11/25「憂国忌」、「国際三島シンポ2015」、11/22産経ニュース 『三島由紀夫事件 没後45年 現代へのメッセージ (上)決起した元会員、貫く沈黙 肩の刀傷…今も悔いなく 取り残された会員「無念」』11/23『(中)狙撃覚悟「建軍の本義」問う 元会員「森田さんがもちかけた」 文学ではなく行動に託す 』11/24『(下)三島に斬られ瀕死の元自衛官「潮吹くように血が噴き出した」』について

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昨日は三島が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決して45年になった日です。昨日、青陵会館で開催された「憂国忌」に出席しました。多くのファンが詰めかけていました。1階は満席でした。このセレモニーは保守派が主催したもの。写真はケントギルバート氏のスピーチのものです。

印象に残ったのは西尾幹二氏の「30周年(2000年)の時話した時以降起きた特筆すべき点は、文明の没落(欧州)と野蛮(中国)の台頭」と言ったところと、ケントギルバート氏(米ロースクール時代、バイトで日本語を教えていたし、法律より三島の『豊饒の海』を日本語で辞書を引き引き読んで勉強していたとのこと)の「日本は対米依存症にかかっている。憲法9条を早く改正してほしい。元首の記載のない憲法は憲法でないし、軍のない国は国家でない。私は日本人が大好きだ。誠実で、嘘を言わない、綺麗好きだし。でもそれを外交でやると失敗するからやめてほしい」と言ったのは正しく小生がずっと言ってきました「日本人は外国人との交渉と日本人との付き合いの時でスイッチを切り替えなければ」と符合します。グローバル人材とはそういう人を言います。「英語を話す猿」で白人・中韓の言いなりになって、国を貶める論調に味方するのはグローバル人材とは言いません。企業人も良く自覚してほしい。

11/14・15・22には国際三島由紀夫シンポジュウム2015が東大駒場と青山学院大学で開かれました。15日は残念ながら法事で出ていませんが。こちらはアカデミックというかリベラルな考えの人が多いのかと感じました。でもドナルド・キーンが「ノーベル文学賞の候補に三島でなく川端を挙げた。またNYでの三島の公演がかかるのではと思って彼はNYまでいったがダメで残念がっていた」という話や、ドイツ人の女性教授のトーマス・マンの「ベニスに死す」と三島の「禁色」の比較、三輪太郎の「ユーゴ紛争で三島を愛読していたカラジッチ(精神科医・セルビア元大統領)が国際戦犯になったのはセルビア国民がEUに入り、豊かになるため、スケープゴートとしてカラジッチを差し出したもの。どこかの国と似ている。(多分、日本が極東裁判で東條以下の戦犯を出し、国民はそれを忘れ呆けて、経済発展のみに精力を傾けているのを揶揄したのでは)、宮本亜門の演出論も三島の影響を受けているとのこと。11/22は猪瀬直樹も来ていました。国際シンポは1回目がフランス、2回目がドイツ、3回目が今回、次はメキシコとか言っていました。5~10年毎に開かれるそうです。

下の写真は11/14・15・22国際三島由紀夫シンポジュウム(22日開催の青山学院大学アスタジオにて)

International MIshima Sympo 2015

三島の死については多くの人がいろいろ論じていますが、正解は本人に聞かないと分かりません。多くの顔を持つ天才三島ですので、死についていろんな解釈があっても然るべきと思います。20年くらい前か新聞のドナルド・キーンのインタビュー記事で、彼が三島を評して曰く、「三島は小説より戯曲の方が優れている。自分が何か書いてくれと頼んだら、直ぐにスラスラ書き始め、文字を修正することもなかった。モーツアルトと同じく天才である。」というのを読んだ記憶があります。(大分前なので正確かどうか?)

