平間洋一著『日英同盟』について

朝日新聞はアジの名手という所でしょう。日露戦争の講和条約締結に反対して日比谷公園焼き打ち事件を起こす元となりました。今はGHQの検閲時代と同じく「日本が(何でも)悪い」派に宗旨替え。こういう節操のない人間(新聞社)を昔の日本人は毛嫌いしたものですが。

この焼き打ち事件がアメリカの世論を変えたとありますから、朝日新聞等の為したことの責任は大きいです。慰安婦の誤報同様、国際世論に与えた影響は大きいという事です。でも、彼らの体質は都合が悪くなると知らん振りを決め込みます。あれだけ、政官財で不祥事が起きると正義面してバッシングするくせに、自分の落ち度は認めない左翼にありがちな無謬路線で対抗します。ズルイ連中の集まりです。

セオドア・ルーズベルト大統領はマイヤー駐伊大使に「若し平和が今到来するならば、日本は朝鮮を保護国とすべきである。(朝鮮は自立しうる能力が全くないことを示してきた)」と書き送っていたとありますように、日露戦争の時には朝鮮半島は自分たちで治める能力がないと認めていたという事です。中国かロシアか日本かのいずれかの属国か保護領にあるしかなかったのです。日本と併合されて良かったと喜ぶべきなのに彼らから聞こえるのは恨み節ばかり。中国の属国のままか、ロシアの一部になったことを考えてみたことがあるのかと言いたい。歴史を政治のプロパガンダに使うのでなく、もっと真摯に勉強した方が良い。

ドイツは性悪女そのものです。国際謀略を仕掛け、日米分断を図りました。アメリカのハースト系新聞はイエローペーパーなんでしょうけど、人種差別が米国人に受け入れられていたから日本人排斥を読者が素直に受け入れたのではと思います。結局、米国の人種差別がドイツの言っていることを信じさせ、それが太平洋戦争に繋がり、日本の敗戦で幕引きとなりました。後の三国同盟が失敗の基でしたし、ドイツの嘘にキチンと反論しなかったからです。

日中提携を夢見て失敗した歴史が過去にもあるということです。中国人の本質が見えていなかったという事でしょう。日本人は「信義」を大切にしますが、中国人は「詐術」を旨とします。孫文だって、日本が金ヅルの時は日本を頼り、日本から金が出なくなるとロシアを頼りました。西原借款だって返して貰っていないでしょう。今も日本人4人をスパイ容疑で拘留しています。こういう国と付き合うと碌なことにはなりません。恩を仇で返すのが賢いと思う民族性ですので。マクマレーも「ナショナリズムをロにして国際法や条約を蹂躅することは許されない。」と言って中国を非難しています。昔からそういう国です。今も東シナ海や南シナ海でやっていることはそういう伝統に則って行動しているという事です。日米ともにこういう中国を豊かにして、力を付けさせたのですから愚かとしか言いようがありません。

内容

P.68~70

6.親日的世論を一転させた日比谷騒動

日本はアメリカからもイギリスからも称えられ栄光に満ちていた。だが、日本国内は混乱の坩堝と化していた。多くの政治家、学者や『萬朝報』『ニ六新聞』『都新聞』『日本新聞』『大阪日報』『大阪朝日』などの大新聞が、講和条約の条文に領土の割譲も賠償金もないことが判明すると、「この屈辱!」「あえて閣員元老の責任を問う」などと政府を攻撃した。

特に『大阪朝日』は帝国の威信を傷つける「屈辱の和約」である。小村全権は「努力を怠り違算を致して、この屈辱に甘んぜんとす」。このような条件で講和条約を蹄結するのは陛下の「聖意に非ざる」ものであり、「和議の破棄を命じ給はんことを請い奉る」と社説を掲載した。

また、『萬朝報』も社説で、「帝国の光栄を抹殺し、戦勝国の顔に泥を塗りたるは我が全権なり、国民は断じて帰朝を迎ふることなかれ。これを迎えるには弔旗を以てせよ」など書き立てた。そして、講和問題同志連合会長の元衆議院議長の河野広中は、小村全権に「閣下の議定せる講和条約は、君国の大事を誤りたるものと認む。すみやか処決して罪を上下に謝せよ」と打電し、満州軍には進撃せよと打電した•。

