月刊正論 西岡力『日韓関係の悪化を喜んでいる者』について

西岡氏は韓国人に思い入れがありますが、大部分の日本人は突き抜けた感じがします。一般国民と政府・マスコミとを分けるのは中国共産党の日本軍と日本国民を分けた論理と一緒です。尊敬する西岡氏ですが、一般韓国人も含め日本人の感情が許さない所まで来てしまっています。世界で日本を貶めることを政府・マスコミ挙げて言い募り、しかも捏造ばかりです。嫌がらせを得意とするヤクザそのもの。ヤクザが好きな日本人が殆どいないのと同様、韓国人が好きな日本人は殆どいないのでは。

北の工作が奏功しているという見方もありますが、保守派も殆ど反日であるなら何をか況や。精神的未熟というか精神障害者ではないかと思います。それが世界の人々の思いで、Korean fatigue と言われる所以です。神社仏閣に油を撒いたのも在日から帰化した人間、NYTの大西哲光や田淵広子もそう言われています。韓国にルーツを持つ人間と韓国民が一体となって反日を世界に広めようとしているとしか思えません。やられっ放しには行きません。キチンと落とし前はつけさせましょう。まず、通名禁止、在日から帰化した人間は日本を貶める行為をした場合、帰化前の名前の公表、韓国との断交も視野に入れ、韓国との交易禁止にするとか、政府はできることを考えるべきです。軍事力では日本の方が圧倒していますので、平和的な制裁で首を絞めた方が良いでしょう。中国の属国と言うか中国の一部の省になった方が良いのでは。でもロシアが東欧に緩衝地帯を置くように朝鮮半島が緩衝地帯になっているので、属国のままかも。

昔の韓国人は日本の教育の名残があったから優れた徳を持った人もいたのです。今は見る影もありませんが。日本も変わりましたが、彼らのように自分ができないからと言って人の足を引っ張る事しか考えないことはありません。哀れな民族としか言いようがありません。でも世界に与える影響があるので反撃しないと。中国・韓国の経済成長で日本の果たした役割は大きかったですが、忘恩の徒です。まあ、両方とも「騙す人が賢く、騙される方が馬鹿」という価値観ですから。こんな連中と付き合うと碌なことはありません。日本の政治・経済のリーダーも中韓を見限るべきです。戦争をしたくないなら、両国に対する支援を止めるべき。

記事

 今年6月で日韓国交50年を迎えた。私事で恐縮だが、私は1977年大学3年次に1年間、韓国に留学した。留学準備期間を含めると私は、そのうち約40年間、韓国と日韓関係を研究対象としてきたことになる。40年間、多くの尊敬できる韓国人と出会い、たくさんことを教えていただいた。私の研究はそれ抜きには成り立たなかった。

 いま、日韓関係が悪化している。論者の中には最悪だという者さえいる。本稿で詳しく論じるように最悪ではないのだが、悪くなっていることは間違いない。

 心配なのは韓国人の反日ではない。それは北朝鮮とそれにつながる左派勢力によって人工的に作られたものだから、声高に聞こえるが実質はそれほど強いものではない。韓国の反日は、ソウルの日本大使館前と国会とテレビ・新聞の中にしかない、少し極端だがそれが私の実感だ。

 それに比べて、心配なのは日本人の嫌韓だ。韓国の反日の背後にある政治工作を見ず、その理不尽さをすべて韓国人の民族性・国民性に還元する議論の拡散を私は心配し続けている。事柄を形づくる要素のうち、一番最近に起き、かつ一番影響力が大きい部分を見ないで議論すれば、事柄の全体像を正確に把握することが出来ない。その結果、悪意を持って政治工作を行っている勢力だけが喜ぶことになる。

 本稿では日韓両国民の感情的対立、特に最近の日本人の嫌韓感情を作り出した主犯として、北朝鮮と韓国内左派勢力、そしてそれを煽る日本国内の反日日本人らが作り出した「韓国版自虐史観」あるいは「極左的民族主義歴史観」を提示する。そして、その歴史観がいつからどの様な形で日韓関係を壊してきたのかを時系列を追って示していきたい。

70年代の韓国で出合った気高き民族主義

 私の処女作『日韓誤解の深淵』(1992年亜紀書房刊)の前書きから話を始めたい。私は、日韓関係を心配して次のように書いた。読み返すと拙劣な文章で赤面するばかりだが、率直に思いを綴ったことだけは確かだ。

《1977年、当時大学3年生だった私は韓国の延世大学に交換留学生として留学した。在日朝鮮人差別問題のサークルの会員だった私は、日本人の一人として韓国の人々に過去を深く謝罪したいという気持ちで金浦空港に降り立った。

