『「霧氷少年」のその後は、元の木阿弥 「愛国少年」として「北京の夢」は叶ったが…』(3/23日経ビジネスオンライン 北村豊)について

3/24NHKニュース2:13<米軍が南シナ海で航行自由作戦を実施 中国が批判>「イージス駆逐艦「マスティン」が人工島の周りで領海と同じ範囲の12海里のなかを航行」とありますが、「中国が主張する領海」とすべきでは。かつまた「人工島建設は違法」との国際仲裁裁判所の判決も出たことも紹介すべきです。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180324/k10011377071000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_035

3/24看中国<美议员正式提案 将孔子学院列为“外国代理人”(图)=米上院議員は孔子学院を外国エージェントと登記するよう正式に提案>マルコ・ルビオ、トム・コットン、ジョー・ウイルソン(下院)の議員が「外国影響力透明度法案」を上・下院に提出。孔子学院を司法省に外国エージェントとして登記するように求めるもの。中国政府が出資運営する孔子学院は、米国の学問の自由と言論の自由に影響を与え、背後に潜む共産党の政治宣伝は人々に懸念を抱かせるため。法案は孔子学院の登記だけでなく、高等教育法も改正して、学校が5万$や同価値のものを外国から寄付を受けた場合は公表義務を負うようにしている。

1938年ナチスの宣伝攻勢が激しくなり、米国は「外国エージェント法案」を成立させた。この法律は外国から委託を受けて活動する組織・人は米国司法省にその身分や政府・政党・個人・組織も含めて登記することを定めたもの。

共産主義の浸透を恐れ、西側は孔子学院を相次ぎ閉鎖している。マサチューセッツにある2つの大学は孔子学院と関係を断絶するよう州選出の上院議員が呼びかけた。フロリダ大学は孔子学院の上部機構と契約更新せず、シカゴ大学、ペンシルベニア大学、カナダ・マックマスター大学もこれに続いた。

日本の対応は立命館やら早稲田等何もしてないでしょう。文科行政と言っても前川買春次官がいた官庁ですので孔子学院の規制の立法化何て望むべくもない。まあ、スパイ防止法が先でしょう。

https://www.secretchina.com/news/gb/2018/03/24/853626.html

3/23希望之声<美众院情报委员会结论:川普阵营不存在“通俄门”=米下院情報委員会の結論:トランプ陣営がロシアゲートで通じたことはない>「美国众议院情报委员会3月22日正式宣布结束他们对川普阵营“通俄门”的调查,并公布了一份报告宣布川普阵营与俄罗斯当局之间没有“通俄门”, 但是美国情报机构在川普政府任期初期机密信息外泄情况严重。 这是美国国会委员会公布的首个“俄罗斯干预美国大选案”调查的结果。=米下院情報委員会は3/22トランプ陣営のロシアゲート調査結果で、「陣営とロシアの間で通じたことはなかった」と正式に発表して調査を終了した。しかし、情報機関に依れば、トランプ政権初期に機密漏洩があり、これは重大である。これが米国会の委員会で発表されたロシアと米大統領選の調査結果である。これでトランプも動きやすくなるのでは。プーチンと話合い、中国を封じ込める動きをしていってほしい。日本も捏造モリカケに議会が時間をかけるのは余りに不毛です。

https://www.soundofhope.org/gb/2018/03/23/n1644383.html

本記事の霧氷少年については、1/22本ブログでも紹介しました。

http://dwellerinkashiwa.net/?p=8095

共産党は何でも政治宣伝の対象にするという事です。子供は純粋だから、「警察は悪い奴をやっつけてくれる」と思っているのでしょうけど、共産国家で最も悪いのは公安・警察部門です。腐敗し、人権弾圧を当たり前のようにやります。霧氷少年が大人になって警察官になれば分かると思いますが、その時には彼も腐敗警官となっているのでは。記事内で北村氏が「世界第二の経済大国として、毎年外国に多大な援助を行っているのに、どうして自国の子供が通学するのに、険しい山道を必死に歩いて頭を霧氷で白髪にしなければならないのか」と言っていますように、富の分配が非常にうまく行っていないのが共産中国です。結果の平等を目指す共産主義がこれですから、如何に酷いシステムか分かるでしょう。日本も左翼の言うことを聞いていたら中国みたいになるというのを国民一人ひとりがもっと気にしませんと。

記事

1月に「氷花男孩」(霧氷少年)として有名になった8歳の王福満君のその後は…(写真:Imaginechina/アフロ)

1月8日に中国のSNSである“微信(WeChat)”に投稿された、霧氷を頭髪に付着させて白髪の老人のように見える“氷花男孩(霧氷少年)”と題する写真で、8歳の“王福満”は一躍有名になった。

零下9度の山道を走り、一躍人気者に

王福満は雲南省の東北部に位置する“昭通市”の管轄下にある“魯甸県”の“新街鎮”にある“転山包小学(転山包小学校)”の3年生である。1月8日の朝、彼は学校の期末試験に遅れないようにいつもより早く家を出発し、零下9度の凍てつく気温下で4.5kmの山道を懸命に歩き、家を出てから1時間後にようやく学校へ到着した。試験開始に間に合っただろうかと、心配しながら教室の後ろのドアを開けて中に入ると、一斉に振り向いた級友たちは彼を指さして笑い声を上げた。それは王福満の頭髪が付着した霧氷で白髪の老人のようになっていたからであった。

試験に遅れないように極寒の中を必死に歩いて来た王福満に感動を覚えたクラス担任の教師が、教室に入って来たばかりの王福満の姿を写真に撮り、その写真に“氷花男孩(霧氷少年)”という題名を付けて微信に投稿した。この写真が微信ユーザーの注目を集め、それがネットに転送されて評判となり、さらにはメディアが報じたことで、王福満は一躍時の人になったのだった。この経緯の詳細については、2018年1月19日付の本リポート『「霧氷少年」が露わにした中国“残留児童”問題』を参照願いたい。

転機となった1月8日の朝、王福満はいつものように4.5kmの山道を歩いて学校へ通っただけだったが、担任教師が登校したばかりの彼を撮影した写真を微信へ投稿したことにより、王福満は思いがけず世間の注目を集めることになったのだった。“氷花男孩(霧氷少年)”というという言葉の神秘的な響きと、写真の中の王福満のあどけない表情が人々を魅了し、彼は突然“紅人(人気者)”になったのだ。それでは、その後の王福満はどうなったのか。中国メディアが報じた王福満に関連する記事を取りまとめると以下の通り。

投稿11日後に夢の北京へ

【1】王福満を取材するために新街鎮入りしたメディアの記者から、将来の夢と行きたい場所を尋ねられた際に、王福満は「大きくなったら北京へ行って、“中国人民公安大学”で勉強して警察官になり、悪い人を捕まえる。だから、行きたい所は北京で、中国人民公安大学の学生がどうやって勉強しているのか見てみたい」と答えたが、その願いは写真の投稿からわずか11日目に実現したのだった。1月19日午後2時、王福満と父親の“王剛奎”、10歳の姉“王福美”の3人は、招待されて首都の北京市へ到着した。それは、中国共産党の“中央政法委員会”と“中央社会治安総合治理委員会(中央社会治安総合管理委員会)”の公式ニュースサイトである“中国長安網(ネット)”と中国の新たな主流メディアである“北京時間”が提携して関係部門に協力を要請して招待を実現したものであった。当然ながら、王福満と王福美にとっては、故郷を離れるのも、飛行機に乗るのも初めてのことであった。

【2】北京に到着した3人は、当日の午後に“前門東大街”から程近い場所にある“北京警察博物館”を訪れた。王福満は展示品を見学すると同時に、動員された多くの警察官と交流し、記念品として警察グッズを贈られて大喜びした。翌20日は早朝7時過ぎに天安門広場へ出向き、3人は7時32分から始まる国旗掲揚式を見学した。その後は“北京市公安局”の「反テロ・特殊警察支隊」を訪問して訓練の様子を見学したが、王福満は機動部隊の装備を装着させてもらったり、警察官の帽子をかぶったり、白バイにまたがったりして、大満足であった。これに続いて、彼ら3人は“中国人民公安大学”を訪れて、出迎えた大学生たちと交流を持ち、王福満は大学生たちから将来立派な警察官になれるために勉学に努めるよう激励を受けた。中国人民公安大学で学ぶことは王福満にとって将来の夢であり、その夢の大学を訪れることができて、王福満は非常に興奮した様子だった。

【3】1月21には招待者側主催の「霧氷少年・王福満、北京の夢実現記者会見」に親子3人で出席し、多数の記者から質問を受けた。王剛奎は次のように語ったという。すなわち、王福満は家から昆明空港までの車で乗りもの酔いしてげんなりしていたが、飛行機に乗る頃には復活して窓から外の景色を楽しんでいた。今回の旅は彼ら3人にとって初めての長旅で、子供たちは興奮し、何時も言葉が少ない娘の王福美がおしゃべりに変身した。また、王福満は、北京では薪を燃やさなくとも部屋の中は暖かく、初めて“暖気(スチーム暖房)”という不思議なものがあることを知った。なお、彼らは北京で市内観光も行ったと思われるが、詳細は不明である。こうして北京で3日間の滞在を終えた王福満以下3人は、1月22日に飛行機で省都“昆明市”へ戻り、そこから車で故郷の新街鎮へ戻った。

【4】しかし、彼ら3人が家で休息を取れたのはわずか1日で、1月24日には再度北京へと旅立ったのだった。メディアの記者から再度の北京行きについて尋ねられた父親の王剛奎は、「転山包小学校の“付恒”校長から親子3日を北京へ招待するとの連絡を受けたと知らされた。今回は付恒校長と関係部門の幹部が同行するというが、どのような組織が招待してくれたのかは分からない」と述べたという。彼らの2度目の北京行きを招待したのがどこの組織なのか、その日程がどうであったかは、メディアが何も報じていないので不明である。とにかく、王福満、父親の王剛奎、姉の王福美の3人は、予期せぬ招待を受けて1月中に2度も北京を訪問し、思いもよらぬ歓待を受けたのであった。

学費免除で寄宿舎生活のはずが一転…

【5】それから1か月後の2月末、昭通市にある私立学校“新華学校”の“楊校長”が、王福満の通学状況が困難であることを理解して、王福満を学費免除で同校に受け入れると表明した。新華学校は寄宿制であり、学生は校内の寄宿舎で生活することになる。新華学校は王福満の実家からは遠く離れているが、実家にいる時のように毎日徒歩で1時間かけて通学する必要はない。父親の王剛奎はこの善意の申し出をありがたく受け入れ、2月28日に王福満は新華学校へ入学し、新たな学校生活をスタートさせた。

【6】ところが、それから1週間後の3月6日、王剛奎は楊校長から王福満を元の転山包小学校へ戻して欲しいと入学を辞退するよう要求を受けたのだった。王剛奎は気落ちした様子で、「自分は読み書きができないので、息子は良い学校に受け入れてもらえたと喜んでいたのに、新華学校はどうして息子の受け入れを拒否するのか分からない」とメディアに悲しみを訴えた。一方、当事者である王福満は、「新華学校は先生の教え方が転山包小学校より良いし、同級生たちは授業中におしゃべりすることなく勉強に集中している。ここの寄宿舎にいれば、1時間かけて通学する必要はなく、ただ早朝トレーニングに参加するだけで良い。また、ここの食事はとってもおいしく、色々な物が食べられるのに」と困惑を隠せない様子だったという。

【7】その理由を楊校長は次のように述べた。

当初、彼が王福満を学費免除で入学させたのは、少し良いことをしたかったからだった。しかし、楊校長は知らなかったが、王福満は雲南省“教育局”が認定した政府“扶貧(貧困救済)”事業の重要対象であり、雲南省全体でも何人もいない児童だった。このため、王福満が入学してからの数日間は、異なる行政レベルの政府部門から多数の視察依頼を受けたばかりか、メディアからも多数の取材申し込みが殺到し、新華学校はこれらに対応できなくなった。自分はそうしたくなかったが、やむを得ず、父親に王福満を元の学校へ連れ戻すよう依頼せざるを得なかった。自分は王福満を支援したいと思っているが、こうした状況を考えると、消極的にならざるを得ないのが実情である。学校の先生たちの多くは、この機会を捉えて新華学校を宣伝すべきだと提案したが、私はこうした考え方を拒否した。私が望むのは、我々の新華学校が普通の学校であることであり、メディアに注目されることを私は好まない。

【8】王福満が新華学校を離れる前に、楊校長は父親の王剛奎に1万5000元(約25万5000円)を手渡し、もしも将来困難に直面するようなら、協力を惜しまない旨を表明したというが、王剛奎はこのカネを全く遠慮することなく受け取った。ところで、王福満が霧氷少年として世に知られて間もない1月10日、王剛奎は“中国建築第三工程有限公司”(略称:中建三局)の“昆明分局(昆明支社)”から彼の家からそう遠くない現場で以前にもやったことがある鉄筋結束の仕事を与えるとの口約束を受けていた。日当は200元(約3400円)とのことであり、王剛奎はこれなら2日や3日に一度は家に帰れるから、王福美と王福満の2人を連れて昭通市に出て、彼らを少し良い学校へ通わせることができると胸算用していた。ところが、王福満が新華学校から転校を余儀なくされた後に、王剛奎が中建三局の昆明分局に仕事の件を問い合わせると、今は彼を必要とする仕事はないと門前払いされたのだった。

北京行きの費用はいくらか

さて、深圳市の作家“天佑”は1月21日付の“微信”で、王福満親子3人の第1回北京行き(1月19日~22日の3泊4日)に関して次のように述べている。

(1)彼ら3人が北京へ行った旅費はいくらかかったのか。こうした場合、彼ら3人には、少なくとも地元政府の職員3人(引率者1人、教育局1人、政府事務局1人)、報道記者2人の計5人が同行しているはずだから、北京行きの旅費を合計8人で計算してみると以下の通りになる。

A) 航空券(昆明-北京):2万7000元 <空港までの交通費や保険料などを含む>
B) 宿泊費(ツインルーム4室×3泊):6000元 <中級ホテル>
C) 食事(100元/人/日×8人×4日):2400元 <実際にはもっと高いはず>
D) 北京市内の交通費(500元×3日):1500元 <主体はタクシー利用>
E) 雲南省役人の出張旅費(330元/人/日×5人×3日):4950元 <実際はより高額>
F) その他雑費(200元/日×3日):600元 <水・スナックなど>
 
合計:4万2450元(約72万2000円)

(2)昆明市へ出稼ぎに行っている王剛奎の収入は1カ月わずか2000~3000元(約3万4000円~5万1000円)に過ぎない。それに比べてこの費用は莫大だが、この金額を負担するのは一体誰なのか。私は王福満親子が北京へ行ったことに決して反対するものではないが、恐らく費用は地元政府が負担しているはずで、それは庶民の税金によってまかなわれていることになる。けしからんことは、地元政府が一躍有名になった王福満を政治的に利用し、国旗掲揚に立ち合わせる、警察官の帽子をかぶらせるなどにより、彼を「貧困に負けることなく祖国を愛する少年」に祭り上げていることである。王福満が暮らす魯甸県には、彼と同様に出稼ぎに出ている親の帰りを待つ“留守児童”が9000人ほどいるが、彼らには夢がなく、北京へ行きたいと思ってはいないというのだろうか。

(3)霧氷少年を北京へ送り、彼に国旗掲揚を見せたり、警察官の扮装をさせることは、決して救済でないし、夢実現の支援でないばかりか、留守児童に対して関心を持つことにはならない。ユネスコが発表した『世界教育報告』には、中国は世界の1.18%の教育費で世界の18.45%の学生を養成していると述べられており、中国の基礎教育はあまりにもお粗末と言わざるを得ない。どうして地元政府は教育への資金投入を増大しようとしないのか。霧氷少年を北京へ送って世間に向けてパフォーマンスを行うよりも、それだけのカネがあるなら、貧しい子供たちに暖かい上着を支給したり、彼らの成長促進のために毎日牛乳1瓶を与えるべきではないだろうか。

ところで、霧氷少年が人気者となったのを見て、あるネットユーザーが頭髪に霧氷が付着して白髪のようになった少女2人が並んでいる写真を“氷花女孩(霧氷少女)”と題名を付けてネット上に投稿した。ところが、この写真はネットで多少話題になっただけで、中国のメディアはこれを全く無視して一切報道しなかった。こうした現状を見て、あるネットユーザーは、「霧氷少年は北京へ行ったが、霧氷少女はどこへ行けるのか。多くの留守児童はどうしたらよいのか」と嘆きの言葉をネットの掲示板に書き込んだ。

上述した天佑は、自身の“微信”に次のような文章を書き入れた。

今回は霧氷少年ではなく、霧氷少女だった。困ったことは、それが1人ではなく、“1群”であることだ。確かに、このような霧氷少女の写真は政府側にとっては極めて具合が悪いものである。彼ら自身が知っているように、もし今回も霧氷少年の時と同様に世論を煽れば、社会の広範な質疑を引き起こすだろう。世界第二の経済大国として、毎年外国に多大な援助を行っているのに、どうして自国の子供が通学するのに、険しい山道を必死に歩いて頭を霧氷で白髪にしなければならないのか。

新居の残金7.5万元也

なお、1月8日に霧氷少年の写真が世間に知られると、中国各地から王福満に対する寄付金が窓口となった“昭通市青年基金会”宛てに殺到し、その金額は30万元(約510万円)に達した。しかし、王福満が受け取った金額は、わずか500元(約8500円)に過ぎなかった。この事実がメディアによって報じられると、中国の世論は激高した。これに対して、魯甸県教育局の“陳富栄”局長は1月16日に声明を発表し、現在までに王福満の家が受領した寄付金は8000元(約13万6000円)であり、全ての寄付金を王福満に与えると“一夜暴富(急に金持ちになる)”の慈善になり、子供の健全な成長に良い影響を与えないので、寄付してくれた人の善意を無にしかねないと弁明した。

その後の報道によれば、王福満の家は転山包小学校から徒歩で10分の場所に新居が2015年に完成しているのだという。土地は親戚の所有だが、新居は2階建てで、1階は70m2以上。新居の建設費は13万元(約221万円)であったが、地元政府からの補助が3.5万元(約60万円)で、残り9.5万元(約162万円)が借金である。このうち2万元(約34万円)はすでに返済しており、残る借金は7.5万元(約128万円)であるという。従い、残金7.5万元の返済が終わり、内装工事を行えば、王家は新居に住むことができる。そうなれば、王福満は霧氷少年にならなくて済むはずである。しかし、現在の王剛奎の収入水準から考えると、7.5万元の完済には数年を要し、その頃には王福美も王福満も小学校を卒業しているだろう。

こうして本件の経緯を振り返ってみると、霧氷少年を人気者にした一連の騒動は一体何だったのかと思われてならない。確かに、王福満の一家3人は2度も北京へ旅行することができ、王福満は北京訪問の夢を叶えることができた。しかし、彼は寄宿舎のある新華学校からは入学を辞退させられて、元の転山包小学校へ戻ったし、王剛奎は新たな仕事にありつけず、今まで通り昆明市へ出稼ぎに行くしかなくなった。一旦よい状態になったものが、元の状態に戻ることを「元の木阿弥(もとのもくあみ)」と言うが、王福満の幸運な日々は2カ月程で終わり、元の状態に戻ったのである。為政者は王福満を“愛国英雄”に祭り上げることで政治的に利用し、放置されたままになっている農村の貧困や留守児童の問題を隠蔽し、火種となることを防いだのであった。

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