八月初旬の満州における日露の戦力比は、日本軍二五ヶ師団に対しロシア軍は四九ヶ師団と二倍の兵力差となっており、さらに第二一軍団、第二二軍団の到着も予想されていた。

だが実情を知らない無知な群衆は、九月五日の対露同志会など数団体の講和問題国民同志連合会の日比谷集会の後、内務大臣嘉や外務省、講和会議の仲介をしたアメリカ大使館などを襲撃し、教会一三カ所を焼打し破壊した。警官と群集の衡突は三〇数回を数え、 死者一七名、負傷者五〇〇余名を出した日比谷事件を起こしてしまった。この不祥事件がアメリ力に伝わると、アメリカの新聞は次のように批判した。

日本は異教徒の国であるが、たとえ宗教が異なっていても、神に祈りを捧げる神聖な場所を焼き払い、破壊するのは人間ではないことを示す何よりの証拠である」。「日本人は戦争中、見事な秩序と団結で輝かしい勝利を得た。彼等は人道と文明のために 戦い、講和会議の蹄結にもそれを感じさせた。しかし、東京騒動は日本人が常にロにしていた人道と文明のためという言葉が、偽りであることを明らかにした。彼等は黄色い野蛮人にすぎない。

このように日比谷騒動はアメリカを失望させ、アメリカの日露戦争中の親日的世論を一転させた。特に教会を破壊したことが、アメリカ人に日露戦争がキリスト教徒と異教徒、白色人種と黄色人種の戦争であるとの人種論的な感情を高め、今までの日本に対する同情的態度を一変させ、人種差別問題、カリフォルニアの排日土地所有禁止法案へと連なる遠因を与えてしまった。

一方、国内では世界の大局を説き妄動を戒め、「今や吾人は戦勝の結果として、平和条約においてその目的を達したり」。「この度の講和条約にて、わが主義は完舍貫徹し、我々は戦勝の効果を遺憾なく発揮したり」と書いた國民新聞社は、民衆の怒りを受け焼打ちされてしまった。

P.80~85

2戦争は避けられたか

日露戦争は日本の奇襲で幕が落とされ、学者の中には日本が大陸進出のために開戦に踏み切ったとの説も散見される。また、未だ交渉の余地があり、ロシアが回答を送ろうとしていたのに、早々に開戦に踏み切ってしまったと主張する論者もいる。確かにウィッテの回想録やその後に公開された文書などを読むと、ロシアにも戦争を回避しようとの議論があり開戦は避けられたかもしれなかった。

だか、それは恫喝すれば日本が要望に屈すると考えたからであり、極東に充分な兵力を展開するまでの一時的な期間ではなかったか。日本から宣戦布告は発せられたが、それはロシアの増援兵力が展開される前にしか勝算がないという追い詰められた軍事力の格差の増大にあった。日本が大陸に進出したのは日.露戦争に勝ったからであり、勝つか負けるか分か!らない戦争に、そんな悠長なことを言っていられなかったのが実情ではなかったか。『原敬日記(一九〇四年二月五日)』には、伊藤博文、井上馨、一 般国民、特に実業家は「戦争を嫌うも表面に之を唱える勇気なし」と書かれており戦争を望んでいなかった。当時の陸軍内部でも中佐、少佐の中堅幹部は悲憤慷慨の余り、開戦を強硬に主張したものもいたが、高級将校、すなわち将官以上の者は「斯く申しては如何かと存じますが」、ロシア対して「到底戦争は出来ない」と云う主義の人が多かった。

また、さらに当時の陸軍の中にはロシア崇拝者がおり、ロシアと戦争するのは、卵を以て岩石にぶっつかる様なものであると反対する者もいた。確かに「七博士が熱心なる開戦論者でありました。……しかし、民間の世論は七分三分であり」、参謀総長の大山巌はロ シアとの戦争について「何ら所見を発表することなく」、参謀次長の田村怡与造中将は 「真に開戦の意図なく、満州問題を利用して軍備の充実を謀らんとするに過ぎず」であったと、当時の参謀本部員の福田雅太郎少佐(のち大将)は後に語っている。

