4/18日経BizGate 田中直毅『凄まじいバブルの崩壊が起きる』について

本記事は一言で言うと「社会主義市場経済」の矛盾が露呈してきたという事です。社会主義は計画経済で運営されるのに市場経済と言い募る所に言葉上の矛盾、自家撞着があり、また実態で見ても権銭交易で畸形市場経済です。

資源配分がうまく行かず(GDPに占める構成要素として不動産投資が多く、実需を無視したやり方)、また富の分配もうまくいってません(GDPに占める消費の割合が3割から4割というのは経済格差が大きく、党員や役人に富を収奪され、海外へ富が移転されていることを意味します)。共産主義は、本来は経済的に「結果の平等」を目指したはずですがそうはなっていません。やはりマーケット・メカニズムに調整を委ね、「機会の平等」を目指す資本主義の方が健全と思われます。政治的には、共産党統治は一党独裁≠民主主義、基本的人権を蔑ろにし、三権分立・法治の概念はありません。個人の生活においてこんな危険なシステムはありません。中国に8年駐在しての実感です。

中国でビジネスをするには必ず監督官庁に賄賂を贈らないとできません。中国人同士であれば当然と思っているでしょうけど、日本人にはこれは出来ません。雇った中国人が秘密裏にやるしかないでしょう。ですから中国人の金の持ち逃げも当然のように起きますし、財務部には「小金庫」という裏金をプールして、賄賂や接待時に使うようにしていました。中国の収賄側は日本の身分犯と違い、商業賄賂と呼ばれ、民間同士であっても法律上、罪に問われます。実際は皆やっていることですから、そんな例はなかったですが。

http://keieisha.zuuonline.com/archives/2252

田中直毅もやっと中国経済の危うさについて述べ出したかという気がします。宮崎正弘、田村秀男、渡邉哲也、近藤大介、石平氏辺りは1年以上前から「中国経済は危ない」と言ってきました。経営者や経済評論家に要請されるのは「先見性」でしょう。後出しジャンケンなんて誰でもできます。中国の危険性を無視して中国進出を煽った経団連と日経新聞の罪は深い。これらのトップはハニーでも咬ませられたのではと疑ってしまいます。その結果、軍事膨張を続ける「遅れて来た帝国主義国」というモンスターを作ってしまいました。中国支援をしてきた日米は製造物責任があり、中国包囲網を作って、台湾やASEAN、太平洋国家の安寧を守る義務があります。

記事

2009年時点において、中国のバブルの熟成とその崩壊の前兆はすべて整っていたといわねばならない。その前年のリーマン・ショックを受け、中国は4兆元にものぼる公共事業プロジェクトを表明。それまで「民進国退」とうたっていた産業政策が「国進民退」の様相を余儀なくされ、民間企業の収益が逼迫し、不良債権化していった。

早くも「喪失世代」が誕生

 ここで、2009年当時の状況を改めて点検してみよう。それは中国が正面から立ち向かわねばならなかった課題が顕在化していたからだ。バブルの発生はこうした課題から結果として目をそらす作用を及ぼしたといえよう。

 2009年に入ると、中国では2011年からの5ヵ年計画策定にあたって、雇用と賃金の分析が喫緊の課題となった。実際のところ、以下4点に関する問題点の噴出があった。

(1) 急増する大卒者に職場を用意できない。この点については4兆元の投資プロジェクトの緊急増がまったくといってよいほど寄与しないどころか、かえって状況を悪化させたことも明らかとなる。
(2) 沿岸都市部の工場労働者の賃金上昇率が、想定を上回る加速を見せつつあった。内陸部の農村の過剰就労状況に変化が見られない段階から、都市の賃金はしだいに上昇基調となった。「先富論」(可能な者から先に豊かになり、後から来る者を助ける)という不比例的経済発展論が前提としていた論理は、どこかで破綻をきたした可能性があった。
(3) 経済的機会が他の先進国に比して多い中国には、海外からの直接投資が相次ぎ雇用機会が増えるはずであった。しかし他方で、中国の内部で生まれるかなりの利益が、中国の内部で再投資に向かわず海外に流出することにより、雇用増の見通し、とりわけ高度な知識を要する職場の増大が予測外に小さい可能性を無視できなくなった。
(4) こうした大卒者をめぐる雇用市場の悪環境は、他国の経済発展の歴史との比較からすれば、あまりにも早熟な「喪失世代」の誕生に結びつき、中国が不安定な社会になりやすい可能性が出ていた。

