朝日新聞の国際謀略の手先の歴史について

9/7「国際派日本人養成講座」に「中ソの代弁70年~ 朝日新聞プロパガンダ小史(上)ソ連編」が掲載されています。朝日新聞が如何に共産主義者の手下であったかという記事です。現在マッカシーの書いた『共産中国はアメリカが作った』を読んでいますが世界的に如何に1930年代から第二次大戦後まで共産主義に汚染されていたかの感を深くします。読了後に感想は掲載したいと思います。「国際派日本人養成講座」の伊勢雅臣氏も小生と同じく、日本のマスメデイアは国際謀略の手先になっていると考えているのではと思います。以下紹介します。

http://blog.jog-net.jp/201409/article_2.html

■国際共産主義団体コミンテルンに協力した朝日記者

朝日が中ソの代弁者となる予兆は、すでに戦前からあった。朝日新聞記者・尾崎秀實(ほつみ)は特派員として昭和2(1927)年から上海に駐在し、リヒャルト・ゾルゲと親交を結ぶ。ゾルゲはドイツ共産党を通じて、モスクワの国際共産主義団体コミンテルンに所属していた。尾崎はその後、朝日を退職して近衛内閣の嘱託となり、日本と蒋介石政権を戦わせて共倒れにさせ、ソ・中・日の「赤い東亜共同体」を実現しようとするコミンテルンの方針に協力して、さかんに日本軍の中国大陸進出をけしかける記事を発表した。その後、ゾルゲは在日ドイツ大使の私設情報官となり、尾崎と緊密な連携をとって、日独の機密情報をソ連に流した。二人は昭和16(1941)年に逮捕されて、死刑に処せられる。尾崎秀實の所行は、朝日新聞社とは関係のない、あくまで異端分子のものだろうか。当時は、ソ連が誕生したばかりで、共産主義の理想が巧みに宣伝されて少壮軍人や革新官僚などを洗脳していた。当時の知識人が集まっていた朝日の中にも、ソ連シンパが潜んでいたとしても不思議はない。戦後の朝日の報道ぶりを見れば、尾崎は氷山の一角だった、という事が見えてくる。

■朝日の共産主義運動への参加宣言

敗戦から3ヶ月足らず後の昭和20(1945)年11月7日付け一面で、朝日は「国民と共に立たん/本社、新陣容で「建設」へ」という宣言を掲げた。戦争中、軍部に協力した報道責任をとるために、社長以下全重役、編集幹部が辞職し、今後は「あくまで国民の機関たることをここに宣言する」と述べた。同日の社説では、この「国民」とは「支配者層と判然区別せられたる国民でなければならない。それは一言にして言えば、工場に、職場に、農山村に働く国民のいひである」として、「新聞の担(にな)ふべき究極の使命は、働く国民の間から生まれるべき日本民主主義戦線の機関たることでなければならない」と明言した。朝日の言う「国民」とは、支配者層と区別された「労働者階級」であり、その「民主主義戦線」とは当時の日本共産党が唱えていた「民主戦線」に他ならない。「共産主義」の言葉こそ隠しているが、これは朝日の共産主義運動への参加宣言であった。この「宣言」の起草者は、後にマルクス・レーニン主義に強く傾き、毛沢東信奉者となる森恭三であった。戦時中の経営者層の退陣と同時に、尾崎秀實の後継者たちが実権を占めるようになったのである。

■サンフランシスコ講和条約への反対

ソ連の代弁者としての報道が本格化したのは、日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約に際してである。当時はすでに朝鮮戦争の最中で、米ソの対立が表面化していた。ソ連は東欧に鉄のカーテンを降ろし、中国大陸を赤化し、今また中国軍を使って朝鮮半島に触手を伸ばしていた。この講和条約の意味する所は、時の吉田茂政権が、日本は米国を中心とする自由主義陣営に立ってソ連の侵略から国を守る、という道を選択したことであった。しかし、朝日を中心とする左翼勢力は、これを「単独講和か、全面講和か」という問題にすり替えた。「全面講和」とは、ソ連と共産圏諸国を含めた全関係国との講和という美辞麗句で、現実に米ソが対立している以上、それは実現不可能な空想であり、それではいつまでも独立回復などできない事は明らかであった。一方の「単独講和」とは、米国を中心とする自由主義陣営との講和であるが、講和に賛成したのは48カ国、反対したのはソ連、チェコ、ポーランドの3カ国だけだったので、実質は「多数講和」である。これを「単独講和」と呼ぶのは、日本国民に国際社会の現実を見せまいとするプロパガンダそのものであった。朝日は、講和会議でのグロムイコ・ソ連首席全権の発言をそのまま伝えている。

 

 

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