3/2阿波羅新聞網<三中全會公報表述有變 暗示中共有大動作 一詞出現7次=三中全会の公報は変化を伝える 中共に大きな動きがあるのを暗示 一つの言葉が7回も出て来る>
2/28に三中全会は閉幕したが、新華社の公報に依れば「統一」の言葉が7回も使われた。「思想統一」と「党の核心で権威を集中させた唯一のリーダー」を認めさせる為である。各地に国家監察委が設立され、国家検察の反腐敗部門と党の規律委員会を合併するので、内部で調整中である。王岐山の国家副主席就任はこれで問題はなくなった。今後習・王体制で臨むことになる。但し反腐敗で政敵を打倒したため怨嗟の声が。スターリンや毛沢東のような個人独裁になれば、権力闘争が激しくなり、反対者は旗幟を鮮明にするかもしれない。
http://tw.aboluowang.com/2018/0301/1077642.html
3/4日経朝刊<盧溝橋に掲げられた写真
中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席が笑っているかどうかを確かめたくて、ひさしぶりに北京郊外の盧溝橋に近い抗日戦争記念館を訪ねた。
盧溝橋はいうまでもなく1937年7月に日中戦争の発端となる発砲事件が起きた場所だ。記念館の展示は旧日本軍による侵略の歴史が延々と続き、最後の部屋に習氏が安倍晋三首相と握手する写真がある。
2015年に掲げられたとき、写真のなかの習氏はむすっとした表情だった。むりもない。それまで安倍氏と会っても、笑ったためしがなかったからだ。
その習氏が17年11月の首脳会談で、はじめて安倍氏と笑顔で握手した。もしや記念館の写真も替わっているのではないか。そう思って最後の部屋に足を運んでみたが、習氏はやはりむすっとしたままだった。
12世紀に完成し、マルコ・ポーロが「世界でいちばん美しい橋」とたたえた盧溝橋と対照的に、抗日戦争記念館はひときわ斬新なデザインが目を引く。その歴史はあんがい浅く、1987年7月の開館からまだ30年しかたっていない。
日本の侵略を思い返す施設が、戦後40年をへてできたわけだ。80年代初めまで、中国は日本の歴史認識をさほど問題にしなかった。そう聞けば、意外に思う人は多いかもしれない。
興味深い記録が残っている。64年7月に建国の父である毛沢東氏が、のちに日本社会党の委員長となる佐々木更三氏と北京で会ったときのことだ。佐々木氏が旧日本軍の侵略戦争を謝罪すると、毛氏は次のように答えたという。
「何も申し訳なく思うことはありません。みなさんの皇軍なしには、われわれが権力を奪取することは不可能だったのです」(「毛沢東思想万歳〈下〉」東京大学近代中国史研究会訳)
リップサービスを含むにしても、毛氏の本音がにじむ言葉だろう。
30年代の半ば、毛氏が率いる共産党は国民党の軍に追い詰められていた。その状況は日中戦争の勃発で一変する。抗日で国民党と手を組む「国共合作」が成立し、共産党は力をため込む余裕ができた。毛氏にとって敵は日本でなく、あくまで国民党だった。
風向きはどこで変わったのか。日本貿易振興機構アジア経済研究所の江藤名保子氏は「82年の第1次教科書問題が大きな転機になった」と指摘する。日本の教科書検定に関する報道をきっかけに、中韓が「歴史の改ざんだ」と激しく反発したときだ。
当時、鄧小平氏が改革開放に踏み出し、共産党は「社会主義」の旗印だけで国を束ねるのが難しくなっていた。教科書問題はそんな共産党に思いがけない発見をもたらす。「愛国主義が国内政治の安定に役立つと気づいた」(江藤氏)のだ。抗日戦争記念館の原点が、そこにある。
もちろん、あの戦争が正しかったと言いたいわけではない。多くの日本人は過ちを認め、だからこそ、歴代首相はおわびと反省の気持ちを表してきた。
中国は国内の安定を保つために、それを拒んできた面がある。しかし、沖縄県の尖閣諸島をめぐる2012年のデモが制御不能に陥ったように、もはや「反日」が国をまとめる力になるとは思えない。
国家主席の任期をなくす憲法改正が固まり、習氏は外に敵をつくらなくても国を束ねられる強い権力を手にした。日本のおわびと反省を、そのまま受け止める環境は整ったはずだ。
盧溝橋のそばに一日も早く、習氏と安倍氏が笑顔で握手する写真が掲げられれば、と願う。
(中国総局長 高橋哲史)>(以上)
日経も毛と佐々木更三の話を載せるようになったのは進歩かと。自分の会社の行く末にしか関心がなく、左翼のプロパガンダに弱い日経読者にとっては初めて聞く話かもしれません。ネットではとっくに流通していましたが。どうせなら、日中戦争の発端は中共の劉少奇の部隊が盧溝橋に駐留する日本軍に向けて発砲して、日本軍と国民党軍を戦わせたというのも載せれば良かったのに。劉がそう発言したと言われています。
高橋氏も中国総局長を務めているくらいですから悪辣な中国人の考え方や「騙す方が賢く、騙される方が馬鹿」という価値観については熟知していると思います。ただ、最後の結末で日中友好を願うとしたのは、報道機関の限界でしょう。彼らは一度手にした反日の蜜の味を手放すことはありません。中国で独裁体制を固める習の狙いは世界制覇にあり、目先邪魔になるのは台湾と日本です。昨日の本ブログで紹介しましたように、東南アジアの国々は中国に靡いていますので。自由主義VS左翼全体主義の闘いです。世界の人々の幸福を願うならば、日米台と中国との戦いが正念場となります。
北村氏の記事は中国が如何に正義が実現しない国かを説いています。小生が度々中国の賄賂社会に触れ、賄賂でどうにでもなる国と説明してきました。本ケースもその事例です。自分の思いを遂げるには結局自力救済するしかありません。中国では「悪い奴ほど良く眠る」のです。こんな悪徳に塗れた文化を世界に広めようとするのですから、中国の侵略を押し留めなければ。日本は覚悟を持たなければダメです。
記事
2月15日は旧暦の12月30日で、翌16日は中国の人々が1年の始まりと春の訪れを祝う“春節(旧正月)”の元旦であった。その春節前日の大みそかに、陝西省の西南部に位置する“漢中市”の“南鄭区”にある“新集鎮”の“王坪村”で、村民の“張扣扣(ちょうこうこう)”が近所に住む王家の父子3人を次々と殺害するという事件を引き起こした。この事件は張扣扣が22年前に王家の父子によって殺害された母親の仇を討ったものであった。3人目を殺し終えた張扣扣は天を仰ぎ、「苦節22年、今日でやっと俺の敵討ちは終わった」と大声で叫んだことから、中国メディアはこの殺人事件を“為母報仇案件(母の仇討ち事件)”と名付けて大きく報じた。
犯人は35歳の退役軍人、2日後に自首
殺害された王家の父子とは、当主の“王自新”(71歳)、長男の“王校軍”(47歳)、三男の“王正軍”(39歳)の3人であり、犯人の張扣扣は2日後の2月17日に自首したのだった。犯人が自首したことにより事件は怨恨(えんこん)による連続殺人事件として簡単に決着すると思われたが、張扣扣の殺人動機が母親の仇討ちであったことが報じられると、事件は新たな展開を見せたのだった。なお、犯人の張扣扣は1983年生まれの35歳で、2001年から2003年まで新疆ウイグル自治区の“武装警察部隊”に在籍した退役軍人であった。彼は農民である父親の“張福如(ちょうふくじょ)”と母親の“汪秀萍(おうしゅうへい)”の間にできた2番目の子供として大坪村に生まれた。彼にはすでに他家へ嫁いでいる姉の“張麗波”がいる。
さて、2月21日の中国メディアは取材に基づく事件の経過を以下のように報じた。
【1】王家の三男である王正軍は省都の“西安市”で工場を運営しているが、今年は例年より早く、旧暦の12月21日(新暦:2月6日)に大坪村へ帰って来ていた。王家では旧暦の12月23日(新暦:2月8日)に春節を迎えるための準備で豚を殺すので、王正軍はその作業を手伝うのを名目に例年より早く村へ戻ったが、その実は100万元(約1700万円)以上の借金を抱えて、父親の王自新にカネを無心することが目的だった。