留学した当初は韓国語があまり出来なかったので、親しくなった友人とはブロークンの英語で話し合っていた。K君もその友人の一人だった。ところがK君は実は日本語が出来たのだ。私が少ない奨学金を工面して大学での授業以外に家庭教師を雇って韓国語の勉強をしているのを知った後、K君は日本語を使い始め私を驚かせた。それまで三、四回話したときはまったく日本語を分かる素振りすらみせなかったのに、である。私の韓国に対する姿勢をひそかに確かめていたのだろうか。

 私はさっそくK君に対し、英語では伝えられなかった私の気持ち、つまり、日本人の一人として植民地支配について謝罪したいと語った。すると彼は「力の強い国が弱い国を植民地にしたのは当時としては当たり前のことだった。我々が弱かったから侵略されたのだ。謝ってもらうべきことではない。国際社会はパワーがすべてだ。ぼくが今、日本語を勉強しているのも、うんと極端なことを言うと、もし将来日本と戦争になった場合、相手の無線を聞いて作戦を立てられるようになるためなんだ。日本語が分かる者がいればその分韓国のパワーを強めることになるからだ》

 私は彼の論理の明快さと自信に圧倒された。私が交換留学生としてソウルで暮らした77年から78年にかけて、日本の安易な謝罪を拒否し自民族の弱さを直視してそれを自分たちの努力によって補おうという気高き民族主義に出合うことが多かった。

 78年3月1日、3・1独立運動記念日でソウル市内の至る所に韓国の国旗である太極旗が掲揚されていた。私は韓国人の友人P君と大学街を歩いていた。一人の幼稚園生くらいに見える男の子が門柱から垂れ下がっていた太極旗を棒でたたいて遊んでいた。それを見たP君が大きな声で「国旗をないがしろにしたらだめだ」と叱りつけた。

 そして、私の方を向いて「お前の家には日の丸があるか。日本ではいつ国旗を飾るのか」と聞いてきた。うちには国旗がない。また、日本では公立小学校や中学校の卒業式に日の丸を掲げることを反対する声が強い等と説明すると、P君は「日本人は愛国心がないな。先日の新聞を見ると日本の若者の過半数が戦争になったら逃げると答えていた。俺はもし自衛隊が竹島を取りに来たら銃をとって戦うぞ。お前も日本人なら愛国心を持って日本のために戦え」とまじめな顔で言われたことを今も鮮明に覚えている。相手国の民族主義をも尊重する健全な民族主義、愛国心を、私は韓国で学んだ。

このような誇り高い民族主義は、1965年日韓国交正常化を推進した朴正煕大統領が持っていたものだ。朴正煕大統領の演説からいくつかの名言を紹介しよう。まず、朴正煕大統領の率直な反日感情とそれにもかかわらず「自由と繁栄のための賢明と勇気」を持って決断を下すと語った1965年5月18日、米国ワシントンDCのナショナル記者クラブでの「自由と平和のための賢明と勇気」演説からだ(『朴正煕選集・主要演説集』鹿島研究所出版会)。

《韓日会談が14年間も遅延してきたことは、みなさんよくご存じのことと思います。それには、それだけの理由があるのでありまして、外交史上いかなる国際関係にも、類例のない幾多の難関が横たわっているのであります。

 周知のとおり、いま韓国には、韓日問題について、極端論をふくむありとあらゆる見解が横行しております。もしみなさんがわたくしに『日本について…』と質問されれば、わたくしはためらうことなくわたくしの胸に鬱積している反日感情を烈しく吐露することでありましょう。またみなさんがわたくしに『親日か』、『反日か』ときかれるならば、わたくしの率直な感情から言下に『反日だ』と答えることでありましょう。これはいやしくも韓国人であれば、誰でも同じことであります。四十年にわたる植民統治の収奪、ことに太平洋戦争で数十万の韓国人をいけにえにした日本は、永久に忘れることのできない怨恨を韓国人に抱かしめているのであります。

 それにもかかわらず、そしてこの不幸な背景と難関をのりこえて、韓日国交正常化を促進せねばならない韓国の意志にたいして、みなさんの深いご理解を期待するものであります。われわれは、より遠い将来のために、より大きな自由のために、より高い次元の自由陣営の結束のために、過去の感情に執着することなく、大局的見地において賢明な決断をくだしたいと考えるのであります》

