小生もだいぶ前に岡田英弘の本を読みました。極論すれば、世界の歴史は「白人が作った」のではなく「モンゴル人が作った」という結論だったような気がします。チンギス・ハンの末裔が東は日本、西はポーランド・ハンガリー侵攻、南はインド(ムガール帝国=モンゴル帝国)、北はロシア(タタールの頸城)と世界の版図を塗り替えました。多くの日本人の頭には西洋の歴史と中国の歴史(と言っても漢民族が中国大陸を支配できた時代は漢・後漢・宋・明・中華民国・中華人民共和国しかありません。万里の長城以北は漢族の土地ではありませんでした。70年談話の有識懇の侵略明記は歴史を知らないものの戯言です。でも白人、中韓全部を敵に回せないので漸進的に進むしかありません。今回は「お詫び」をカットするところまででしょう)しかないでしょうが、岡田史学はモンゴル人を中心とした世界史でした。勿論ルネッサンス、産業革命を経て白人の火力の前に世界は植民地化されていくわけですが。
王歧(正しくは岐ではありません)山は公の場にずっと姿を見せていないとのことです。①JPモルガンに知人の子弟の就職斡旋の問題の発覚により左遷されたか②江派(特に曽慶紅辺り)の重点調査をしているかです。王にしろ習にしろ暗殺の噂がかなり流れていますので、身辺に注意しているのかもしれませんが。今北戴河会議が行われています。そこに出ているかどうかですが、動静が掴めません。
人民銀行総裁経験者の戴相竜、周小川も拘束されているようです。経済官僚は賄賂の額も半端ではないのでしょう。睨まれるとテクノクラートであることが仇になります。中国ではやはり理科系の方が無難です。江、胡、習とも軍未経験者は皆理科系です。まあ、戴、周も江派だからかもしれませんが(事実関係は不明です)。
中国は易姓革命の国、また専制国家の歴史しかありません。「歴史」は「history」を訳した日本から輸入された言葉です。中国人の考える歴史とは政治の一部ですので、日本人のような実証史学とは趣を異にします。多様な歴史研究等はあり得ないと思います。日本に捏造した歴史を押し付けるくらいですから。
記事
先週の日曜、東洋史学の大家の岡田英弘・宮脇淳子夫妻のお宅でランチをごちそうになった。そこで話題に上ったのが「王岐山氏が岡田英弘先生の本を中国で絶賛したのはどういう意図だろうか」ということだった。王岐山はいわずと知れた中国共産党中央政法委書記で反腐敗闘争の陣頭指揮をとっている習近平の右腕。4月に中南海で米政治経済学者のフランシス・フクヤマ、在米の比較経済学者の青木昌彦、中信証券国際董事長の徳地立人の三氏との座談会で、王岐山は岡田英弘をいきなり絶賛しはじめた。王岐山は中国社会科学院近代史研究所に在籍経験もある歴史好きの本好きであることは有名で、気に入った本をやたら人に勧める性格である。が、中国の一流の政治家が公式の場で何の(政治的)意味もなく日本の史学家の名をあげて推奨するだろうか。
この催しは外国専家局が主催する改革建言座談会と題され、2015年4月23日に政治の中枢である中南海で行われた。こうした催しにはいくつかランクがあるが、人民大会堂ではなく釣魚台迎賓館でもなく、中南海に招待されるのは国賓待遇といっていい。この会談の内容は「共識網」という中国の思想サイトと中国系香港紙「大公報」に発表され、まもなく削除されたので、発言のどこの部分がまずかったのか、習近平政権として否定している普遍的価値観を認めているととれる発言箇所があったからではないか、といろいろと憶測を呼んだ。
日本の伝統史学に懐疑を示す“蔑視派”
座談会が始まってすぐに王岐山はこう語りはじめた。
「…去年、岡田英弘の歴史書を読みました。そのあとで、私はこの人物の傾向と立ち位置を理解しました。彼は日本の伝統的な史学に対し懐疑を示し、日本史学界から“蔑視派”と呼ばれています。彼は第三世代(白鳥庫吉、和田清につぐ?)の“掌門人(学派のトップ)”です。モンゴル史、ヨーロッパと中国の間の地域に対するミクロ的な調査が素晴らしく、民族言語学に対しても非常に深い技術と知識をもっており、とくに語根学に長けています。彼は1931年生まれで、91年に発表した本で、史学界で名を成しました。これは彼が初めてマクロな視点で書いた本で、それまではミクロ視点の研究をやっていたのです。私はまずミクロ視点で研究してこそ、ミクロからマクロ視点に昇華できるのだと思います。大量のミクロ研究が基礎にあってまさにマクロ的にできるのです」…