もし日本が戦わなかったら、あるいは敗北していたらば朝鮮半島はロシア領になり、日本も最貧国に転落したのではなかったか。ウラジミール•ラムズドルフ外相は伊藤博文に会う直前に、駐露ドイツ大使フレドリック・E •アルベンスレーベンに次のように語っていた。

「われわれは中立の朝鮮を必要とする。もし中立の提案が日本の気に入らないならばこの表現はやめるが、現実の事態はそうする。われわれが決して日本に朝鮮を与えないことは確実だということを日本は理解すべきである。もし朝鮮が自由でなければわれわれの極東における全戦略が脅かされるからだ。朝鮮における日本の経済活動などは心配してしないが、旅順からウラジオストクに至るルートの障礙はなくしておきたい。もし日本がこれに同意しなければ、海陸における戦闘という犠牲を払わねばならない」。

ニコライ皇帝はプロイセンのハインリヒ親王に、「日本が朝鮮に確固たる地歩を占めようとするならば、それはロシアにとって開戦理由となる。日本が朝鮮で地歩を確立することは、極東に新しい海峡問題(ダーダネルス海峡)を作り出すのと同じ意味になるので決して許容しない」と語った。ウイッテ外相は開戦半年後の一九〇五年六月下句に、チヤールス・ハ—デイング駐露英国大使に「ロシア軍による満州占領以来、あの地方は実際上ロシアの保護領となった。統治は現実にロシアの手中にあり、ロシアは問題となっている一切の事業と特権に関する優先権を獲得した。他の諸国が同等の立場をえようと期待しても不可能である。……満州からの撤兵条約が清国と締結されたとはいえ、これを実施するまじめな意向はこれまで決してなかった。日本がロシアと戦争に入ったのが、満州における平等な待遇の要求であったが、戦勝の際に皇帝がこれらの点で譲歩するつもりはなさそうだと私は考える。〔戦勝の場合の日本への平和条件〕は満州及び朝鮮の併合の問題の他に、日本から戦闘力を奪わなければならないとの見解に一致している。それは日本に対する艦 隊所有禁止であり、さらに黄海における優越を維持するために旅順に加えて、鴨緑江の江ロの竜岩浦に築城し前哨を確保し、さらに朝鮮海峡を制することが必要となるであろう。 また敗北した日本から充分の賠償を得ることは事実上不可能であり、韓国が経済上無価値なことを考慮すれば、この戦争から得るべきロシアの唯一の具体的な賠償は満州の併合であるかに思われる」と語っていた。

このように、ロシアは日本の要求には何も譲る気はなかったのである。しかし、ウイッテは日本の同盟国のイギリスに、なぜこのようなことを言ったのであろうか。それは日本の敗北を前提とし、講和会議で日本に要求すべき項目や、その程度についてイギリスに探りを入れたのである。 .

3大韓帝国の併合と列強の対応

次に当時の韓国に対する列強の対応をみてみよう。アメリカのホーラス・N ・アレン駐韓公使は在韓宣教師出身で、韓国宮廷や要人にアメリカに支援を求めるよう画策し、一九〇三年に帰国した時にはセオドア・ルーズベルト大統領を親韓•反日にしようと試みた人物であった。

だが、「韓廷の腐敗と陰謀による幻滅を経験」したためであろうか、日露戦争の始まる直前の一九〇四年一月四日にはセオド・ロックヒル国務長官に「米国が感情上の理由から韓国の独立について支援するならば、米国は大きな誤りを犯すであろうと私は信ずる。 韓国民は自己を治めえない。私は熱狂的な親日派ではないが、久しい征服の権利と伝統とによって韓国は日本に所属すべきものと考える。わが政府が日本をして徒らにこの仮構の独立を持続させようと試みるならば、誤りを犯すことになるだろう」一九〇四年一月四日付ロックヒル宛アレン発)との電報を発していた。

