川田稔『昭和陸軍全史3 太平洋戦争』について

奥山真司氏の「戦略の7階層」には次のようにあります。

①世界観(人生観、歴史観、地理感覚、心、ヴィジョン)

②政策(生き方、政治方針、意志、ポリシー)

③大戦略(人間関係、兵站・資源配分、身体、グランドストラテジー)

④軍事戦略(仕事の種類、戦争の勝ち方、ミリタリーストラテジー)

⑤作戦(仕事の仕方、会戦の勝ち方、オペレーション)

⑥戦術(ツールやテクの使い方、戦闘の勝ち方、タクティクス)

⑦技術(ツールやテクの獲得、敵兵の殺し方、テクニック&テクノロジー)

第二次大戦中の日本の戦略は①世界観(人種差別撤廃)②政策(アウタルキー、国防国家)③大戦略(日独伊三国同盟+ソ連との提携)④軍事戦略(「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という特攻精神、白人を畏怖、人の損耗よりモノの損耗を重視)、⑤作戦(屍を乗り越えて、突撃精神。インパールに代表されるようにロジ無視)、⑥戦術(玉砕戦術)、⑦技術(ゼロ戦と空母運用の巧みさ、白人の想像を超えた技術力)

と勝手に小生が当て嵌めてみました。感じる所は、世上言われますように「何も考えないで戦争をした」訳ではなかったという事です。戦争自体の結果はついてこなかったです(それで我々は敗戦国としての悲哀を味わっていますが)が、我々の父祖はそれ程馬鹿ではなかったという事です。(但し、①の世界観(人種差別撤廃)は時間をかけて実りつつあります)。ただ、独ソで戦争したのが読めなかったのでしょう。これが勝敗の帰趨を決めました。ヒトラーの用兵の誤りです。日本も世界新秩序という壮大な夢を追いすぎました。今の中国みたいですが。言って見れば「天保水滸伝」の笹川繁蔵と飯岡助五郎みたいなもので、やはり新興勢力は駆逐されやすいという事でしょう。

そもそもで言えば、当時の日本のGDPは米国の1/12で勝ち目はないのが分かっていました。『昭和16年夏の敗戦』を読むまでもありません。武藤章ですら米国との戦争を回避しようとしたくらいですから。国家総力戦ではGDPの大きさと人口の多さが物を言います。やはり、無謀と言うしかありませんでした。

『失敗の本質』は名著ですが、「戦略の7階層」の上位概念ではなく、⑤の作戦レベルの話だったかと思います。前書きにそうわざわざ断っていたと思います。作戦レベルでも間違えなければ違った展開になった可能性があるという話でした。軍の人材登用の在り方としてハンモックナンバー重視等学校での順位がその後も幅を利かしたことや、教科書尊重で新機軸の作戦が立てられなかったことが弊害として挙げられていました。また上層部で信頼をベースにし過ぎて、確認・擦り合わせがなかったことで、目的と目標が食い違い、作戦に齟齬を来したこと(特にレイテ沖海戦)が挙げられます。

アメリカは1941年初めには日本の外務省の暗号を解読していたとのこと。今でもシギントが強く、盗聴は当り前の国です。これでは戦闘レベルで勝てても、作戦レベルでは勝てません。武道で相手がどこを攻めて来るのか分かれば「後の先」は簡単です。それと同じこと。パールハーバーはsneak attack ではありません。ましてや本内容にありますように、英国輸送船団を守るためドイツに宣戦布告なしに攻撃命令を出しています。フライングタイガーと同じです。FDRの人間の厭らしい所でしょう。中国が好きだったという人柄が滲み出ています。

内容

P.68~70

三国同盟は、対米戦のためではなく、あくまでも日米戦争を回避するためだというのである。

また、この発言の最後に武藤は、今後「ソ連との国交調整」が予想される旨の言葉を残している。東条陸相も、この武藤発言に続いて、「次に来るのはソ連との調整である」と 言葉をついでいる。