 私は2009年秋の段階で中国共産党の内部で「構造改革派」が生まれつつあると実感した。5ヵ年計画の策定担当者と討論を繰り返すたびに、ほんの10年ほど前には「三農(農業、農村、農民)問題」の克服が唱えられたにすぎなかったが、この時点においては、中国は経済発展の全構造を再問しなければならない段階にきたと判断せざるをえなかった。

 当時の胡錦濤・温家宝政権の業績評価が中国の内部で芳しくないのは、この「構造改革課題」に十分な取り組みを見せなかったからである。経済発展の萌芽的段階が終了した以上、雇用については量も質もともに論じられなければならなかったにもかかわらず、見るべきほどの指導性が発揮されることはなかった。習近平総書記には、こうした無為の期間の経過ののちに登場せざるをえないという巡り合わせの悪さがある。

茫漠とした「新常態」構想

 習近平総書記は2014年河南省の視察に際して、「中国は新常態に適応する必要がある」と語り、それ以降、中国経済の進路に関連してこの言葉が頻繁に用いられるようになった。安定的な経済成長、新たな経済発展パターンの実現、市場経済化の改革促進を柱として、新たな経済への移行を謳ったものだとされる。しかし、「新常態」という言葉は登場したものの、その内容については茫漠としたものと言う以外にない。

 ほんの4、5年前までは「保八」という議論が根強くあった。これは、中国において年に1500万人増え続ける新規の労働参入を吸収するためには8%以上の経済成長率が維持されなければならないという意味で掲げられたスローガンである。

 このことは、部分的にはわれわれも見聞きする雇用の実態といえようが、実際にはさらなる精査が必要である。大学を卒業してもそれに見合う職場がないと考える人たちの溜まりがすでに数百万人から1000万人に達するという指摘は中国の諸方面からなされる。したがって、出来上がってしまった人材の皺を伸ばすために、高めの経済成長が不可欠という問題の立て方はたしかにこれまで存在した。

 しかし、さらに幅の広い観察をするならば、中国の労働力人口が2010年をピークに少しずつ減少に向かっていることも事実である。ここから中国における労働需給の全体的なマッチング問題、どのようにして職場を一つひとつ結びつけていくのかという巨大なマッチング課題の存在が明らかとなる。

 中国経済はすでに雇用問題でも従来とは異なる課題を抱えるに至っているが、その解決策を見出せずにいるのだ。

2011年には問題が煮詰まる

 そもそも、第12次5ヵ年計画が開始されようとしていた2011年の時点においても、すでにみたように問題は相当程度煮詰まっていた。5ヵ年計画に対する注目度も従来の計画と比べて飛躍的な高まりをみせていた。それは中国経済がいろいろな意味ですでに転機に入っていたからだ。

 これを改めて見定めるために、その5年前の第11次5ヵ年計画の開始当初との比較が有効と思われる。2006年当時は、民間企業が中国経済の骨格をどのようにして担っていくのかについての関心が非常に高かった。当時の情勢は「民進国退」という言葉で表現された。民有企業が経済の新しい担い手として期待され、事実、民有企業がカバーする領域が急速に拡大していたのである。

これに対し、国有企業は効率改善もままならず、中国経済におけるシェアを低下させつつあった。国有企業はいわゆるリストラに絡む問題も十分に論点整理ができていなかった。他方、民有企業には、どこまでカバレッジ範囲を広げることができるのかという前がかりのところで問題が存在した。