一方、ロックヒルからは「韓国の独立を支援するために、わが政府がその勢力を行使するいかなる見込も看取しえない」(一九〇四年一月四日付アレン宛ロックヒル発)。日本の「韓国併合は日本帝国の西方への伸展の大規模、かつ最終の措置として絶対に示されていると私には思われる。それが発生する時には、それは韓国民にとっても極東の平和にとってもより良いであろうと私は考える」(一九〇四年二月ニ○日付アレン宛ロックヒル発)などの電報が打たれていた。

また、ルーズベルト大統領も一九〇五年一月 一四日には、高平小五郎駐米公使に「余ノ見ル所ヲ以テスレバ、日本ハ韓国ヲ日本の勢力範囲ニ置クノ権利アリト信ズル」と語ったが、二八日にはジョン・ミルトン・ヘイ国務長官にも「我々は恐らく韓国のために、日本に対抗して干渉しえない。韓国人は自らの防衛のために一撃をも揮えなかった」との書簡を送り、二月六日にはマイヤー駐伊大使に「若し平和が今到来するならば、日本は朝鮮を保護国とすべきである。(朝鮮は自立しうる能力が全くないことを示してきた)」と書き送っていた。

さらに、ルーズベルトは、反日的志向のあったアレン公使を辞めさせ、後任にエドワー ド・V •モルガン公使を起用した。そして、一九〇五年三月ニ〇日にサンズを後任にと有力筋から「強イラレタ」が、サンズは日本に対する「同情ニ於テ稍欠クル処アルヲ以テ」、 これを「捨テ」、モルガンを任命した。モルガンには「日本ノ官憲ト絶エズ密接ナル関係ヲ保チ、日本ノ政策トー致スル行動ヲ探ルべキ旨ヲ以テセリ」と高平公使に伝えた。このようなアメリ力の反応を見た日本は、一九〇四年二月二三日に日韓議定書を強引に調印させ日本の保護下に置き、外交•軍事事項を取り上げた。日本が欧米諸国に説明した理由は、 「韓国当事者は誠心誠意国家のために慮るものなく、あるは黄白(金銭)あるいは自家の権勢維持のためには、いかなる約束もあえてするものにして、殊に宮中はこれら陰謀の淵藪なるが故に、もし外政を為すがままに一任せんには、闇黒裡いかなる危険なる事態の成立を見るやも料かるべからず」ということであった。

さらに、日本は一九〇五年七月に蹄結された桂・タフト協定、八月に更新された第二次日英同盟の改定、一九〇七年六月の日仏協商と同年七月の日露協商などにより、英米仏露などから日本の韓国に対する保護権を確立した。なお、アメリカは一九〇五年一一月には西欧諸国で最初に在韓公使を引き上げた。

大韓帝国の併合に朝鮮各地で抵抗運動が起き、一九〇七年には高宗が欧州に臣下を派遣して日本の不当を訴える「ハーグ密使事件」も起きた。しかし、いずれの国も法律上解決済みであるとして取り上げなかった。総てが韓国の頭越しであり、現在の民族自決、主権平等の世の中では不当なことではあるが、当時は弱小国は国際法の主体として相手にしてもらえなかった時代だったのである。また、当時は中国もルーズべルトが「シナは腐敗と動乱の国だ」。「シナはフィリピン人と同様に自治の能力はない。古代に文明を持ったが、 今では劣等民族だ」。「シナ人を日本人と同じ人種などということは何たる戯言か」とへイ国務長官に語っていたが、これが当時の国際的な中国や韓国観であったのである。

P.95~97

2日本の参戦阻止へのドイツの陰謀

一方、カリブ海やメキシコへの進出でアメリカと対立するドイツは、アメリカの反独世論を反日世論に変えようと、また、アメリカと対立しているメキシコは日本を利用してアメリカを牽制しようと各種の陰謀工作を行っていた。しかし、第一次世界大戦が始まると日本の参戦を阻止するとともに、黄色人種と同盟したイギリスへの反感を高め、アメリカの世論を反英に転じようと、さらに活発な反日キャンペーンを開始した。八月一二日には、 日本の参戦に関して種々伝えられているが、この戦争はヨーロッパの戦争であり、もし日本が参戦し日本の軍艦がアメリカ近海に出現することになれば、アメリ力の安全上から無視できないであろうとのサンフランシスコのドイツ領事の自署の一文が新聞に掲載された。