陸軍首脳部が、三国同盟締結によって、ドイツを仲介とする対ソ国交調整が進展することを期待していたことが分かる。

ちなみに、ドイツ側とは異なり、東条や武藤は、三国同盟のみではアメリカの対日行動を牽制しえず、むしろ対日態度は硬化するだろうとみていた。たとえば東条は、ニ八日の陸軍省局長会議で、「三国〔同盟〕条約は英米に対して大なる衝撃を与え、対抗手段に出づることは必至」だとして、対日禁輸の強化の可能性に言及している。また武藤も、条約締結による「米国のわれわれに対する経済圧迫は、万策を講じてこれを避けねばならぬ」と述べ、アメリカの対日経済制裁強化を警戒している。

ドイツにとっては、三国同盟それ自体が重要な意味をもっていた。ドイツはアメリカの対独参戦の危機に直面していた。したがって、日本との軍事同盟はアメリカを太平洋側から牽制する有効な手段として位置づけられていた。

だが日本は、後述するように、アメリカからの一定の輸出制限(石油・屑鉄を部分的に含む)を受けてはいたが、必ずしも対米戰争に直面する状態にあるわけではなかった。したがって日本にとって、ドイツとの軍事同盟が直接アメリカを牽制する効果をもつとはみられていなかった。

武藤ら陸軍中央は、三国同盟のみでなく、それにソ連との提携が加わることによって、はじめて対米牽制効果を期待しうると考えていたのである。

たとえば武藤は、三国同盟締結後の論考のなかで、次のように「ロシアとの提携」の必要に言及している。

吾々は・・・・ソ聯をして成べく枢軸側に協力させるように努めなければならない・・・・

吾々は飽くまでも自給自足の共存共栄圏を作らなければならない。それが為には…南方の資源を獲得することが必要である。・・・・この企図を遂行しようというならば、一時ロシアの方面との国交を調整しなければならない……南方発展の為に一時ロシアとの提携ということが起り得る」(武藤章「国防国家完成の急務」『東亜食糧政策』)

ここでの対ソ提携の必要は、南方発展の文脈で、すなわち南方武力行使のさいの北方の安全を確保する意味で主張されている。だが、先の陸軍案にみられるように、三国同盟に対ソ提携を加え、四国連合による対米牽制、南方武力行使(対英戰)時などでのアメリカの参戦阻止を意図するものでもあった。

武藤は戦後の手記で、「元来三国同盟の目的は、……日独伊の同盟に蘇聯をも加入せしめ、この一連の枢軸によって、米国の戦争加入をも阻止し、日支事変を速かに解决せんとの企図であった」としている(武藤『比島から巣鴨へ』)。

近衛首相も、

「三国同盟に伴う危険を防ぐ最大の安全弁はソ聯との提携であった。……日独伊三国だけの同盟は危険であるが、ソ聯が我々の側に立っているということになれば余程危険は緩和され得ると考えた」(近衛文麿『失はれし政治』)と後に回想している。

P.74~80

三国同盟とソ連との連携による米封じ込め

このような経過をへて、九月一四日の大本営政府連絡会議で、三国同盟は海軍側を含めて正式の承認をえた。その後、一六日の閣議、一九日の御前会議で同盟締結が正式に決定。二六日の枢密院審議での条約締結承認をへて、九月二七日、日独伊三国同盟条約が締決された。

自動参戦の回避については、攻撃を受けたかどうかは三国間の協議により決定するとの趣旨の交換公文が、オット駐日独大使の松岡外相宛書簡の形式で交わされた。

だが、オット駐日大使やスターマー特使は、この交換公文について、ドイツ本国政府に知らせかった。日本の対米自動参戦を強く望むヒトラー、リッベントロップら政府首脳の反応を恐れたためではないかとされている。

ヒトラー、リッベントロップらは、三国同盟による対米牽制(アメリカの参戦阻止)を期待していた。だが、それにもかわらずアメリ力系が対独参戦した場合には、日本がフィリピン、ハワイなどを攻撃すること、すなわち日本の同時参戦を望んでいたからである(ゲルハルト・クレーブス「日独伊三国同盟」近藤新治編『近代日本戰争史•第四編・大東亜戦争』)