 だが、当時における民有企業の側の内部問題も深刻だった。そのひとつとして業界における供給者の極端な多さが挙げられた。米国でも自動車生産が開始された当初、1000社を超える自動車メーカーが群立していたが、これとほぼ同じ状況が2006年当時の中国に存在した。農業用耕作機に少し工夫を加えた程度のものも乗用車とされ、移動に使えるという意味だけの自動車生産も多かった。

 したがって、業界内の集約化、効率化のためにどのような基準を設けるかという課題が存在した。同様に、製鉄業においても電気炉が非常に多く、製鉄所も数百単位で林立するなど、産業としての合理化課題があり、環境問題の視点から鉄鉱石の過度の浪費がもたらす問題という指摘もあった。

 ところが、2011年から始まる第12次5ヵ年計画をめぐる様相は変貌した。2008年のリーマン・ショック以降、世界の需要が大幅に落ち込み、中国で生産した製品を欧米などに輸出し、そこから所得と雇用の場を確保するというメカニズムがいったん断ち切られることとなり、中国内部で財の新たな循環プロセスを作らなくてはならなくなった。そこで、2年間にわたり合計4兆元の資金を動員するプロジェクトが一挙に開始され、それによって中国経済の様子は一変したのである。

 先に触れたように、それまで「民進国退」と謳っていたものが完全に逆行し、「国進民退」となった。すなわち、政府が前面に出て発注作業を行い、受注するのももっぱら国有企業となった。4兆元のプロジェクトの90%以上を国有企業が受注したといわれる。逆にいえば、競争的市場において入札を競わせるような仕組みが中国では整っていなかった。

 職場を作る場合、民間企業が対応するならばいろいろな予測も可能である。民間企業では、収益条件や競争力維持の観点から必要とする人材についての具体的推計にも踏み込まざるをえない。しかし国有企業となると、その行動原理は中国の人々にとってもそれほど明らかではない。

 中国の国有企業の多くについては、受注して仕事を完了させ、粗利益が企業の内部にいったん入ったとしても、それがその後どこへ向うかがよくわからない面がある。国有企業の株式を保有する政府は支配者・所有者であり、当然、共産党の人材も国有企業に組み込まれる。共産党の諸機関はある時期から厳格な定年制度を採っているため、60歳以上の定年退職した人たちをどこで吸収するのかが大きな問題とならざるをえない。監査や政府とのリレーションシップ管理といった名目で国有企業にこれらの人材を押し付けることもある。

また、剰余金の性格を持つ資金を海外で企業を取得するために使うこともあるし、石油などのエネルギー企業の場合は、やがて来たるべき海外資源確保のための保蔵という名目も立つ。いずれにせよ、中国の国有企業でどのような仕事が増えるかを予測することは、民間企業の場合ほど簡単ではない。そのため国進民退に大きく転換するなかで中国の大卒雇用市場に大きな問題が生じてしまったのだ。その意味でも、第12次5ヵ年計画にいくつかの問題点があったことは明らかだろう。

日本と比較した投資効率は半分以下

investment for real estate in China

過大な不動産投資が工業生産の重荷に(重慶市)

 中国の高い成長率が持続している時期は、大雑把にいってGDPに占める投資比率が7割前後、あるいはさらに高く75%程度にまで達したとの声もあった。成長率が10%を超えた高度成長期の日本において対GDPの投資比率はその半分の30%から35%程度であったが、中国では、おそらくその倍近い投資比率になっていた。

 雑な比較であることを承知の上でいえば、投資額とそこから算出される所得からある種の効率性基準を作ると、日本の高度成長期に比べて中国の投資効率は半分程度だったといえよう。もちろん厳密な計算には相当な作業が必要だが、投資の半分は相当非効率なものである可能性がある。これは中国の分析者たちの指摘でもある。