【2】旧暦12月30日(新暦の2月15日)の早朝、王家の長男で南鄭区の中心部に住む王校軍が自家用車を運転して王坪村の実家へ戻って来た。彼は両親を連れて自宅へ戻り、春節を自宅で両親と一緒に過ごすつもりだった。次男の“王富軍”は王坪村の実家へは戻っていなかった。彼は元の妻と離婚して新たな恋人を見つけたが、春節2日目の2月17日に自宅で恋人の家族と会う約束があり、自宅の清掃と整頓に忙しく立ち働いていた。この結果、王富軍は幸運にも張扣扣による殺害から免れたのだった。
「苦節22年、やっと敵討ちは終わった」
【3】王家の兄弟がふだん王坪村の実家に集まることは滅多にない。王家の状況を探っていた張扣扣は、三男の王正軍がすでに実家に滞在していることは知っていたが、2月15日の早朝に長男の王校軍が自動車を運転して実家へ戻って来たのを見かけて、息子2人が実家にいる今こそ絶好のチャンスであり、人々が警戒を解く春節前後を逃してはならないと敵討ちの決意を固めた。同日の11時頃、王校軍と王正軍に王家の親戚を含めた十数人は、墓参りをしようと、死者を祭る時に燃やす“紙銭”やロウソクなどを入れた籠を提げて王坪村の西側にある王家の墓地へ向かった。
【4】張扣扣は王家の一族が墓参りに出かけるのを見て、彼らの後を付けた。墓参りを終えた王家の人々は、てんでんばらばらに帰途についた。王校軍と王正軍の2人は実家で待つ両親を連れて王校軍の家へ向かうべく、他の親戚より一足早く墓地を後にした。王校軍は前を歩き、それから10m程離れて王正軍が後に続いた。王家の兄弟が大坪村の中を走るコンクリート道路に差し掛かった時、張扣扣が突然姿を現した。この時の張扣扣の出で立ちは、帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠していたので、それが誰かは分からなかったという。
【5】最初に張扣扣は後ろを歩いていた王正軍に襲い掛かり、手にした刃物で王正軍の首を掻き切った。続いて、張扣扣は前を行く王校軍に駆け寄ると、王校軍の腰に刃物を突き刺した。王校軍は路傍の乾いた溝に転がり落ちたが、張扣扣はその後を追って溝に飛び込むと、倒れている王校軍の腹を刃物で何回も刺して絶命させた。一方、首を切られた王正軍は、よろよろと数歩進んだ後に前のめりで倒れた。王校軍の死亡を確認した張扣扣は、溝の中から飛び上がると、うつぶせに倒れている王正軍に駆け寄り、彼の背中を刃物で20回以上もめった刺しにして殺害した。
【6】王家の2兄弟を殺害した張扣扣は、彼らの父親である王自新がいる王家を目指した。張扣扣が王家に到着した時、王自新は大きな袋を持って外へ出て来たところだった。王自新を見つけた張扣扣は、すかさず走り寄ると刃物で王自新の首に切り付け、続いて腹を突き刺した。こうして王自新は自宅の軒下で刺殺されたが、王自新は刃物をつかんで抵抗しようとしたらしく、1本の指が切断されていたという。
【7】王家の父子3人を殺害し終えた張扣扣は、王家の庭に停めてあった王校軍の自家用車に近付き、ズボンのポケットから取り出した火炎瓶を車の窓から投げ込み、車を燃え上がらせた。この頃には帽子とマスクを取り外していた張扣扣は、騒ぎを聞いて駆け付けた村民たちの前で、両手を高々と掲げ(一方の手には刃物が握られていたが)、天に向かって大声で「苦節22年、今日でやっと俺の敵討ちは終わった」と叫んだという。そして、張扣扣は茫然とたたずむ王自新の老妻“楊桂英”を見付け、「あんたは女だから、今日は殺さない」と叫ぶと、その場から走り去ったが、2日後の2月17日に地元の公安局へ自首したのだった。
郷長の権力で、身代わり、偽証、無罪放免…
それでは、張扣扣が⺟親の敵討ちをする原因になった、彼の母親が殺害された事件とは、どのようなものだったのか。張扣扣の母親が殺害された事件は、彼が12歳であった1996年8月27日に起こった。張福如と張麗波が語ったところによれば、その事件の概要は以下の通り。
