『中国・誘拐から26年後に見つかった息子の悲劇 高等裁判所の親子関係鑑定ミスが狂わせた家族の運命』(7/20日経ビジネスオンライン 北村豊)について

7/21看中国<与中餐馆员工吵架 美国四星上将被关入监狱(组图)=中華レストラン店員と喧嘩した米国4星の上将は監獄入り>2015年8月、ジョージア州アトランタに住む退役将軍が中華レストランの出前を頼み、持って来た店員がクレジットや小切手による支払を拒んだため、喧嘩になり、店員がやっつけられ、その場にいた残り2人と将軍で金も払わず食べてしまった。80$のことであるが。店員は帰って店に事情を話し、警察を向かわせ、将軍は逮捕。手錠を拒絶した。3日間監獄にいて保釈された。保釈金は1万2千$であった。米国では身分の如何に関わらず、法の下では平等である。

まあ、中国大陸しか知らない人には信じられないでしょうけど。総て賄賂で片づけられるし、冤罪、逮捕状なしの拘留も当たり前の国ですから。如何に法整備しようと運用がまるきしできていない国です。長い歴史の上でそうなっているので仕方がありません。法の精神なんて理解しようがない。人治の国ですから。

ワシントン・タイムズの記事

https://www.secretchina.com/news/gb/2018/07/21/865237.html

7/20希望之声<FBI局长语出惊人:中共倾举国之力对付美国 玉米种子也要=FBI長官の話には吃驚した 中共は国を挙げて米国に対処 とうもろこしの種まで>クリストファー・レイFBI長官は7/19アスペン安全論壇で「中国は国を挙げて米国に対抗しようとしている。伝統的なスパイだけでなく、産業スパイもいて、人力やネットを使って我々の情報を収集している。統計に依れば、中共の経済スパイはアイオワのトウモロコシの種子からマサチュ―セッツ州の風力発電機までに及ぶ。50州全部にいる」と述べた。

今年2月にレイ長官は上院で「中共は人海戦術で、教育界や科学研究機関に人を潜り込ませ、情報収集している。あらゆる分野においてである。米国人の善良さに付け込み、学界等も中国に彼らが欲する資料を出していた。これは政府だけでなく社会全体に対する脅威であり、成り行き任せにして、対応しないことはできない」とも述べた。学生の間にはスパイは大した影響はないが、卒業して米国の会社に入ってからである。FBIは今中国が支持している交流団体を調査している」とも。

中国のスパイ活動を防ぐには①中国企業のIT設備と技術を使わないこと②IT製品を中国に持ち込まないこと。ホテルでデータを盗み取られる。使い捨てのスマホにすべき③中国人には注意。帰化米国人と雖もスパイの可能性。

当り前のことをキチンと米国はできるのに日本の学界、官界、経済界とも揃いに揃って危機意識を持っていません。何時も言っていますが、反日国家からの留学生の受入は止めるべきです。それと教授選考にも問題があります。反日の授業をやられたらおかしな学生が一杯できます。国民の税金が私大と雖も補助金として入っているのでお帰り頂いた方が良いでしょう。また帰化中国人もスパイしていないかどうか厳密に調査すべきです。先ず、スパイ防止法を成立させませんと。

https://www.soundofhope.org/gb/2018/07/20/n1989621.html

北村氏の記事を読むと、中国の官憲のいい加減さが分かろうと言うもの。且つ損害補償が極端に少ないです。慰謝料が5万元とは。人の命は虫けら同様と思っている共産主義国ですから仕方がないのかもしれませんが。中国駐在時に社員(部長待遇)の交通死亡事故(会社の車で北京から大連に帰る途中)で、遺族との補償交渉をした経験があります。300万元を要求し、10日間の団体交渉で、退職金も含め50万元で手を打った記憶があります。まあ、外資という事だし、何でもイチャモンをつける連中ですから、中国進出している企業の駐在員は覚悟が必要です。

