岡山典弘著『三島由紀夫外伝』を読んで

2/27三島由紀夫研究会があり、著者が講師でしたが、小生の不動産投資セミナー講師の仕事とバッテイングしましたので欠席しました。その代りと言っては何ですが、本を読むことにしました。麗澤大学の中国語(台湾女性が先生)の公開講座に通っていますので、大学図書館にあったものを借りて読みました。「正伝」ではなく「外伝」であり、武道の話や女性の話が中心で、面白く読み終えました。三島の別の面が見えて良かったです。

三島が今の時代、生きていたら何と言うでしょうか?「価値紊乱の時代」でしょうか?親殺し、子供殺しが平気で行われる時代です。善悪の判断を親がキチンと教えて来なかったからでしょう。外国文化や考え方を採り入れることに躍起となり、日本の伝統的な価値観を蔑ろにしてきたツケが回っています。

しかし、中共の女スパイに籠絡された橋龍は人間的にもダメな奴ですね。ペルー人質事件の時には、職員にアンパンを配るだけで、「アンパン宰相」と揶揄されていました。彼の秘書官をしていたという維新の江田憲司も推して知るべしです。

内容

私は笹森順造先生の審判の下で、作家の三島由紀夫と試合を組まされたことがありました。笹森先生の「始め!」の声で二人は立ち上がり、しばし睨み合い、そして盛んに打ち合いとなりました。結局試合は一本一本の勝負から引き面を取られて、私は三島さんに敗れたのですが、 どんなに叩いても、旗が上がらず納得がいかなかった私は、試合のあとで笹森先生にその理由をお伺いしました。笹森先生は、「お二人とも、まだまだ修行が足りません」とだけ言われました。(橋本龍太郎『燃える剣』)

笹森順造は、青山学院院長、衆議院議員、復員庁総裁、賠償庁長官などの公職につくとともに、剣では小野派一刀流の宗家であった。

橋本の回想は石原の記述ほど酷くはないが、“スタイリスト橋龍”特有の格好づけや、過去を美化しようとする.心理が働いているように思われる。信頼できるのは、二人の対戦を実際に見た第三者の証言であろう。

サンケイ新聞政治部記者の加地富久は、剣道六段、居合道四段であった。渋谷警察署の道場で吉川から三島を紹介された加地は、以後、三島と一緒に道場で汗をながした。

四十一年の春、参院議員会館の道場で三島グループと国会議員グループとの親善剣道大会が開催された。これは、三島氏が「代議士と一度お手合わせをしてみたい」というので、私が園田直代議士に呼びかけて開いたものである。このとき三島氏は橋本龍太郎四段と試合をした。

笹森順造範士(一刀流宗家)の立ち合いで「拝見」の形式で十分間ほど手合わせをした。

すべり出しは橋本代議士がいきなりコテを取って優勢だったが、時間がたつにつれてしだいに三島氏が橋本氏を圧倒し、最後は真っ向唐竹割りに橋本氏のメンを打ちすえて、「それまで」 となった。 (加地富久「三島氏の気魄の剣」)

この試合の写真は、雑誌「20世紀」(一九七一年二月)に掲載された。確かに白い剣道着姿の三島には全身に気魂がみなぎって、橋本を圧倒している。

加地によれば、道場での三島は礼儀正しく、風格ある剣士だったという。白の袴と白の胴衣を着用した三島の姿は、ひときわ颯爽としていたという。稽古の前は、いつもきちんと正座して防具をつけしばし瞑想するのが常だったという。三島の剣を一言でいえば、“気魄の剣”であったともいう。

自衛隊の河面博士二曹は、三島が富士学校に体験入隊をしたときに助教をつとめたが、五番勝負の手合わせで三島に敗れている。「話の特集」の編集長•矢崎泰久は、三島に原稿依頼に行ったところ剣道場に連れ出され、面を強烈に打たれて悶絶した。

三島と立原正秋との剣の対決は、ついに幻に終わった。実現していれば、どうなったか。立原の剣は虚仮威しに過ぎない。一方、三島の剣は命を賭した“気魄の剣”である。両者、しばし睨み合い。詰まる間合い。裂帛の気合。竹刀が一閃!刹那、三島の剣が、立原の面上をしたたか打ち据えたであろう。

昭和三十四年(一九五九)三十四歳

四 美智子様の御成婚を祝するカンタータ

皇后陛下の美貌と才知は、学生時代から際だっていた。

三島は、聖心女子大学時代の美智子様を見て心を奪われた、という説がある。そして、二人は歌舞伎座で見合をしたともいう。

「と言ってもね、正式な見合ではなかった。まとまらなくても、どちらにも疵がつかないよう、 歌舞伎座で双方とも家族同伴で芝居を見て、食堂で一緒に食事をした。それだけでした」

(徳岡孝夫『五衰の人』)

「先生、見合い、したんですよね」

「正式のものではない。歌舞伎座で偶然隣合せになる形だ」

(村上建夫『「楯の会」で見た三島由紀夫』)

「三島さんと美智子さまはウチの二階でお見合いしたんだよ」と、かつて本誌(週刊新潮)に語っていたのは、銀座六丁目の割烹「井上」の女将.故井上つる江さんだった。銀座の路地裏の小さな割烹の一室で未来のお妃と将来の大作家が、互いに向かい合っていたのである。ちなみに「井上」は国鉄のキャリア官僚たちに愛された店である。

