『習近平「独裁」への勝利と妥協…党人事を読む 「5年後」に向け、共青団派との闘争は激化必至』(11/1日経ビジネスオンライン 福島香織)について

中国の高級幹部は身長の高さと頭髪の黒くふさふさとしているのを大事にすると河添恵子氏は言っていました。当然、今のチャイナ7もそうです。増毛しているそうで。

11/1中国観察<七常委罕見赴上海參觀 釋強烈信號(圖) 看中国=チャイナ7全員で上海・嘉興を参観したのはめったに見られないこと。強力な合図を送ったと説明できる>習派の上海市書記・李強を助け、上海幇(江派)を無力化したのを見せつけるためのようです。1921年、コミンテルンの指導の下、上海の現在の新天地地区で中共第1回全国代表大会が開かれました。そこはフランス租界であった為、仏租界警察が踏み込む前に間一髪で逃れ、浙江省嘉興の南湖に会場を移し、そこで陳独秀が総書記に選ばれました。下のレリーフでどの顔が陳独秀かは分かりません。

http://chinaexaminer.bayvoice.net/b5/ccpsecrets/2017/11/01/378066.htm%E4%B8%83%E5%B8%B8%E5%A7%94%E7%BD%95%E8%A6%8B%E8%B5%B4%E4%B8%8A%E6%B5%B7%E5%8F%83%E8%A7%80-%E9%87%8B%E5%BC%B7%E7%83%88%E4%BF%A1%E8%99%9F%E5%9C%96.html?utm_source=dlvr.it&utm_medium=facebook

王滬寧は江沢民・胡錦濤・習近平と三代に亘って仕えているスピーチライターとの触れ込みですが、河添恵子氏に依れば、彼は情報機関に属し、3回も政略結婚をしているとのこと。単なる学者ではないようです。福島氏は共青団のエリートを買っているようですが、お公家集団に軍のコントロールは出来ないのでは。却って危ない気がします。習も軍の経験がありませんけど、頭で考えるタイプではないですから、軍も共青団よりは習の言うことを聞きやすいと思います。北の問題を解決した後に日米豪印で中国を封じ込めれば、人民解放軍には暴発させないようにするのではないかと淡い期待を持っています。習の方が強面ですから日本人に防衛努力を気付かせてくれると思っています。

10/27新唐人TV<中国共産党大会後の米中朝関係の行方>国益センター国防研究主任ハリー・カジアニス氏:「アジアにおけるアメリカと中国の利益の多くは一致していません。協力しなければどうなるか、中国に圧力をかける方法はいくらでもあります。」と述べています。特亜3国は平気で嘘をつくし、騙す、裏切りは当り前と思った方が良いです。厳しくチエックしませんと、口実を作ってノラリクラリ引き延ばされます。中国に経済制裁・金融制裁をかけて、中共を崩壊させるのが世界平和の為です。

http://jp.ntdtv.com/news/18406/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E5%A4%A7%E4%BC%9A%E5%BE%8C%E3%81%AE%E7%B1%B3%E4%B8%AD%E6%9C%9D%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%AE%E8%A1%8C%E6%96%B9

小林敏明著『夏目漱石と西田幾多郎』のP.168には漱石が「余は支那人や朝鮮人に生れなくって、まあ善かったと思った」と出てきます。『韓満所感』(1909年)という夏目漱石の随筆の中で述べられています。Wikiに依れば次の通り。漱石の生きた時代から特亜3国は憐れむべき存在だったという事です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%93%E6%BA%80%E6%89%80%E6%84%9F

記事

19回党大会で選ばれた中枢7人。習近平主席(中央)の独裁が確立されるのか。新たな5年闘争が始まった(写真:AP/アフロ)

第19回党大会が10月24日に終わり、25日の一中全会(第一回中央委員会全体会議)で人事と党規約の改正が承認された。翌日の中国各紙の一面は、判で押したように、習近平の撮影用メークアップを施したつややかなポートレートを一面に大きく掲載。その他の政治局委員とは格が違うのだよ、と視覚的に訴えた。

鄧小平の打ち立てた集団指導体制「書記は委員の一員であり上下関係はない。書記は党の委員会の中で平等な一員である」という1980年以来の規定を、習近平は時代は変わったのだ、と言わんばかりの態度で否定したわけだ。

だが、今回の党大会が習近平の思惑通りに進み、その長期独裁体制確立の基盤を整えた、と判断するには時期尚早のような気がする。もちろん、今回の党大会で習近平一強体制は大きく前進した。だが、そう見える背後に、かなり激しい闘争の痕跡と、そして今後の闘争の激しさを暗示する材料もある。今党大会における習近平の勝利と妥協を分析してみよう。