記事

可愛い息子を授かり、一家は明るい未来を歩むはずだった(写真はイメージ)。

今年52歳の“朱暁娟(しゅぎょうえん)”の人生は、1992年の事件を境として、前半の26年間と後半の26年間で明暗を分けることになった。彼女は1966年に重慶市(当時は四川省重慶市)で最大の繁華街“解放碑”に生まれ育った。前半26年間は順風満帆で何の憂いもなかった。“重慶医科大学”を卒業した朱暁娟は、儲かっている国有企業の医院で看護士になった。その後、知り合った軍の将校“程小平”と結婚した朱暁娟は、解放碑に所在する“重慶警備区”の家族宿舎へ入居し、2人の間には男の子が誕生した。可愛い息子を得て、朱暁娟は最愛の夫と共に歩む明るい未来を夢見ていた。

ところが、後半の26年間で朱暁娟の人生は絶えず運命に翻弄され続けたのだった。1992年6月3日、夫の程小平が近くにある“労務市場(労働市場)”から1人の“保母(家政婦)”を連れ帰った。程小平は頻繁に出張していたので、朱暁娟が1歳3カ月の息子“盼盼(はんはん)”を育てるのを手伝わせるために家政婦を雇ったのだった。身分証によれば、痩せて小柄な家政婦の名前は“羅選菊”、年齢は18歳で、実家の住所は四川省“忠県”(現在は重慶市忠県)であった。羅選菊は朱暁娟の家に住み込みで家政婦として働くことになった。

羅選菊が住み込みで働き始めて7日目の6月10日、羅選菊が早朝8時頃に息子の盼盼を抱いて外出した。早朝に赤ん坊を抱いて出て行くのをいぶかしがった家族宿舎の守衛が、どこへ行くのかと羅選菊に声を掛けたところ、羅選菊は野菜を買いに行くと答えたというが、それを最後に羅選菊と盼盼の行方はようとして知れなかった。

大事な息子を羅選菊に連れ去られたことは、程小平と朱暁娟の夫婦にとって衝撃の出来事だった。程小平が得体の知れない家政婦を連れて来たから、こんな不幸な出来事が出来(しゅったい)したのだと、朱暁娟は程小平をどれほど責めたか分からないが、責めたところで連れ去られた盼盼は戻ってこない。悲しみに打ちひしがれた夫婦は盼盼を何としても探しだそうと決意した。

程小平・朱暁娟夫婦が最初にしたことは、羅選菊の身分証に記載されていた住所である四川省忠県へ赴き、彼女の実家を捜し出すことだった。やっとの思いで実家を探し当て、家族に羅選菊の消息を尋ねると、彼女は数年前に故郷を離れ、山東省の“寧津県”へ行ったという。そこで、朱暁娟夫婦は急いで山東省寧津県へ向かって羅選菊の居場所を訪ねたが、眼前に現れた羅選菊はあの息子を連れ去った家政婦とは似ても似つかない人物だった。この時、朱暁娟は、「あの家政婦は最初から私たち夫婦を騙すつもりで身分を偽って家に入ったのだ」とようやく気付いたのだった。その時から、朱暁娟夫婦の息子探しの旅が始まった。

それから3年間、程小平・朱暁娟夫婦は息子を探して各地を転々とした。夫婦は仕事を放り出して子探しに専念した。誘拐された子供の大多数は農村や山岳地帯へ送られると聞いたので、朱暁娟は全国各地の“農村報(農村新聞)”に“尋人啓事(尋ね人)”広告を何度も出した。こうして時々入ってくる情報を手掛かりに各地へ赴くが、何の成果も得られなかった。

経済的、精神的ダメージに苦しむ日々

そうした際に使った息子探しのビラやポスターをどれほど印刷したことか。3年間に朱暁娟が訪れた地は、広東省、湖南省、福建省、雲南省、貴州省などで、中国の半分を回ったことになる。3年間で夫婦は20万元(約340万円)を費やした。当時、四川省重慶市の市街区における住宅価格は1平方メートル当たり1000元(約1万7000円)であったから、元々手厚い待遇を受けていた都市家庭が、親類縁者や友人の支援を頼るまでに落ちぶれた。

経済的な損失よりも精神的な圧力の方がもっと大きかった。朱暁娟はその3年間は良く眠れず、精神が衰弱し、子供の泣き声を聞くと、すぐに息子を思い出し、「盼盼はお腹を空かしていないだろうか、誰かにいじめられていないだろうか」と涙に暮れるのだった。そして、悲しくてやりきれなくなると、盼盼が連れ去られる3日前に軍宣伝部のカメラマンがカメラの試写で撮影した盼盼の写真を取り出して、盼盼に早く戻ってくるようにと呼びかけるのだった。