(1)張福如の家と王家は近所にもかかわらず、仲が悪く、いさかいが絶えなかった。事件発生当日の8月27日、農作業を終えた汪秀萍は河原で脚を洗って自宅へ帰る途中で、王家の次男である“王富軍”と出くわした。日頃から王家の家族とは犬猿の仲であるのに、その日は虫の居所が悪かった汪秀萍は、王富軍の顔を見ると彼に向って唾を吐きかけた。これに怒った王富軍は、汪秀萍を捕まえるとその顔に平手打ちを食らわした。頬を叩かれて頭に来た汪秀萍が王富軍にしがみつくと、王富軍は汪秀萍の首を締めにかかった。この状況を見て、父親の王自新と三男の王正軍も駆け付け、王家の男3人が汪秀萍を取り囲む形勢になった。
(2)張扣扣はたまたまその場に居合わせたので、汪秀萍が危ないと判断して、自宅へ駆け戻り、父親の張福如と姉の張麗波に母親の急を知らせた。その時、張福如は豚に餌を与えていたが、張扣扣が「母さんが王家の奴らに殴られている」と言うのを信じようとしなかった。しかし、張扣扣の剣幕に押された張福如が現場へ駆け付けると、息子の言葉通り汪秀萍は王家の父子3人に殴られていた。多勢に無勢で勝ち目はないと判断した張福如は、汪秀萍を引っ張って逃げるよう促した。しかし、汪秀萍は近くにあった長さ1mの鉄棒を手に取ると、王正軍の頭を2度叩いた。王正軍が頭から血を流してうずくまると、激高した王自新が「殺しちまえ。命で落とし前をつけてもらおう」と叫んだ。王富軍はこれに応じ、手にした棍棒を汪秀萍の頭へ振り下ろした。地上に倒れた汪秀萍はうめき声をあげていたが、2分も経ないうちに息絶えたのだった。
(3)母親を撲殺された張家は、加害者である王家に対して経済的な賠償金として4.2万元(約71万円)の支払いを要求すると同時に、汪秀萍を撲殺した次男の王富軍を死刑にし、汪秀萍の殺害を命じた父親の王自新に対して懲役刑を科すよう要求していた。しかし、当時の“南鄭県人民法院(下級裁判所)”がこの殺人事件に関して下した判決は、当時17歳で未成年の王正軍を“故意傷害致死罪”で懲役7年に処し、その後見人である王自新には張家に対して経済損失として葬儀代などの経費8140元(約13万8000円)を支払うよう命じただけだった。不思議なことに、汪秀萍を棍棒で殴って殺害した真の加害者である王富軍は何ら罰せられることなく、無罪放免となったのである。
(4)これには理由があった。事件当時、王坪村は“両合郷”に属していたが、王家の長男である王校軍は両合郷の郷長だったのである。王校軍はその地位と権力を利用して、南鄭県の“公安局”、“検察院”、“法院(裁判所)”などの関係者を買収して王家に有利な判決を下すよう要請すると同時に、王坪村の村民を買収して汪秀萍に不利な証言をさせたのだった。三男の王正軍は当時未成年の17歳であったので、通常なら刑は軽減される。この点に着目した王家は、王正軍が汪秀萍を誤って殺害したとして王富軍の身代わりに立て、王自新と王富軍は殺害には一切関与していないと申し立て、村民の偽証でそれを実証したのだった。
(5)懲役7年に処せられた王正軍は、わずか3年服役しただけで釈放された。一方、張家は民事訴訟で汪秀萍が殺害されたことに対する賠償金の支払いを王家に要求したが、裁判所が認めたのは1500元(約2万6000円)だけだった。これを不服とした張福如は、何回も南鄭県人民法院へ出向き、上告して王家に2人の子供の養育費の支払いを要求しようとしたが、毎回門前払いで全く相手にしてもらえなかった。
61万元の現金で裁判官を買収
さて、上述したように、張扣扣は2003年に武装警察官を辞めた後は、各地を出稼ぎして回り、2017年8月に故郷の大坪村へ帰った。彼は長年にわたり母親の敵討ちを果たすことを念願して生きて来た。彼は帰郷してからは常に王家の動向を探っていたが、今年の春節に焦点を定めて、王家の息子たちが実家に戻るのを待って敵討ちを実行したのだった。