でも、三島・森田の死を犬死にしない為に、日本人はもっと考え、行動すべきと感じます。本記事で紹介されていますように「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」というのを三島は45年前に遺していますが、今もその当時と同じく経済的利益の追求のみ、享楽にふけり、精神性を持たない日本人が多いと感じています。

あの当時とまた国際環境も変わってきました。中国の台頭を如何に封じ込めるかが、日本の未来に大きく関わっていくことになります。彼らの遺言を活かして行くためには、国民一人ひとりが国防をもっと真剣に考え、選挙で売国議員、利権政治家を落とすようにしなければ。

記事

 日本を代表する作家、三島由紀夫=当時(45)=が、自ら結成した民間防衛組織「楯の会」の会員4人と陸上自衛隊市ケ谷駐屯地に乗り込み、会員1人と自決した事件から、25日で45年になる。何が三島らを暴挙とも思える行為に駆り立てたのか。憲法改正問題などが注目されるようになった今、三島と寝食を共にした楯の会の元会員の証言などから、改めて事件の背景と現代日本へのメッセージを考える。(編集委員 宮本雅史)

 無意識のうちに身体に染みついてしまったのだろうか。その男性は話題が事件に触れようとする度、何かを確認するように右肩に手をそえた。理由を問うと、一瞬、驚いた表情をしたが、何も答えず、すぐに笑顔に戻った。古賀(現荒地)浩靖(68)。三島と共に決起、自決した三島と森田必勝(まさかつ)=当時(25)=を介錯した。

 関係者から、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地内の東部方面総監室で自衛隊員ともみあった際、三島の日本刀が右肩に当たり、5針を縫う傷を負ったと聞いていた。古賀にとって刀傷は身体に刻みこまれた三島の形見なのかもしれない-。ふと、そんな思いが頭をよぎった。

「思想の混迷の中で、個人的享楽、利己的な考えが先に立ち、民主主義の美名で日本人の精神をむしばんでいる。日本の文化、伝統、歴史を守るために、今度の行動に出た」

 古賀は裁判で詳細を語っているが、事件後は公の場から姿を消し、一切、口を閉ざしてきた。この日も、「自衛隊には誇りと栄誉を与えないといけない」「憲法は変えないといけない」と語っただけで、沈黙を通した。

 穏やかな表情を崩さないため真意を読み取るのは難しいが、裁判での証言内容を考え合わせると、今も決起したことに悔いは感じられない。むしろ、自衛隊の敷地内で非合法的な行為を犯したのだから、自衛隊員の手で射殺されることを覚悟していたのではないか、射殺されることで自衛隊を目覚めさせようと考えたのではないか、とさえ感じた。ただ今も、ケガを負った自衛隊員への呵責は強く感じているようだ。心の内を明かさないため、確認できないが、沈黙を貫いているのは、その呵責と、思いを示すには行動以外になかった以上、それを言葉で表現しようにも表現できないのではないか。そんな印象を持った。

口を閉ざしているのは、小賀正義(67)と小川正洋(同)も同じだ。

 小賀は「公判で話した以上のことは話せない」と呪文のように繰り返した。ただ、事件の6日前、学生長の森田が、新宿の工事現場で段ボールに入った書類を燃やしているのを見たという。当時、森田は自決し、小賀は生き残ることが決まっていた。目の前で人生の総決算をする森田の姿に、小賀は何を感じたのか。何も語らないが、想像するだけで心が痛んだ。

 小川も詳細については、楯の会の関係者にさえ、口をつぐんでいるという。

 三島由紀夫は死の4カ月前の昭和45年7月7日、産経新聞に寄稿したテーマ随想「私の中の25年」の中で、「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と日本の将来を憂えている。

 元会員は「われわれは伝統や文化という精神世界よりも経済価値が優先される社会に憤りを感じ、道義の腐敗の根源は憲法にあると考えていた。刺し違えてでも現憲法を改正するんだと、行動を共にしてきた」と話す。

 三島は事件直前の最後の打ち合わせの席でこう言っている。「今、この日本に何かが起こらなければ、日本は日本として立ち上がることができないだろう。われわれが作る亀裂は小さいかもしれないが、やがて大きくなるだろう」

 三島ら5人の決起に一番ショックを受けたのは楯の会の会員たちだった。決起は参画した会員以外には知らされていなかったからだ。

 楯の会創設にかかわった伊藤好雄(69)は三島と森田必勝の自決を自宅のテレビニュースで知った。「びっくりした、の一言」だった。任意で警察の調べを受けたが、それ以降のことは何も覚えていないという。取り残されたという思いが強く、三島と森田に対し負い目を感じた。早稲田大卒業後も「自分に使命が下りてきたとき、迷わず行ける態勢を作っておこうと、就職せず、女性とも付き合わなかった」という。