1995年の冬、程小平・朱暁娟夫婦は3万元を借りて、“殷墟”で名高い河南省の“安陽市”で息子探しを行ったが成果は何も得られなかった。ところが、地元の公安局の警官から耳寄りな話を聞いた。それは、安陽市からさほど遠くない“開封市”の管轄下にある“蘭考県”で誘拐された子供たちのグループが救出されたばかりなので、息子の写真を蘭考県へ送って地元の警察に調べてもらってはどうかというものだった。程小平・朱暁娟夫婦が盼盼の写真を蘭考県へ送るとすぐに蘭考県の警察から連絡があり、救出された子供の中に年恰好や容貌が盼盼に似ている子供がいるので、夫婦が蘭考県へ来て、子供と直接会って確認してみてはどうかと言ってきた。

程小平・朱暁娟夫婦は子供たちが収容されている“開封市児童医院”へ駆け付け、盼盼と似ているという子供と対面した。朱暁娟の記憶では、子供と会った時の感覚は余り似ていなかったが、程小平は盼盼が見付かったと興奮気味だったので、夫婦で相談して親子関係鑑定を受けることにした。1990年代には、“公安(警察)”、検察院、“法院(裁判所)”は傘下に“法医鑑定機構”を持ち、対外的にも鑑定サービスを行っていた<注>。そこで、夫婦は地理的に最も近い省都の“鄭州市”にある“河南省高級人民法院(河南省高等裁判所)”に親子関係鑑定を依頼することにして、鑑定料の1500元を支払い、検査用の採血を行った上で重慶市へ戻った。

<注>中国では1990年代後期になって法医鑑定制度が改革され、検察院と裁判所傘下の法医鑑定機構が分離独立し、今日の第三者鑑定機構が設立された。一方、公安系列では依然として独立した法医鑑定機構を存続させている。

20日間が経過しても連絡がないので、朱暁娟から河南省高級人民法院へ電話を入れたところ、先方から「鑑定は85%終わったが、実験室が停電でまだ検査結果は出ていない」との回答があった。それから20日近い日数が経った頃、朱暁娟は河南省高級人民法院から送られて来た封筒を受領した。

朱暁娟が恐る恐る封筒を開けると、そこには『河南省高級人民法院 親子関係鑑定』という表題で、「河南省高級人民法院法医技術鑑定専用印」と書かれた印が押された鑑定書が入っていた。そこには、程小平・朱暁娟夫婦と誘拐された児童の血液サンプルに対して血液型とDNA遺伝子検査を行った結果、3者のDNA配列はメンデルの遺伝法則に符合するとの記述があり、1996年1月15日付で、河南省高級人民法院は、「誘拐された児童は程小平・朱暁娟と生物的親子関係を持つ」と鑑定の結論を下したと書かれていた。

こうして誘拐された子供は盼盼として程小平・朱暁娟夫婦の下へ引き取られた。盼盼が家に到着した当日は、盼盼の帰宅を祝う会が開催された。夫婦には盼盼が連れ去られた翌年の1993年に第二子の男の子が生まれていたから、彼らの家庭は急に4人家族となり、4年振りに夫婦に明るい笑顔が戻った。夫婦はようやく平穏な日々を取り戻し、今後は楽しい生活を送れると思ったのだった。しかし、夫婦は頻繁にケンカをするようになり、遂に2008年に離婚した。程小平は家を出て行き、朱暁娟は2人の息子と暮らし、その後再婚はしなかった。

平穏を破った1本の電話

盼盼が家に戻ってから22年の月日が経った2018年1月の或る日、朱暁娟は重慶市内にあるメディアの女性記者からの電話を受けた。先方は「何小平と名乗る人物から協力を要請された」と前置きして、何小平は26年前に家政婦をしていた時に、重慶市解放碑の家から男の子を連れ出したが、“尋親節目(親族探し番組)”を見て自責の念に駆られ、その時の子供を親元へ返したいと言っていると事情を説明した。その上で、女性記者は畳みかけるように、朱暁娟に対し「貴女は1992年に男の子を誘拐されませんでしたか」と問いかけた。電話を受けた時、朱暁娟は散歩から帰って来て、アパートのエレベーターの中にいたから、面倒臭さもあって、いささか怒った口調で、女性記者に「確かに子供が誘拐されたことはあったが、無事に救出されてからすでに20年以上になる」と答えて電話を切った。

