佐藤優『修羅場の極意』を読んで

佐藤優の本で思い出すのは「アメリカの情報将校が言った言葉“秘密情報の98%は公開情報から得られる”」というフレーズです。ですからいろんな情報をネットから取るだけでも、外国の公開情報を集めなくても、ある程度の動きが掴めると思います。日本のマスメデイアは偏向しているので、これだけだと偏った見方が刷り込まれます。バランスを取るうえでネットは大事です。情報弱者にならないためにも。こういう不断のチエックが選挙の時の判断に役立つと考えます。

さて、本の内容ですが、確かにプーチンは裏切り者は許さないでしょう。でもだからと言って利用しないことはないでしょう。中国同様いろいろと聞いたと思います。

4/30「西村眞悟の時事通信 安倍総理、よく健闘されたなあ」の中から抜粋します。 

http://www.n-shingo.com/jiji/

【ナポレオンが言った言葉を思い起こさせたであろう。  「余は、優柔不断の味方よりも、果敢な敵を愛する」

マックス・ウェーバーが、戦後(第一次世界大戦)の心構えとして言ったことも書いておこう(「職業としての政治」)。

「男らしく峻厳な態度をとる者なら、戦後になって『責任者』を追及するなどという愚痴っぽいことはせず、敵に向かってこう言うであろう。

 『われわれは戦いに敗れ、君たちは勝った。さあ、決着はついた。』  ・・・これ以外の表現は総て品位を欠き、禍根を残す。」】

やはり名を残す人は違います。戦争と言うゲームに勝ったとしても敵の敢闘精神を讃える余裕と気位の高さは尊敬を集めるでしょう。どこかの国々のように逃げ回るか抵抗もしないで、敗戦国の敢闘精神を讃えることもなく、歴史の改竄・捏造に血道を上げているのは愚かなことです。

命を賭けても守るべき存在を昔の日本人は皆持っていました。靖国神社に掲載されている「遺書」を読めば分かります。昭和40年代くらいまででしょうか。三島が自決した後は、精神的頽廃が始まったのでしょう。

英語を日本語に替えて学ぶ愚かさに気づかない日本人が増えて来たという事でしょうか?白人が世界を支配してきた歴史を学べばそうはならないでしょう。キチンと日本史、世界史を学んだ上で英語を勉強し、批判の目を養えるようになればよいと思います。勿論、外国語を話すことができるのは楽しいことです。小生も英会話と中国語会話を習っています。外国旅行に便利ですから。それと日本人の立場を外国語で表現できたらとの思いで習っています

内容

P.100~102

インテリジェンス•オフィサーの職業的良心は、国家のためにすべてを捧げることだ。この観点で、インテリジェンス機関は、アナーキストに対して先天的な忌避反応を持っている。

「裏切り者は敵よリ悪い」というプーチンの信念

六月二十一日までに米司法当局はスノーデンを訴追した。同二十三日、スノーデンは香港を出発し、ロシアを経由して、中南米に向かおうとした。しかし、米政府が

同日、スノーデンの旅券(パスボート)を無効にしたため、同人はモスクワのシェレメーチエボ国際空港で乗り継ぎの飛行機の切符を購入できなくなった。有効な旅券を持たないので、ロシアに入国することもできない。六月二十三日以後、スノーデンはシェレメーチェボ空港の国際線トラ ンジット(通過)地区に滞在している。

もっともトランジット地区には一般利用者とは切り離された政府高官や外国要人のみが利用できる特別室がある。ここはマスメディアを完全に遮断することができる。このような場所にスノーデンは隔離されているのであろう。当然、FSBの完全な監視下に置かれている。米政府はスノーデンの引き渡しを要求したが、同二十五日、フィンランドのナーンタリで会見したロシアのプーチン大統領は、〈米国との間に犯罪者引き渡し条約がないなどと説明。 また、スノーデン容疑者が国境を越えておらず、査証(ビザ)を必要としないことから拘束もしないとの考えを示した。/さらに、「(容疑者を支援しているとの)ロシアに対するいかなる非難も常軌を逸しており、ばかげている」と述べ、米国をけん制した。 (六月二十六日、ロイター)。

ただし、プーチンはスノーデンにまったく好意を寄せていない。プーチンは、「元インテリジェンス・オフイサーは存在しない」という発言を好む。「インテリジェンス機関に勤務した者は、一生、この世界の掟に従うべきだ」というのがプーチン大統領の信念だ。「裏切り者は敵より悪い」というのがこの世界の掟だ。プーチンが勤務した旧KGB (ソ連国家保安委員会)の場合、敵陣営に逃げ込んだ裏切り者に対しては、非公開で行われる欠席裁判にかけられ、死刑が宣告された。

もっとも実際に殺し専門部隊が編成され、裏切り者を消す場合は、ごく一部に限られた (KGBも役所なので、予算と人員に限りがある。小物にまでかかわっている暇はなかった)。 それでも死刑判決を言い渡されたという事実は、逃亡した元インテリジェンス・オフイサーにとって心理的重圧になった。いつKGBの魔の手が迫ってくるかと怯えながら生活することになるからだ。また、このような厳しい対応は、KGB現役職員の裏切りに対する抑止要因になった。インテリジエンス機関に勤務した経験のある者は、生涯現役で、国家のために尽くすべきだというのがプーチンの倫理観だ。プーチンはKGB第一総局(SVRの前身)の工作員として東ドイツで勤務した経験がある。それだからインテリジエンスの掟の厳しさを皮膚感覚で知っている。

