マスコミが国民優生法を重要であると喧伝し、日本社会もそれを受け入れたからこそ、戦後の旧優生保護法につながったわけで、戦後の経緯のみを洗っても、「国が悪い」という極めて近視眼的な結論しか出てこないのである。

問題の本質を読み解くには、戦前のマスコミによる嵐のような「優生学が日本を救うキャンペーン」があり、それを大衆が是としていたという事実を直視しないことには、何も始まらないのである。

「健康優良児表彰」も優生学の一環だった

なんてことを言うと、「いや、それは軍部の命令で仕方なかったんだ」とか、「確かに戦時中、マスコミは優生学を触れ回っていたが、敗戦で反省してガラっと変わったんだ!」みたいなことを言い出す人がいるが、残念ながらそれは「そうであってほしい」という願望というか、「妄想」に過ぎない。

吉田茂、佐藤栄作などの面々を見ればわかるように、戦後復興は、ほぼ例外なく戦前のリーダーたちによって進められた。それはマスコミも然りで、一部の幹部はしばらく公職追放されたりしたものの、戦後の報道スタンスを定めたのは、戦前から報道に携わっていた新聞人たちである。

敗戦、そしてGHQの占領政策という日本人の価値観に影響を与える大きな出来事はあったが、たかだが数年で人間の本質は変わらない。戦前のマスコミが張り切っていた「優生学が日本を救うキャンペーン」も1945年でパタリと終わるわけはなく、戦後も外見だけはリノベーションして続けられた。そのおかげで、優生学の残り香のようなものが、つい現代にまで脈々と受け継がれてしまったのである。

象徴的なのが、朝日新聞社が主催、文部省が後援して1978年まで行われていた「健康優良児表彰」。年配の方は覚えておられるだろうが、全国の小学校で、肉体的、運動能力的に優れた子どもを男女1人ずつ選んで表彰をしたキャンペーンだ。

拙著『「愛国」という名の亡国論 日本人スゴイ!が日本をダメにする』(さくら社)の中で詳しく述べているが、実はこの「健康優良児表彰」というのは「優生学」と非常に密接に関係している。

「健康優良児表彰」がスタートしたのは1930年。その年、「東京朝日新聞社」から世に出た「全日本より選ばれたる健康児三百名」(朝日新聞社編)の中で、当時の副社長だった下村宏氏が、「朝日新聞」を代表してこの表彰を続けていくと宣言して、こんなことをおっしゃっている。

「本日この盛大なる式場に於て表彰された健康児は、本人も家庭もお芽出度い喜ばしい事であります。しかし一面に重い責任を負はされて全国の幼年者の中から選り出されたのであります」(p313)

マスコミ界のスターが堂々と優生学を主張していた

子どもに負わされた責任とはどういうものかというと、ここで選ばれた「健康児」たちは当初、「丁年(20歳)」になるまで経過観察をされるという試みだったのだ。「時代」と言ってしまえばそれまでだが、「健康優良児」は単なる全国一斉小学生スポーツテストではなく、もともとは「富国強兵」や「優生学」という考えに基づいた「調査」の側面もあったのである。

朝日新聞を擁護するわけではないが、これは当時としてはおかしな考え方ではなく、特に世界情勢を知るインテリの間では珍しいものではなかった。「健康優良児表彰」に関わっていた下村氏も、もともと台湾総督府民政長官などをつとめた国際派。1921年に朝日新聞に入社してからは専務取締役、副社長を歴任して経営改革に携わる一方で、ラジオ出演をしたり、全国を回って「日本民族の将来」という題目で講演を行い、国際情勢、そして日本の「危機」について触れ回った。今でいえば、池上彰氏のようなスターだった。

では、下村氏のような当時のインテリはどんなことを大衆に説いてまわったのか。「健康児優良児表彰」が始まった3年後、1933年に児童養護協会が出した「児童を護る」の中で、下村氏はこう主張している。

「私は今日日本の国策の基本はどこに置くかといへば、日本の人種改良だらうと思ひます。この點から見ますると、どうも日本の人種改良といふ運動はまだ極めて微々たるものである。それでは一體その他の改良といふことは日本ではやらんのかといへば、人種改良の方は存外無関心であるが、馬匹改良はやつて居る。豚もだんだん良い豚にする。牛も良い牛にする。牛乳の余計出る乳牛を仕入れる」(p8)

このように、国民優生法ができるほんの7年前、当時のマスコミや文化人は日本の「危機」を克服するために、「日本人の改良」の必要性を説いていたのである。

下村氏はこの後、朝日新聞を退社。貴族院議員となって活動するかたわら、「大日本体育協会」の会長や、「財団法人 日本文化中央聯盟」という団体の理事を経て、1943年には日本放送協会(後のNHK)の会長になった。そして、終戦直後には国民の啓蒙・思想取り締まりを行う内閣情報局の総裁となり、「玉音放送」の実現にも関わっている。

彼が力を入れた「健康優良児表彰」は戦後も続き、優生保護法が成立した翌年の「朝日新聞」(1949年7月25日)でも華々しく募集がなされている。

「自らの過ちはすべてスルー」では社会の木鐸は務まらない

「審査の項目」の中には、こんな言葉も見つけられる。

「家族の状況」

「健康優良児」をセレクトする上で、家族のどのような「状況」を精査するのかは、推して知るべしであろう。

1万6000人の障害者に強制的に不妊手術を受けさせた旧優生保護法問題は、確かに政府の責任だ。救済を行うのも政府だ。だが、そのような法律の成立に大きな役割を果たし、戦後になってもなお、オブラートに包んで優生思想を広めていた者たちがいた事実も検証しなければ、同じ過ちを繰り返すだけではないのか。

今年1月、仙台地裁に60代女性が国に謝罪と慰謝料を求めて提訴したことで、この問題が大きく注目をされた際、朝日新聞が「強制不妊手術 救済に向け調査を急げ」という社説を掲載していた。

『驚くことに、自治体の50年代の冊子には「優生手術千人突破」「群を抜き全国第一位の実績」などの記述まである。手術増を奨励した厚生省(当時)の通達により、都道府県で競いあったのではないか。国家による命の選別が、なぜつい二十数年前まで続いていたのか。負の歴史に向き合うことは、政策を許した社会全体の責任でもある』(朝日新聞2月21日)

自分たちの戦前記事や、当時の副社長の講演をよく精査していただければ、なぜ1950年代の自治体の冊子にそんな驚くような記述があふれたのか、原因がわかるはずだ。

負の歴史に向き合うことは大賛成だが、責任を社会全体へ分散させる前に、まずはご自分たちがどういうことをしてきたのかを、ここらで改めてしっかりと検証してみてはいかがだろうか。

マスコミの「世論誘導力」というものは、マスコミ人が思っている以上に強大で、何十年も尾を引くものだ。なぜ戦後70年以上も経ったのに、戦前のような「日本人は世界一優秀」みたいな歪んだ愛国心が社会に溢れているのか。なぜ社会全体で「平等」や「人権」をうたっているのに、下村氏が主張したようなことをネットで触れ回る人々がいるのか。

これらの問題は、戦前にルーツを持つ旧優生保護法が平成まで続けられていたのと、根っこはまったく同じである。自らのとんでもない過ちに触れるのは辛いことだ。しかし、「社会の木鐸」を名乗っているマスコミのみなさんの「スルー」は許されない。「軍国主義が悪い」「時代の犠牲者だ」みたいなトーンでお茶を濁すことなく、問題の本質に迫るような調査報道を期待したい。

良ければ下にあります

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