しかし、女性記者は諦めることはなかった。彼女はSNS“微信(WeChat)”で朱暁娟宛に文章を書き込むと同時に、数枚の写真を送ってきた。その写真には20代後半の青年が写っていたが、仔細に見るとその顔つき、眉毛、大きな眼、低い鼻、丸顔など、どこをとっても自分と2番目の男の子と良く似ているではないか。この時、朱暁娟は、「この写真の青年は自分と関係がある、もしかすると我が子かもしれない。だとすると、今まで20年以上育てて来た盼盼は一体誰なのだろう」と考えた。

一方、何小平が上述した女性記者に語ったところは以下の通り。

(1)何小平の実家は四川省“南充市”で、1992年に重慶市で家政婦になる前に実家で相前後して子供2人を産んだが、2人共夭折していた。このため、死んだ子供たちの霊を慰めて、新たな子供を授かるには、地元の風習に従えば、どこかから子供を連れてくることが必要だった。そこで、南充市から200km以上離れていて人口が多い重慶市で子供を誘拐しようと計画した。

(2)1992年に21歳の何小平は故郷の南充市を離れて重慶市に到り、家政婦をしながら子供を盗み出す機会をうかがっていたところを、程小平に選ばれて住み込みの家政婦になることができた。羅選菊の身分証は子供を盗むために事前に入手したものだった。住み込み7日目に盗み出した1歳過ぎの赤ん坊は、速やかに南充市の実家へ連れて行き亡くなった子供たちの霊を慰めた。また、その子供には“劉金心”と名付けて我が子として育てた。それから4年目の1996年(それは奇しくも、程小平・朱暁娟夫婦が誘拐された子どもを盼盼として引き取った年でもあった)に何小平は女児を出産し、重慶市から連れて来た劉金心の役目は終わったのだった。

(3)何小平は役目を終えた劉金心をすぐにでも程小平・朱暁娟夫婦の下へ送り返そうと考えていたが、もしも犯人が自分だと知られれば、牢獄につながれる恐れがあると逡巡し、実行に移せぬまま20年以上の歳月を過ごしてしまっていた。しかし、最近テレビで放映された親族探し番組を見て、良心の呵責に耐え兼ねたのと、彼女自身で20年の刑事訴訟期限が過ぎたと判断して、劉金心を産みの親に返すべく、メディアに協力を依頼した。

朱暁娟は女性記者と連絡を取ると同時に、“重慶市公安局”に事件を通報した。この結果、何小平は児童誘拐の容疑で“南充市公安局”によって住居監視に置かれた。2018年1月15日に重慶市公安局の“物証鑑定中心(センター)”で、朱暁娟と劉金心の採血が行われ、1月26日に劉金心と朱暁娟の間に遺伝的関係のあることが確認された。一方、1月22日に朱暁娟が20年以上にわたって盼盼として育ててきた息子の親子鑑定が行われ、同物証鑑定中心は、朱暁娟と息子の間に親子関係は存在しないという結論を出した。

劉金心が本当の盼盼であり、20年以上も我が子を信じて育んできた盼盼は偽物だった。これは朱暁娟にとって正に青天の霹靂であり、頭の中が真っ白になった。2月6日、朱暁娟は重慶市公安局“渝中分局”の会議室で劉金心と初めて会った。この会見に立ち合った警察官は、母と息子があまりにも瓜二つで、1つの金型から作り出したようだと驚きを隠せなかった。

息子が語った過去20年の軌跡

劉金心はメディアの記者に対して、過去20年間の軌跡を訥々と語ったが、その概要は以下の通り。

(1)何小平は盼盼を抱いて南充市の実家に戻った後、彼に劉金心と名付けた上で親戚の家に預け、自分は長期間出稼ぎに行った。劉金心は物心つく頃から誰にも構ってもらえず、栄養も足りなければ、教育もろくに受けさせてもらえず、中学校すら卒業しないまま中途退学させられた。2017年3月、恋人と結婚するための“彩礼銭(結納金)”10万元(約170万円)が手当てできず、劉金心は初めての失恋を経験した。それから酒に浸るようになり、酔っぱらっては転んで負傷するのを繰り返し、飲んでは胃から出血した。

