黄文雄著『悲韓論』を読んで

黄文雄は「日本」と「中華」・「小中華」を分けるのは「誠」と「詐」であるという。小生がいつも言ってます中国人の普遍的価値観は「騙す方が賢く、騙される方は馬鹿」と言うのと同じです。「小中華」の韓国はそれに「事大」が加わるのでもっとひどくなります。かの中国人ですらあきれ返るくらいですから。何でも「ウリジナル」で孔子も朝鮮人と言うのですから。ファンタジーというかデリュージョンというか脳内お花畑です。アメリカではDon’t Korea”で「不正をするな」という意味になるらしいです。先般のアジア大会で不公平な審判、バドミントンの試合で風を操作したりと何でもありです。日本にエボラ菌を運んで来たと疑われたカナダ人ジャーナリストと言うのはかの有名な「大西哲光(ノリミツ)」です。在日と噂され、子供時代にカナダに家族と移住、ニューヨークタイムズ勤務で田淵広子といっしょに反日記事を書きまくっている輩です。どうしてマスコミは名前を報道しないのでしょうか?一緒の飛行機には日本の高校生の修学旅行団が乗っていたとのことです。バイオテロの可能性があります。ニューヨークタイムズも日本のマスコミも腐っていますね。

P.52~56

植物依存文明の限界

東亜大陸における万里の長城は、これを境に地政学的だけでなく、生態学的・植生学的 な分界線にもなっている。長城南方の農耕民は数千年来、農耕帝国をつくってきたものの、 「易姓革命」(王朝交替)を繰り返してきた。そこには、克服できない植物依存文明の限界がある。それは地力に対する飽くなき搾取、ことに灌漑農業が地下からの毛細管現象で塩分を吸い上げつづけ、土地がアルカリ化し、砂漠化が広がる。古代文明はたいていこの農法によって砂漠化し、遺跡のみを残して消えていった。農業の収穫量は、いわゆる収穫逓減の法則があり、だんだん減っていくという自然の法則に抵抗することはできない。しかも人口と食糧のバランス調整は、ほとんど自然の法則頼みでしかない。人口が増えすぎると、自然環境が悪化•劣化し、山林の濫伐によって山河が崩壊していく。このような社会環境と自然環境の劣化•悪化が連鎖的に起こると、水害と旱魃、そして疫病の大流行で人口が激減する。こうした人ロの.激増と激減が繰り返され、「易姓革命」が起こるようになる。中華社会では、すでに中華帝国成立後の秦漢帝国の畤代から繰り返し見られる現象である。もちろん、大陸だけではなく、半島でも見られる植物依存文明の限界ともいえるだろう。日本が中国大陸や朝鮮半島のような山河崩壊が起こらなかったのは、縄文時代からすでに自然との共生思想が生まれており、水稻の農法や水の循環体系の確立、治山治水などが 古代から行われ、現在まで水と緑の豊かな国が保たれてきたからだ。ユーラシア大陸の東側に共通して見られる、最も原初的な精神文化はシャーマニズムだろう。それを長江文明で理論化したのが老荘思想であり、黄河文明では儒教思想と考えられる。ところが朝鮮半島だけは、原始的なシャーマニズムがもっとも色濃く残った。

それは巫俗宗教とも民風ともいわれる。中華世界は漢の武帝の時代から儒家独尊になり、朝鮮では李朝時代に入ってから新儒教である朱子学を独尊した。老荘思想は、「自然回帰」がその思想の核となっている。一方、儒教思想の根幹は、「反自然」としての人為である。中華世界も朝鮮半島も、山河が崩壊して自然回帰の大地がなくなると、儒教を国教にしたのである。この点は日本と比較するとよりわかりやすい。日本では豊かな自然があり、この自然を収奪するのではなく、共生する思想が根付いていった。そして北方仏教が母なる大地に根を下ろすと、鎌倉仏教が生まれた。自然と共生する民に仏の慈悲や輪廻転生を説く仏教が根付いた一方で、自然を収奪する民には礼や徳を重んじる人為的な儒教が根付いたというのは、極めて示唆的である。李朝時代の農民については、とても今のハングル世代が信じている「世界一豊かな国になった」云々という空想妄想の世界どころではなかった。山野の火田民や都市の土幕民(スラム住民)だけではなく、両班(李氏朝鮮における貴族階級)に収奪され尽くした小作人に至るまで、じつに阿鼻叫喚の生き地獄であった。その惨状は、丁若鏞(1762〜1836年)の『牧民心書』や、シャルル・ダレ-神父の『朝鮮事情』、F ・ A •マッケンジーの『朝鮮の悲劇』にくわしい。また、『仁祖実録』によれば、「飢餓に疫病、人民はほとんど死に絶えた」という。「死に絶えた」という記述は若干オーバーにしても、宋時代に編纂された『資治通鑑』にも「死に絶えた」という修飾語がよく出ている。実際、農民は、「切骨の病」「骨髄を剥ぐ」とまでいわれる惨状で、「娘を支那人の密貿易商に1人当たり米1升で売る」という有り様だった。にもかかわらず国王は「国民の半数が死んでいくのを枚置しておく」という記録が李朝末期に多く見られた。