また、アメリ力の新聞は日米戦争の勝敗はメキシコにおける勢力の消長如何にあり・・・メキシコにおける両国の角逐はその「勝負ノ分岐点ナリトス」と論じた。さらにハースト系新聞はビクトリアノ •ウエルタ大統領がアメリカに反抗するのはメキシコ軍の中に、 日露戦争に参加した多数のベテラン日本兵が従軍し、メキシコ軍を指揮しているからであると報じていた。

いかに日米開戦のうわさが流布していたかは、ニユーヨークの日本協会が、アメリカは日本商品の主要輸出先で全輸出の三分の一が向けられている。日本の国力は貧弱であり、さらに現在多額の負債を抱えている。日米間には四五〇〇マイルの距離があり、しかも中間に補給基地がないなどと、経済的にも技術的にも日本がアメリカに戦争を仕掛けることなどはありえない、との「日米開戦不可能の理由一一項目」を新聞広告に出さなければならなかったことでも理解できるであろう。

このような状況のなかで、一九一七年一月にはドイツ外務大臣アルトゥール・チインメルマンから、メキシコ駐在ドイツ大使に宛てた電報が、アメリカの新聞に大きく掲載され 対日猜疑心をさらに高めた。この電報はアメリカが参戦するならば、ドイツはメキシコと 同盟しドイツが勝利した暁には、米墨戦争でアメリカに奪われたテキサスやアリゾナなどを返還させる。また、メキシコにドイツと日本の仲裁と日本の対米戦争への参戦を説得せよとの内容であった。

この電報がアメリカの対日不信感を髙め日米に深い亀裂を生んだ。一九七年には農務次官プルマンが、アメリカがメキシコに対して強圧的手段を講じられないのは、メキシコ軍に多数の日本の退役軍人がいるからであると発言し、議会でも下院共和党党首マンが陸軍予算の説明に、プルマン次官の発言を引用して対日脅威を煽るなど、海軍のみならず陸軍の兵力増強にも日本の脅威が利用されたのであった。

P.122~126

2日中共同防衛思想の萌芽

蛮狄小邦と蔑視する日本に日清戦争で敗北し、台湾を領有された中国人は反日感情を高めたが、日本がロシアを破り日本のエ業化が進むと、日本に対する視察団や留学生の派遣、 艦艇の発注がはじまった。一九〇三年二月には揚子江警備用の江元級砲艦四隻、一九〇四年には浅底砲艦楚秦級六隻と水雷艇四隻が川崎造船所に発注され、これら艦廷は一九〇六年から八年かけて引き渡されるなど、アメリ力における排日法案などの人種差別問題で日米関係が緊迫すると日中関係は緊密化した。

一九一四年八月に山縣有朋は「対支政策意見書」を提出し、将来の人種戦争を予想し中国との連携強化の必要性を説いたが、陸軍部内では二月下旬に陸軍省兵器局長筑紫熊七大佐により日本が中国に武器を供給する代わりに、中国は原料を日本に優先的に供給することを骨子とした「帝国中華民国兵器同盟策」を脱稿し、失敗に終わったが具体的交渉を開始していた。次いで第一次世界大戦が劫発すると、八月七日には欧州の禍乱が極東に波及する場合に備え、日中が共同して防衛態勢を整備すべきであると、中国軍の改革と日中両軍の兵器統一を実現しようとの「日支協約要領」が、再び陸軍参謀本部第二部長福田雅太郎少将から提出された。