 伊藤は45年春、三島から呼び出されたことが今でも忘れられない。「信用できるのはだれだと思うか」。三島の問いに答えは出てこなかった。裁判でこの時期、構想を練る三島と森田が小賀正義と小川正洋に声を掛けていたこと、4番目の男が決まっていなかったことを知り、三島の問いが改めて重くのしかかった。

 伊藤と親しい1期生の篠原裕(ゆたか)(68)は、月1回の定例会が行われる予定だった市ケ谷会館で異変を知った。「何も知らずに例会があると思っていた。不明を恥じるほかなかった。事件以降、楯の会の会員だったと胸を張って言えなくなった」

 勝又武校(たけとし)(68)は自宅で事件を知る。「恥ずかしいから話したくない」としながらも「バルコニーでヤジられている先生の顔は今でも忘れない。悔しく、無念だったと思う。その無念さは私自身の無念だ。(一緒に)行きたかった」と語る。

 死が脳裏をかすめた元会員もいる。倉持(現本多)清(68)は「二・二六事件を取り上げた『憂国』では、新婚を理由に決起から外された中尉が腹を切っている。私も結婚を控えていたから腹を切るべきだったのか、と考えた」と打ち明ける。

 一方、口をつぐみ続ける小賀ら3人の心中も複雑だ。

 元会員の田村司(65)が、会員の思いを監修した「火群(ほむら)のゆくへ」の中で、初代学生長の持丸博(故人)が「嵐の只(ただ)中にいた人はもちろん、同心円から少し離れた人も皆、十字架を背負っています。だから、なかなか話せないんです。みんなそれぞれ悩んで今まで生きてきた。毎日悩んでいるわけじゃないけど、なんかの拍子にずっしり重くのしかかってくる」と語っている。

 三島が学生と接触を持つようになったのは41年暮れからだ。文芸評論家の林房雄の紹介だった。

 当時日本は、東京五輪開催などを受け、高度経済成長の真っただ中にあった。同時に、中国の文化大革命の影響で、左翼思想が蔓延し学園紛争が拡大、学生らはそれぞれの組織でこうした勢力に対抗していた。

 倉持は「学生は必ずしも考え方が一枚岩ではなかったが、天皇を敬う心情と共産主義に対する嫌悪感は共通していた」と振り返る。

 三島はその後、楯の会の前身となる「祖国防衛隊」の結成を計画。43年3月、20人の学生と陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地で体験入隊を行うが、この体験入隊を機に三島と学生との距離は急速に縮まる。

 小賀は裁判で「三島先生と同じ釜の飯を食ってみて、ともに起き、野を駆け、汗をかいてみたら(中略)心強かったし、先生の真心が感じられた。本当に信頼できる人だと思った」と証言している。

伊藤は「先生は『作家・三島由紀夫に興味のある者は楯の会に必要ない』といつも言っていた。身近な存在で、男女の恋愛ではないが、糸でつながったような気がして、先生というリーダーを得て目標が見えた」と話す。

 楯の会は、何事にも率先垂範し、カリスマ性と吸引力を持つ三島を頂点に、強い信頼関係に支えられた強靱な組織に成長する。それだけに、最後まで会にとどまった会員が「自分はなぜ、選ばれなかったのか」という気持ちにさいなまれたのは当然のことだった。

 三島はこうした会員の思いを見越したかのように会員に課題を与えた。

 遺書では「諸君の未来に、この少数者の理想が少しでも結実してゆくことを信ぜずして、どうしてこのやうな行動がとれたであらうか? そこをよく考へてほしい」と述べ、小賀ら3人には「森田必勝の自刃は、自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範を垂れて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かって恢弘せよ」と命じている。

元会員の多くは「命令書は今も生きている」と口をそろえるが、勝又は「自分がだらしないだけの話だが、やることをやっていないので、先生と森田さんに申し訳ない」と言う。三島らの思いは今も、日本人の喉元に刃を突きつけている。 (敬称略)

 昭和45年11月25日、秋晴れに包まれた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地。

 「自衛隊にとって建軍の本義とは何だ。日本を守ること。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることである」

