『「3つの対立」から読むトルコのクーデター騒動 エルドアン政権に挑んだのは誰か』(7/20日経ビジネスオンライン 池田 信太郎)について

トルコのクーデターはエルドアンの自作自演と言う説もありましたが、マルマリスのホテルで、間一髪難を逃れた所を見ますと、自作自演ではないでしょう。ゴルバチョフが休暇を取っていた時に、身柄を押えられ、エリツインがいなければ保守派の天下となり、共産主義の締め付けが厳しくなったかも知れません。クーデターが成功するかどうかは国家のトップの身柄を押えるか、追放or暗殺するかです。エジプト(モルシを逮捕、裁判で死刑判決)やタイ(タクシン、インラック追放)の例を見てもそうです。今回のトルコのようにトップを逃すと反撃されますので。クーデター側は放送局を押えましたが、エルドアンはSNSを使って市民に蜂起を呼びかけ、軍部に支持が広がりませんでした。欧米はエルドアンが死刑復活を述べたのに対し、「EU加盟はできない」と脅しましたが、エルドアンはEU加盟をもう魅力的とは思っていないでしょう。英国のEU離脱やそれに続く国が出て来るかも知れないような情勢では。今までトルコの加盟を引き延ばして来たキリスト教国の組織が今更何を言うかという所でしょう。EU国へのビザなし渡航も認められなければ、難民受け入れも反故にするかも知れません。

http://www.yomiuri.co.jp/world/20160719-OYT1T50079.html

<2016/07/21(木) NNA EUROPE トルコのビザなしEU渡航、年内実現は困難か

欧州委員会のギュンター・エッティンガー・デジタル経済・社会担当委員は、トルコ国民の欧州連合(EU)へのビザ(査証)なし渡航が年内には実現しないとの見通しを明らかにした。15日夜のクーデター未遂後の政府の強硬姿勢を受けたもの。ロイター通信が18日伝えた。

EUとトルコは3月、トルコ経由でギリシャに密航した移民・難民を国籍にかかわらずトルコに送還することで合意。この協力への見返りとして、ビザなし渡航の実現を約束していた。

同委員は、ビザなし渡航の原案が現在、EU議会で審議されているとした上で、法案が年内に可決される公算は小さいとコメント。エルドアン大統領が国会議員の免責特権の廃止に向け憲法改正を決めたことに加え、野党系の新聞社を閉鎖したり、政府に批判的なジャーナリストを脅迫したりといった強権的な手法を取っていると非難した。

トルコ政府はクーデター後に2万人以上の警察官や公務員、裁判官、軍関係者を更迭あるいは拘束しているほか、同大統領は死刑制度の復活を示唆している。エッティンガー委員はこれについても「政府が望ましくないと見なす裁判官数千人を免職するなど到底許されない」と批判。死刑制度のある国はEUへの加盟は認められないと強調した。>(以上)

イスタンブールは旧名コンスタンテイノープルで東ローマ帝国の首都、東方教会の総本山でした。1453年にオスマン帝国に征服され、イスラムに変わりましたが、教会を破壊することなく上塗りで偶像を閉じ込めるようにしました。そこが今のタリバン(バーミヤンの石仏遺跡の破壊)と違います。バンダリズムです。イスラムも無差別テロを当然とする過激派が出て来るに至り、ムハンマドの教えから遠くなってきている感がします。昔のように異教徒の教会にも上塗りで建物を残したように知恵を働かせば良いのに。思い出しますのは、韓国の日本の総督府の建物の爆破です。彼らもバンダリズムを平気でします。歴史を改竄・捏造する民族ですから仕方がありませんが。

トルコはロシア機撃墜事件で関係が悪化しましたが、エルドアンの謝罪である程度修復したと思われます。トルコのNATO脱退はないと思われます。核を持たないトルコがロシアと対抗は出来ませんので。ただトランプが大統領になれば、NATOとの関係がどうなるのか、ただトランプもやり過ぎれば軍産複合体からの標的になるかも知れません。EUも米国も将来どうなるか見通しできません。その間隙をぬって中国が好き勝手していますが。日本はトルコを含めた友好国を今以上に増やしていかねば。中国のように札束で言うことを聞かせるやり方でなく、地道にニーズにあった技術・資金援助で。