李氏朝鮮では、いわゆる「三政紊乱」によって国が大きく乱れた。これは田政(田地への課税)、軍政(農民の軍役)、還政(貧しい農民への貸付制度)の乱れであり、多くの農民を苦しめた。客観的に言えば、それが植物依存文明の限界であり、結果でもある。そもそも朝鮮半島における「三南地方(慶尚道、全羅道、忠清道)」この南と「三北地方(北朝鮮)」の北とは、有史前から2つの別世界だった。しかし、日本との合邦後、南を「農」、北を「工」に半島を経済社会改造したのは現代日本人の賢明なる選択である。李朝朝鮮が、人間としての朝鮮民衆を救う手立てはすでに絶望的だった。仮に清の「朝鮮省」やロシアの沿海州の一部になったとしても民衆にとって絶望に変わりはない。そんな時代の大勢から、列強をはじめとする万国が日韓併合を期待したのである。日韓合邦史から決して目を逸らしてはならない。合邦後の朝鮮半島はどうなったのか。結果的には食糧生産も人口も倍増しているのだ。日韓合邦についてフランスの人文地理学者ジャーク・プズー=マサービュオーは、その著書『新朝鮮事情』(菊地一雅・北川光兒共訳、白水社)のなかで「千年以上の間、農民の宿命であった不安定な環境を改善することができた」「自然の脅威にさらされ大きな工業設備を持たず、貧しかったこの農業国家を科学的な農業と様々な工業そして調和のとれた国へと変身させた」と、極めて客観的にして冷静な眼で語っている。このように、長城外の地を植物依存文明からその運命を変えただけでも、日本は朝鮮半島の新生に大きな歴史貴献を果たしていた。

P.92~94

朝鮮半島での階級差別は永久不滅

山本七平によれば人類史上、奴隸制度がないのは、日本人とユダヤ人だけだという。朝鮮人社会は、アジア史上だけではなく、人類史上でも非常に牢固な階級制度を持っていた。それを牢固なものにしたのは、李朝時代からと考えられる。極めてめずらしいのは朝鮮人社会はここ600余年来、上部構造は儒教的で、下部構造はインド的なカースト制であることだ。そもそも儒教思想は、階級的な性格が強い。孔子は、人間を「君子」と「小人」に、近代用語でいえば、ホワイトカラーの知識人とブルーカラーの労働者に、つまり頭を使う人間と体を使う人間とに2分したのである。ところで、「女子と小人とは養い難し」という。女子は儒教社会のなかで、姓はせいぜい夫の姓に「氏」をつけ加えるだけで、名はなかった。近代になっても、なおも奴隷から脱していなかった。インドのカースト制度は、身分を階級として色分けた共生の考えである。その点モンゴル人の階級観に近いが、朝鮮の階級制度は完全な奴隸制度といってもよいだろう。 ちなみに、「婢」は性奴隷でもある。モンゴル人はモンゴル至上主義で、征服した民族全体を4つの階級に分けた。もち論、モンゴル人が一番上である。その下が、中央アジア系の色目人だ。3番目の階級は女真人、北方漢人(金統治下の漢人)、そして高麗人である。最下層の階級が、大多数を占める南人だ。南人とは南宋の人で、「蛮子(南蛮)」と呼ばれる。日本では一括して「漢人」と称される。しかし前述したように中国史上では、南人と北人は古代から20世紀にいたるまで対立しつづけており、言語も風習もまったく異なる。北方漢人は黄河中下流域の中原を中心に、夏人、殷人、周人の流れを汲む複合文化集団で、南人は蜀人、巴人、楚人、呉人、越人など長江文明の流れを汲む人間集団だった。モンゴル人が、高麗人を第三番目の階級にしたのは、南人よりも早く帰順したからである。金・宋の間で右顧左眄しながら事大に悩みつづけていた高麗は、無理やりに宋の属国となることを熱望した。宋はずっと金に朝貢して国家の安全を買ったものの、その後にモンゴルが夏も金も宋も飲み込んで中華世界に君臨したので、高麗にとっては思ってもみない中世国際力学の激変だった。

