中国の一番ダメな所はいつも言ってますように「騙す人が賢く、騙される人が馬鹿」という基本的価値観です。この考えが続く限り中国とはまともに付き合えません。日本人は人が好過ぎて騙されるだけ。東証1部上場の江守グループの倒産やLIXILのjoyouの660億円の特損等は中国で儲けようという下心の為せる業です。中国に進出している他の日系企業も似たり寄ったりでしょう。小生も在籍していた会社が中国で買った会社を調べて見たら資産の中に使えない井戸も資産計上されていて問題になったことがありました。デユーデリジェンスをしっかりという事で法律事務所に調べさせてもこの程度です。まあ如何に騙すのに長けているかという事ですが。また会社を売る局面にも関与しました。どう言う訳か本社は早く売れと言うばかり。高く買いそうな人もいたのに二束三文で別人に売り渡しました。背任ではと思ったものです。結局、保身を考えるから足元を見られてやられてしまう訳です。戦わないと。
ここに出てきます中国の真のジャーナリストと日本の植村隆のような似非ジャーナリストを比較すれば如何に日本のメデイアが腐っているか分かります。勿論、中国の共産党支配における「党の喉と舌」の役割を果たしている中国のメデイア人は圧倒的に多いですが。ですから命を賭けて自己の主張すべきところを弾圧にも拘らず主張するところが真のジャーナリストたる所以でしょう。植村はアメリカへ行ってまで嘘を吹きまくっているのだから何をか況やです。翁長もアメリカに行ってパフォーマンスだけやっているというのは見抜かれています。彼らは日本人の心象風景から遠い所にいます。
新渡戸稲造の「武士道」は、日本人は神を信じない(一神教の意味)のにどうして道徳が遵守されているのかという問いに対する回答として書かれました。日本社会の規範として武士の生き方が、身分差はあるにせよ下々まで尊ばれたのです。その中でも「義=rectitude of justice」「勇=courage」「仁=benevolence, the feeling of distress 」「礼=politeness」「誠=veracity and sincerity」「名誉=honor」「忠義=the duty of loyalty」を生き方に求めました。皆孔孟の教えです。それを発祥の地である中国人は守ろうともせず、日本人が守って生きてきたわけです。易姓革命の国では前の伝統文化が否定されるので、賢者の教えも根付かないと言ったところでしょう。
「持ち逃げ資産の半分を西側のリベートに」というのは中国人の面目躍如たるものがあります。賄賂が社会にビルトインされているため、「金を与えれば皆言うことを聞くだろう」という発想になりがち。FIFAの事件も過去に遡れば賄賂の得意な国が焙り出されてくるのでは。でも中韓のように道徳心の薄い民族を豊かにさせたのが間違いの素です。アメリカも良く民族性を知ることです。
記事
今、北京にいる。知日派知識人と待ち合わせをしていたが、待ち合わせ場所に彼がなかなか現れない。さすがに約束の時間になって一時間が過ぎると、心配になってきた。なにせ、天安門事件26年目の記念日まであと5日という敏感な時期であり、しかも習近平政権の「知識人狩り」の凄まじさは、以前にこのコラム欄で紹介した通りである(「習近平の知識人狩り、希望を粛清」参照)
ちょうど携帯電話を買い替えたばかりで、彼の携帯番号を新しい携帯電話に入れておくのを忘れていたので、電話で安否を確認できなかった。連絡が取れないまま、ヤキモキしていると彼が一時間半遅れて、謝りながらやって来た。遅れた理由は、次に出版する本に関して、いきなり出版社から呼び出されたのだという。「一番大事な一章をまるまる削らないと、検閲審査が通らないと言われて、もめていました。いきなり約束もなく、出版社の社長が訪ねてきて。連絡もできずにすみませんでした」という。
彼は「中国は、あと2、3年もすると出版社は全部つぶれるんじゃないですかね。今、本を出すことはものすごくリスクが高い。出版社にとっても、ほとんどリスクだけで利益はでません。中国の出版市場はおそらく出版史上、もっとも暗黒時代を迎えていますよ」と、ため息をついていた。
自分の中に生まれた「自粛の心」こそ怖い
こうした息苦しさを訴える知識人たちの言葉を、今回の中国旅行中に何度聞いたことか。
ある作家はこういっていた。「恐ろしいのは自分の中に自粛の心が出て来たことだ。賞をとり、大学の職を与えられ、安定した収入も約束され、息子たちが結婚して家庭を築くようになると、(当局の怒りを買うかもしれないというリスクを負って)自分の書きたいものを書くには、捨てなければならないものが多すぎる。だが、そうして筆を緩めることは、読者に本当に伝えなければならないもの、意義あるものを書けないということだ。自分が過去に書いたものを超える納得できる作品を生み出せる体力気力がもつのは、あとせいぜい10年くらい。これから、いかに自分の心と闘いながら、書いていくかが、作家としての真価が問われる」。