 次に紹介するのは1965年6月23日、韓日条約に関する韓国国民への特別談話からだ。

《去る数十年間、いや数百年間われわれは日本と深い怨恨のなかに生きてきました。彼等はわれわれの独立を抹殺しましたし、彼等はわれわれの父母兄弟を殺傷しました。そして彼等はわれわれの財産を搾取しました。過去だけに思いをいたらすならば彼等に対するわれわれの骨にしみた感情はどの面より見ても不倶戴天といわねばなりません。しかし、国民の皆さん! それだからといってわれわれはこの酷薄な国際社会の競争の中で過去の感情にのみ執着していることは出来ません。昨日の怨敵とはいえどもわれわれの今日と明日のために必要とあれば彼等とも手をとらねばならないことが国利民福を図る賢明な処置ではないでしょうか。(略)

 諸問題がわれわれの希望と主張の通り解決されたものではありません。しかし、私が自信を持っていえますことはわれわれが処しているところの諸般与件と先進諸国の外交慣例から照らしてわれわれの国家利益を確保することにおいて最善を尽くしたという事実であります。外交とは相手のあることであり、また一方的強要を意味することではありません。それは道理と条理を図り相互間に納得がいってはじめて妥結に至るのであります。(略)

 天は自ら助ける者を助けるのであります。応当な努力を払わずにただで何かが出来るだろうとか、または何かが生まれるであろうとかという考えは自信力を完全に喪失した卑屈な思考方式であります。

 今一部国民の中に韓日国交正常化が実現すればわれわれはまたもや日本の侵略を受けると主張する人々がありますが、このような劣等意識こそ捨てねばならないと同時にこれと反対に国交正常化が行われればすぐわれわれが大きな得をするという浅薄な考えはわれわれに絶対禁物であります。従って一言でいって韓日国交正常化がこれからわれわれによい結果をもたらすか、または不幸な結果をもたらすかということの鍵はわれわれの主体意識がどの程度に正しいか、われわれの覚悟がどの程度固いかということにかかっているのであります》

日韓で真逆だった国交への反対理由

 朴正煕大統領が進めた日韓国交正常化交渉に対して、韓国内では激しい反対運動が起きた。私は修士論文のため、韓国の反日の論理を調べたが、その一環として当時の反対論をかなり集めて分析した(拙稿「戦後韓国知識人の日本認識」、川村湊・鄭大均編『韓国という鏡』収録)。

野党と言論はほぼ反対一色、学生らは街頭に出て激しいデモを行った。それに対して64年に戒厳令、65年に衛戍令を布告して軍の力で押さえつけて正常化を決めた。自分は反日だと断言する朴正煕大統領が、そこまでして日本との国交を結んだ背景は、北朝鮮とその背後にあるソ連、中国という共産陣営に対する危機感があったからだ。特にその頃、中国は原爆実験を成功させ、国連で支持国を増やして近い将来、中華民国から国連議席を奪う見通しだった。東アジアの自由陣営にとって大きな脅威になりつつあった。

 その点は当時の韓国内の対日国交正常化反対運動も認識を一致させていた。反対の論理は大きく2つだった。第1は、韓国の民族的利益が十分確保されていないという批判、すなわち過去の清算が不十分であり、再び日本の経済的侵略を受けるおそれがあるという議論だった。第2は、日本が反共の立場にきちんと立たず、二股外交、北朝鮮やその手先である朝鮮総連への配慮、優遇を止めていないという批判だった。

 一方、日本国内の反対運動は、韓国の反対運動と重なり合う部分が全くなく、真逆の立場からのものだった。韓国の反対理由の第1の点については、逆に日本の利益が侵されているという主張が多かった。すなわち、過去清算で韓国に譲りすぎであり、竹島不法占拠を事実上認めているなどだった。当時、社会党議員が国会で朝鮮からの引き揚げ者がおいてきた莫大な財産について言及して対韓経済協力が大きすぎると批判し、労組の反対デモでは(経済協力資金を)「朴にやるなら僕にくれ」というスローガンがあった。そして、与党自民党もこの点は内心、同じ考えを持っていた。

 韓国の反対運動の第2の論点、反共の立場については、日本の反対運動は米国の戦争戦略に巻き込まれるとして、烈しい批判を展開していた。それに対して、自民党政府は「釜山に赤旗が立てば日本の安全保障に重大な危機が来る」として、反共韓国への支援が日本の安全保障に繋がると主張した。

 こうしてみると、日韓国交正常化は、両国内の民族的利害を主張する反対論を、両国政府が反共自由陣営の結束という安全保障上の共通認識で押さえ込んだものと言える。

当時の韓国は朝鮮戦争で共産軍からひどい扱いを受けた体験を土台にした反共意識が強く、反共法などで国内の左翼活動を厳しく取り締まっていた。ところが、日本では1960年に日米安保反対運動が国民運動として大きく盛り上がるなど、国内で反米左翼勢力や中立の志向する勢力が一定程度、力を持っていた。だから、共産陣営という共通の敵の存在によって、日韓両国が民族的利害を相互に譲歩して国交正常化を進めたのに対し、日本国内の左派が内部から反対するという構図があった。それについて朴正煕政権が国内の反対運動に答えるために1965年3月に発行した『韓日会談白書』はこう書いた。拙訳で引用する。

《自由陣営の結束

 最近のアジアの情勢とベトナム事態の流動的国際情勢の激変をあらためて列挙しなくても、自由陣営の結束はそのどの時期よりも最も至急に要請されているのが事実だ。(略)

 日本も変遷する国際情勢と中共の急速な膨張に対処するため自由陣営が結束しなければならず、特に極東において共産勢力の脅威をもっとも近距離で受けている韓日両国が国交正常化を通じて結束しなければならない必要性、ないしは不可避性を認識していることを物語っていた。

 韓日両国が国交を正常化することは、ただ韓日両国だけでなく全自由世界の利益に符合している。

 これがまさに米国をはじめとする友邦国家が一斉に韓日交渉の早期妥結を強力に希望している理由であり、同時に中共、北傀[北朝鮮の傀儡政権の意味・西岡補]、および日本の左翼勢力がいままで韓日会談の破壊工作を執拗に展開してきたもっとも大きな理由なのだ》

共産陣営に甘かった日本政府

 日韓関係はその後も、共通の敵に対する日本側の態度の甘さに韓国が反発し、揺れ続けた。ところが80年代に入ると、韓国国内では、急速に広がった左傾自虐史観によって共通の敵をむしろ擁護する勢力が急成長し、日韓の動揺の幅がいよいよ大きくなっていった。昨今の韓国の執拗な反日外交とそれに対する日本国内の嫌韓感情の増大は、この枠組みで見ないと全体像が理解できない。

 まず、70年代までの日韓関係をこの構図から概観する。韓国保守派随一の知日派である洪ヒョン・元駐日大使館公使は、日韓国交50年間を振り返り、関係悪化の根本原因は1965年の国交正常化の際、日本が韓国を半島における唯一の合法政府だと認めなかったことだと指摘する。

中共と国交を結んだとき日本政府は台湾との関係を断絶した。中共側が強力に要求した「1つの中国」という主張に譲歩したのだ。しかし、自由陣営の結束という共通の利害をから行った日韓国交において日本は、最後まで「2つの朝鮮」の存在を認めることに固執した。すなわち、韓国の憲法では韓国の領土を韓半島とその付属島嶼と規定しており、韓国政府は日本に対して基本条約でそのことを認めるように要求していた。その結果、基本条約第3条は「大韓民国政府は、国際連合総会決議第百九十五号に明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される」とされている。

 一見すると韓国の主張が通ったかのようだが、国連総会決議を引用することで日本は韓国の主張を巧妙にかわした。この決議は、韓国政府を、1948年5月に国連の監視の下で行われた選挙によって成立した半島の「唯一合法政府」と定めたものだ。北朝鮮地域を占領していたソ連軍と北朝鮮を事実上支配していた人民委員会(委員長金日成)は国連監視団の入境を拒否したため、選挙は38度線の南に限定して行われた。日本のこの条文解釈は、「北朝鮮地域については何も触れていない」というものだ。従って、日本が北朝鮮と国交を持たないでいることと第3条は関係がない。「第3条の結果としてそうなったり、そうする義務を法律的に負うのではない」(外務省条約局条約課の見解。『時の法令別冊日韓条約と国内法の解説』大蔵省印刷局1966年)

 この解釈の結果、事実上、わが国政府は日本を舞台にした韓国政府転覆活動を放置することになった。韓国では憲法の規定にもとづき、政府を僭称する団体などを反国家団体として位置づけ、その構成員や支持勢力を処罰する国家保安法という法律がある。同法第2条は反国家団体を「政府を僭称することや国家を変乱することを目的とする国内外の結社又は集団として指揮統率体制を備えた団体」と規定している。同法に基づき国家情報院(朴正煕政権下では中央情報部と呼ばれていた)が反国家団体などを取り締まっている。朝鮮民主主義人民共和国だけでなく、日本にある朝鮮総連と韓民連(在日韓国民主統一連合、1978年に指定)も反国家団体とされている。反国家団体の首魁は最高死刑と定められていて、韓国の法体系の中で重大な犯罪者だ。ところが、日本政府は国内で活発に韓国政府を転覆することを目的として活動する2つの「反国家団体」を放任してきた。