記事

Erdoğan

エルドアン大統領はクーデター失敗を受けて国民に向けて演説した(写真=Abaca/アフロ)

 異なる「2つの潮流」がぶつかり、勢いのあるものが力を失っていくものを書き換えていく。けれども上塗りされた下には、失われたものがなおも力を失わずに眠っている。ふとした瞬間に塗料が剥がれ、裂けた傷口のような隙間から、失われたはずのそれが姿を見せることがある――。

 7月15日に発生したクーデター騒動の報道を見ながら、記者は、トルコという国の文化が抱える独特の「構造」を思っていた。

 記者は2013年、反政府デモで揺れるイスタンブールを訪れた。その様子を「ルポルタージュ・イスタンブール騒乱 「強権の首相よ恥を知れ、建国の父は泣いている!」」として執筆した。当時まだタイイップ・エルドアン大統領は首相だった。

 その取材の折、イスタンブールの旧市街地に位置する「アヤソフィア」を訪れた。史上、この大堂ほど数奇な運命をたどった建物はないだろう。上記の記事に詳解したが、537年、東ローマ(ビザンツ)帝国の皇帝によってキリスト教の大聖堂として建造されたこの建物は、1453年にこの地を陥落させたオスマン帝国のスルタン(王)によってイスラム教のモスクに作り変えられた。さらに20世紀、トルコ共和国を樹立した「トルコ建国の父」ケマル・アタトゥルクは、この建物を宗教施設ではなく「文化遺産」として位置づけ、博物館にしてしまった。

 「キリスト教の大聖堂(東ローマ帝国)」→「イスラム教のモスク、大霊廟(オスマン帝国)」→「博物館(トルコ共和国)」。この“非連続の連続”を、アヤソフィアの壁面に描かれた絵が何より雄弁に物語っていた。

Ayasofya

アヤソフィアの宗教画

 イスラム教では偶像崇拝が禁じられており、モスクの内部で人物画を見ることはない。20世紀の初頭までイスラム教のモスクだったはずの建物の壁面に人物画が描かれているのは、かつてはこの建物がキリスト教の聖堂だったからだ。オスマン帝国によって「上塗り」された塗料が剥がれ落ち、その裏にひそかに息づいていたキリスト教時代の宗教画が露出したのだろう。そして、そもそも私のようにイスラム教徒ではないアジア人がその奥まで足を踏み入れて壁画を眺められるのは、この建物がすでに宗教施設ではなく博物館になっているからだ。

 地理的にはボスポラス海峡で「欧州」と「アジア」を接し、歴史的には「キリスト教」と「イスラム教」、そして「世俗主義(政教分離)」と上塗りされ続けて来たトルコ。しかしアヤソフィアの宗教画がそうであるように、上塗りされた塗料の底には失われたはずのものが息づいており、裂け目から時折顔をのぞかせる。新しいものと古いものとのせめぎ合いこそが、トルコという国の文化の特異さを生み出している。

 トルコのクーデターをどう評価すべきかどうか、情報が錯綜しておりにわかには断じられない。だから本稿では、「異なる潮流がぶつかり合う場所」であるトルコという国の「構造」を説きつつ、クーデター報道を読み解くために前提となる基礎知識をお伝えできればと思っている。

 以下にトルコの政治が抱える3つの「対立構造」を挙げる。いずれもお互いが絡み合っている問題圏であり、単純に切り出せるものではないが、構造を明確にするためにあえて単純化を試みた。

対立その1:世俗主義vsイスラム

 世俗主義(セキュラリズム)とは、政治・社会システムにおいて「政治」と「宗教」を分離すべきという考え方を指す。トルコ国民の大半はイスラム教徒だが、トルコの政治体制は政教分離の考え方を原則としている。

 オスマン帝国が第1次世界大戦に敗れ大幅に国力を衰退させたのちに、帝国を打倒してトルコ共和国を樹立したのが、上記のようにアヤソフィアから宗教色を取り除いたアタトゥルクだ。明治維新後の日本が「脱亜入欧」の欧化政策を進めて近代化を目指したように、アタトゥルクは「脱イスラム入欧」を進めて国力を取り戻そうと努めた。オスマン帝国末期の因習を打破して新しい技術や制度を取り入れなければ国が滅びるという危機感があったのだろう。アタトゥルクはトルコ語を表記するのに用いられていたアラビア文字の使用をやめて、アルファベットを使うようにしたり、公共の式典や公職の勤務中に宗教的な発言をすることすら禁じたりした。

