1/13奥山真司氏メルマガ【アメリカ通信】「私はシャルリー・エブドではない」より

地政学者で国際政治をリアリズムに基づいて見る奥山氏のメルマガが送られて来ましたので紹介したいと思います。今回のフランスで起きたテロ事件の論評ですが、小生が言ってきたことと同様、「表現の自由」にも節度があるということです。NYタイムズは大西哲光、田淵広子(在日と噂されていますが)両記者のようにリベラルを装って日本のデイスカウントをやる偏った記事をレポートするのが多いですが、ディヴィッド・ブルックスは違うようです。

テロを賞賛する人はいないと思います。ボコハラムのように少女を拉致誘拐し自爆テロさせる、またはレイプして性奴隷とすることは神も許さないと思います。イスラム教をわざと曲解した単なるテロリストでしょう。一般の敬虔なイスラム教徒とは区別して考えるべきです。他者の信仰する神や預言者を冒涜するのは許されません。フランスで300万人のデモがあったと言いますが本記事のようにテロのことだけでなく他者の痛みにも斟酌する人が現れてほしかったと思います。この件ではアメリカの方がバランスが取れています。小生の言ったように「ヘイトスピーチ」扱いにしますので。

記事

おくやまです。

NYタイムズ紙の保守派、ディヴィッド・ブルックスが、今回の一連のフランスのテロ事件についてかなりまともなことを書いておりましたので、その記事の要約を。

この記事は、今夜の生放送でもとりあげます。(http://live.nicovideo.jp/gate/lv205842882)

一般的な日本人の感覚として、「他の宗教の開祖を馬鹿にするのはやっぱまずいようねぇ」という感覚があるわけですから、どうも300万人以上でデモする感覚というのは理解しがたいのかと。ただし「発言の自由」というのも彼らが長年血を流して獲得してきた、ある一面では自分たちの宗教よりも大切な「世俗的な宗教」の原則(クリード)ですから、見方によれば両方とも思想・イデオロギーの対立という意味では一緒かと。

向こうの知識人は一様に否定してますが、ここではやはり「文明の衝突」という要因が大きいですね。

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「私はシャルリー・エブドではない」   by ディヴィッド・ブルックス

  • シャルリー・エブド誌のジャーナリストたちは言論の自由の「殉教者」として祝福されるべき存在であることは間違いない。だが、この事実だけは言っておくべきだ。
  • もし彼らが過去20年間においてあのような風刺的な新聞をアメリカの大学のキャンパスで出版しようとしたら、即刻出版禁止であろう。学生や教官たちも、彼らをヘイトスピーチだとして非難するはずだ。大学は彼らの予算をカットして閉鎖に追い込むことになる。
  • パリでの事件にたいする大衆の反応を見てみると、多くの人々がフランスのイスラム系テロリストたちの考えを攻撃した人々のことを不相応に特別扱いして賞賛しているが、その彼らも自分たちの考えに攻撃してくるような発言をする人々にたいしては非寛容だといえる。
  • その一例が、ごく小さな規模で行われている大学のキャンパスでの攻撃にたいする反応だ。
  • たとえばイリノイ大学はローマ・カソリックのホモセクシャルについての見解を教えた教授を解雇している。カンザス大学は全米ライフル協会にたいしてツイッターに厳しい意見を書いた教授を停職にしている。ヴァンダービルト大学は「キリスト教徒がリーダーになるべきだ」と主張したキリスト教団体を不認可にしている。
  • アメリカは預言者モハンマドを馬鹿にした漫画を掲載したシャリル・エブド誌を勇気があるとして賞賛するかもしれないが、元イスラム教徒で無神論者のアヤーン・ヒルシ・アリのスピーチを拒否することが多い。
  • よって、今回の一件は教訓を得るチャンスかもしれない。パリで殺害された漫画家や編集者たちによってわれわれはショックを受けたが、同時にわれわれは、アメリカ国内の議論を呼ぶ人物や扇動家、そして風刺家たちへの対処の仕方について、もっと非偽善的なアプローチを考えるべきであろう。
  • まず最初に言うべきことは、われわれのほとんどが「私はシャルリー・エブドだ」と主張するのは誤りであるということだ。そもそもわれわれのほとんどは、あの雑誌が得意としていたような意図的に不快感を生むような類のユーモアを楽しむような人間ではない。
  • もちろんわれわれが13歳であったら、「ブルジョアを倒せ」といいながら権威に立ち向かって、他人の宗教的信条を馬鹿にすることは「大胆不敵だ」として賞賛されるかもしれない。
  • ところが年をとると、それは幼稚なことに思えてくる。われわれのほとんどは、現実がより複雑なものであるという見方をするようになるし、他者を許せるようになってくるものだ(とくに自分自身の馬鹿さ加減に気づくようになると、人を馬鹿にすることはそれほど楽しいものではなくなる)。
  • われわれは他者が信じている信仰や考えにはささやかな尊敬をしようと努力するようになるものであるし、それを侮辱するよりも相手の言うことを聞いてみようとするものだ。
  • ところが同時にわれわれのほとんどは、扇動者や目立った風変わりな人物が、実に有益な公的な役割を果たすことも知っている。
  • 風刺家や嘲笑家たちはわれわれが誇りを感じているときにもわれわれの弱さやうぬぼれを暴き出すものだ。彼らは成功者の慢心に釘を刺すのである。彼らは最底辺を持ち込むことによって、社会の不平等の凸凹をならしてくれるのだ。
  • うまく効果を発揮すれば、笑いはわれわれの共同体的な短所の問題を解決してくれることになる。笑いというのはわれわれが連帯感を感じることができる究極の経験だからだ。
  • さらにいえば、扇動家や嘲笑家たちは、原理主義者たちのバカらしさを暴くものだ。原理主義者というのはすべてを文字通りに受け取る人々のことであるが、多面的なものごとの見方をできない。彼らは自分たちの宗教が最も崇高だと考えつつも、ほとんどの宗教が一種奇妙なものであるということを理解できないのだ。
  • 嘲笑家たちは、自分たちのことを笑えないような人々の存在を暴き、その周囲のわれわれにたいしてそれを笑うべきものであると教えるのだ。
  • 端的にいって、扇動家や嘲笑家たちのことを念頭に考えると、われわれは最低限の礼節やリスペクトというものを維持したい。ところが、同時に良いマナーや嗜好というものに左右されない、クリエイティブで挑発的な人間たちが活動する場というものものつくっておきたい。
  • このような微妙なバランスを法律や放送コード、それに出演禁止などで崩そうとすると、それは結局あからさまな検閲や、何も言えないような空気を生むことになるだけだ。スピーチを規制したり、演説の内容を規定したり、演者を拒否したりするのは、常に誤りである。
  • 幸運なことに、社会マナーというのは法律や規定などよりははるかに柔軟なものであり、ほとんどの国は礼節や尊敬についての基準をうまく維持しつつ、面白くて下品で挑発的な人間が発言できる場を与えているものだ。
  • ほとんどの国の社会では、大人のテーブルと子供のテーブルがわけられている。ル・モンドのようなエスタブリッシュメントの新聞などを読む人は大人のテーブル、道化師や芸人、それにアン・クールターやビル・マーのような人々は子供のテーブルだ。
  • 彼らは完全な尊敬を勝ち得るわけではないが、それでも彼らの無鉄砲な姿勢からその発言を聞いてもらえるのだ。彼らは時として、誰も言わないが言う必要があることを言うのだ。
  • いいかえれば、健全な社会というのは、発言を抑制せずに、様々な人に様々なことを言わせることができる社会のことだ。
  • 懸命で思いやりのある学者は高い尊敬と共にその発言を聞き入れられる。嘲笑家たちは困惑したような半分の尊敬によってその発言を聞かれる。そしてレイシストや反ユダヤ主義の人間たちは、非難や憎悪というフィルターを通して聞かれることになる。
  • このようなフィルターがいやな人間は、彼ら自身の行為をあらためる必要があるのだ。
  • シャルリー・エブド社での虐殺事件は、スピーチの規制を終わらせるチャンスとしなければならない。そしてこの事件は、われわれに法律的には攻撃的な声には寛容ながら、社会的にはそれを許さないような姿勢が大切であることを思い起こさせるべきなのだ。