その結果、70年代に入り、野党大統領候補だった金大中氏が半亡命状態で日本に滞在し、朝鮮総連と背後で繋がりながら民団を分裂させようとしていた在日韓国人活動家らと韓民統(後の韓民連)を結成する動きを見せたときも、日本当局はそれを放置していた。事実上の亡命政権的組織が東京で出来るかもしれないと危機感を持った中央情報部は韓民統結成の直前である1973年8月、金大中氏を東京のホテルで拉致して強制的に韓国に帰国させる事件を起こした。韓民統は金大中氏不在のまま、彼を初代議長にして発足した。

 当時、日本外務省は、韓国の実定法に反する反国家活動をしていた金大中氏を保護していた(外務省が身分保障をして赤十字社にパスポートに代わる身分証明書を発給させ、ビザを与えた)。白昼、日本国内のホテルから自国の政治家を暴力で拉致した韓国情報機関の乱暴なやり方は許されないが、その背後には日本外務省が金大中氏の日本での韓国政府転覆活動を裏で支援して自由陣営の結束を乱し、ともに戦うべき相手である北朝鮮を有利にしたことがあった。

 金大中拉致事件の翌年1974年8月には、日本を実行拠点とする重大テロ事件が起きた。文世光事件である。在日韓国人文世光は朝鮮総連生野支部政治部長の金浩龍らによって洗脳され、大阪港に入港した万景峰号の船室で北朝鮮工作機関幹部から朴正煕を暗殺せよとの指令を受けた。文は大阪の交番から盗んだ拳銃と偽造した日本旅券を持って訪韓し、独立記念日の行事会場に潜入して朴正煕大統領に向けて拳銃を撃ち、大統領夫人らを射殺したのだ。

 韓国政府は朝鮮総連と関連地下組織に対する徹底した取り締まりを日本に求めたが、日本政府は事実上それを拒否した。総連は捜査を受けず、文を洗脳した総連幹部も逮捕されなかった。それどころか、日本マスコミは朝鮮総連の宣伝に乗せられてむしろ韓国政府批判のキャンペーンを行った。朴正煕政権による自作自演説が報じられさえした。国会では外務大臣が「韓国に対する北朝鮮の脅威はない」と答弁した。韓国では反日デモ隊が日本大使館になだれ込むという前代未聞の事件が起きた。朴正煕大統領は一時、国交断絶も検討したという。

 横田めぐみさん拉致を国会で最初に取り上げた西村眞悟前議員は、この事件で日本当局が総連を捜査しなかったため、その後次々と日本人が拉致されたのだと以下のように鋭く追及している(「西村眞悟の時事通信」電子版2013年12月20日)。私も全く同感だ。

《問題は、日本のパスポートと日本警察の拳銃を所持して日本から出国し隣国に日本人として入国して大統領を狙撃するというほどの事件であるにもかかわらず、また、金正日が認めるまでもなく、事件当初から朝鮮総連の関与が明白であるにもかかわらず、何故日本政府(田中角栄内閣)は、朝鮮総連の捜査をしなかったのか、ということである。

 昭和四十九年の時点で、この捜査を徹底しておれば、その後の拉致は無かった。宇出津事件も横田めぐみさん拉致もなかった。そして、大韓航空機爆破もなかったのではないか。(略)

 しかし、朝鮮総連をアンタッチャブルとしようとする政治家の政治的思惑が最も大胆かつ露骨に捜査よりも優先したのは、明らかに文世光事件であった。

 以来、内閣が替わってもこの思惑は生き続け、大統領狙撃指令に使われた北朝鮮の万景峰号も何事も無かったように北朝鮮と我が国をいろいろな物資と人物を乗せて往復し続け、朝鮮総連も何事もなかった如く現在に至る。そして、日本人は国内から忽然と拉致され続けたのだ》

 文世光事件も日本人拉致事件も日韓の共通の敵である北朝鮮政権によって引き起こされたテロである。ところが、70年代に日本が反共姿勢を曖昧にして利敵行動をとっていたため、文世光事件の結果、日韓関係が悪化し、日韓の当局の協力が弱くなり日本人拉致を防げなかったという、日本の国益に反する事態が生まれた。

 この日本の利敵行動は全斗煥政権になっても続いた。北朝鮮の脅威に対する危機感からクーデターで政権を握った全斗煥将軍らは、レーガン政権が進める世界規模での共産勢力に対抗する軍拡路線に参与するため、韓国軍の近代化を行うことを計画し、そのための資金援助を日本に求めた。そのとき、日本外務省は「全斗煥体制は、軍事ファッショ政権」だとして経済協力に反対した。当時の外務省の内部文書(1981年8月10日付外務省文書「対韓経済協力問題」。小倉和夫『秘録・日韓1兆円資金』講談社に収録)は次のように反対理由を挙げた。