だが、高麗にとっては、蒙帝統治下の「よき時代」も100年で終わりを告げられた。 モンゴル人が明に追われると同時に高麗も明に事大する李朝に奪われ、滅族の悲運を避けられなかった。李朝の時代とともに半島の自然が劣化し、そして階級支配は牢固なものになった。

大明の時代は、中国史上もっとも暗黒な時代といわれ、李朝時代の500余年も、その黒い影で半島史上もっとも暗黒な時代が続いていた。朝鮮は、国王を権力の頂点にして、王族、両班、中人(中下級官吏)、常民(一般人民)、賤民(下層民)のヒエラルキーが 成り立っていた。賤民はさらに奴婢、俳優、医者、巫女、白丁など多くの階級によって構成されていた。医者と皮工以外に役所所属の官妓、軍所属の辺妓などの売春婦、牛馬を引く牽令、猟師の矻争、漁民の揚水尺、駅の駅卒、僧侶に分けられる。そして最下層が白丁だった。イジメは、たいてい上から下へ行われるのが法則である。解放など絶対に許されなかった。白丁の解放をめぐる衡平社運動(1923年結.成)の例を見ると、白丁の集落が同じ賤民とされていた農民と妓生らに襲撃され、 放火されている。農民や妓生からすれば、白丁という身分は殺しても罪に問われない、差別すべき存在だった。このときの白丁のスローガンは、「白丁だって人間だ」であった。そもそも朝鮮では、白丁は人間として認められてはいなかったのである。もちろ.ん、朝鮮人の差別は、下の階級だけではない。小中華の中華思想として、北の女真人を「オランカイ」と呼び、差別していた。西夷も東夷も人間として認めずに、「夷奴」 「倭奴」と呼んだ。地方差別もある。ことに三北地方の出身者は、完全に官界から排除された。朝鮮の『経国大典』(李朝時代の政治の基準になった法典)には、「官憲への登用はもちろん、鷹師への起用さえ禁止する」という条例まであったほどだ。京城の人間は、三北地方の人間とは死んでも婚姻関係は結ばない。かつての北部朝鮮(今の北朝鮮)は、朝鮮内部の「被差別民」であった。第2次大戦後に建国された大韓民国では南北分断を「1000万人の離散家族」云々といっているが、これはあくまでも建前として政治的に利用しているだけだ。今でも韓国社会の深層には、地方差別から職業差別まで、ありとあらゆる差別が根を張っている。ほとんど李朝時代の延長としか思えない。階級意識や差別は半島における永遠の課題である。