 トルコ共和国にとって建国以来の国是が、この「世俗主義(政教分離)」だったと言っていい。スルタン(王)とカリフ(宗教指導者)が一致している「スルタン=カリフ制」、すなわち「政教一致」政策を採っていたオスマン帝国の政治体制は、アタトゥルクによって導入された世俗主義、「政教分離」政策によって「上塗り」されたわけだ。

 ところが、塗料が剥がれて、その底に息づいていた宗教画が姿を見せるように、トルコの近代政治史には、イスラム色の強い政権が立ち上がり、世俗主義が上塗りしたはずのイスラム主義が首をもたげる瞬間が何度かあった。

 その芽を「クーデター」という手段で潰してきたのが「軍」だった。これまで国軍は3回、クーデターによりイスラム色の強い政権を転覆させている。最近では1997年にネジメッティン・エルバカン政権を退陣に追い込んだ。

 本サイトが配信した新井春美氏による記事「トルコでクーデター未遂、国民の支持得られず」を含む多くの報道で「軍」を「世俗主義の擁護者」「世俗主義の守り手」などと表現しているのは、上記のような理由からだ。

 AKP(公正発展党)を与党とし、エルドアン大統領が率いている現政権は、近代トルコ史上、最もイスラム色の強い政権と言っていいだろう。上でも紹介したルポルタージュから一部を引用するのでその雰囲気の一端に触れていただきたい。

 イスタンブール市長在任時(1994年選出)の言動に、その原点を見ることができる。当時、エルドアン氏はNATO(北大西洋条約機構)からの脱退やEU(欧州連合)への加盟交渉中止を繰り返し主張した。さらに1997年には、政治集会で朗々とイスラム賛美の詩を詠み上げた。

 「モスクはわが兵舎。(モスクの)ドームはわがヘルメット。(モスクの)尖塔はわが銃剣。忠実なるはわが兵士」

 この行為は宗教や人種差別の扇動を禁じる刑法の規定に反するものとして告発された。エルドアン氏は逮捕され、服役し、被選挙権を剥奪されている。

 エルドアン大統領も、自らを脅かし得るのは軍のクーデターであることは予見していた。ゆえに、権力を握る過程で軍の文民統制を徐々に進め、意向に沿わない司令官を更迭するなどして軍を自らの権力下に置くことに腐心して来た。結果、エルドアン大統領は軍を完全に掌握した――つまりトルコ軍は「世俗主義の擁護者」としての牙を抜かれ、現政権の権力に「上塗り」されてしまった、と見られていた。

 つまり「世俗主義vsイスラム」は、「軍vsエルドアン政権」と相似形をなしている。

 新井春美氏は上記の記事で、「上塗り」された軍が勢いを取り戻す土壌をこう説いている。

 一度は骨抜きにされた軍であるが、エルドアン政権に反発する力を徐々に取り戻しつつある。トルコは現在、過激派「イスラム国(IS)」とPKK(クルディスタン労働者党、トルコからの自治を掲げるクルド系武装組織)に対して、二正面作戦を続行中だ。これは、軍の協力がなければどうにも進まない。このように安全保障問題が国家の優先課題になれば軍の発言力は増す。

 2015年に就任したアカル参謀総長は、エルドアン大統領と友好な関係を維持しており、同大統領の娘の結婚式に出席するほどの仲である。とはいえ軍内部には、世俗主義と民主主義の擁護者としての意識を強く持ち、イスラーム政党であるAKP政権と独裁化するエルドアン大統領による治世を快く思わない勢力が相当数、存在している。

 この視点で今回のクーデターを見るならば「世俗主義の擁護者としての力を奪われ、息を潜めていた軍の一部が立ち上がってエルドアン政権に挑戦した」と位置づけることができるだろう。現地報道によるとすでにクーデター勢力は力を失っているとのことなので、結果として、「しかしエルドアン政権の統帥は崩れず、クーデターに参加した勢力は軍の中では主流派にならなかった」という結末になった。

