『長すぎる晩年に倦む中国の40代 「スタバで足踏み」が生む中国の閉塞感』(8/18日経ビジネスオンライン 山田泰司)について

山田氏の記事はマクロの数字で見た中国ではなく、庶民の生活ぶりが良く分かる記事です。小生が98年・中国駐在時代、現地スタッフから聞いた話では「海南島は凄く怖い所、腕時計をしていると後ろから来たバイクに腕を切り落とされる」という事でした。元々流刑の地でしたので。英国のオーストラリアみたいなものです。それでも旧正月に家内と海南島の三亜に旅行に行き、天涯海角を観光、拙い中国語で会話したのは良い思い出です。

中国人は人口が多いため競争が激しいと思います。だから人生の目的・楽しみも考えず、拝金教に染まっていくのでしょう。「圧力很大」と言うのは皆感じているのでは。小生の駐在時代に農業人口の割合は8割あったのが今は5割程度に下がっているようです。勿論都市に住む「農民工」は農業人口にカウントしません。人口13億人の3割=3.9億人が都会に増えて暮らすようになったという事です。元々の農民は学がある訳でなく、大した仕事に就ける訳ではありませんが、自分の子供の教育には熱心です。一人っ子政策が長く続いたせいもあります。3.9億人全部が競争相手ではないとしても、日本の人口くらいがライバルとして新たに増えたと考えれば分かり易いでしょう。

http://j.people.com.cn/94476/8114741.html

中国経済が大きく発展したのは、借金を重ねてきたからです。米国・日本が資金援助し、技術支援までしてきました。中国の世界制覇の野心が見えるにつれ、日米とも資金・技術支援を止めるでしょうから、今までのように借金できなくなります。いずれ経済が破綻し、生活自体が大きく揺さぶられるようになります。その時には「很无聊」などとは言っていられなくなります。

翻って日本の経営者に望みたいのは、非正規を止め、正規労働者を増やして、若者がキチンと結婚できるように環境整備してほしいという事です。小泉・竹中路線は日本の弱体化を招き、経営者の精神をも蝕みました。戦後日本の縮図のように経営者も「自分だけが儲かればよい」というのは止めてほしい。もっと大きく日本と言う国のことを考えてほしいと願っています。

記事

tea house in Hainan

茶館でお茶を楽しむ人々

先日、中国最南端の海南島で、流刑者の末裔(まつえい)だという人に出会った。当人は20代の女性で生まれも育ちもこの島だが、父方は福建省の役人の家系。それが、「ひいおじいさんのさらにその前の誰かが何かをしでかして」海南島への島流しに遭ったのだという。

流刑者の末裔がいることの意味するもの

南シナ海問題で揺れる南沙諸島、西沙諸島は中国の行政区では海南省に属する。西沙諸島は海南島から約300キロメートル、南沙諸島は約1000キロメートル、それぞれ南に下ったところにある。省の名前の由来にもなっている海南島は、一般的に中国の最南端と呼ばれるのだが、海南省の中では最北端に位置するというわけだ。さらに近年では、「中国のハワイ」と呼ばれる中国でも有数のビーチリゾートとして有名で、全国から観光客が詰めかける。ただ、歴史の大半は、周囲から隔絶された最果ての島として存在し、古来、流刑地の代名詞でもあった。

海南島に島流しされた彼女のご先祖様はその後、マンゴーなどを栽培して生計を立てていた現地の農家の娘と結婚して海南島に居着き、それが彼女にまで至った。1年を通じて温暖で放っておいても果物が豊富に採れるなど食べるものにさほど困らず、贅沢をしなければかつかつ生きていけるということもあっただろうが、交通手段が発達していない時代が長く続いた中、四周を海に囲まれた最果ての地を抜け出すのは容易でなく、海南島に根を張るしか選択肢がなかったということもあるのだろう。

こうした歴史的、地理的背景があるせいか、海南島には今でも、中国の他の土地ではとっくに無くなったり廃れてしまったりしたものや、海南島独自の文化や習慣が結構残っている。実際に訪れてみて、特に他の土地との違いを感じたのは、茶館でお茶を楽しむ習慣が庶民の生活の一部として組み込まれていること、ひいてはこの土地を流れる時間のスピードが極めて緩やかだということだ。