(2)今回、朱暁娟と面談する直前に、劉金心は広東省“広州市”の仕事を辞めたばかりだった。過去十数年にわたって劉金心は各地を転々として出稼ぎして回り、いつも一カ所の勤務先に数カ月も居つかず、衣食のあてがない有様だった。親子鑑定の結果が出る当日も、劉金心は“白酒(アルコール度の高い蒸留酒)”を1瓶買い、全部飲み干して自分を酔わせたのだった。

劉金心は自分が朱暁娟の実の息子であることが判明してからも、依然として南充市に居住し、時折重慶市へ来て実の母である朱暁娟を訪れるのだが、未だに朱暁娟を母と認めるところまで気持ちの整理がつかず、2人が正常な母子関係になるにはまだまだ時間が必要と思われる。

ところで、程小平・朱暁娟夫婦が偽の盼盼を実の息子として引き取ったのは、親子鑑定を依頼した河南省高級人民法院の鑑定結果によるものであった。本物の盼盼が出現し、親子関係が確認されたことがメディアによって報じられると、河南省高級人民法院による鑑定ミスが世論の注目を浴びることになった。2018年3月、河南省高級人民法院は3人の係官を重慶市へ派遣して、朱暁娟に対して遺憾の意を表し、特別調査チームを結成して当時の鑑定状況を精査した上で結果を報告することを約束した。

わずか5万元の精神的慰謝料

それから3カ月後の6月12日、河南省高級人民法院は再び係官を重慶市へ派遣して朱暁娟に接触し、同法院が精神的慰謝料として約5万元(約85万円)を支払うことは可能であると伝えたのだった。メディアの記者が同法院の係官に聴取したところでは、1996年に行われた親子関係鑑定には法規違反は存在せず、異なる結果が出たのは「技術的な問題」であった可能性が高いということだった。

しかし、朱暁娟が当該係官から言われたのは、「他人の子供を育てるのも“養(育てる)”であり、自分の子供を育てるのも“養”である。現在すでに20年以上も育てたのであれば、他人の子供でも自分の子供と同じことで、“養老送終(死ぬまで老後の面倒を見てもらう)”ことは可能ではないか」という言葉であった。朱暁娟はその言葉の中に誠意の欠片も無ければ、謝罪の気持ちも全く感じられなかったと述べている。

1996年に河南省高級人民法院が行った親子関係鑑定にミスがあったために、赤の他人が偽の盼盼となって程小平・朱暁娟夫婦に引き取られた。この結果、夫婦の息子探しは打ち切られ、本物の盼盼は誘拐した何小平の下で不幸な人生を送り、中学卒業の学歴すら持たないために、各地を転々とする出稼ぎ生活を余儀なくされている。鑑定ミスが本物の盼盼と偽物の盼盼、さらには程小平・朱暁娟夫婦の人生を大きく狂わせた。その結果がわずか5万元の精神的慰謝料とは、余りにも人を馬鹿にした話であり、さらに係官が投げた言葉は肉親の絆を否定するものだった。

現在、朱暁娟は親子関係鑑定でミスを犯した河南省高級人民法院を“民事侵権(民事権益侵犯)”で上級裁判所である“最高人民法院(最高裁判所)”へ訴えようと考えている。それがどんなに困難なものであり、長い時間を要するとも、河南省高級人民法院を訴えることで、息子の劉金心に過去を忘れて、立ち上がって欲しいと朱暁娟は考えている。いつまでも自分を被害者だと考えずに、新たな未来を目指して欲しいと、朱暁娟は劉金心に会うたびに話をしているというが、本当にままならないのが人生である。

ところで、同じくこの事件の被害者である偽の盼盼はどうなったのか。メディアは彼が身長182センチの青年に成長し、専門学校を卒業してプロのカメラマンを目指していると報じている。なお、最新の情報によれば、朱暁娟が上海市にいる父親の程小平に協力を要請したことにより、劉金心は上海市で心機一転新たな職場を探しているという説もある。

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