P.114~117

なぜ強盗とバクリが正当化されるのか

日本人は幼い頃から「嘘つきは泥棒の始まり」とよく父母にいわれるため、日本では「嘘つきは悪いこと」として忌み嫌われている。ではなぜ「嘘つき」が「泥棒」になるのか。それは、日本は神代から、「赤き清き心」が大切にされ、誠があっての世間であり、共生社会の不可欠な条件になったからだろう。江戸時代の国学者はいち早く国学と儒学、つまりこっちの島とあっちの陸の人間や世間の違いを知っていた。それは漢意、漢心と和魂、和心との違いである。たいていの国学者は、日本は中国と違って「勧善懲悪」を説く必要がないことを知っていた。なぜなら「赤き清き心」さえあれば勧善懲悪などの道徳教育の必要がないからだ。仏教もそういう考えで、イスラム文明圏もキリスト文明圏も、儒教国家のように道徳、道徳とロうるさくしない。それは、 道徳は宗教に含まれているものだと考えているからだろう。たとえばベルギーの法学者ド・ラヴレ—が新渡戸稲造に、「日本には宗教教育がなかった。それなのに、なぜ道徳教育が可能なのか」と質問した。十数年後新渡戸は『武士道』(1900年)を書いた。「武士道があったからだ」と、ド•ラヴレーの疑問に答えたかったからだろう。その話は『武士道』の序文にも書いている。私は万世一系と易姓革命の社会は、「誠」と「詐」という一字たけでその違いを表せられると、かなり前から述べてきた。それは、まったく異なる社会の仕組みから生まれた人間行動の社会原理であり、メンタリティでもあるからだ。 「誠」が原理とされる社会、「詐」を原理とする社会はきわめて対照的だ。では、なぜ、そこまで異なる社会の仕組みやエトス、国風が生まれたのかについて私が よく指摘するのは、大陸、半島、列島との地政学的な相違と生態学と植生学の違いからくる.もので、そこには、自然に制約される風土、そして自然の摂理というものがある。 なぜ、朝鮮半島は李朝時代にあれほど激しく「崇儒斥仏(儒教を崇拝し仏教を排斥すること)」「破仏」の運動を行う必要があったのか。単に宗主国の明に対する「事大一心」の祖訓を死守したという説明だけではなかなか解釈はできない。李朝は新儒教である朱子学を国教にした。国教になった以上排他的な性格が強くなるのは理解できる。朱子学は、べつに独自の新説があるわけではない。ただ、仏教哲学の用語を盗んで、儒教の教典を再注釈したにすぎない。盗人猛々しいという言葉があるが、仏教嫌いの朱熹も仏教の理論を盗んだからよけい猛々しくなったのだろうか。李朝が過激な崇儒斥仏に走った理由は、前述したように朝鮮半島の自然崩填が深刻化したことが最大の理由だった。私がそう指摘するのは、儒教と老莊についての性格の理解から来るものである。儒教の思想の根幹は尚古主義だが、李朝時代からの自然環境の劣化によって、徐々に原始集落社会への回帰と先祖返りが進んだため、儒教思想がぴったりあったものだろう。老荘思想は自然への回帰を唱え、儒数は自然よりも人間主義、つまり「人為」を思想の根幹にしているので、再生できる豊かな自然がすでになくなっていた半島では「人為」の儒教を国教にせざるをえなかったのだろう。儒教思想の徳は人治を理想とする思想で、儒教思想 の有徳者が天子になる理論は易姓革命を正当化する「強盗の論理」でもある。 『荘子』の「盗跖篇」に、悪人の盗跖が仁義道徳を強盗の仁義と官憲の仁義とにニ分し、孔子を説教する場面があるがこれはまさしく老荘思想の真骨頂である。ニーチエが、道徳を君主(強者)の道德と奴隸(弱者)の道徳に二分したことを連想させる。東アジア世界は、日本を除いて、ほとんどが匪賊(集団で略奪・.暴行を行った盗賊)社会だった。たとえば台湾は村から一歩出れば、そこは匪賊が支配していた。匪乱や匪襲が頻繁で、村人は役人と土匪 (土着の匪賊)により二重に税金を取られていた。満洲は馬賊、朝鮮は草賊(おいはぎ)と火賊(秘密結社をつくって強盗をはたらく集団)が有名で、当時世界一不潔だった京城は土幕民であふれ、夜に入ると城内外は匪賊が跳梁していた。中国大陸では19 54年に人民解放軍が河南の匪賊を完全に消減させるまで、中国社会は「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」といわれるほどだった。中国の匪賊は約2000万人と 推定され、中央政府の正規軍の10倍以上にものぼる巨大勢カを誇り、中華民国時代には「中禍匪国」や「匪賊共和国」と称されるほどだった。戦後のあまり歴史を知らない進歩的文化人は、「軍」や「警」の話にふれると、すぐに 帝国主義やら植民地主義の先兵だとしてこき下ろすが、これは左翼学者のバカの1つ覚えだ。