茶館でお茶を楽しむ習慣は海南島以外の土地にも残ってはいる。ただ、宮殿や貴族の屋敷など中国古来の伝統建築を模した華美な建物がほとんどであり、茶器や家具にもこだわっている。お茶の値段も1人あたり100元、200元(1500~3000円)というのがザラ。少し財布のひもを緩めて、非日常を味わいに行くところという位置付けだ。

これに対して海南島の茶館は、華美な装飾は一切無い。学校の教室のようながらんとした空間に、テーブルと椅子がただ並べられているだけ。そこに、近所に住むおじさん、おばさんが普段着にサンダル履きという日常をべったり引きずった格好で三々五々集まってきて、お茶を飲み、メロンパンならぬパイナップルパンなど甘いおやつをつまみながら井戸端会議に興じるというのが海南島のスタイルだ。

茶館で人生を学ぶ海南島の子供たち

調べてみると、海南島の茶館でお茶を楽しむ習慣は「老爸茶」、すなわち、「お父さんのお茶」と呼ぶのだそうで、海南島の子供たちは、夕食後や休日、父に連れられて近所の茶館にやって来て食後のお茶やデザートを楽しんで育つとのこと。また、そうして育った男の子たちも、自分が親になると父親の務めとして、子供や妻を茶館に連れて行くのだという。海南島の子供たちは、いわば父の「行きつけの店」の茶館で父親像や夫像を学び、父や母の姿を通じて近所付き合いを覚え、自分が親になれば今度は自分の行きつけの茶館を持って、子供に人生を教えていく、というわけだ。ポット1本にたっぷり入った濃く煮出してコクのあるおいしい紅茶が3元(約45円)という、感激するほど安い価格設定も、庶民の日常の一部に茶館をとどめることができる1つの要因だと思う。

海南島の茶館がすっかり気に入ってしまった私は、滞在中、時間を見つけては通った。そして、頼んだ紅茶を飲みながら、行きつけの店がある大人にあこがれた自分の子供のころのこと、そして、行きつけの店にあまりにも早くたどり着いてしまった上海の今の30代、40代の不幸について思いを馳せた。

もうかれこれ40年も前のことになるが、私は小学生のころ、「行きつけの店を持てるような大人になる」という夢を持っていた。黙って席に着くだけで好みの酒と肴がスッと出てくるような、そして、少しだけ高級な店。なんと子供らしくない夢か、と呆れられるかもしれない。実際、「行きつけの店」などという言葉を小学生の自分がどこで覚えたのかについては、確たる記憶がない。父親の買ってくる週刊誌にそのようなコーナーがあったか、あるいは鶴田浩二あたりが主演のドラマの中で仕事帰りに通う行きつけの店があったのか、大方そんなところだと思う。

ともあれ、「行きつけの店」という言葉には、大人の響き、それも成熟した大人の響きがあった。ドラマや週刊誌に出てくる行きつけの店を持つ大人がいずれも50がらみの男性だったこともあるだろうし、だからこそ、行きつけの店を作るにはそれなりの時間とカネがかかるらしい、というのを、子供心になんとなく分かっていたのではないだろうか。

その後、行きつけの店を持てるような大人になるという夢のことについて、私はすっかり忘れていた。それが、上海で最初に入った会社で同僚になった上海人の女性が、それを思い出させてくれたのだった。

行きつけの店までの道のり

彼女は上海のエリート校である交通大学を卒業し、国営雑誌社の広告部に就職したばかりの社会人1年生で、基本給は900元(約1万3500円)だと言っていた。週末などに時折、私たちは会っておしゃべりをしたのだが、彼女が指定するのはいつも、私の自宅近くにある喫茶店兼食堂のような店で、私が払うか彼女が払うかにかかわらず、彼女が頼む飲み物は決まって、中ジョッキになみなみと注がれてくる1杯わずか1元(15円)の豆乳だった。ごちそうするから、たまにはスターバックスでも行かないかと水を向けてみても、「2人で50元、60元(750~900円)もするんでしょ、もったいないよ」と言い、満足そうに豆乳をガブ飲みしていた。これが今から15年前、2001年のことだ。