岡田は1957年26歳のとき、「満老文檔」(清朝初期の満州語記録)共同研究で史上最年少で日本学士院賞を受賞するも、既存の中国正史に追従する中国史学に異を唱えたことで、日本の史学界では異端児扱いされ続けた。それを今、中国一の歴史通の政治家が高い関心を持っているのは面白い。
原稿の中では、書名は出ていないが、岡田の著書の中で華字翻訳されているのは今のところ台湾で出版されている『世界史の誕生』(ちくま文庫)だけであり、また実際、この対談のあとに十数社の中国の出版社から同書の中国出版オファーが殺到したらしいので、王岐山が読んだのが同書であることは間違いない。“蔑視派”というのは王岐山の造語だろう。日本でそんな呼ばれ方はされていない。意味は推測するしかないのだが、この座談会後にネットに書き込まれた解説では、おそらくは、日本の伝統的史観、神話色彩の強い古代史を実証主義的な手法で批判した研究をさすようだ。日本では使われることのない言葉をわざわざ使って、岡田を論評しているのも不思議だ。
「優秀なDNAが中国文化の中にある」
さらに王岐山は、フランシス・フクヤマに対してはこんな発言をしている。
「あなたの言う、国家、法治、政府の説明責任、全部の中国の歴史の中にそのDNAがあります。中国文化の中にそのDNAがあるのです」
「政治は西側ではどのような解釈ですか? 中国では“大衆を管理する”ことが政治です」
「米国の友人は、米国はたかだか200年の歴史しかない、と言っていますが、私は違うと思いますね。米国は欧州地中海文化を伝承しているのです。岡田英弘は言ってますよ。文明があるということは必ずしも歴史があると言うことではない。歴史と文明がともにあるのは世界上、地中海のギリシャとローマ、そして中国だけだと。彼はこうも言っています。中国の歴史は一般に司馬遷から語られているが、孔子から語られるべきだ。史記にも孔子は記載されている、と。中国の現代化のプロセスはまだまだ長い道のりがあります。我々がまずはっきりさせておかなければならないのは自己の歴史と文明、優秀なDNAが現代化の実践の中で発揮されなければならない、ということです。優秀なDNAは中国文化の中にあるのです。中国は多民族の遺伝の中で変異しているのです。中華民族はさらに西側文化のよいものを吸収し、世界上各民族の優秀なものを吸収しなければなりません」
「(中国の憲法は法治を実現できますか、というフクヤマの質問に対して)不可能です。司法は必ず党の指導のもとに進行されねばなりません。これは中国の特色です」
これは、習近平政権の従来の立ち位置を踏襲している。欧米の民主主義や法治を中国は受け入れられない、政治も法も共産党が大衆を管理するためにある。中国には中華文明にはぐくまれた秩序、手法がある、外国に手伝ってもらわなくて結構、と米国学者に主張するために、岡田著作中の都合のいい文言を捻じ曲げて引用している、と読めなくもない。
だが、王岐山も岡田の「傾向と立ち位置」を理解しているとわざわざ言及している。
本来の岡田史観は「中華復興」と対立
岡田中国史観は習近平政権の「中華民族の偉大なる復興」路線と、むしろまっこうから対立する考え方である。その特徴は漢字で書かれた中国正史資料だけではなく中央ユーラシアの遊牧民族史料からのアプローチで、漢字の中国正史が描く「正統な皇帝を中心とする中国世界」」という中国4000年の歴史観の実態とかけ離れていて、その主役というのは常に入れ替わり激しく変化し、いわゆる「中国人」はむしろ被支配層であった時間の方が長かったという見方だ。
『世界史の誕生』は歴史の新しいとらえ方を考察、提示することがテーマだが、元も清も中国を支配した王朝であって、中国の王朝ではないと書いているし、支配階層で文化も高い「夷狄」を野蛮人とさげすむ中華思想は、被支配層の中国人の病的劣等意識の産物ともいう。また「共産党中国のチベット統治の正統性を元清朝時代の関係を引き合いに出すならば、現在のモンゴル国こそ中国領有の権利を主張できる立場にある」などとも言っている。中華民族の優秀なDNA論を補強するためならば、もっと引用しやすい中国史家が日本にも海外にも山ほどいるはずだ。
ではなぜ岡田英弘を持ち上げたのだろうか。背景には、この2年ほど盛り上がっている「新清史」論争があるかもしれない。「新清史」とは1990年代の米国で台頭した清朝研究の一学派で、「満州、モンゴルなど少数民族史料を重視した反“漢族中心論”清朝史学」(百度百科)という。岡田史学にアイデンティティ研究を足したもの、という表現もある。新清史の中心研究者の一人、マーク・エリオットは岡田の弟子である。