《(一)全斗煥体制は、軍事ファッショ政権であり、これに対して日本が財政的てこ入れをすることは、韓国の民主化の流れに逆行するのではないか、とくに、金大中事件が完全に解決していないまま、かつ政治活動の規制がきびしく実施されている現在、韓国に対して経済協力を行うことは、日本の対韓姿勢として納得できない。

(二)韓国への経済協力は、韓国への軍事的協力のいわば肩代わりであり、日・韓・米軍事同盟(強化)の一環として極東における緊張を激化させる。

(三)南北間の緊張が未だ激しく、南北対話の糸口さえ見出しえない現在、その一方の当事者である韓国のみに多額の経済協力を行うことは朝鮮(半島)政策として理解しがたい》

 この文書に表れている外務省の認識の決定的欠陥は北朝鮮政権の位置づけがないことだ。朝鮮戦争を起こして300万人を死亡させ、その後も繰り返し韓国へのテロを続けるだけでなく、日本人拉致を行っていたテロ政権の脅威と、それとの対抗のために完全なる民主化を遅らせざるを得ない韓国政治の実態を完全に無視する容共姿勢に驚くばかりだ。

 自由陣営の一員として共産主義勢力を共通の敵とする意識は全くない。この時点で外務省は日・韓・米軍事同盟の強化に反対していたのだ。全斗煥政権がファッショならそれを支援する米国レーガン政権の外交をどう評価するのか、いや、北朝鮮政権をどう評価するのかという根本的観点の欠落こそが、日韓関係悪化の第1の要因だ。

韓国の反日外交の始まり

 日米韓同盟強化は日本にとって望ましくないという歪んだ容共姿勢は、少しずつ改善されてきた。特に90年代後半、韓国情報機関が人道的観点からある意味超法規的に日本に提供してくれた横田めぐみさん拉致情報により日本は北朝鮮の脅威に目覚めはじめた。そして、中国の急速な軍事的台頭を目の当たりにして現在の日本は、限定的ながら集団的自衛権の行使を可能にする大きな政治決断をしながら日米韓同盟の抑止力を強化する方向に動き出した。

 これに逆行して「共通の敵」への姿勢がおかしくなってきたのが韓国である。始まりは80年代に遡る。全斗煥政権は上記の日本の容共姿勢に業を煮やし、中国共産党と日本内の反日左派勢力と手を組んでその圧力で経済的支援を得ようとする歪んだ反日外交を開始した。日本軍慰安婦などの歴史問題で日本を糾弾している現朴槿恵大統領の中国との「共闘」の原点とも言える。

 1982年、日本のマスコミの誤報から始まった教科書問題で中国と歩調を合わせて韓国が外交的に日本を非難しはじめたのだ。問題の発端は「(旧文部省が)検定によって政府が華北への侵略を進出と書き直させた」という誤報だったが、いつの間にか韓国では「韓国・中国への侵略を進出と書き直させた」とする2つめの誤報がなされた。それなのに、鈴木善幸内閣は謝罪し検定基準を直して韓国、中国の意見を教科書基準に反映する異例の措置をとった。外務省は文部省の反対を押し切ってそれを推進した。

その後、中曽根政権が40億ドルの経済協力実施を決めた。中国と組んだ韓国の対日歴史糾弾外交は成功して多額の経済協力が決まったのだ。これ以降、韓国政府は日本マスコミが提供する反日事案を外交案件としてとりあげ、テーブルの下で経済支援を求めることをつづけた。

 1992年1月、宮沢総理が訪韓した際、盧泰愚政権は朝日新聞などが行って作り上げた「強制連行」説に乗っかって首脳会談で宮沢総理に謝罪を求め、宮沢総理はそれに応じて八回も謝罪した。このときも、駐日大使などが首脳会談で慰安婦問題を取り上げることに反対したが、経済部署が日本からの技術協力などを得る手段として取り上げるべきだと主張したという。

 全斗煥大統領は韓国内で演説して、植民地支配を受けた原因である自国の弱さを直視しようと訴えるなど、朴正煕大統領とつながる健全な民族主義の精神を持っていた。日本から学ぶべきことは多いという認識も持っていたという。盧泰愚大統領も慰安婦問題の実態を実は理解しており、日本のマスコミが韓国国民感情に火をつけたと、正鵠を射る指摘をしていることは関係者がよく知っている事実だ。