20世紀の初頭にいたるまで、「夜警国家」は人類の夢だった。近代警察が匪賊の武装勢力に代わって社会の安定勢力になってから、近代経済社会や産業社会がやっと生まれたのである。台湾で最初につくられた造幣局は、完成直前に匪襲を受け、完全に占領された。 匪賊が跋扈する社会では、近代経済ができるはずがない。日本がなぜ非西洋文明圏のなかで、唯一近代化が可能になったのか。それは、当時、日本だけが唯一匪賊が践扈する社会ではなかったという要因が大きい。昔の話のみならず、現在の日本も世界ではめずらしいほど安全、安定、安心できる社会である。日本人は安全、安心は空気のようなもので、あまり気にしない。よく外国旅行に行く人なら知っているが、日本のような国はあくまでも例外であり、欧米に比べてもそう言える。

P.143~147

世界最大の性奴隷輸出国家としての歴史

仏教国家もイスラム国家もキリスト教国家も、とくにカソリック系では、修道士や修道女、あるいは仏教の修行僧は、たいてい禁欲主義的な色彩が強い。儒教国家もそうであるように見えるが、しかし、どこも建前と本音は別である。あるいは、それをうまく使い分けている。同じ仏教国家でも、大乗仏教圏と小乗仏教圏との別はない。実際、比較的禁欲的な小乗仏教圏でも、公娼を持っている。タイのバンコクやチェンマイは世界的に有名である。韓国は有史以来、数千年にもわたって、売春宿と性奴隸を文化的伝統として守りつづけた稀有な国家である。西洋の売春史や中国妓娼史などを比較して考察すると、人類最古の職業といわれる売春も、時代の変化、風俗文化の変化とともに、その形態が変わる。シャーマニズムから生まれた巫娼が人類の歴史から消えたのは、国家の成立からというよりも、宮廷の権力が拡大し、制度化されたからである。王室、貴族文化の発展とともに、宮妓、官妓、軍妓( =いわゆる従軍慰安婦)、私妓が隆盛となり、やがて世俗化、大衆化、市場化によって、市妓、私妓文化が花開いていく。では、韓国だけ、なぜ、三韓時代や三国時代以来の売春婚と性奴隸の制度を守りつづけていたのだろうか。それは、半島が近代になっても、貨幣経済や商品経済などの市場経済が未発達で、集落国家のままだったからだ。また、ことに李朝時代に入ってから 原始社会へ先祖返りする一方、貴族である両班を中心とする階級 社会が時代とともに強化され、大衆社会どころか中人や常民を主体とする社会も未成立で、両班がそのまま時代の主役となっていたからである。朝鮮半島が、大陸の天朝朝貢冊封秩序に組み込まれたのは、唐の高宗以後の統一新羅からである。それ以来、千数百年にもわたって、ずっとこの秩序のもとで、属国として貢納が義務づけられてきた。しかし、資源から見れば、特産としての金、銀、牛馬などはそれほど豊かではない。野生の朝鮮人参以外には性奴諫だけである。勿論、貢女や宦官の献上は、中華歴代王朝の好みと必要によって異なる。たとえば、モンゴル人の元や漢人の明代と比べて、唐の時代には献女の数はそれほど多くはなかった。貴族文化の隆盛期に、東夷の賤種とされていた半島の献女は、宮妓としてはそれほど好まれなかったのだ。高麗以前のユーラシア大陸では、中央アジアから南アジア、東南アジア、北アジア、東アジア大陸、そして日本までも、約1000年近く大仏教文明圏の時代が続いていた。李朝以前の朝鮮半島の文化にもっとも影響が強かったのは、儒教よりも、より普遍性を持つ仏教、そしてモンゴル文化であった。ことに高麗時代の約100年にもわたる衣食面のモンゴル化は、日帝36年の近代化にも匹敵する。モンゴル風が国風にもなっていた。「モンゴル流グローバリズム」の時代だったからである。小中華となったのは、李朝時代からの 500余年であった。半島の統一国家としての国家原理は、事大が必要不可欠の原則であると、すでに述べた だから、羊島の風俗も大陸諸王朝に連動する。たとえば、中華王朝への貢女や宦官という朝貢品は、元、明が多く、清の時代以後、その数が減少したのは、中華王朝の政策の変化にもよる。たとえば、清の宮廷では宮女は満洲人のみ、宦官は満洲人以外という政策をとったので、朝鮮の貢女も宮妓よりも官妓のように変わった。もちろん、中華帝国の歴代諸王朝の宮妓としての献女や貢女が、朝鮮歴代王国からばかりとはかぎらない。たとえば、唐軍やモンゴル軍、満蒙八旗軍によるおびただしい数の敗戦諸民族、ことに女性の強制連行があった。あるいは高麗海賊や半島特有の人さらいに加え、粛清される権力闘争の敗者、異民族の残留組が売られていった。たとえば大元のモンゴル人が漢人に長城以北までに追われたのち、その残留組は多くが売られ、軍妓、市妓、 私妓の供給源となった。政争や戦争の敗者にかぎらず、周期的に噴出する数万人単位や数十万、数百万人単位の流民も市妓の供給源となる。朝鮮半島の歴代王朝による宗主国への献女は、ただ宮女だけにとどまらず、軍妓(営妓、 従軍慰安婦)への売却も見られる。高麗の元宗の代に、元が南宋の軍人のために高麗の妓女140名を要求してきている。高麗政府は「結婚都監」を設け、1人の化粧代を絹12匹 でモンゴル政府に売った。その翌年、元は蛮子軍(南宋の漢人部隊)1400名を高麗駐劄に送ってきたので、高麗政府は「寡婦処女推考別監」を設け、役人を諸道に出して婦女を選考•選別したこともあった。フピライ・ハーン以来、約100年間にわたった大元皇帝だけでなく、権門貴族や高官もしきりに高麗政府に貢女を要求した。「処女」を原則にしたのは、ごまかしが多いからだ。たとえば、『多爾袞徴女朝鮮史事』(李光濤著、台湾・中央研究院歴史言語研究所)によると、ドルゴンの要望は美女と処女を原則として、朝鮮国王の妹や王女あるいは王室、大臣の娘を要求した。勅使も2品以上の高官の娘が求められ侍女も原則として両班の娘が求められ勅使があの女が欲しいと要求し、女が嫌だと拒否したら、首をはねられた。もちろん不正が発覚すると、座首(責任者)、色吏(女色統轄官。妓生などの関係者) によってチェックされ、不正役人は厳罰に処される。たとえば日淸戦争前、朝鮮政治を指導していた朝鮮駐劄司令官、袁世凱は、官妓を設け、推別都監から13〜16歳までの処女を選んで官妓や軍妓にしていた。そして、最高実力者となる王妃閔妃の妹を妾にした。 また、朝鮮政府の不正を防ぐために、明の永楽帝は勅使として内使の黄儼を朝鮮に送り、直接貢女を選んでいる。あわておののいた朝鮮朝廷は、全国に婚嫁を禁止し、各道から13〜25歳の処女200〜300人を集め、数回にわたって景福宮で選んでいる。このとき、 政府高官の娘が選ばれたのは5名だけだった。