一九一六年一〇月に寺内内閣が成立し袁世凱が死去し、親日派の段祺瑞が首相となると、 ロシアの革命勢力が「漸次極東ニ波及セントスル」危機を背景に、日支提携の強化の流れが強まり、特に一九一七年一二月の連合国会議でフヱルディナン•フォッシユ元帥が、ドイツの支援を受けたロシアの革命勢力のシベリア方面への進出を阻止すべきであると提案すると、段首相は林董公使に「日本ト提携スルコト出来レバ『ウラル』以東、西比利亜地方一帯ハ日支両国ニテ自由ニ処分スルコト然程難事ニアラザルべシ」などと語り、武器援助を申し出てきた。しかし、日本は複雑な中国情勢や輪出した武器で南方派の孫文などを攻撃することを危惧し決めかねていた。

しかし、段政権の脆弱性やロシア革命の影響を受け、一九一八年一月の閣議で段内閣を支援し、資金不足からアメリカに頼る事態を阻止しよぅと、多量の武器と西原借款と呼ばれる多額の借款を与えることになった。このように第一次世界大戦、ロシア革命の勃発、連合国のシベリア出兵が日中を急速に結び付け、一九一八年五月一六日の日華陸軍共同防敵軍事協定、一九日の日華海軍共同防敵軍事協定調印へと進んだ。

さらに、太平洋から日米共通の敵ドイツが消え、アメリカが日本を対象に大規模な海軍軍備の増強を始めると、駐華海軍武官の八角三郎中佐などにより中国海軍を育成強化し、 中国と提携してアメリカに対処しようとの動きが生まれた。一九一八年七月にアメリカのべツレへム製鋼が江南造船所を担保として多額の借款を与えるとの情報(中米海軍借款協約)に、アメリカが「支那沿岸、特ニ上海ノ如キ枢要地点ニ戦時之ヲ利用シ得ヘキ造船所ヲ其勢力下ニ置クカ如キ」は、戦時に「米ノ軍港ヲ我最短距離ノ地ニ現出セシ得ルト同一影響ヲ来スへク、実二直接累ヲ我国防ニ及ホス恐アリ」と、日本海軍の危機感を高めた。 そして、一九二〇年には川崎造船所の東京支社長岡田晋太郎が北京に派遣され、借款総額五〇〇万円、年利九分で中国に造船所を造る交渉が成立するかに見えた。だが、日中提携の夢は川崎造船所の経済的破綻、中国の内戦による混乱や反日運動の高まりなどから実を結ばなかった。

3総力戦認識と中国資源への着目

短期で終結すると予想された戦争が長期化し、さらにアメリカが参戦し軍需用鉄材を確保するために鉄材などの輸出制限を行うと、日本の工業界、特に造船界は大きな打撃を受けた。雑誌『大日本』には「日本は知識、支那は原料」の「日支軍事エ業同盟論』が掲載された。陸軍参謀本部の兵要地誌班では小磯国昭中佐を中心に『帝国国防資源』がまとめられ、「欧州戦ノ与へタル国防上ノ戦訓」として、「原料ト云フモノハ成ルべク近イ地区ニ於テ充分ニ得ル方策ヲ確立スルノガ、日本ノ経済政策トシテハ最モ急務デアリマス」。この点で「我々ハ実ニ天与ノ好地位ニ在リマス。対岸ノ支那、西比利亜ト云フ畑ニハ甚ダ近イ」と、大陸資源確保の重要性が強く認識されるに至った。第一次世界大戦勃発一力月前の一九一四年六月の貴族院予算委員会で、八代六郎海相は 「財政状態ノ許ササル今日」、「最小限度ノ国防力トハ他国ヲ侵略スルノ意ヲ有サス、仮想敵ヲ設ケス、単ニ護国ノ任ヲ尽シ得ル力ヲ言フ」としていた。

だが、一九一八年一一月九日のウィルソンの一四ヵ条問題を検討した外交調査会で、加藤友三郎海相は「帝国ハ所謂自給自足ノ国ニ在ラス。平時戦時ヲ問ハス物資ヲ海外ニ仰カサルへカラサルノ実情」にあるので、海洋白由の原則に賛同することを利益とする。しかし、アメリカとの戦争の場合には物資を中国大陸に依存せざるをえないので、「南部支那厦門付近ヨリ台湾南端ニ亙リ一線を劃し、この線より台湾•琉球諸島を経て九州南端に至る線内の海面の「海上権ヲ確立スルヲ得ハ、支那大陸ト連絡ヲ維持スルヲ得テ戦略物資ノ持久可能ナルべシ」と、海軍は総力戦認識や中国大陸への日本企業の進出増加、日米対立の顕在化などにより、国防の範囲を単に「護国ノ任」の日本周辺海域から、「妙クモ東亜海面ノ管制」へと拡大した。