メモを取るような場面ではなかったので、発言は私の記憶である。本当に恐ろしいのは、検閲そのものではなく、検閲を避けようとする自分の心だ、というのは心にしみるメッセージだった。
日本にいてモノを書く仕事をしていると、読者に受けるか、市場に受け入れられるかという悩みはあっても、政治権力によって身の危険を感じながら書くということはまずない。本の内容について出版社や編集者の好みと対立することはあっても、あるいは読者からのバッシングを恐れる気持ちはあっても、当局の検閲機関から隠密裏に物書き生命を絶たれる心配もまずない。中国当局の出版物に対する介入圧力は、日本人にはとうてい想像のつかない世界である。
だが、その検閲に抗いながらエッジボールと呼ばれるぎりぎり編み出された表現というのは、書き手の執念のエネルギーが注ぎこまれている。圧力に抗う気持ちを完全に忘れてしまっては、物書きとしては完全なる敗北だが、圧力とのせめぎあいのなかでこそ生まれる研ぎ澄まされた表現というのも、確かに存在する。本当の政治圧力というものを知らないで、ちょっと書くなと言われたぐらいで被害者ぶって騒ぐとヒーローになれる日本の言論出版界にいると、なかなか到達できない表現の境地である。
文明のロマンも文化論も、ダメ
で、最近どのようなものが検閲に引っかかりやすいかというと、聞くところによると文明論とか文化論が、結構リスクが高いらしい。胡錦濤政権時代も江沢民政権時代も当然、出版検閲があったが、それはほとんど政治批判、党批判や党の歴史認識を否定するような内容のもので、何が検閲に引っかかるか分かりやすかった。
ところが最近は中華文明や中華文化の論評まで、なぜそれがダメなのか、というようなものも検閲当局から修正指導がくるそうだ。たとえば周の文明のルーツが、エジプトから伝播してきたものではないかとか、中国の「上帝」(シャンディ)は出エジプト記に出てくるシャダイが由来じゃないか、とかそういう文明のロマンみたいな話も、ダメらしい。あるいは改革開放30年で中国がどんな変化をたどったか、といった文化論や社会学的な検証もダメらしい。今の社会の問題点をあげて、その原因や背景を分析するといった内容も、大変厳しい細かい検閲をうけるという。
ある歴史学者にきけば、「習近平政権のイデオロギー政策の骨子は、西洋文明と西洋的普遍的価値観の否定と、中華文明の独立性と偉大性、中華的価値観を中心としたアジア世界の確立にあるので、中華文明・中華的価値観に対してき否定的な言論、研究の発表が難しくなった。中華文明にも西方の文明や宗教に影響を受けた部分があるなんて仮説は絶対受け入れられない」という。
前述の作家が言うには、「今の中国人や中国が、なぜこんな風になってしまったか、そういうことに向き合うことが一番必要なのだが、それが一番許されない」と嘆いた。
また、あるジャーナリストは、「今の中国は1930年代の日本に似ているかもしれない」という。幸いというべきなのは、中国の出版市場では、日本の軍国主義時代の批判を込めた日本の著作の翻訳モノは比較的問題なく出版できる分野であることだという。中国人読者の中には日本の過去の歴史の中に、中国の今の問題点を見出す者がいるかもしれない。日本の軍国主義批判や右傾化批判は、ひょっとすると反日的な思想の人たちだけでなく、中国習近平政権の行方に不安を感じている人たちから、ある種の比喩として発せられている可能性もあるかもしれない。
改革には向かわない「三つの自信」
習近平政権がどういう政権であるか、ということを知識言論人たちに聞いてみると、3年前と比べて、批判的に言う人が増えた。3年前は、開明的な知識人の中にも、習近平政権を「(隠れ)改革派」だと信じる人はかなりいたが、それが甘い期待であったことを思い知るようになってきたということだろうか。「反腐敗キャンペーンや権力集中は習近平が後に思い切った政治改革を行うための準備であり、実は隠れ“改革派”である」という幻想が根強かったが、2014年から本格化した知識人狩りと、「一帯一路」政策を中心とする外交・経済路線から、習近平政権の目指す「改革」とは少なくとも、私たちが考えるものとは違うようである。
習近平政権の行方については、2013年の段階で、「赤い帝国主義」と早くに達観したのは、元「中国改革」誌社長で独立系政治評論家の李偉東だった。「赤い帝国主義」という形容は、昔、旧ソ連に適用されたものだ。フランス国際放送華字版RFIのインタビュー(2013年7月13日)で李偉東はこう語っている。