 バルコニーからこぶしをかざして声を振り絞る三島由紀夫=当時(45)。だが、自衛隊員の罵声と上空を舞う報道各社のヘリコプターの爆音に、その声はかき消される。

 「お前ら聞けぇ。静かにせい。男一匹が命を賭けて諸君に訴えているんだぞ。今、日本人がだ、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は武士だろう。武士ならばだ、自分を否定する憲法を、どうして守るんだ」

 「諸君の中に1人でも俺と一緒に起つやつはいないのか」

 三島の右後ろには、「七生報国」の鉢巻きをした楯の会学生長の森田必勝=同(25)=がすさまじい形相で仁王立ちしている。

 「一人もいないんだな。それでも武士かぁ。憲法改正のために立ち上がらないと見極めがついた。これで、俺の自衛隊に対する夢はなくなったんだ」

 この間、わずか10分。演説を断念して最後に「天皇陛下万歳」を三唱、総監室に戻った三島は「こうするより仕方なかったんだ」と漏らすと、森田と割腹自決した。

 楯の会の元会員はこう推測する。「バルコニーに立った三島先生と森田さんは、その場で自衛隊員に狙撃されることを覚悟、否、それを望んでいたかもしれない。決起は森田さんの意向が強かったと思う。森田さんは情熱的な人で、森田さんがいなければ決起していないだろう。森田さんがもちかけたとも考えられる」

 三島がその森田と初めて会ったのは、43年3月の陸上自衛隊富士学校滝ケ原駐屯地での体験入隊だ。当時、早稲田大2年生で、民族派学生組織「日本学生同盟」(日学同)に所属していた森田は、スキーで右足を骨折していたにもかかわらず、1週間遅れで参加した。骨折した足をかばいながら訓練を続ける姿に三島はまず、感激したという。 三島は後日、離隊の際、涙を流す学生の姿に「戦後初めて『男の涙を見た』」と述べているが、森田も涙を流した一人だ。体験入隊に参加した1期生の篠原裕(68)は「離隊の時、森田さんが、『ちくしょう、なんでこんなに涙が出るんだ』と泣きじゃくっていたのを覚えている」と振り返る。

 森田と日学同時代に同志だった評論家、宮崎正弘は著書「楯の会以後」の中で、体験入隊が終わった直後、森田が宮崎の目の前で「先生のためには、いつでも自分は命を捨てます」と礼状を書き、速達で送ったと述べている。三島も感激したのだろう。宮崎はその後、「どんな美辞麗句を並べたお礼よりも、この一言に参った」と三島から言われたと、森田が話していたと記している。

 三島は民族派学生による論争ジャーナルに寄稿した「青年について」で、「覚悟のない私に覚悟を固めさせ、勇気のない私に勇気を与えるものがあれば、それは多分、私に対する青年の側からの教育の力であろう」と述べている。森田は三島が言う「青年」の一人だった。森田と三島が同志として結束が強まるのに時間はかからなかった。

 三島がいずれ何かをするのでは、と感じていた5期生の村田春樹(64)は、45年6月1日、森田に会い、「腹を切る勇気がない」と退会を申し出ている。村田によると、森田は「俺だっていざとなったら小便ちびって逃げるかもしれない。人間なんていざとなったら弱いもんだ。だから、君ももうちょっと会にいてみろ」と答えたという。村田は森田の言葉に脱会を撤回したが、この時点で既に決起と森田の自決は決まっていた。村田は「あのとき、森田さんは『村田よ、安心してもう少し会にいてみろ。お前の代わりに俺が行くから』と言いたかったのではないかと思う」と振り返った。

 作家の三島由紀夫が政治的色合いの濃い評論や随筆を書き始めたのは「英霊の声」を「文藝」に発表した昭和41年6月ごろからだ。

 二・二六事件の決起将校と特攻隊員の霊が盲目の少年の口を借りて、「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまいし」を呪文のように繰り返し、二・二六事件での天皇の対応と、終戦後の人間宣言に疑問を投げかけている。