過半数を押さえ、後継者候補を置かず

勝利といえる点は、共産党中央委員のヒエラルキーの上部組織・政治局25人の顔ぶれの中に、明らかに習近平に従順、忠実な習近平派とみなせる人間が14人前後いることだ。つまり過半数が習近平派である。また中央委員会メンバー204人も引退年齢(68歳)に達していない共青団派メンバー、例えば李源潮や劉奇葆らが退任し、およそ6割が入れ替えられた。その多くが習近平におもねる政治家たちであった。これで、政治局会議、あるいは政治局拡大会議、中央委員会全体会議で習近平が、たとえば経済政策や外交などの失策で責任を問われて突然総書記職を解任される、といった可能性はなくなった。

実は習近平はそれを恐れていた。共産党の権力闘争史では、こうした会議の場での政敵による多数派工作で権力の座から引きずり降ろされる解任劇はよくあった。華国鋒も胡耀邦も、旧ソ連のフルシチョフもそれで失脚した。

さらに政治局常務委員会という共産党中央の最上部組織、最高指導部7人のメンバーには、習近平が最も恐れる男が入らなかった。広東省委書記であり政治局委員を5年務めた習近平より10歳若い共青団派のエース、胡春華である。

これにより、最高指導部が後継者候補2人を指名し、政治局常務委員会入りさせ、その2人を競わせる形で指導者として育成するという慣例が破られ、習近平政権は後継者未定のままで、2期目に入ったわけである。習近平としては、後継者がいないという口実によって、自分が3期目も総書記・国家主席を継続して、党政・国政の主導権を握り続け、長期独裁体制を確立できる可能性が広がった。胡春華が政治局常務委員会入りできなかったことは、習近平の第19回党大会までの権力闘争における一つの大きな成果であったといえる。

胡春華は胡錦涛政権時代に元重慶市委書記の孫政才とともに見いだされて、2人セットで後継者育成コースにのっていた。習近平は、この胡錦涛政権時代に選ばれた後継者候補をなんとか失脚させようと画策しており、その結果、孫政才は失脚。その代わりに、習近平自身の選んだ陳敏爾(重慶市委書記)を後継者候補に促成栽培しようとした。

私の仄聞したところでは、胡春華を政治局常務委員会に入れようとする共青団派に対して、習近平は陳敏爾も一緒に後継者として政治局常務委員会入りさせることを北戴河会議で内定させたという。

だが、習近平としては、陳敏爾を胡春華よりも序列上位につけることにこだわった。そうすれば、たとえ習近平の3期目任期継続の野望が阻まれたとしても、次善の策として、陳敏爾に総書記の座をゆずり、実力も経験も不足している陳敏爾を補佐するという形で、鄧小平のように院政を敷く道が開ける。だが、地方の行政経験も短く、政治局委員ですらない実力不足の陳敏爾を政治局常務委員会に入れ、なおかつ胡春華よりも序列上位につけることへの党中央の抵抗は強く、今の習近平の権力基盤ではこの抵抗を無視することはかなわなかった。

直接対決避けた胡春華、勝負は5年先

党大会直前の最後の人事の攻防の場であった七中全会(第18期中央委員会第七回全体会議)では陳敏爾の政治局常務委員会入りは見送られる公算になった。だが、陳敏爾が政治局常務委員会に入れず、胡春華だけが政治局常務委入りさせることも共青団派としてはリスクが高かった。

胡春華は外部ではあまり知名度はないが、党内では期待の星である。胡春華が政治局常務委入りすれば、おのずと習近平VS胡春華の直接対決構図がクローズアップされる。陳敏爾が一緒であれば、陳敏爾VS胡春華が牽制しあう形になるが、さすがに習近平との直接全面対決では、胡春華がつぶされる可能性が高い。用心深い胡春華は、体調不良などを理由に政治局常務委入りを辞退し、習近平との全面戦争を回避した、という。

だが、胡春華は失脚したわけでなく、実力を蓄えたまま政治局委員を2期続けることになる。5年後は59歳、まさしく習近平が総書記になった年齢。その時、引退年齢に達した習近平が、胡春華の台頭を抑えることができるかどうかは、今後の5年の闘争の結果による。後継問題は解決したわけではなく、少し先送りになっただけともいえる。その意味で、習近平の完全勝利ではない。

