シンシアリー著『韓国人による恥韓論』を読んで

「誠実な李」さんと言う名のとおり、考え方は日本人というか一般の日本人より真面目に物を見て、問題を抉り、解決策を提示しています。小生にも大学時代の韓国人の友人がいます。40年近くなるでしょうか、あの時代韓国人だからと言って特に何も感じなかったし、仲良く酒を飲み、麻雀を打っていました。今でもたまに日本に来た時には飲みます。個別に見れば韓国人でも良い人はいますが、圧倒的な数はここに書かれているように性格が悪すぎます。「反日の毒が幼いときから回っていて、歯止めが効かなくなる」と筆者は予想しています。憲法9条の念仏で守り切れないのは明らかです。一番は兵糧攻めです。経済的に打撃を与えれば軍事に回す金が減ります。これは中国も同じこと。いつも言ってますように中韓とは「敬して遠ざける」関係が一番です。シンシアリーさんもそのように言っています。でも彼の勇気に敬服します。

はじめに——韓国人である私が「反日」にならず、ありのままの韓国を告げる理由

私は韓国人で、生まれてからずっと韓国で暮らしています。現状というものなのか、それとも私が臆病だからか、これからいろいろと書いていきながら自ずと説明されていくことだろうとは思いますが、名前は申し上げられず、「シンシアリー(sincere LEE)」ということでお願いします。母から日本語を教わったためか、ネットの一部では女性だと勘違いされているようですが、1970年代に生まれた男で、韓国では小さな歯科医院をやっています。母は日韓併合時代(1910〜1945)、小学生でした。あの時に学んだ日本語を私に教えてくれましたし、子どものころから日本の雑誌やアニメなどで日本語を読んだり聞いたりしていたため、運良く、ある程度は日本語の読み書きができるようになりました。早期教育と言っていいかどうか微妙ですが、そんなところです。私の世代では、すでに韓国では漢字教育がほぼ無力化されていたため、これまたお恥ずかしいことですが、パソコンなしでは漢字はほとんど書けませんが。両国の言葉がわかるというこの幸運を持って、いつからか日本語でブログをやることになりました。内容は、主に、韓国の反日思想への皮肉でした。「シンシアリーのブログ」 というものですが、おかげさまで評判がよく、PVだけなら1日で十〜十三万に及び、自分なりのやり甲斐を感じております。

今回、扶桑社の方から書籍化の提案をいただき、恐れ入りながらも、長い間、我々人類の英知を支えてきた「本」というメディアの形で、こうして皆さんに私の持論をお伝えすることができました。恥韓論というタイトルを知った時、最初は「恥韓」という言葉に拒否感がなかったわけでもありませんが、「恥ずかしいからって、隠すほうがもっと恥ずかしいではないか」、 「私もその韓国の1部であるからこそ、一種の内部告発ということで、“お恥ずかしい話ですが”と申し上げる形での“恥”なら、別にいいんじゃないだろうか」、そう考えると、 拒否感も消えました。そうです。後述しますが、恥は悩みの一種であり、問題が存在することを認める勇気でもあります。最近、日本で数々の疑問と反論と怒りを巻き起こしている韓国の反日思想はまさに恥じるべきものでしかないのです。