 ところが、三島は事件の際には「天皇陛下万歳」を叫んで自決した。一見すると、その言動に矛盾を感じるが、三島は43年4月、文芸評論家の秋山駿との対談で、「危険な言説を吐いたら、これから責任をとらなければならないでしょう。(中略)なにか自分にも責任がとれるような気がしたのです。だからあんなことを書いたのです。そういう見極めがつかなければあんなもの書けないですね」などと吐露している。

 事件後、三島文学に興味を持ったという篠原裕はこう話す。「陛下には他の人が抱けない強い思いを寄せていた先生が、なぜ『人間となりたまいし』とまで言わなければならなかったのか。なぜ天皇陛下万歳と言って腹を切らなければならなかったのか。先生の天皇に対する思いは一貫しているのです。だが、言ってはいけないことを言ったから責任はとりますと。英霊の声を書いた時点から死んで責任を取るという覚悟はできていたと思う」

「英霊の声」の発表後、学生との交流を持ち、祖国防衛隊構想実現に向けて行動を開始した三島は43年7月、中央公論に発表した「文化防衛論」で、天皇は日本人の歴史的連続性、文化的統一性、民族的同一性の象徴であるとし、政治概念によって天皇が利用されることを防ぐためにも、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、又、そのほかに確実な防止策はない」と指摘している。

 三島は「論争ジャーナル」に寄稿した「青年について」で、学生との出会いについて、「はじめて妙な虫が動いてきた。青年の内面に感動することなどありえようのない私が、いつのまにか感動していたのである」と述べている。学生が三島と出会い、具体的な目標を持ったように、三島も学生と出会い、「行動」に向けて舵を切り始めたのだろう。

 政治的発言を活発化させる三島は、祖国防衛隊に代わる楯の会を結成した。

 ある元会員は言う。「先生の純粋さとわれわれの思いが融合した。先生の人生はわれわれと会って、現実の世界へと全てが変わったのではないか。われわれに会っていなければ一作家で終わっていたかもしれない」

三島は季刊雑誌「批評」に連載された「太陽と鉄」の中で「すでに謎はなく、謎は死だけにあった」と心の内を明かし、事件の1週間前の文芸評論家、古林尚との対談では「軍医の誤診で兵隊から即日帰郷でかえされてきて、そのときに遺書を書きました。天皇陛下バンザイというその遺書の主旨は、いつまでもぼくの内部に生きているんです。(中略)ぼくは、あれから逃げられない」と述べ、「戦後は余生」とまで言い切っている。さらに「いまにわかりますよ。ぼくは、いまの時点であなたにはっきり言っておきます。いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか」と事件を示唆する発言をしている。

 作家として、思想家としての言動は並行して進む。

 憲法を改正して自衛隊を国軍とする道を模索する三島らは、44年10月21日の国際反戦デーに、自衛隊が治安出動し楯の会はその手助けをして、自衛隊を国軍と認定するよう憲法を改正させる計画を立てる。だが、警察力が反対勢力を鎮圧、自衛隊の治安出動が発動されなかったため、三島と森田必勝は「自衛隊は期待できない。われわれだけで実行しなければならないだろう」(検察側冒頭陳述)と、独自の決起に向けて計画を練り始める。

.  三島はバルコニーから演説する際にまいた檄文で、戦後民主主義体制の欺瞞をもっとも象徴しているものとして自衛隊を挙げ、国防という国家の基本にかかわる権利を戦後政治体制が曖昧にしてきたため、文化や伝統まで崩壊し、民族の歴史的基盤まで変化している、と危機感を訴えている。

 篠原はこう述懐する。「自分の人生についての葛藤、『英霊の声』に対する責任、憲法問題に自衛隊問題…。決起の理由はたくさんあるが、先生は背後にある近代合理主義に抗議するため、日本文化そのものに警鐘を促すために、刃を突きつけ、腹を切った。先生は文学者の世界ではなく、行動という目に見える形で託したのが楯の会だったと思う」=敬称略

11月中旬のある日、清冽な青空のなか、東京・市谷の防衛省内の急坂を上る元自衛官の姿があった。寺尾克美(86)。

 「あの日も秋晴れだったなあ」。短躯だが、がっちりとした厚い胸を張り、青空を見上げた。

 45年前のあの日、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で益田兼利総監の身柄を拘束した三島由紀夫=当時(45)=ら5人と自衛官との間で格闘になり9人が負傷、うち6人が入院した。寺尾もその一人だ。三島に銘刀「関の孫六」で腕を一太刀、背中を三太刀斬られ、瀕死の重傷を負った。