政治局常務委員会入りしたのは、習近平、李克強、栗戦書、汪洋、王滬寧、趙楽際、韓正。第18期に引き続いて残留したのは習近平、李克強で、張徳江、兪正声、劉雲山、王岐山、張高麗の5人は定年68歳に達していたので引退した。

この5人のうち、王岐山は習近平政権1期目において、党中央規律検査委員会書記として反腐敗キャンペーンの陣頭指揮を執り、習近平政権を支えた最大功労者だ。習近平にとってみれば、数少ない実力をともなった“盟友”ということで、本人が引退を言い出したときに定年を無視して残留を望んだともいわれている。王岐山の残留は、習近平が第20回党大会時に定年を超えて3期目の総書記職を継続するための先例になるという期待があった。王岐山の実力は、これまでの不文律を無視できるほどの説得力があった。

だが、その王岐山は引退した。つまり定年制度は、どんなに実力があっても例外を認めず徹底される、ということが現段階でむしろ確認された格好だ。これは、習近平の思惑が外れた、というふうに見えるかもしれない。汚職疑惑が米国メディアらに取り上げられはじめている王岐山が留任すればしたで、習近平にとってはリスクになったかもしれないので、この妥協はむしろ習近平の慎重な選択ともいえる。

ただ胡春華の政治局常務委入りを阻止し、なおかつ定年制の例外を認めて王岐山が残留すれば、これは確実に習近平の定年を超えた任期継続の布石になっただろう。そうはできなかったという意味では、これも習近平が完全勝利でないといえる要因の一つだ。

残留したのは習近平と李克強の2人だけで、この2人は第19期も引き続き国家主席、首相を務めることになる。新しく入ったメンバーを見てみると、習近平派と呼べるのは習近平本人のほか、栗戦書、趙楽際の3人。共青団派と呼べるのは李克強、汪洋の2人。韓正は唯一の上海閥だが、アンチ習近平派という意味では、共青団と同じ立場だろう。王滬寧は無派閥ということになるが、今は習近平の指導思想を支えるスピーチライターだ。そう考えると、最高指導部内の権力バランスは若干の習近平有利と言えるが、圧倒的に有利というわけではなく、今後5年、依然として激しい権力闘争が継続する可能性を残したと考えたほうがよいだろう。

「反腐敗」は栗戦書ではなく趙楽際に

新たに政治局常務委入りしたメンバーで注目すべきは、栗戦書だ。習近平の側近であり、「習近平半径5メートルの男」と呼ばれるほど、いつも習近平に寄り添っている習近平派の中心人物。非常に有能だが習近平より3歳年上であり、習近平の後継者にはなりえない。また実は共青団派とも深い関係があり、権力闘争においては非情になり切れない人情家の面もある。

彼は本来、王岐山が退任すれば中央規律検査委員会書記を継いで、習近平路線の最大の推進力である反腐敗キャンペーン(という名の政敵排除)を担うことを期待されていたが結局、その任務を外された。それはひょっとすると、栗戦書の人情家の部分が、非情な習近平にそこまで信頼されていない、ということかもしれない。もっとも本人にとっては、この苛酷な任務から外されたことは幸いだろう。彼は全人代常務委員長(国会議長に相当)となり、国家主席任期を2期と決めている憲法を改正して、習近平政権の延長を画策する任務を負わされるかもしれない。

一方、中央規律検査委員会書記に新たに任命された趙楽際は“偉大なるイエスマン”、ごますりと出世と揶揄される官僚である。陝西省委書記時代、習近平の父親である習仲勲の巨大墓所「習仲勲陵園」整備計画を打ち出したことで、2012年秋、習近平政権のスタートとともに政治局委員に抜擢された。

趙楽際の祖父・趙寿山(建国後は青海省主席)が習仲勲と親友であり、習仲勲が毛沢東から反党的だとして攻撃されたとき、身を挺して毛沢東から習仲勲をかばったという逸話がある。以来、家族ぐるみの親交が続いている。だが、趙楽際自身は、開明派の祖父と違い、思想的には毛沢東の信望者であり、共青団系でありながら、改革派とは程遠い。習近平の下では中央組織部長として習近平人事を推し進めてきた。だた、さほど切れ者という評判もなく、王岐山でさえ27回も暗殺未遂にあったという身の危険をともなう中央規律検査委員会書記の職務を趙楽際が全うできるかどうか、習近平の権力闘争の中心である反腐敗キャンペーンを支え切れるかどうかは、未知数である。