「習近平は伝統的権威主義方式を用いて、政治方面のある種の改良を進めている。それを“開明的な専制”と私は表現する。習近平が政権をとってから発表した論理の総論はおよそ三条でまとめられる。一つは進むべき方向は、邪な路(西側的普遍的価値感あるいはゴルバチョフ的改革の路)でもなく従来の路(旧来の社会主義的価値観、社会主義革命の路、文革の路)でもないという路論。二つ目は“中国の夢”(中華秩序の再興)という夢論。三つ目は“靴論”(靴が合うかどうかは履いている本人にしかわからず、傍にいる人が何といおうと無視すればよい、という外国の内政干渉を完全拒絶する)」「加えて習政権は“三つの自信”というのをあげている。すなわち路に対する自信、理論に対する自信、制度に対する自信。これほどの自信があれば、改革など必要あるだろうか。私が基本的に把握している習近平の政治改革とは、“党の指導をよりパーフェクトに強化に向けて改善すること”であり、これは本質的な意味での改革とはいえない」
APECブルーは赤いファシズム的美学の体現
そして習近平の目指す中国が、「国家主義路線にナショナリズムを加えた赤い帝国の路」であり、それは1930年代のドイツや日本が歩んだ路と似ている、というのである。
この習近平の「赤い帝国主義」論については、賛同にしろ批判にしろ同意見の知識人は決して少なくない。賛同者は、習近平は(皇帝の専制君主制を確立し、名君との評価もある)「清朝の雍正帝」に匹敵する、といった言い方をしている。批判する人は、ドイツのナチズムに似ていると言う。
そう考えると、最近中国が発表した国防白書で「海上軍事衝突に対する備え」が初めて明記されたことも、また「一帯一路」と呼ばれる外交・経済政策にあわせたAIIBの設立も、腑に落ちることだろう。習近平政権の国家グランドデザインは、日本の戦前の「八紘一宇」にも通じるものがあるといえば、なるほどと思う人もいると思う。ちなみに八紘一宇という言葉のオリジナルは中国であり、『淮南子』にもある。
とすると、現在の中国が国際社会にもたらしうるきな臭い可能性というのもいろいろ想像できるだろう。李偉東はアジア自由ラジオ局で2014年12月、北京APECの総括コメントとして、こんな発言をしていた。「APECブルー(APEC期間中に規制を徹底して大気汚染を軽減し青空を一時的に取り戻した現象)は、赤い帝国のファシズム的美学の体現である。この種の中国のファシズムは世界に危機をもたらすだろう」。
彼はこの時、中国共産党をナチズムに例えながらこう指摘していた。「ナチズムが備えていて中国共産党が備えていない優位性が三つある。[1]己が全世界で最も優秀な種族であるという信仰にも似た頑強な信念、[2]ナチスは清廉であり、スキャンダルは少なかった、[3]ナチスの団結力は相当なものであった」。
彼は、習近平が目指す赤い帝国主義への路は、根本的なところでナチスに及ばず、途中で破綻すると見ている。赤い帝国が世界に覇権を築き、今の米国のような新しい国際秩序を打ち立てるまでにいかず、激しい勢いで拡張に走った結果、内部から瓦解するとなると、その混乱に国際社会が巻き込まれるリスクは決して小さいものではない。
持ち逃げ資産の半分を西側へのリベートに?
もう一つ、リスクがあるとすると、中華的秩序、中華的価値観に西側社会も染まり、アジアにおける中華秩序圏の成立を容認する可能性だ。習近平政権は表向き、オバマ政権に対しては比較的舐めた態度を見せているが、水面下の官僚レベルの交渉は日中よりもよほど密にあると言われている。
最近、小耳にはさんだのは、財産を持ってカナダやオーストラリア、米国など西側諸国に逃げた反腐敗キャンペーンのターゲットの腐敗官僚、政商たちを西側諸国から引き渡してもらうための交換条件として、持ち逃げした彼らの資産の半分を西側諸国にリベートとして渡す、という案だ。この10年余り、海外逃亡腐敗官僚ら2万人が国外に持ち逃げした資産は軽く1兆元をこえる。
だが、この半額を受け取って、独裁国家から逃げてきた官僚を引き渡すということは、これは西側諸国として西側の普遍的価値観と違う中国の価値観を受け入れたということになるのではないか。汚職官僚だけでなく、海外に逃げた民主活動家や反共産党活動家などは、西側諸国の対応がどういったものになるか神経を尖らしている。
いずれのリスクにしても、中国のすぐ隣に存在する日本にとっては、今の習近平政権の路線は大いに警戒するに値するものだろう。
日本の自由さと安易さを痛感しながら
さて、日本の安倍政権をナチスに例えて批判する日本人知識人は結構いて、日本が軍国主義化していると本気で心配している人も少なくないようである。私も少し、安倍政権と習近平政権の類似性を感じることもある。ただ、日本と中国の大きな違いは、報道、出版、言論に対する政府当局の本当の圧力の有無であり、日本が曲がりなりにも選挙を通じて、自らの手で為政者を選ぶシステムを保持している点である。
私たちは、自分の国の政策に対して不安に思うことを誰でも口にすることができるし、執政党への信任不信任を表明する機会を平等に与えられている。そういう与えられた権利を十分に行使しないでの口先の批判に力が宿るはずもない。
中国の言論知識人たちのモノを書くことへの執念や葛藤を垣間見るたびに、私は日本でモノを書くことの自由さと安易さを痛感するのである。