川田 稔著『昭和陸軍全史-1 満州事変』を読んで

表題著作を読んで、その他関連する部分も含め、不断考えている問題について挙げて行ってみます。時間をかけて答えを見つけていければと思っています。

  1. 大正4年(1915)に大隈内閣は対華21ケ条の要求を袁世凱に出したが、これが侵略の嚆矢と考える人もいるがそうかどうか?
  2. 昭和3年(1928)、張作霖爆殺事件を何故起こしたのか。(一説にはロシアの諜報機関が起こしたものとの説もあるが)。息子の張学良が反旗を翻すのは目に見えていたのに。実の父を殺されて日本の言うことを聞くわけがなかったと思います。
  3. 歴史的に見て、中国大陸は漢民族で異民族支配が長かった。清国は満州族で、旧満州と言われる東北3省には漢民族を入れないようにしていたのにどうして張作霖が力を持てたのか。
  4. 陸軍の派閥争いで長州閥(山縣→田中義一→宇垣(岡山)、上原(薩摩))と一夕会(長州以外)で、結局下剋上となって一夕会に乗っ取られた。派閥抗争では強い日本はできないのに、長州に対する恨みが先に来てしまった?
  5. 下剋上に対して厳しい処分ができないため軍規が緩んでいった。昭和6年(1931)の満州事変は政府の不拡大方針に関東軍が従わずズルズルと戦線拡大していった。何故厳罰で臨めなかったか?内乱になる可能性もあったとしても。それが石原は中国との戦争(長城以北は漢民族の土地ではないから)に反対していたにも拘わらず、武藤章が盧溝橋事件を起こし(とはいっても中国共産党が国民党と日本軍を戦わせるため発砲したと劉少奇が言っていますが)てしまう遠因にもなります。
  6. 軍事大臣現役制(倒閣に利用)、統帥権干犯は明治憲法の穴であった。これを防ぐ手立てを考えるべきだったのでは。
  7. 資源確保のために、中国大陸に出ていくのが当然視されていたが(永田鉄山、石原莞爾)、中国は歴史的に異民族支配だから日本が支配して良い、清国は満州族なので日本に民族的に近いという論理(石原)で被支配民族が納得するかどうか?一方、エリザベス・シュンペーターやヘレン・ミアーズは日本の満州進出を欧米列強が採用している植民地政策と同じことをしているだけと見ていました。
  8. 英米と戦争するときに、世界に天皇の詔勅に人種差別撤廃、植民地解放を何故アピールしなかったのか。それを世界にアピールすべきであった。そうすれば戦いに敗れても道徳的優位は保てたと思います。大正8年(1919)パリ講和会議では人種差別撤廃を、昭和18年(1943)の大東亜会議では自主独立を訴えたのに。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください