12/21日経文化欄 芳賀徹氏『渡辺崋山を想う』について

芳賀氏は本記事で言いたかったのは『今の日本は「平和ボケ」しているが真のエリートが出て、日本海・東支那海波高しの状況を変えてほしい。明治維新の達成の源流が徳川の教育にあったように、平成以後の危機も昭和の教育(戦後民主主義教育のことではない)こそが解決できるのでは』と言うことでは。「戦争反対」と念仏を唱えていても、遅れてきた帝国主義者・中国の欲望は果てしなく、日本を韓国同様属国にするまで侵略し続けるでしょう。真のエリートが出てほしいと願っています。目先の金儲けしか考えない財界人はいくら財界・会社で地位が高くても、エリートとは言いません。老後のことを考え、天下り先を増やすことしか考えないような東大卒に代表される官僚も真のエリートとは言いません。崋山のように、国のために命を賭けて戦う人こそ真のエリートです。松陰の言った「草莽崛起」こそ、我々が目指す道です。

記事

はが•とおる 比較文学研究者。1931年山形県生まれ。東大教養卒。著書に「渡辺崋山」 「平資源内」「絵画の領分」「詩歌の森へ」など。静岡県立美術館長。

徳川家康(一五四三〜一六一六)が没して再来年は四百年。それを記念してさまざまな行事がすでに動き始めている。私 たちの美術館でも、ニ○一六年秋には「徳川文明展」を催すべく準備を始めたところだ。家康一人の顕賞ではなく、徳川体制の下に工夫され、築かれ、維持されて享受された「徳川の平和(パクス•トクガワーナ)」二百五十年(一六○三~一八五三)の意味を問い直そうという試みである。

□ □ □その文明展に入れられるかどうかはまだ不明だが、いま私が思い浮かべるのは、むしろ「徳川の平和」の終焉を予感して苦悩した一人の武士知識人、渡辺崋山(一七九三 〜一八四一)のなつかしい姿である。崋山が三宅藩の年寄役に任じられ、海防事務掛をも兼ねることになって、久しぶりに三河の田原に帰った天保四年(一八三三)のことだった。 四月半ば、彼は領内検分の小旅行に出て、渥美半島の突端の伊良湖岬に立った。沖合一里ほどに神島が見える。まるで外洋に向かう巡洋艦のように颯爽たる姿の、いまも美しい小島である。三島由紀夫が小説『潮騒』の舞台に選んだことでも有名になった。領外ではあっても、崋山は海防掛としてこの島に渡ってみた。強い潮流に難儀しやっとの思いで島に上ると、そこはまるで別天地だった。彼は部下二人とともに網元の家の世話になったが、珍客到来というので村の漁民男女が次々に集まってくるのだ。崋山はこの時の旅日記『参海雑志』に「かの桃源に入りし漁夫もかくやと思い出しなり」と書いた。そして翌日早朝、海岸散策に出たときの記録—-「およそ此の島の人、男は素朴にて偽な<、女はいとこころやさしくて ……なかなかめで度ぞ見えし。やがてたばこくゆらしつつ海の朝日の出るを見んと、東の磯に立ち出づ。とく起きて磯草乾せる女に案内させて、しろき巌の家よりも大きやかなるが波打際に從えでたるによぢのぼりてながむる。はてしなき海原の大空につらなりて、横雲の赤く紫にたなびきたるさま、波のみどり深く黒みたる、四人の称る大東洋にして、かの亜墨利加とかいへるわたりもこの海原よりつらなれりと思ふに、まことに世の外の思ひを生じ……」

十九世紀日本のもっともすぐれた武士知識人にして武人画家であった人、渡辺崋山の面目躍如たる一節ではないか。こ の人のなかに宿されていた感受性のゆたかさ、心の優しさ、そして思想のひろがりが、おのずからここにあらわれている。崋山ほど、名もなき民衆の健気な日々の営みとその表情にこまやかな親愛の情を寄せていた武人は、他にめったにいなかった(彼の若き日の素描集『一掃百態』は『北斎漫画』にも立ちまさる)。 その一方で崋山はまた、たばこをくゆらしながらでも、太平洋を眺めればその遠いかなたのアメリ力に思いを馳せずにはいられない人だったのである。

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彼はこの藩領巡察の前の年から、小関一英、高野長英の二人を相手にして本格的に西洋研究を始めていた。二人とも長崎でシーボルトに学んだ当時最優秀の洋学者であった。江戸の三宅藩邸内でつづけたこの研究会は、尚歯会と呼ばれ、やがて幕臣の川路聖謨や江川英龍(太郎左衛門)ら開明派の俊秀たちもこれに加わってくる。尚歯会で蘭書を読み内外の情報を集めて研究すればするほど、西洋列強の露骨なアジア進出の形跡は明らかになり、日本国の内憂外患の現状への彼らの焦慮はつのっていた。崋山はその点でことのほか鋭敏だった。彼が神島のみならず江戸で日々に接する民衆は、みな今なお「徳川の平和」の永続を信じて、つつましくも懸命に立ち働いている。「四海波静か」の世界が「波高し」に急変しつつあることを彼らはまだよく知らずにいる。それならば彼ら名もなき民の平穏と小さな幸福を守りつづけてやることこそ、エリートとして武士知識人の現今最大の責務ではないか。「徳川の平和」はついに終章に入りつつあることを崋山はすでに明らかに自覚 していた。

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彼が「慎機論」を書き「西洋事情御答書」を書いて、激越な言葉で徳川幕政下の為政者たちの平和ボケ批判を敢行するのは、あの神島渡海からわずか五、六年後のことだ った。その言動が蛮社の獄に直結して、死刑は免れたが田原蟄居に処せられるのが天保十一年(一八四〇)の正月。その翌年十月十一日の夜、崋山は満四十八歳で自刃する。 太平洋の波音の遠く聞こえるなかで、愛弟子の画人椿椿山にあてて書かれた遺書は、あまりにも悲痛である。「数年の後一変も仕り候はば、悲しむ人もこれあるべきや。極秘永訣此の如くに候。」—– 中国大陸にアへン戦争はすでに始まっていた。ぺリーの黒船来航の十二年前のことだった。しかし考えてみれば、この崋山らのような卓越した武士知識人、藩をこ えて新しい公への責務を強く自覚する武士エリ—卜たちを生み、教育し、 活躍させたのも、徳川の日本にほかならなかった。そのことを私たちは 忘れるわけにいかない。徳川日本の文明は、みずから蓄えた智恵と勇気をもって、新しい国際関係の圧力に対抗し、開国し、自己変革のための近代化策を次々に講じて、明治維新のなかに摂取されていった。その御一新の当の実行者たちも、実はみな「徳川の平和」の充溢のなかで学び、能えられて、崋山の遺託した「数年の後(の)一変」に身を艇しようとしたエリー卜たちだったのである。