私がなぜ「反日」という名の悪い意味での宗教に毒されなかったのかは、自分にもよくわかりません。「なんとなく」です。いつからだったかもわかりません。あれ?私だけ考えが違うぞ?と、ある日、気づきました。まさに「朝、起きてみたら、こうなっていた」です。これは、先天的と後天的の両方の理由からだったのではないかと思います。私は子どものころから、母から併合時代に苦労したなどという経験談は聞いたことがありませんでしたし、家電好きだった父の影響でケンウッドの電蓄(オーディオ)やソニー のビデオデッキなどを思いのままにすることができました。当時の韓国では、それは物凄 くブルジョアなことでした。両親ともにちよっと性格が開放的だったのですね。固い所は固かったですが。まだ韓国にはビデオテープというものがなかったので、日本で地上波放送(アニメやショーなど)を録画してきて、それを売る店だけが頼りでした。あの時、お世辞にも画質がいいとは言えないビデオテープから目にした日本の姿は(何を言っているのかはわかりませんでしたが)、反日教育を退けるよい盾になってくれたと、今でも感謝しています。それからは自分で日本の雑誌や本(なぜかソウルの中国大使館の周辺でたくさん売っていました)、流通経路は怪しいものの正規品のLDやDVDが買えるようになり、ネットの時代になって、日本語IMEを入れて(当時は日本語IMEが内蔵されていませんでした)・・・そうしているうちに、韓国で敵視している日本は、どこにも存在しないことが分かりました。そして、長きにわたり韓国を狂わせている「過去史問題」で決定的な道標になってくれたのは、ある一冊の本です。私がブログをはじめたきっかけも、この本を広く紹介するためでした。植民地研究に熱心だったアメリカの行政学者アレイン•アイランド(Alleyne Ireland.1871〜1951)さんが1926年に発表した「The New Korea (邦題:THE NEW KOREA-朝鮮が劇的に豊かになった時代)」です。シンシアリー狂喜の「当時の資料」です。彼は、ビシッと言っています。『日本によって、KOREAは元の支配者たち(李氏王朝)の時代やほかの独立国よりも、ずっとよく統治されている(1章の最後の部分)』と。 内容もそうですが、テータが凄いのです。そこに書いてあるのは、韓国で毎日のように耳にした「人類史上最悪の植民地支配」とはあまりにもかけ離れたものでした(そもそも、植民地ではなく併合でした)。

一次産業から三次産業まで、学校から法律まで、食糧から医療まで、日本は韓国から奪ったのではなく、近代化という贈り物を与えていたのです。それを民族のプライドという思想だけで決めつけるのは、無理があります。私はブログだけではなく、改めて本書を通じて、皆さんに知ってほしいのです。 韓国を支配する「反日教」の正体を、その起源を、そしてますます悪化している現状を、 善悪を失った「基準」を、隠蔽してきた性奴隸の実態や、今後日本が韓国と外交をするうえで欠かせないと思われる方法(韓国の弱点)を。

韓国では、反日でないものは国賊扱いされ、見つかれば社会的に抹殺されます。私も例外でなく、「シンシアリーのブログ」の「犯人」探しを何度もされたことがあります。それでも、間違ったことを違うと言えないことはとても苦しいことです。 だから、ここまで来たからこそ、簡単に止めるわけにもいきません。

ニ〇一四年三月韓国にて シンシアリー

「負け組」青年層に跋扈する極端な反日思想

さて、話を戻しましょう。朝鮮戦争を戦い愛国だけを信じて生きてきた高齢者たちが、

信じてやまなかった「国」からも「孝」からも捨てられ、頼れるものをすべてなくしてしまったのと同じです。韓国の青年たちは、今まで信じていたものをなくし、新しく信じられるものが見つけられない状態になってしまいました。彼らが人生のすべてをかけて夢見てきた「勝ち組」としての生き方は、最初から一部だけのためのものでしかなかったのです。だからといって、負けたものへの尊重など、ありはしません。誰かが人の上に立つということは、誰かが人の下で踏み潰されることが前提となるものです。競争社会だからこそ、競争の結果で生まれる序列に対しては、お互いが敬意の念を示さなければならないのです。競争が公平でなければならない理由もそこにあります。