スノーデンはロシア国家に協力したスパイではなく、自ら手を挙げて米国のインテリジェンス機関に勤務しながら、国家に反逆した裏切り者だ。国家主義者であるプーチンは、「米政府が世界中の人々のプライパシーやインターネット上の自由、基本的な権利を極秘の調査で侵害することを良心が許さなかった」というような素朴な正義感を強調するインテリジェンス•オフイサーが存在してはならないと考えているのであろう。

P.122~125

絶対的価値感を持つ者は克服できる(内村剛介について)

外務官僚も、特捜検事も、内村氏がいう意味で、「人間的」なのである。そういえば、ソ連時代にソ連共産党官僚やKGB機関員がいかに「人間的」であるかを筆者は目の当たりにした。裏返して言うと、こういう「人間性」を克服するために、筆者は神に身を委ねることの重要性を再認識した。内村氏は、神を失った人間を結びつける鍵となる概念がロシア語の「ブラート」であると考えた。

〈「ブラトノイ」=またの名を「ヴォール」ともいう。この語は「ブラートの人」「結び合った人」「血盟の人」を意味する。

「ブラート」=コネ。有用な結びつき。おそらくイデイシ(ユダヤ人のことば)が起りである。十九世紀からオデッサで用いられはじめたが、その後「一般」のロシア語にも用いられるようになる。オデッサは古来ロシア犯罪人たちの故郷、犯罪人たちの首都でこの状態は二十世紀三〇年代の終りまでつづいた。この犯罪者たちの頭目に伝統的英雄が多々あり、それはしばしばユダヤ人であった。イデイシの「ブラート」が採りあげられるようになるのは自然な成りゆきであろう。

プラトノイがロシア全土にわたる組織を作ったのは一九一七年政変のはるか以前である。ブラトノイ同士の連帯は固く、彼らは他のブラトノイを文字通り命をかけて衛る。ブラトノイの間で紛争が起れば、トルコヴィシチエと称する裁判にかけるが、その判事パハンの決定は最終的で控訴は許されない。戦いはブラトノイの常だ。ブラトノイはみずから犯罪者界のエリートをもって任じ、彼ら以外のものをマスチ(毛並)によって区別する。〉 (前掲書三七〜三八頁)

ロシア人同士で、「ブラート」と言うと、通常、コネを指す。コネで不正に何か物やポストを得たときに、ロシア人は片目をつぶって「パ•ブラートゥ」と言う。あるいは結束の強いマフィアのような集団も「ブラート」と言うが、これは日常的にはあまり使わない。内村氏が呼ぶ「ロシア無頼」とはブラトノイ集団のことだ。この集団が持つ独自の掟について内村氏はこう説明する。

〈ブラトノイは「法」なるものを、「規範」一般を深く軽蔑する。自分たちの不文律だけが彼らの法なのである。ブラトノイは彼ら以外の者=ブラトノイでない者、すなわち権力の手先やほかの犯罪者一般、いわゆるフライエル(「フライ」「フリー」「自由」から出た語=「とうしろう」)その他を無視している。監房へ連れてこられるとドアが閉まらぬうちにもうブラトノイはこういう–              「リユージおるか?」。リユージとは一般には人の複数形、つまり「ひとびと」を意味するが、特殊ブラトノイ的には彼ら自身のみを指す。そこに何百人いようとブラトノイは「リユージおるか?」と言ってのけ、この数百人の囚人を「ひと」と認めないことを宣言するのである。囚人の群れのなかのブラトノイが答える。「こっちへこい」。こうして特殊な訊問がはじまる。ほんものかどうかをしらべるのである。

ブラトノイのふりをするのはとても危険である。自称ブラトノイはこうしてやがて切り殺される。フライエルに対してブラトノイぶるだけならリスクはない。フライエルたちは自分をおどす者をブラトノイだと思い込むからである。〉 (前掲書三九頁)

要するにブラトノイは、国家によって定められた法規範よりも、自らの掟を優先させる人々ということだ。その意味で、イエス・キリストによって定められた掟を国家の法規よりも重視するキリスト教徒も、ブラトノイ集団の一種だ。筆者は獄中でキリスト教信仰を内村氏の知的遺産を強化するために用いたのである。

7章のことば

「恐いと思うときでもなお己の臆病風を克服し己のモラルに立って歯向っていく」(内村剛介)

■解説

命を賭けてでも守らなくてはならない絶対的価値を持っている人は、どのような試練であっても克服することができる。

P.147~148

個人が個として書きことばにむかいあう(藤原智美)

藤原氏は、インターネットの普及による人類の知的構造の変化について、存在論的な考察を展開している。哲学、言語学、歴史学の専門的な知識がない読者も十分についていくことができるていねいな文体だ。ただし、思想の内容は高度である。まず、英語の普遍化が日本語力を弱める危険性についての考察が鋭い。

〈日本語の土台の上に接ぎ木するようにして得た道具程度の英語力は、しよせんそれを母語とする人たちにはかなわない。英語と言う土俵に上がるまえに決着がついています。つまりその土俵とは思考そのものであり、日本語で考える人は圧倒的に不利なわけです。言語のルールは常に母語を使えるものに有利になっています。このルール上の優劣が英語化への圧力をさらに強めています。

将来を悲観的に見るなら、英語を母語のように使う人々と、日本語「しか」使えない人々との階層分化が起こるかもしれません。英語が巧みで英語的思考をするほうがその人にとって利益を生むと考えれば、日本語を学習することにエネルギーと時間を使うことは浪費と考えられるでしょう。

実際にその時代のその土地における経済力、覇権構造によって、多くの言語が消えていきました。グローバルネットワーク拡大のもうひとつの側面は「英語」対「他の母語」という言語間の戦争なのです。それは静かに、しかし急速に進行しています。〉

(藤原智美『ネットで「つながる」ことの耐えられない軽さ』 文藝春秋、2014年、三三〜三四頁)

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