 事件現場となった総監室は今、「市ケ谷記念館」として残されている。

 その総監室のドアに今も残る刀傷を指さしながら、「最初に踏み込んだ自衛官が斬られたときのものだ。総監の机がこのあたりにあった。窓の外のバルコニーで三島さんが演説した」。寺尾は当時の凄惨な記憶が蘇ってくるように話した。

■  ■

寺尾は当時、会計課予算班長の3佐で41歳。総監室近くの会議室で9人の幹部自衛官と次年度予算の編成中だった。「総監が拘束されている」。急変を告げる声に、全員が「なぜ!」と飛び出した。体当たりして総監室ドアのバリケードを破った。縛られた総監の胸元に短刀を押しつける森田必勝=当時(25)=の姿が目に飛び込んできた。

 「鍛えた体で目が鋭く光っていた」。隙を見て飛びかかり、押さえ込んで短刀を踏み付けると、すかさず三島が刀を構えて迫ってきた。「木刀だと思っていたから、かっこいいなと思う余裕がまだあった」 

 背中を斬られた。「『出ないと殺すぞ』と脅す程度で傷も浅かった。でも出ようとしなかったから、三島さんもだんだん力が入って…」。四太刀目の傷は背骨に平行して23センチ、5センチの幅に達した。短刀を奪い、医務室へ向かう途中、背中から「クジラが潮を吹くように血が吹き出した」という。

 搬送先の自衛隊中央病院で、三島と森田が割腹自決したことを知らされた。

 「組み合ったとき、間近で見た森田君の顔は今も忘れない。まだ、あどけなさが残っていた。後にテレビ番組に出演した森田君のお兄さんが『信奉する三島由紀夫と最後まで行動を共にしたのだから、本望、立派だったと思いたい』とおっしゃっていたが、まさにそれが全てだと思う」

森田を懐かしむように話すと、こう続けた。

 「三島さんの邪魔をしたという思いがあるが、三島さんには私を殺す意思はなかったと思った。ただ、負傷したぼくらを隊員たちは見ている。そんな状況で演説したって、聞いてもらえるはずがなかった」

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 陸将補で定年を迎えた寺尾は現在、講演活動を行っている。

 寺尾は平成23年5月3日には愛媛県で「独立国にふさわしい憲法の制定を!三島由紀夫義挙に立ち会った者として」の演題で講演。講演会では「日本国にとり、最も重要なことは平和ボケから目覚めて独立国としての憲法を制定すること。それが三島由紀夫氏と森田必勝氏の『魂の叫び』でもある!」と書かれた文章を配布した。

 総監が捕縛された上、寺尾自身も斬りつけられて瀕死の重傷を負っただけに思いは複雑だ。だが、「三島さんは戦後憲法によって日本人から大和魂が失われ、平和ボケ、経済大国ボケして、このままだと潰れてしまうと予言したが、まさに、20年後にバブルが崩壊し、心の荒廃は今も進んでいる。私は事件に立ち会った一人として、命を引き換えにした三島さんらの魂の叫びを伝えたい」と話す。そして「憲法改正が成立したとき、やっと無念が晴れて成仏できる。それまで三島さんは生きてますよ。安保法制で憲法への関心が高まっている今こそ、檄文を多くの国民に読んでほしい」と続けた。

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 世界的な作家と学生の割腹自決という衝撃的な事件は国内外で大きな波紋を呼んだ。ただ、その衝撃の大きさだけが先行し、三島由紀夫や森田必勝の思いがどこまで、国民に理解されたかは疑問だが、寺尾克美のように、三島らが決起の対象として選んだ自衛隊員には大きな影響を与えた。

 元会員、村田春樹(64)の著書「三島由紀夫が生きた時代」によると、決起後、自衛隊が1千人の隊員に無差別抽出でアンケートを取ったところ、7割以上の隊員が檄文に共鳴すると答えたという。自衛隊員の思いを象徴するように、三島らが体験入隊した滝ケ原駐屯地内には、三島の揮毫を彫り込んだ歌碑が建っている。