 韓国政治研究の泰斗である田中明先生は韓国の反日が「拒否する」反日ではなく「引き寄せる」反日だと次のように述べている(田中明『遠ざかる韓国』晩聲社)。

《誰それがけしからぬというとき、われわれはそういう手合いとはつき合わぬ(拒否する)選択をするが、韓国の場合は違う。「汝はわれわれの言い分をよく聞いて反省し、われわれの意に副う・正しい・関係を作るよう努力せよ」というおのれへの「引き寄せ」が流儀である。それは一見・主体的・な態度に見えるかもしれないが、詰まるところは、けしからぬ相手の翻意に期待する他者頼みの思考である》

 他人のせいにせず自己の弱さを直視する朴正煕大統領や私の留学時代の友人K君の「反日」とは全く違う甘えをそこに感じざるを得ない。それが積み重なって韓国は日本人から尊敬心を得られにくくなっている。

 その後、金泳三大統領時代から歴史糾弾外交の目的が変化した。それまでは経済支援が目的だったが、1995年、金泳三大統領が江沢民総書記と会った後に猛烈に展開した反日外交は、国内での自身の支持率を上げることを目的としていた。金泳三大統領はそのとき、日本人指導者のポリチャンモリ(生意気な頭の中)を直すと語り、竹島近海で軍事演習を行った。その年の夏村山談話が出た直後の出来事だから、日本が謝罪をしないからでなく、韓国の内政上の目的があればいつでも反日が利用されることが明らかになった。

李明博大統領の竹島上陸強行や朴槿恵大統領の反日告げ口外交も同じ文脈から理解できる。その意味で、日韓関係を悪化されている2つめの要素は全斗煥政権以降始まった「引き寄せる反日」外交、すなわち日本からの支援や内政上の人気回復のためのパフォーマンス外交を挙げざるを得ない。

反日パフォーマンスを支える従北自虐史観

 しかし、国交正常化50年を迎えても、反日パフォーマンスが支持率上昇につながるという韓国社会の状況は、自然にできあがったものではない。70年代末以降、北朝鮮とそれにつながる韓国内左翼勢力が作り出した反日自虐史観が韓国社会を強く束縛していることが、その根本に存在する。これが私の考える3つめの日韓関係悪化要因である。そして、この呪縛から韓国社会が抜け出せなければ、今後の日韓関係はより一層悪化し、韓国が自由主義陣営から抜けて、具体的には韓米同盟を破棄し、中国共産党の影響下に入るか、北朝鮮テロ政権主導の統一が実現するという悪夢の可能性さえ存在すると私は危機感を持っている。

 韓国社会をここまで反日に縛り付けた契機は、1979年に出版された『解放前後史の認識1』という1冊の本だった。それまで韓国の学生運動や反体制運動には容共反米は存在しなかった。反日の半分は、日本の容共的姿勢を糾弾するものだった。ところが、朴正煕大統領が暗殺された年に出たこの本は、その枠組みを大きく揺り動かす歴史認識を若者らに植え付けた。

 巻頭論文を書いたのが宋建鎬だ。彼は長く新聞記者として朴正煕政権を激しく批判してきた反政府活動家で、1980年全斗煥政権下、金大中氏らとともに逮捕された。彼は反日を入り口にして、大韓民国は生まれたときから汚れた国で、北朝鮮こそ民族史の正当性の継承者だという当時の学生らに歴史観のコペルニクス的転換を求める「解放の民族史的認識」と題する論文を書いた。その結論部分を訳しておく。

《この論文は、8・15が与えられた他律的産物だったという点から、我が民族の運命が強大国によってどれくらい一方的に料理され、酷使され、侮辱され、そのような隙を利用して親日派事大主義者らが権勢を得て愛国者を踏みつけて、一身の栄達のため分断の永久化を画策し、民族の悲劇を加重させたかを糾明しようとするものだ。過去もまた今も自主的であり得ない民族は必ず、事大主義者らの権勢がもたらされ民族倫理と民族良心を堕落させ、民族の内紛を激化させ、貧富の格差を拡大させて腐敗と独裁をほしいままにし、民衆を苦難の淵に追い込むことになる。民族の真の自主性は広範な民衆が主体として歴史に参与するときだけに実現し、まさにこのような与件下でだけ民主主義は花開くのだ。

このような観点からすでに半世紀が過ぎた8・15が一体どのように民族の正道から逸脱して行って、それによって民衆がどの様な受難を受けるようになったのかを冷静に糾明しなければならない必要性が生まれるのだ。このような糾明はけっして過ぎた歴史の糾明でなく明日のための生きた教訓になるのだ。8・15の再照明はこのような点で今日のための研究だといわなければならない》