張扣扣の敵討ちに関して、あるネットユーザーはネットの掲示板に次のように書き込んだ。すなわち、張扣扣は王自新を殺害する直前に2つの質問をした。1つ目の質問は、22年前に母を殺害した後、裁判を有利に進めるためのコネ探しにいくらカネを使ったのか。2つ目の質問は、母を殺害したのは明らかに王富軍であったが、どうして王正軍に身代わりをさせたのか。22年前の汪秀萍殺害事件の裁判に際して、王家は当時の南鄭県人民法院の裁判長“劉永生”に35万元(約595万円)の現金、判事の“王漢娉”に15万元(約255万円)の現金、判事代理の“王志鋼”に11万元(約187万円)の現金をそれぞれ贈って買収した。
後半部分の現金による裁判官の買収については、張扣扣が調べた結果を王自新に突き付けたものか、あるいは張扣扣が他の誰かに告げていたものなのか、詳細は分からないが、贈った金額には真実味を感じさせるものがある。
2月22日付の北京紙「新京報」の報道によれば、“陝西省高級人民法院(高等裁判所)”は22年前に発生した張扣扣の母親が殺害された事件を重視し、“漢中市中等人民法院(地方裁判所)”の合議法廷に再度複数の裁判官により事件の見直しを行う“合議”を行うよう委託したという。1996年に当該事件が発生した時の一審裁判は南鄭県人民法院が担当し、上告が認められなかったために一審だけで判決は確定したが、二審が行われていたのであれば、それは漢中市中級人民法院が担当したはずだった。その漢中市中級人民法院が22年も前に発生した事件の一審判決を見直すための“合議”を行うというのである。
「掃黒・除悪」特別闘争
これは前代未聞のことであり、上部機関から陝西省高級人民法院に対して明確な指示がなければ、絶対に有り得ないことと言える。それは何なのか。2018年2月9日付の本リポート『習政権の標的は「トラとハエ」から「黒と悪」へ』で述べたように、2018年1月に中国共産党中央委員会と中国政府“国務院”は、『“掃黒”・“除悪”特別闘争の展開に関する通知』を出したが、それは“黒社会(暴力団)”を一掃し、悪人を除去することを目的としたものであった。
その特別闘争で打撃を与える対象の1つは、「家族や“宗族(一族)”の勢力を利用して農村でのさばって地方の覇を唱え、庶民を抑圧し痛めつける“村覇(権勢や組織を背景として悪事を働く村の顔役)”などの黒悪勢力」であると言われている。張扣扣の母親を殺害しておきながら、郷長の地位を利用して、裁判官を買収し、村民に偽証を強いて、裁判を優位に進め、あまつさえ未成年者を真犯人の身代わりに立てて殺人の刑罰を軽減させるに及んでは、王家の父子は“村覇”であると言わざるを得ない。
2012年11月に“中国共産党中央委員会”総書記に選出された“習近平”は、翌2013年から汚職官僚を摘発する「トラ退治とハエ駆除」の活動を展開して来た。それから4年が経過して一応の成果を上げたことから、習近平政権は今年1月から活動の中心を「“掃黒”・“除悪”特別闘争」に切り替えたが、そのキャンペーンで最初の事例に選んだのが、河北省“廊坊市”にある“城南医院”院長の飛び降り自殺事件<注>であり、第2の事例に選んだのが上述した張扣扣による母親の仇討ち殺人事件であると思われる。
<注>同事件の詳細は、2018年2月9日付の本リポート『習政権の標的は「トラとハエ」から「黒と悪」へ』参照。
“掃黒”・“除悪”特別闘争において両事件の標的はいずれも“村覇”だが、村覇がはびこることにより社会の安定が脅かされ、庶民の不満が鬱積し、それが社会全体に拡散して、国家の安定が損なわれることを、習近平政権は恐れているのである。張扣扣の母親である汪秀萍が殺害された事件の一審判決に対する合議による見直し結果はどうなるのか。習近平政権による“掃黒”・“除悪”特別闘争の今後の動向を、筆者は引き続き注目して行く所存である。
良ければ下にあります
を応援クリックよろしくお願いします。