その後、一九二九年に軍令部長が加藤寛治大将になると、アメリカが「『モンロー』主義及支那ニ於ケル門戸開放主義」を「国策中最モ重要ナルモノ」とし、また、アメリカが現状ノ如キ法外ナル繁栄ヲ持続セントセパ、世界ニ向テ大々的二市場ト資源トヲ求メサルベカラズ」。アメリカは国策擁護を任務とするマハン流の「攻勢的海軍」を整備しつつあり、「支那市場ヲ開拓センガ為ニハ手段ノ如何ヲ選パザル」傾向にある現状に鑑み、日本の大陸政策は重大な脅威にさらされている。「日米海軍の争覇戦」の真の原因は、「支那ノ資源ト市場」をめぐる「経済戦」である。

日米海軍軍縮問題も、シンガポール軍備増強問題も、ハワイの軍事施設の増強も、アメリカの「赤裸々の心理を解剖しますれば、悉く日本の死活問題に関する極東一帯の支配権、とりわけ対中帝国主義の争覇戦の利を先制せんとするの準備に外ならぬ」。「太平洋を知らずして支那を論ずること能わず。支那を知らずして太平洋上に日米海軍競争の起きる所以を理解すること能わず」と、中国間題は日米問題であると強く主張するに至った。このように日米関係の悪化と海軍の総力戦認識の高まりが、日中共同の相互防衛協力と自給自足へと進み、それまで陸軍の北進、海軍の南進であった日本の針路を南北並進に変えた。

P.185~186

7日本敵視の危険を指摘したマクマレー

一九ニ五年から 一九二九年まで駐華公使を経験し中国関係の条約集を編纂するなど、当時のアメリカの中国通の第一人者といわれていたジヨン・V・A・マクマレーは、クローデルが報告した一四年後の一九三五年に、国務省極東部長スタンリー• K •ホーンベックに「極東における米国の政策に影響を及ぽしつつある諸動向」という文書を提出した。マクマレーはワシントン会議以来の極東情勢とアメリカの政策を振り返り、ワシントン体制が崩壊した理由を分析し次のように進言した。

ワシントン体制を崩壊させたのは日本ではなく、中国及びアメリカを先頭とする欧米列強である。中国は国内の諸勢力がナショナリズムを自らの勢力延長の手段として、不平等な国際条約を無視し、破棄してワシントン体制の存続を危なくした。アメリカは中国に死活的利益を持っていなかったが、いたずらに中国のナショナリズムへの迎合を繰り返し、ワシントン体制を崩壊に導いた。……国際法や条約は各国が順守し、その変更はルールに則とって行われなければ安定した国際社会を築くことは不可能である。関税主権の回復や治外法権の撤廃のためであれ、領土保全のためであれ、ナショナリズムをロにして国際法や条約を蹂躅することは許されない。……中国やアメリカなどの西欧諸国が、国際法や条約を順守する立場に立たない限り、日本は今後ますます追い詰められ、日米戦争に至ることは必然である。

このように、マクマレーはワシントン会議以降に諸条約を無視した中国の政策と、それに迎合したアメリカの政策を批判し、極東に於ける唯一の安定した国家である日本を敵視することなく協調すべきであると、日本を敵視する危険を指摘した。しかし、この報告書は親中国派のホーンべックには影響を与えなかった。

確かに、歴史的にみればワシントン体制の崩壊を決定付けたのは満州事変であり、日本の中国への侵略行為であった。しかし、日本がそのような行為に走ってしまったのは、クローデル大使も指摘するとおり、「相続人不在」の「未開発で無防備」な中国の存在と、中国のワシントン体制を無視する過激なナショナリズムにあったことを否定することはできないのではないか

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