しかし、最初から狂ったような序列意識によって作られた競争社会に、そのような高次元なものがあるはずないではないですか。獣に人の気高さが分かるものですか。上に立った人への祝福も、下に落ちた人への尊重も、その社会にはないのです。そして、宝物のように大事にしてきた「スぺック」を振り返りながら,負け組の青年たちは、口にします。 絶対言ってはならないことを。“いったい、なんだったんだ           ・・・”。その絶望感の中、反日思想は彼らにとってかけがえのないガス抜きです。絶封に負けない「比べ」の対象です。なぜなら、韓国は絶対善で、日本は絶対悪だからです–最初から負けるという設定はありません。反日思想はすべての年齢層にムラなく現れるものではありますが、青年層の反日は、ちよっとユニークです。韓国の歴史が1万年だという主張(いつの間にか五千年も増えてますね)、対馬が韓国の領土だという主張、いずれ大地震で日本は滅ぶという主張、日本は放射能のせいでもう終わった国でもうすぐ全員死ぬという主張などを、わりと本気で信じています。思想教育の問題か、日本が南北統一を邪魔しているとも思っているらしいです。統一すると韓国が先進国になるから、それに劣等感に燃えた日本が邪魔をしているのだそうです。彼らにとっては、朴槿恵大統領すらも「親日だ」という理由で嫌悪の対象になります。親日だから嫌いなのか、嫌いだから親日にするのか?はわかりませんが。韓国で「親日」と言われると良いことは何もありません。一言で、この青年層の反日は、上の世代よりもずっと「極端的」であるのです。反日だけではありません。民防衛教育の話で、私は、韓国はデジタル的な考え(0か1か)で物 事を決める問題点を持っていると書きました。「勝ちか、負けか」しか知らないで育った人たちに、そういう傾向、即ち、0か1か、白か黒か、善か悪か、その「どちらか」への 極端的なこだわりが現れるのは、ある意味では自然な結果だとも言えますね。

「極端」と言うとそれらしい響きですが、実際にはただの「バカじゃないの」という類の意見が多く、私もそういうのをただの戯言だと思っていたのですが、どうやら彼らは本気らしいです。二十代(たぶん)の大学生たちとちよっと話してみる機会があったのですが、とくに独島(竹島)関連の論争などで、彼らの意見から、「日本は韓国が何を言っても頭を下げて従わなければならない」という、韓国特有の反日思想がそのまま集約されているような感覚を受けました。こちらもまた極端的な書き方をすると、まるで、「日本は奴隸だ」と考えているようでした。せっかく奴隸にムチを打つからには、もっと酷く、もっと苦しい方法でやったほうがいいんじゃないのか?そういうサディスティックなご主人様と奴隷に近い序列意識が、反日の中でもとくに極端的な意見として表出されているのではないか、 私にはそう思われました。そういえば、韓国では人を「奴隸」にする事件(監禁して働かせる、漁船などに売る、 借金漬けにして売春させる、物乞いをさせるなど)が多く、2007年には四百四十人の知的障害者たちを漁船などに売り飛ばした「奴隸商人」たちが、2012年にはニ代にわたって百人近く知的障害者やホームレスを奴隷として管理(事実上の「飼育」)していた人が警察に捕まったりしました。小規模の奴隸事件は、そこそこ 頻発します。ちょうどこの原稿を書いているニ〇一四年二月七日にも、離島の塩田に「奴隸」として売られ、数年間も、暴力と監視の中、給料もなしで働かされた障害者の二人が救出されたというニュースが、各マスコミから報道されました。こういうことも同じ心理なのでしようか。誰かのご主人様になりたいのでしょうか。でもご主人様になれるお金も権力もないから、誰かを奴隸まで下げることで自分をご主人様にするのでしようか。だとしたら、狂っています。「相手が日本なら、何をしてもいい」。悪い意味での「ご主人様と奴隷」。彼らは、そう思っています。

ますます獣化する反日への純度

反日が急激に悪化したとして、それからは、どうなるのでしょうか。ちよっと意外な言葉選びかもしれませんが、悪化というのは、「純枠になる」ことでもあります。もちろん、ここで言う「純枠」とは、良い意味ではありません。何の罪悪感もなしに高い玩具を叩き壊す赤ちゃんのような状態を意味します。子どもでも、自分の玩具やゲーム機を大事にすることはできます。それをあまり乱暴に扱って壊したりしたら、結局は自分が損をするということを知っているからです。しかし、赤ちゃんは違います。結果的に自分が損をすることでも、平気にやってしまいます。それは、純粋だからです。ゼロです。タロット力ードの「愚者」です。これまた悪い意味で、ですが。そのような純粋の純度から見ると、子ども→赤ちゃん→獣になります。進化ならず、退化です。前述した「何をやってもいい」というのも悪い意味での純粋さなのです。あまりにも残酷な純枠さです。青年たちの反日は上の年代より極端的だと書きました。彼らの「日本には何をやってもいい」という認識は、上の年代より強いのです。でも、子どもたちの反日はもっと極端的です。もっと「悪い意味で純粋に」なっています。当然です。そう育てられましたから。どこを見ても、誰に.聞いても、日本は悪いというものしか見えず、日本は悪いというものしか聞こえないものですから。世代が替わるにつれ、反日の「純度」は、日を追うごとに高くなりつつあります。それも急激に。この本をお読みの皆さんが韓国に対して持っている素直な感情に「(韓国って)ガキかよ」というのがあると思いますが、それが「赤ちゃんかよ」になる日も近いでしょう。そして、いつか韓国の反日が真の純粋さ、純枠の頂点に達する日もくるはずです。「赤ちゃんかよ」が、「獣かよ」に退化する日が。世代の入れ替えに伴って。

基本「だけ」に忠実な外交を仕掛ける

今後、日本は韓国に対してどういう態度を取ればいいのでしょうか?それは、決まっています。長く書くこともないでしよう。

韓国がもっとも嫌がる態度を取ればいいのです。作用があれば反作用があるものです。ここまで日本が嫌いだという韓国に対して、韓国が嫌がる対応をするのは当然でしょう。 しかし、それは、韓国がやっているように「根拠のない」、「ダブル•スタンダード」、「ゴリ押し」、「極端」などの見苦しいことであってはなりません。

では、ここで言う「韓国が嫌がること」とは何でしようか。またまた意外だと思われるでしょうが、「基本に忠実」なことです。私は、自分のブログなどで、これを「距離を取ること」だと書いてきました。 世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな集団があって、その中には気が合うものもあればどうしても仲良くできないものもあります。子どもが相手なら「皆で仲良く」という導きで十分な効果を出しますが、大人には無理です。「皆で仲良く」することがいかに難しいことで、そしてできたらできたで、「皆」それぞれの宗教は、文化は、主張は、個性は、どれだけ犠牲になるのか?そういうことを考えると、果たしてそれが有益なことなのかどうかも疑わしいからです。だから大人は次善策として、「共存」という言葉を選びます。好きなものも嫌いなものもある。嫌いなものでも、存在そのものを否定はしない。それは「そこにある」。自分の嫌いな人を愛する人もいる。そんなもんだろう。そこから「皆でそこそこ仲良く」ができたりするから、不思議なものです。しかし、韓国は、日本というものに対して、「皆で仲良くしないといけない。だからお前が僕に合わせろ」を強要しています。そう、韓国が言う「友好」とは、日本が一方的に韓国の言いなりになることを意味するのです。絶対悪と絶対善ですから。日本というものが、日本の好きなように存在してはいけない。韓国が好きな形で存在しなければならない。そうでない日本は認めない。そんなものは存在してはいけない。それが韓国の日本観です。 最近、(私が言うのもなんですが)韓国の日本関連ニュースなどを紹介するサイトが増えましたが、そういうサイトで韓国側の記事を読まれたことのある方なら、「ああ、それはたしかにそういう感じだったよな」と同意されるかもしれませんね。外交の基本である「同等の立場」が最初から成立してないのです。そんな韓国に対して、日本側か、基本に忠実な外交、もう少し詳しく言えば、基本「だけ」に忠実な外交を仕掛けてみると、どうなるのでしようか?韓国人は、何か特別な例外措置こそが自分への評価だと思っています。自分を例外として扱ってくれないと、基本とされる条件よりもっと良い条件で(追加料金なしに)扱ってくれないと、怒ります。「無視されている」と思ってしまうのです。こういうところは原則を尊重すると言われている日本の皆さんにとっては、ちよっと理解しにくいことかもしれませんね。チエミョン(体面)だの序列意識だの、そういう歪みの副産物です。ちなみに、同じ理由を持って、韓国人は、買い物の際の値引き要求も半端ないです。契約書にサィンしたあとでも、相手側に値引きを、または何か特別なおまけを要求したりします。そうすることで、少しでも基準より「上」に立てるという心理が動いているからです。