李氏朝鮮が最初に台湾に輪出したのは、北部炭鉱妓楼の娼妓であった。そのため、戦後、台湾の町々に朝鮮人娼妓があふれた。台湾では、売春婦という言葉から連想するのは「チョウセンピア」と呼ばれる朝鮮人売春婦である。

P.157

韓国の文教部長官、閔寛植は1973年4月、柬京の韓国学園で、韓国女性が国家の経済的建設に欠くべからざる外貨獲得への献身的努力をしていることに最大級の賛辞を呈したと伝えられている。同書(1980年出版『腐蝕する社会』)によれば、当時の韓国内では、妓生は約20万人にものぼるという。要するに、当時の朴政権は、売春を国策として奨劻し、美德として外貨稼ぎをしていたのだ。さらに、彼女たちを特訓して、芸術使節団や芸能人として証明書を発行し、日本まで遠征させたこともある。KCIA (韓国中央情報部。現在は国家情報院)の対日政財界工作に使われる妓生は、外交官の旅券まで持ち、日本の政財界の大物相手の女性専門家として活躍していたのだ。さらに、対米議会工作にも使われているという。もちろん、韓国の売春婦の海外遠征は、朴正熙政権時代の日米への遠征や、同時に行われたベトナム遠征だけとはかぎらない。朴が凶弾に倒れた後も、今にいたるまで続いている。現在は、日米で合わせて10万人の韓国人売春婦がいると推定されている。彼女たちによる対日工作は、野党と反日諸団体向けが中心だったが、日本の嫌韓感情の昂進から成果があがらなかった。一方、アメリカのほうでは、ロビー活動に多くの議員がカモとなり、 韓国の反日活動である従軍慰安婦聖女像の設置にも、その議員らが大きな役割を果たしたと伝えられている。

 

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