 論文の中で宋は、韓国の建国の父である李承晩を徹底的に攻撃している。李承晩は手段方法を選ばない権力主義者で、米国をバックに日本の植民地統治に協力した親日派を取り込んで分断の固定化に繋がる韓国単独政府を樹立し、親日派処分を妨害し、土地改革を遅延させ、日本統治時代に利益を得ていた地主勢力と結託した--。

 宋らが提唱した自虐史観の中心にあるのが、実は「親日派」問題だ。ここでいう親日派とは、単純に日本に親近感を持っているという意味ではなく、日本の統治に協力して民族の独立を阻害した勢力という意味だ。「解放前後史の認識」は80年代に韓国学生街で大ベストセラーになった。79年から10年がかりで刊行された6巻のシリーズで合計100万部売れたという。盧武鉉大統領も弁護士時代に同書を手にして雷に打たれたような衝撃を受けたという。その歴史観を李榮薫ソウル大教授は以下のように要約している。

 「日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽った」(『大韓民国の物語』文藝春秋)

 この歴史観に立つから、金日成が民族の英雄となり朴槿恵大統領の父親、朴正煕大統領は日本軍人出身だとして「親日勢力」の代表として非難されるのだ。そしてこの歴史観は、日本国内の左翼反日自虐観と呼応していることは言うまでもない。

 そして恐ろしいことに、この歴史観は北朝鮮が一貫して維持してきた対南革命戦略と見事に一致している。北朝鮮は韓国を植民地半封建社会と規定し、まず米国帝国主義とそれに寄生する親日派勢力を打倒し、地主を追い出して農民を解放し、その後、社会主義革命を行うという2段階革命論をとってきた。宋らが6巻のシリーズで主張した韓国社会認識はまさにこの土台の上に立っている。北朝鮮の工作がそこに入っていないとみるのはあまりにナイーブな考え方だろう。

この歴史観は90年代以降、各界各層に浸透し、現在使われている韓国の小、中、高校で使われている歴史教科書もこの歴史観にもとづき書かれている。2005年以降、一部の実証主義学者らが教科書改善運動を開始したが、彼らが執筆した歴史教科書は今も、採択率ゼロだ。

 朴槿恵大統領はまさに親日派の娘という批判を一番恐れている。その政治的資産は選挙に強いことだった。父親に対する絶対的支持層が彼女の基礎票となり、その上に若者らの票をいかに積み上げるかがこれまでの政治活動の根底にあった。だから、朴槿恵大統領は反日自虐史観に正面から対決せず、それと迎合し続けている。慰安婦問題は自虐史観派にとって格好の材料となっている。朴槿恵大統領が慰安婦問題に取り組まないと、慰安婦問題を抜きに日韓国交を正常化させた親日派の朴正煕の悪業を隠蔽しているという理屈が成り立つからだ。もちろん、当時を生きていた誰もが慰安婦の強制連行などなかったことを知っており、だから韓国は日韓国交交渉で一度も慰安婦問題を持ち出さなかったのだ。

 自虐史観派から激しく非難されている李承晩大統領は「悪質的な独立運動妨害者以外に親日派はありえない」「倭政の時にいくら警察官だった人でも建国事業に参加して大きい功績をたてればその人はすでに親日派ではない。著しい親日経歴がない人でも日本語をしばしば口にして日本食が好きで日本にしばしば行き来し、日本が再進出してくることを待つ人ならば彼らこそ清算される親日派だ」と繰り返し明言しつつ、日本時代に教育を受け実務経験を積んだ官僚、軍人、警察官らを建国過程で使い続けた。それが大韓民国建国に役立つと信じたからだ。この李承晩の信念を李栄薫教授は「建国のための未来指向的な精神革命としての親日清算」と呼んだ。

 朴槿恵大統領がその立場に立てば、北朝鮮の世襲テロ政権を共通の敵として歴史観や領土問題等をお互いに譲歩し合う、50年前朴正煕大統領が築いた日韓友好関係に戻ることは十分可能だ。すでに韓国内の自由統一を目標としている趙甲済氏ら健全な保守勢力はそのような立場から日韓関係の改善を提起している。

 50年前もそして今も、釜山に赤旗が立つことは日本の安全保障にとって最悪のシナリオだ。韓国が反日自虐史観を清算して自由統一を迎えるのか、あるいは、自虐史観に飲み込まれ北朝鮮の思うつぼにはまっていくのか、まだ勝負はついていない。

(東京基督教大教授 西岡力)

※この記事は月刊正論7月号より転載しました。

 

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