 〈深き夜に 暁告ぐる くたかけの 若きを率てぞ 越ゆる峯々  公威〉

 「くたかけ」は暁を告げる鶏の雅語。「公威」は三島の本名、平岡公威だ。

 元自衛官の佐藤和夫(69)によると、三島の自決後、三島が楯の会の会員と体験入隊した際に残した和歌を彫りつけたものだという。

 村田の著書によると、篤志自衛官が建立したもので、陸上自衛隊幹部だった楯の会の元会員は、三島が再三再四体験入隊し、その人格識見、自衛隊を愛する心を多くの隊員が知っていたからではないか、と建立理由を分析している。

■  ■

佐藤も三島らの決起に影響を受けた一人だ。慶大法学部を卒業し、商社に勤務していた佐藤は当時24歳。就職して2年目だった。

 事件当日は激務が原因で肺炎にかかり入院していた。「頭をガーンと殴られたような衝撃を受けた。それまで『おもちゃの兵隊』と揶揄されていた楯の会を冷めた目で見ていたが、三島さんらに武士道と男の生きざまを見て、オレも何かせねばと目覚めた。檄文も全くその通りだと思った」

 その後、商社を辞め翌春、2等陸士として自衛隊に入隊する。三島らの決起に触発され、国防に燃えて入隊してきた若者は何人もいたという。最初の配属先は、滝ケ原駐屯地だった。何かの縁を感じた。

 「先輩方から40歳を過ぎている三島さんが、最後尾であえぎながら走っていたと聞き、あの高名な作家がみじめな姿をあえてさらして、と感銘を受けた」

 昭和47年4月、幹部候補生学校に入校し、同年9月に会計担当として北海道南恵庭駐屯地に赴任。北部方面会計隊長となっていた寺尾に出会う。「ここでも三島さんの縁を感じました」

 30代でイラン・イラク戦争が勃発。緊張感を求めて邦人保護にあたる警備官に志願し、アラブ首長国連邦へ。「国を支える喜びを実感できた」。1佐で定年退職するまで三島を批判する隊員には出会わなかった。

■  ■

事件から45年がたち、この間、三島と森田の思いを後世に伝えようと活動している組織がある。

 三島森田事務所(東京都足立区)だ。楯の会2期生で初代事務局長の堀田典郷(70)は「楯の会の解散に反対だったが、解散は先生の命令だったから同意した。でも、事件を風化させないために、三島先生のために何かをしたいという気持ちから、連絡網として事務所を立ち上げた」と話す。

 2代目事務局長の原田強士(56)は三島とも森田とも面識はない。事件が起きたのは小学生の時だった。20代で楯の会1期生の阿部勉(故人)と知り合い、三島の御霊のそばで、考え方を学びたいと考えるようになったという。三島森田事務所と関わって12年、事務局長になって10年になる。20年余り、三島の月命日には、三島が眠る多磨霊園の墓前で掃除を続けている。「最近、月命日にお参りに来る20代、30代の若者が少しずつ増えている。多いときで、15、16人。タバコを1本ささげる人もいる」

 「恢弘せよ、という命令は永遠に続くと思う」といい、毎年11月25日には、三島の墓前で慰霊祭を行っている。

事件後に生まれた自営業、折本龍則(31)にとって、三島と森田は「もはや歴史上の人物」だ。檄文は「全くその通りだと思うし、三島先生や森田さんの考えには共感している」というが、「その通りのことが70年以上も続いて、既成事実化してしまっているのも事実で、受け入れざるを得なくなっている」と話す。その一方で「三島先生や森田さんのように、自分で納得できる生き方をしたい」という。

 高校時代に三島の文章と行動力に魅せられたという女性会社員(32)は「今、楯の会があればぜひ入りたい。先生は日本の真の姿の実現を目指していた。自決は自衛隊の決起を喚起しただけではない。もちろん、あきらめの境地でもない。メッセージだ。自分たちが口火を切ることに意味があった。それだけの影響力があると分かっていた」と話した。

 少しずつではあるが、三島や森田の思いが広がりつつある。        =敬称略

(重松明子、編集委員 宮本雅史)

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