対立その2:都市部vs地方

 民主主義とは何か、あるいは資本主義とは何か、ということをつまびらかに書く紙幅はないし、必要もないだろう。ただ、ここでは以下のように単純化を試みたい。「1票(1人)の下の平等」を礎とするのが民主主義であり、「1円(1トルコリラ)の下の平等」を礎とするのが資本主義である、と。

 エルドアン大統領は、この2つのシステムのズレを知悉している政治家と言える。

 トルコ最大の都市であるイスタンブール、首都のアンカラなど、政治・経済の中心は欧州側、つまりトルコの西部に位置している。一方、アジア側、つまりトルコの東部にはそうした国際都市はない。ただし、広大な国土に多くの国民が生活している。

 単純化して書くならば、「1トルコリラの下の平等」を是とする資本主義の観点から言えば、1人当たりの経済力が強い、つまり豊かな都市生活者に力が集中する。ところが「1票の下の平等」を是とする民主主義の観点から言えば、頭数の多い地方在住者に力が宿ることになる。市民ひとりひとりがどれだけ貧しくても、1票は1票だからだ。

 エルドアン大統領は、保守的、イスラム的な傾向の強い地方在住者の支持を背景に、都市生活者やインテリ層から支持される旧来の政治勢力を打ち破ることで権力を握った政治家だ。ゆえに一般に都市部で人気に乏しく、トルコ東部では圧倒的に支持が強い。記者が2013年に取材したイスタンブール騒動(記事)の折も、同時期に発生したデモの大半が都市部で発生し、東部の地方ではむしろ「反・反政府デモ」が繰り広げられていた。

 エルドアン大統領は、都市生活者の視点からは「地方在住者に迎合しつつ権力を握るポピュリスト」として映り、地方生活者の視点からは「民主主義の力を借りて都市部の既得権益者やそれに連なる軍に挑む改革者」と映る。いずれか一方の描き方では描ききれない。だが、敵対する勢力からすれば、民主主義最高の意思決定ツールである「選挙」で勝ち続ける政権に挑むには、軍という「力」を用いるほかないのは確かだ。

 この政治構造は、例えばタイで地方在住者から支持を集めたタクシン・チナワット氏が政権を握った経緯と重なる。2014年6月、記者はタイ・バンコクで起きたクーデターの様子を取材して、この構造を記事「タイのクーデターを肯定する罪」として書いた。

 ところが今回の報道で、イスタンブールなどの都市部でクーデター勢力に反発するデモが発生したと伝えられた。記者が現地にいたわけではないし、現地の報道機関にはクーデター勢力とエルドアン政権の両者が様々な圧力を及ぼしているため、状況が把握しにくい。だが、いくつかの報道を総合するに、2013年に大規模な反政府デモに身を投じた都市生活者の大半が、今回のクーデターには賛同しなかった可能性が高いと言えそうだ。

 反エルドアン政権の志を持っている都市生活者をしても、クーデターという暴力的な手法に抵抗を覚えたのか。3年間でエルドアン政権の権力掌握がさらに進み、市民が反政府の声を上げられないほどに萎縮しているのか。そもそもクーデター勢力が弱く、政府軍にすぐに鎮圧されてしまったのか。都市部の市民がクーデターを支持しなかった理由は分からない。

 いずれにしても、上記の観点から今回のクーデータを見るならば、「軍の一部が反エルドアン政権を掛け声に立ち上がったが、呼応すべき都市生活者たちの支持を集めることができず、大きな反政府のうねりを生み出せなかった」ということは言えそうだ。

対立その3:「エルドアン政権vsギュレン師」

 休暇で首都を離れていたエルドアン大統領は、クーデター発生直後、CNNの取材に応じて、クーデターがギュレン運動の影響を受けた勢力によるものと非難した。

 「ギュレン運動」とは何か。1941年にトルコ東部に生まれたフェトフッラー・ギュレン氏が提唱し、トルコ全土に支持者を持つ社会運動だ。その思想は、イスラム復興運動にも見え、貧困撲滅などを目指した社会活動にも見える。政治システムとしての世俗主義と、生活と精神のよりどころとしてのイスラムは矛盾しない、という穏健な思想とも説明される。その玉虫色のごとき懐の深さゆえに、イスラム保守層から世俗主義者まで幅広く支持を集めて来た。

 ただ、上記エルドアン大統領の発言を理解する上で重要なのは、その思想の内容ではない。このギュレン氏が、エルドアン大統領が属するAKP設立当初はその強力な支持者であったという事実と、しかし今はエルドアン大統領と袂を分かち、米国に亡命しているという事実だ。