聞くところによると、中国では江沢民政権時代、現代中国の領土と民族的基礎となる清朝の歴史を国家の正史と位置付けるため、大予算を投じた「大清史」編纂プロジェクトが立ち上がった。この頃、北米で台頭した新清史学派が話題となり、英語のできる院生たちが夢中になり、新清史の成果を参照して論文を書くこともかなり多かったという。
一方、これを敵視する教授たちも多く、論争になった。こうした論争は今にいたるまで史学界で続いており、特に去年の秋ぐらいから、「清朝は中国王朝ではないのか」「清朝の雍正帝は華夷一家と言っており、このころは民族と言う言葉はまだなかったのではないか」「新清史は満州族の漢化の事実を否定しているのではないか」といった論争や反論が登場している。最近も7月7日の中国社会科学報では「“新清史”背後の学風問題」と題した徹底反論が掲載されている。
研究業績と研究スタイルに感銘か
岡田に師事した清朝史研究者・楠木賢道が現在、吉林師範大学に招聘されているのも、こうした新清史論争をめぐる研究者たちの関心の高まりがあるかもしれない。楠木は同学で「江戸時代の清朝研究」という講義を受け持っているが、「江戸時代の知識人は国民国家史観と無縁であり、清朝の持つ権力分散的で多元的、多文化的、多民族的な体制がうまく機能していたことを理解していた、この理解は岡田先生やその影響を受けたマーク・エリオットの“新清史”に近い」という。院生向けだが修士から副教授までが集まる人気講義だという。
楠木に王岐山発言をどう理解するかと尋ねるとこう答えた。
「『大清史』編纂がそろそろ最終局面にきています。ですが中国の史学界は一次史料読解の訓練、史料に基づく微視的研究が充実しているとはいえず、微視的な研究に基づく着実な巨視的構想も少なく成果も玉石混淆。(近代史研究所にいた)王岐山は歴史研究とは何かを理解している人でしょう。また、それらの報告書に目を通す立場にあり、感じるところがあったのではないでしょうか。そして最近華字翻訳が出た『世界史の誕生』を読んで、説得力のある壮大な構想に驚愕した。さらに岡田先生について調査し、長い時間をかけた地道な史料研究と、結構現代中国に対して批判的な発言をしてきたことを知った。中国について批判的な態度はとっているけど、研究業績と研究スタイルに感銘を受け、中国の研究者も見習ってほしいと、思わず話題に出してしまったのでは? 王岐山がチベット問題、ウイグル問題について、現状とは違う解決方法を模索していて、岡田先生の名前を出したと考えるのはうがちすぎでしょう」
私も自分なりに憶測をめぐらしてみよう。王岐山は『世界史の誕生』については、本の副題でもある「世界史はモンゴル帝国から始まった」というフレーズに惹かれたのではないだろうか。現在の世界の大部分が西洋の秩序に支配されているなかで、世界史の起源は西洋ではなくてモンゴルであり、元の文明は清へと受け継がれて現代中国に至るという風に考えれば、中華秩序が世界の半分ぐらいを占めてもいい、と言う根拠になると考えたとか。問題は清朝の国家アイデンティティだが、その部分は「新清史」を論破して、間もなく完成する「大清史」で、現代中国が大清国の正統な継承者と結論づければいい。中国で出版される歴史本は厳しいセンサーシップがあるので、岡田著作を翻訳出版することになっても、都合の悪い部分は削り、むしろ中国の公式の歴史観を補強することに使えるかもしれない。
「歴史を持つ強さ」その本気度は?
「歴史と文明をともにもつのは地中海国家と中国だけ」「世界史の始まりはモンゴル帝国」と言いたくて、岡田英弘の名前を「民主主義と自由主義経済の最終的勝利で歴史終焉」と書いたフクヤマにぶつけてみたのだが、そのあとネットで「王岐山が言った岡田英弘って誰?」という反応が広がって、実はかなり中国にとって都合の悪いことも言っていると知られてしまい、そういう人物を持ち上げてしまった王岐山が、後になってバツが悪くなって、座談会原稿を削除した?とか。
あるいは、王岐山は本気で清朝末期と様相が似てきたという指摘を内外で受ける現代中国の直面する問題の打開策のヒントとするために、あらゆるタブーを破ってでも清朝研究を発展させたいと思って、こんな発言をしたと考えるのはどうだろうか。そうだとすると、王岐山は、根は習近平と考え方を異にする「改革派」ということになるが。
岡田著作でもたびたび言及されているが、歴史を持つ国は歴史を持たない国よりも強いのだ。中国が本気で強くなるために、いままで史料や情報や思想上制限してきた箍(たが)をはずし、本気で岡田史学・新清史学を含めた多様な歴史研究の方向性を模索しているとしたら、これはこれで侮れない。