序列四位に入った汪洋は胡錦涛の信頼を得ている共青団派の有能な政治家だ。国際派であり、その思想も本質的には改革派、開明派。イデオロギー、路線的には習近平と対立する。共青団派の同い年(1955年生まれ)というライバル関係上、李克強とは相性が悪いが共青団派としては忠実だ。李克強が仮に健康状態を理由に引退していれば、首相を務められるくらいの実力はもっている。結果的には、閑職・名誉職的な全国政治協商会議主席のポジションに就くようだ。

共青団派の集団指導体制に期待

汪洋は如才なく習近平とも付き合っているが、習近平としてはやはり、その有能さを警戒したのかもしれない。李克強とともに第20回党大会時に、引退年齢に達しておらず、留任可能な若さがある。5年後、定年制を打破できなかった習近平が69歳で引退を迫られたとき、67歳の李克強と汪洋が政治局常務委員会に留任、今度こそ新たに政治局常務委入りする胡春華を補佐する形で、共青団派主導の集団指導体制を確立するというシナリオもまったくなくはない。

私がひそかに期待するのは、この共青団派の集団指導体制である。共青団出身官僚政治家は、よくも悪くも官僚的で、国際派で、実務派で、リアリストで、権力闘争はどちらかというと関心が薄く、共産党史上初めて本格的な政治改革に取り組もうとした胡耀邦の薫陶を受けたエリート集団である。しかも60后(1960年代生まれ)はポスト文革時代、天安門事件前の中国社会の民主化希求の熱気の中で青年期を過ごした世代である。彼らが最高指導部で党政・国政の主導権を握ったときに、中国の方向性が変わるかもしれない、という期待は、中国の体制改革を望む人間に共通している。

王滬寧は、おそらく胡春華が政治局常務委員会落ちした代わりに、急きょ政治局常務委員会入りが決定したのだろう。一中総会のときの記者会見で、落ち着きなく居心地悪そうにしていたのは、本人がこの苛烈な権力闘争の鬼の巣のような政治局常務委員会に望んで入ったことではないことがうかがえる。

王滬寧は地方の行政経験がゼロの研究者肌のスピーチライターである。江沢民の「三つの代表」、胡錦涛の「科学的発展観」、そして第19回党大会で党規約に盛り込まれることになった「習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想」のいずれも王滬寧が中心となって理論構築している。「三つの代表」と「習近平新時代の~思想」は路線として真逆であり、このことは王滬寧自身が時の政権の御用理論家であることの証左でもある。地方の行政経験がないということは、部下もおらず独自の派閥もないということで、権力闘争的には「戦闘力ゼロ」。積極的に権力闘争にかかわらないようにしながら、その時の強き方に傾斜して生き抜くタイプであろう。

こうした点を総合すれば、第19回党大会における人事は習近平もかなり妥協し、絶対的な基盤を築くには今後の5年が勝負となる。

長い形容句と、続く権力闘争

人事面でかなり妥協した習近平だが、最もこだわったはずの党規約改正にも妥協がみられる。総綱に「習近平新時代の中国の特色ある社会主義思想」という個人名と思想を入れた言葉を、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、三つの代表、科学的発展観に並べたことは習近平にとって勝利だ。少なくとも、江沢民、胡錦涛よりも上位であることを党に承認させ、自分が毛沢東、鄧小平に並ぶ第三の強人政治家である、というアピールはできた。しかも「理論」ではなく「思想」なので(理論より、思想の方が格上)鄧小平理論すら、超えたといえなくもない。

習近平新時代とは、鄧小平時代が旧時代である、といいたいのだ。だが、改革開放40年の成果を習近平時代のわずか5年で越えようというのは、おこがましいにもほどがあると党内の多くが思っている。その不満が、習近平と思想の間にこれでもかと挟まれた長い形容句に表れている。なんとか、習近平という言葉が思想にかからないように、抵抗した跡のようにも思えるのだ。

そして習近平のもう一つのこだわり「党主席」制度復活は、見送られた。死ぬまで権力を掌握し続けた毛沢東と同じ党主席になろうという野望を今の時点で貫き通すほどの権力は習近平になかったということである。

第19回党大会の総括としては、習近平は鄧小平時代を過去のものとし、習近平時代ともいうべき習近平長期個人独裁政権の確立にむけて、その野望を隠さずに全面的に宣言したことが最大の意義である。だが、党がその野望のもとに団結できるのか、国際社会がその野望を容認するのかまではわからない。一つ言えるのは、習近平がその方向性を変えない限り、今後5年間の中国もやはり、波乱に満ちた権力闘争を展開するはずである。

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