整理すると、武藤ら陸軍中央にとって三国同盟の締結は次のよぅな意義をもっていた。 第一に、東南アジアを含めた「大東亜」の指導権(支配権)をドイツに承認させたこと。第二に、 対ソ国交調整へのドイツによる仲介による糸口をつかんだこと。第三に、日独伊ソ四国連合による対米牽制、アメリカの参戦阻止の可能性が現実化してきたこと。

だが、 同時にそれは独米戦突入が日米開戦へと連動する危険性をはらむものだった。またさらに、アメリカの日本への反発、対日圧力の強化をともなうものでもあった。

しかし、ドイツの仲介による対ソ国交調整が実現すれば、陸軍の戦略にとって大きなメリットがあった。それは、第一に、北方の安全確保が実現することによって、「大東亜生存権」形成のための南方武カ行使が実際に可能になることである。第二に、ソ連の対中援助(新疆ルート)を抑制させる。また、中国国内での国民党と共産党の離間、抗日勢力分断の可能性が生じる。第三に、三国同盟と相まって対米牽制力が格段に強化される。武藤らはこう考えていた。対ソ国交調整問題はそれだけ重要な意味をもっていたのである。

このあと陸軍は、「時局処理要綱」にしたがい、南方進出のための具体的な施策の策定・実施と、対ソ国交調整の実現をめざして動いていくことになる。

三国同盟成立後、武藤は、日本をとりまく国際情勢について、次のような認識を示している。

「日独伊は連携して、英米仏などに支配されていた「旧世界秩序」を転覆し、「世界の新秩序」を建設しつつある。日独伊は、「新たなる原理」によって、世界を「創成」しようとしている。日本は、このような世界史的な転換のなかで、好むと好まざるとにかかわらず「大変局」に直面している。

「日独伊等の新興国家群による勝利は、すなわち政治、経済•思想、文化等の全面にわたって、新たなる原理によって世界を創成せんとするものである。したがって、帝国また右の如き世界史的の転換の真只中に立って好むと好まざるとに拘わらず、有史以来の大変局に直面しているわけである。」(武藤「国防国家完成の急務」)

そのようななか、今や英米の反日的態度は先鋭化し、両国は緊密な連携のもと、対日攻勢を策しつつある。ソ連を英米陣営に引き込もうとし、重慶政府を援助して日本への抗戦を続けさせようとしている。またタイや蘭印をも、日本に対抗するよう使嗾している。

ソ連は、英米と日独伊の間で中立的態度をとっているが、独伊と共同で、枢軸側に協力させるよう努める必要がある。もちろん、その全世界に対する赤化宣伝への警戒は忘れてはならない。

だが、日本は、あくまでも「自給自足」の経済圏を作らねばならず、「南方の資源」の獲得が必須である。したがって、ソ連との国交を調整し、南方発展のために一時ソ連との提携を考えなければならない。また、ソ連の対中援助の影響は大きく、それを断つためにも、ソ連との国交調整が必要である。

「吾々はこのロシアの態度に対しては、独伊両国と共に、あるいは利を以て之を誘い、あるいは力を以て之を嚇かし、ソ聯をしてなるべく枢軸側に協力させるように努めなければならない・・・・ロシアの方面との国交を調整し・・・・一時ロシアとの提携ということが起り得る」(同右)

こうした三国同盟およびソ連との提携によって、なるべくアメリカを反省させるようにしなければならない。そして、「公正妥当なる態度」をもってアメリカに対処することが必要である。「自ら好んで[アメリカと〕戦さをするにはおよばない」が、最悪の場合でも、 断然これと対抗するだけの準備は整えておかなければならない、と。

武藤はまた、次のようにも述べている。

アメリカは「物資と財力の豊富な点においては世界第一」であり、現在、国防国家体制の整備を進めている。少なくとも1〇〇万の将兵一人一人に機械化装備を与え、年間五万機の航空機を製作しようとしている。その軍事費は約一四〇億円に達するもので、日本では考えられないことである(当時の日本の軍事費は約ニ○億円)。