(「美智子さまと三島由紀夫のお見合は小料理屋で行われた」)

昭和三十四年四月十日は、皇太子殿下と美智子様の御成婚の日であった。

「祝婚歌カンター夕」は、三島が作詞をして、黛敏郎が作曲した。管弦楽NHK交響楽団、指揮はウィルへルム・シユヒター、合唱は東京放送合唱団•東京混声合唱団•二期会合唱団で、黛がオンド・マルトノを演奏した。同日の夜七時三十分からNHKホールで演奏され、テレビで放映された。 昭和二十七年に皇太子殿下が成人を迎えられたとき、三島は「最高の偽善者として——皇太子殿下への手紙」と題する公開書簡をおくっている。

殿下の結婚問題についても世間でとやかく云はれてゐるが、われわれには自由恋愛や自由結婚が流行してゐるのに、殿下にその御自由がないのは、王制の必要悪であって致し方がない。 王制はお伽噺の保存であるから、王子は姫君と結婚しなければお話が成立たないのだ。

(三島由紀夫「最高の偽善者として——皇太子殿下への手紙」)

昭和四十六年(一九七一)没後

二十九 森秋子の全裸の『サロメ』

三島の半生は、魅力的な女性で彩られていた。

『仮面の告白』に登場する園孑のモデルで、初恋の人•三谷邦子。『鏡子の家』の主宰者・湯浅あつ子、その妹の板谷諒子。秘めた恋の全貌が岩下尚史の『ヒタメン』で明らかにされた後藤貞子。旅行ジャーナリストとして大成した兼高かおる(ローズ)。鹿島建設の経営者の令嬢・鹿島三技子。川端康成の養女•政子。林房雄の二番目の妻の連れ子・京子。岸田國士の娘で女優の岸田今日子。三島の手紙をマスコミに公関した政治家の紀平悌子。三島との接吻や旅行の思い出を評伝で明らかにした実業家の松田妙子。三島の戯曲『燈台』に主演した女優の関弘子。松竹社長秘書の長島ひさ子、堂上華族の家柄で、レストランを経営した東久世壽々子。加賀百万石・前田侯爵家出身のエッセイスト酒井美意子。シャンソンの女王・越路吹雪……。

余り上手くない字を、ペン習字で猛練習して、すぐに臣三島由紀夫拝、などと書いたラブレターを、相手かまわずせっせと書きつづけていた。

この手のラブレターを、大手建設会社の令嬢、ミスM・K、そして代議士令嬢で、母がドイツ人のハーフ、ミスH • K (在アメリカ)に送り、さらに後には紀平悌子女史にまで名乗りをあげられ、選挙運動などと世間ではおっしやっていたようだが、あの彼の筆まめさから考えあわせれば、嘘とは思えない。 (湯浅あつ子『ロイと鏡子』)

独身時代の三島は、銀幕の高峰秀子を好ましく思った。秀子の方では、ブリリアントな才人が好きだった。昭和二十九年に二人の「希望対談」が実現する。

高峰:みんな自分で稼いだ。だから、今さら亭主に頼っちゃおうという気持はないわよ。誠実な人で、人間としてピカッとしたものを持っていればいいと思うね。

三島:僕は、ちよっと悪い奴が好きだな。そうでないと、退屈しちゃうよ。

高峰:でも、くたびれるわ。三島さんは、どんな人を選ぶの?奥さんに。

三島:僕なんか、姉さん女房で、何でも世話をやいてくれないと困る。年が必ずしも上でなくても、性格的にね。

高峰:私はよく世話をするわよ。献身的よ。好きな人と結婚したらね。いまの仕事だって、好きな夫が「やめなさい」って言えば、はい、と言ってやめちゃうな・・・。食っちゃえ。

(高峰さん、腕を伸ばして、三島先生のお膳に残されているほうれん草を食べる)

(三島由紀夫VS高峰秀子「映画•結婚を語る」)

秀子の積極的なアプローチには驚く。

「食っちゃえ」と三島の膳の上のほうれん草をとって食べるに至っては、“求愛”行動以外の何ものでもない。秀子の鋭い太刀筋に、三島は「合わせ面」を打つこともならず受け太刀一辺倒である。業を煮やした高峰は、三島を「あんた」呼ばわりする。「じゃあんたは、どうして結婚しないのよ」「必要がないもの」三島らしからぬ答である。これは大女優の迫力に気押されただけでなく、すでに後藤貞子という理想の恋人を手に入れていたからに違いあるまい。

決して三島は、美女が嫌いではなかった。いや、むしろ佳人•麗人が好きだった。 「僕は不感症の女の人を直したことがあるんだよ」

『沈める滝』『音楽』の作者である三島は、編集者の小島千加子にこんな自慢をした。 「英子、僕は君が欲しい。僕のそばにいなさい」

『喜びの琴』をめぐる脱退騒動の際、三島は村松英子に告げた。この言葉は、劇作家.演出家が女優にかける言葉ではなく、男の情感がこめられているように思われる。『班女』『鹿鳴館』『朱雀家の滅亡』『サド侯爵夫人』『癩王のテラス」『薔薇と海賊』など、三島戯曲のヒロインを、英子は次々と演じた。

そして森秋子は、三島が生涯の最後に選んだ女性である

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