1年で私も彼女も前後してその会社を辞めることになり、それを機に疎遠になったのだが、3年後の2005年、久しぶりに会おうということになった。彼女が待ち合わせに指定してきたのは豆乳屋ではなく、3年前に彼女が「もったいない」と言ったスターバックスだった。もっとも、豆乳屋は再開発にかかって取り壊されてしまっていたのだが。

スタバのテラス席に腰を降ろした彼女は、「この近くにオフィスがあるのよ。このスタバは、打ち合わせによく利用する『我常去的珈琲廰』だっていうワケ」と言った。我常去的珈琲廰、すなわち「行きつけのカフェ」だというわけだ。そして、アイスカフェラテの御代合わせて50元(約750円)也は、彼女が払ってくれた。外資系の広告代理店に転職し、収入はこの3年で8倍になったそうだから、その時の彼女にとっては分相応の支出だったことだろう。

ただ、わずか3年で彼女の収入が8倍になり、頼む飲み物の値段が25倍になったということ、そして「行きつけの」という言葉を聞いて、私は考え込んでしまった。それは、小学生の私が行きつけの店を持つことにあこがれていたのを思い出したこと、そして「行きつけの店」という言葉の持つ意味合い、さらに、彼女のこの先の人生の長さについてである。

この時、私は40がらみの男になっていたが、子供のころに描いたような行きつけの店は、残念ながら持ち合わせていなかった。収入は社会に出て15年で2倍になっていた。1文字いくらのノンフィクションライターのこと、同年代のサラリーマンが聞けば鼻で笑うような金額に過ぎないが、自分の能力を考えれば、15年で倍というのは、まあ妥当な線ではないかと思えたし、このままのペースで行けば、行きつけの店に出入りする大人として小学生の自分が思い描いていた50がらみになれば夢が叶うのではないかと思い、その日が来るのが楽しみでもあった。

翻って、20代半ばにして、行きつけの店にたどり着いてしまった彼女のこの先の人生の長さを思って、私は苦しくなった。もちろん、彼女にとっては「たかがスタバ」なのだろうし、スタバが終着駅というわけでもないだろう。ただ、1元の豆乳から25元のスタバにわずか3年でたどり着いてしまうという、中国の大都市の猛スピードに慣れてしまった彼女にとって、スタバがペニンシュラやリッツ・カールトンのアフタヌーンティーになったところで、それほどの感激も達成感も感じられないに違いない。30代、40代、50代と、彼女は長い晩年を過ごすようなものだ。

大都市のスピードと達成感のなさの関係

それから10年。海南島の茶館に座る私は、50がらみの男になった。10年前より家族に対する支出が増えたために可処分所得が減ったこともあり、行きつけの店を持てるには至っていない。小学生のころに描いた夢は、スケジュール通りには叶わなかった。ただ、まあ、夢なんてもし叶えば儲けものだぐらいに思えるのは、成長に相応の時間をかけることができた時代に生まれたおかげだと思う。

そして、今年38歳になるはずの彼女のフェイスブックを開いてみた。壁紙には、ビーチの見えるカフェのテラスに座る日焼けした彼女が写っていた。休暇で訪れたロサンゼルスでの1コマなのだという。書き込みには「很無聊」(とても退屈)、「圧力很大」(ものすごいストレスだ)の文字がやたらに目立った。

思い立って、彼女と同世代の上海人男性のページも開いてみた。壁紙は、木陰にあるテーブルで、浮かない顔をしてビールグラスを傾ける彼の写真だった。ホーチミンに近いビーチリゾートで撮ったものだという。彼のページも、あちこちに遊びに行った際のスナップが溢れかえっているのとは対照的に、書き込みは「退屈」「ストレス」のオンパレードだった。

中国の大都会ではこの4~5年で、彼や彼女のように浮かない顔をして生きている30代、40代が増えた。あっという間に行きつけの店に到達してしまい、長い余生に倦んでいる現代中国人の姿がそこにはある。

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