しかも事態は決して楽観を許さないものであり、ひとたび対処を間違えれば、「日米戦争を太平洋上に始めて、世界人類の悲惨なる状態を招来する」こともありうる。

このような状況下において、国是としての「大東亜建設」を遂行していくには、国防国家体制を整え、強カに国策を遂行していかなければならない、と(同右)

すなわち、日独伊三国同盟とソ連の連携による圧カで、アメリカ参戦を阻止し、日米戦を回避しながら、大東亜生存圏の建設を実現しようと考えていたのである。先にみたように武藤は、三国同盟を、日米戦争を目的とするものではなく、あくまでもそれを回避するためのものだと位置づけていた。日中戦争、南方武力行使(対英戦)に加えて、圧倒的な国力差のある対米戦となることは、武藤も望まないことだったからである。

また、一九四一年(昭和一六年)初頭、武藤は、今後の国際情勢の大きな方向性について、次のように論じている。

世界は、日中戦争、欧州戦争、そして「新旧」両勢力の対立によって、今や「世界大動乱」へと進もうとしている。

「四周を見渡せば、客観的世界情勢はただならぬ超非常時の坩堝と燃えている。東に支那事変、西に欧州戦争が展開せられ、……世界勢力を新旧の分野に対立せしめ、今や世界大動乱への驀進は、好むと好まざるとに拘らず、不可避の観がある。」(武藤章 「新東亜建設と太平洋」『朝日新聞』昭和一六年一月一日)

近年の世界の趨勢をみるに、世界は四つのプロックに編成されようとしている。それは、アメリカを中心とする南北アメリカ大陸と、独伊の指導するヨーロッパ圏(アフリ力を含む)、欧州・アジアの北方領域を占めるソ連邦、そして日本がリードする大東亜共栄圏である。

「両三年前よりの世界大勢の趨くところを観察するに、米大陸においては、北米合衆国が中心となって西半球二十一ヶ国を連らねた大同団結を結成せんとし、欧州においては、独伊両国が指導的立場をとって所謂欧州新秩序を創成せんとし、更にソ聯邦は、欧亜北方に跨る一大ブロックを形成せんとする必然性が濃厚に看取されるのである。この世界情勢において、大東亜に生存する諸国が……大東亜共存共栄圏確立の謀を繞らすは自然の結論である。」(同右)

ここには、大英帝国圏の消失とソ連の存続の方向が示されている。そして、日独伊ソの提携による南北アメリカ大陸への米封じ込めの状態(参戟阻止)が含意されているのである。これはまた武藤自身の意図するところだった。

だが、この武藤の期待は、後述するように、日ソ中立条約締結のニ力月後、一九四一年六月の独ソ戦によって打ち破られることになる。

P.224~226

すべてはイギリス存続のため

なお、アメリカ政府は、一九四一年の初め頃には、日本外務省の最高機密暗号の解読に成功していた。そして、その暗号解読(「マジック情報」)から、七月二日御前会議決定「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の概要をつかんでいた。そこでの、「南進第一、状況良ければ北進、米独戦には自主的参戦」との内容を承知していたのである。

南部仏印進駐に対するアメリカの対日石油全面禁輸は、一般には日本のさらなる南方進出を抑制するためだったと理解されている。だが、それのみならず、北方での本格的な対ソ攻撃を阻止するためでもあったのである。もちろん、日本の北進抑制とともに南進抑制も対日全面禁輸の目的の一つだった。もし禁輸圧力によって南進も抑制されれば、それはそれで望ましいことだった。アメリカにとって、日本のさらなる南進は、東南アジアの英蘭植民地攻略を意味した。そのような事態になれば、日本の海軍力によって、アジア英領植民地、オーストラリアなどからのイギリスへの物資調達が遮断される可能性があった。

それはイギリスの対独継戦を困難にし、大英帝国の崩壊をももたらしかねない深刻な事態だと考えられていた。アメリカにとって、イギリスの崩壊は安全保障上絶対に阻止しなければならないことだったのである。