 たとえば、中国では地方政府が所得を得ようとする場合、土地を処分したり不動産投資を行ったりする。それが地方政府の主要な収入源になっていたためだが、このことは結果として固定資本投資の比率を非常に高くすることにつながる。地方都市においては賃貸借契約に至らない非効率なビルディングが数多く建つ。これが投資効率の低さを掴みで把握するひとつの方法であろう。

 中国の地方政府改革にはさまざまな時機があった。たとえば朱鎔基が首相だった江沢民政権の時代は、地方の財源をいかにして中央に取り戻すかが大きな課題であった。地方政府の中には、自らの開発のために使える資金を朱鎔基改革によって中央政府に吸い上げられてしまったという意識を持つ人々が非常に多い。朱鎔基はその果断な決断力によって西側で非常に高く評価されたが、中国でいまひとつ人気が盛り上がらなかった理由のひとつは、地方政府から財源を奪ったことであろう。

 土地は基本的には公有となっているが、土地の処分については地方政府が圧倒的な力を持つ。ディベロッパーが地方政府と長期の賃貸借契約を結び、土地を借りて建物を建てる場合、ディベロッパーは不動産建設に関する仕事をする。地方政府にはディベロッパーとの契約締結権限を通じたお金が入る構図となる。このように、投資にかかわるかぎり、地方政府の収入が上がる仕組みといえよう。

 このように中国経済の歪みを生み出している重大な要因は、諸権限が圧倒的に国有企業や地方政府の手にあることだ。経済成長への寄与に大きくかかわっているのが投資であるがゆえに、地方政府や国有企業はここに注目するかたちで役割を果たそうとする。

これとは異なり、民有企業の場合はまったく別の視点に立つ。洗濯機やテレビなどで考えるとわかりやすい。消費者の選好に依存する非常に厳しい競争状態に置かれ、実際には過剰能力が存在するため売り値は容易に上げられない。しかも、わずか5年前までは資材価格は確実に上がり、賃金の上昇テンポは期を追ってさらに速まるという、利益を上げることがきわめて難しい情勢にあった。

地方では「取り付け」が発生か

 このような状態が生み出されるに当たって、一体どのような金融事象が随伴するものだろうか。ひとつ考えられることは、過剰な投資をファイナンスすることに適した構造が、国有銀行や地方の小規模な銀行にも当然見受けられるだろうということだ。投資促進のために融資が行われているが、投資の効率は非常に悪く、西側の普通の言葉でいえば不良債権になりがちなものが多い。

 少し前までの中国の金融監督の状況は、お金を借りた側の「あるとき払いの催促なし」が常態で、西側基準からすれば不良債権の定義にそのまま入ってしまうようなものが貸出金として計上された。この状況が是正されないままで銀行のマネジメントのミスがさらに重なったらどうなるか。不良債権比率が極端に高いという噂が出たりすれば、銀行に預金者が押しかけることがありうる。バンク・ラン(取り付け)である。預金通帳を持った人が銀行を取り囲むことになるかもしれない。

 昭和初期のわが国の金融恐慌においてはそうしたことが実際に起きたのだが、どうやら中国の地方都市ではバンク・ランが発生し始めているともいわれる。少なくとも中国人の分析家はそのように指摘する。その意味からも、中国の金融政策運営は、非常に危ういタイトロープを渡るかのごときものになり始めている。

 資源配分を改善するために資本自由化に取り組むべきという点については、中国でも少なからざる人が指摘するところである。だが、現実に資本自由化によって中国の人々が自由にお金を動かすことができるようになると、中国の銀行の不良債権比率が相当高まっている状況においては、海外の口座への資金流出が発生することも考えられる。

 その意味からも、中国における資本自由化は到底進められないという立論も根強い。もしそれを進めるのであれば、金融機関の不良債権問題に片をつけてからだということになるが、他方、投資の比重が高い経済体質が持続するかぎりにおいては、不良債権問題を片付けることは難しいという論理的関係にある。

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