 上で述べたように、エルドアン氏はクーデターで追われることのないように国軍から政治力を奪って権力下に置いた。その過程で、エルドアン氏はギュレン氏の影響力を後ろ盾のひとつとした。かつて両者は蜜月の関係だったと言っていい。

 しかしエルドアン氏が権力を掌握し、政権が強権的な色彩を帯びてゆくなかで両者の関係は次第に悪化。2013年末、エルドアン政権に、閣僚やその親族を巻き込んだ大規模汚職事件が起き、ギュレン派が浸透していると言われる捜査当局がこの捜査に本腰を入れたことで亀裂は決定的になった。2015年、エルドアン政権は、かつて最大の支持勢力だったギュレン派を、国家転覆を企むテロ組織として指定した。いまや両者は明確に「政敵」となっているのだ。

 ただし、ギュレン氏は今回のクーデターに対する関与を否定している。

 上記の経緯から今回のクーデター報道を見るなら「エルドアン政権は、今回のクーデターを、かつての支持母体であり今は政敵となったギュレン派による巻き返しであると見ているが、ギュレン氏は関与を否定した」という理解になるだろう。

3つの対立が複雑に絡み合う

 ここまでトルコの社会に横たわる3つの断絶について書いてきた。世俗主義とイスラム。都市部と地方。そして、ギュレン派とエルドアン政権。いずれも大雑把に要約してしまえば「反政府vs政府」となってしまうが、それぞれの勢力は必ずしも反政府的とは限らないし、重なりもしない。これらの断絶や対立が重層的にせめぎ合いながら一方に寄らずバランスするのが、トルコの政治システムに安定をもたらして来た。バランスが取れないほどに蓄積されたひずみを解消するために採られてきた手法の一つがクーデターだった。

 ひずみは頂点に達していたと言えるだろう。ますますイスラム色を強めるエルドアン政権に対して、「世俗主義者」たちは対抗する術を持てずにいた。2013年にイスタンブールなどで大規模な反政府デモに参加した「都市生活者」たちも、政権の強権にもはや沈黙を守っていた。テロ組織に指定された「ギュレン派」は監視下に置かれ、力を失っていた。エルドアン政権は誰の目にも強くなりすぎていたのだ。

 クーデターがどのような勢力によるものであれ、この圧倒的な構造をリセットする力が働こうとした政治現象と考えて差し支えないだろう。「上塗り」された政治構造の下で息を潜めていた何者かが、つかの間覗いた綻びから現れて弓を引いた。だが、失敗した。リセットの機構は働かなかった。働かないほどにエルドアン政権は強くなっていた。

 クーデターの失敗によって、エルドアン勢力は反政府勢力をさらに追う政治的な理由を手に入れた。すでに政権はクーデターに関与した疑いで反政府的な勢力を拘束し、クーデター防止の名目で「死刑」の復活にも言及している。これまでも報道機関などに対して監視体制を敷くなど言論の自由を認めない姿勢を見せてきたが、その傾向に拍車がかかる可能性もあるだろう。経済的なダメージは別として、一部欧州のメディアが「クーデター騒動はエルドアン大統領の自作自演」と陰謀論を書きたくなる気持ちも分かるほどに、政治的にはエルドアン政権を利するばかりの騒動だった。

 上記のように、エルドアン大統領はかつてEUとNATOの離脱を訴え、「強いトルコ」を取り返そうという政治姿勢が「新オスマン主義」とも称された。その強権の宰相の姿は、英国はEUから離脱すべきと説いた政治家や、「強い米国を再び」と保護主義を訴える大統領候補とも重なって見える。

 民主主義を基盤とした欧州的な価値観を持ち、宗教や文化はイスラムに礎を置き、民族としては中央アジアに近い。いわば、文化と宗教と民族の結節点。コンスタンティノープルがイスタンブールに名を変えたように、異なるものが入れ替わり、交じり合い、その多様性の中でたくみにバランスを取って自在に姿を変えるのがトルコの強さだった。このバランサーが一方に偏ることの地政学的なリスクは世界にとって小さくない。だが、このクーデターによってますます、その可能性は避けがたいものになったと言っていいだろう。

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