いずれにせよ、アメリカの対日石油全面禁輸と、その後の対日戦決意は、イギリスの存続のために行われたといえよう。

これ以後、武藤は、日米交渉による対米戦の回避に全力を傾けていく。「日米戦争は日本の自殺行為だ。あくまで外交交渉を成立させねばならぬ」、と彼は考えていた(武藤『比島から巣鴨へ」)。近い関係にあった矢次一夫も、「日米戦えば、いかに考えてみても、研究してみても、日本に勝目はない。どうしたら、戦わずに済むかと、このところ心肝を砕く思いをしている」との武藤の発言を聞いている(矢次『昭和動乱私史』下巻)。

他方、アメリカの全面禁輸によって、北方武力行使を延期せざるをえなくなった田中は、強硬に南方武力行使、対米英開戦を主張。武藤と激しく衝突することとなる。 なお、一般に、日米戦争は、中国市場の争奪をめぐる戦争だったと思われがちだが、それは正確ではない。実際は、イギリスとその植民地の帰趨をめぐって始められたのである。

事実、アメリカが中国を本格的に援助し、各種の対日制裁を実際に発動し始めるのは、 ドイツの対英攻撃が始まる一九四〇年からで、それまではある程度の借款による支援に止めていた。一九三〇年代後半までは、対日輸出額は対中輸出額の七倍前後を占め、日本との戦争を賭してまで中国市場を守ることは、アメリカ政府にとって考えられないことだったのだ。

たとえば、ジョンソン駐華米公使は、日中戦争中、「中国を武力で援助するようなことはしない」と、中国側に何度も伝えていた(福田『アメリカの対日参戰』)。

しかも当時日本の海軍力は米海軍を凌いでおり、日本に実力で対抗することは事実上困難だった。アメリカ国務省の対日強硬派ホーンベック極東部長も、アメリカは中国市場をめぐって日本と戦争する危険を冒すべきでないとのスタンスだった。

だが、その後ドイツのイギリス攻撃が本格化し、イギリス本土が危機に瀕してくると、アメリカは、日本を中国に釘付けにするため、中国の対日抗戦力を強化すべく重慶政府援助を本格化し(一億四五〇〇万ドルの借款供与)、対日経済制裁を強めていく。もし日本が中国を制覇すれば、ドイツに協力して、シンガボールをはじめ東南アジアその他の英領植民地への攻撃に向かう可能性が高く、植民地からの物資補給を断たれたイギリスは、ドイツの攻撃に耐えきれず敗北する懸念があったからである。アメリカが日独伊三国同盟の締結に神経をとがらせたのは、そのような背景があったからだった。  

P.318~319

そして、九月一一日、「半球防衛計画第一号」が、ルーズベルト大統領の(当該海域枢軸国艦船に対する)「発見次第発砲」命令として発動された。「半球防衛計画第一号」とは、米海軍の哨戒領域を西経二六度線以西まで拡張し、その海域への枢軸国艦船の侵入は武力攻撃を加えても阻止するというものだった(西経ニ六度線は、グリーンランド、アイスランド西端、 ボルトガル沖のアゾレス諸島を含む)。その実施は、四月初旬に検討されていたが、日ソ中立条約締結(四月一三日)の動きによって実行が延期されていた。それが独ソ戦開始後、ソ連の対独抗戦継続のなかで、実施されることになったのである。

また、九月一三日、スターク米海軍作戦部長は、米艦隊に英国船団護送の開始を命じ、 護送中に出会う枢軸側海空部隊を壊滅させるよう指示した。

アメリカからアイスランド間の英国輸送船団による対英援助ル—トの安全が確保され、イギリスの対独抗戦体制が整うこととなる。少なくとも翌年春までのイギリスの安定的存立は確実のものとなった。あとは独ソ7戦の動向にかかっていた。

また、これらのことはアメリカ政府の対独戦への積極的意思(「宣戦はしないが戦争はする」〔ルーズヴエルト〕)表出を意味し、米独間は事実上戰争状態に入ったとみなされた。

また、九月ニ五日、「米国総合生産必要量に関する陸海軍統合会議算定書」、いわゆる「勝利計画」が大統領に提出された。

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