『また一つ追加、村上春樹にノーベル文学賞が来ない理由 前代未聞の偽ノーベル賞「ノミネート辞退」が発散する下心臭』(9/21JBプレス 伊東 乾)について

9/23阿波羅新聞網<川普威武1个签字2万亿美元回国 英媒:王岐山显绝望 只能这么做=トランプは1回サインしただけで海外資本の内2兆$も米国に還流させた 英国メデイア:王岐山は絶望を示す 映画を見るくらいしかできない>学者の分析によれば、「米中貿易戦はグローバルな産業連関を大きく変えただけでなく、WTOの規則をも変えるだろう。とりわけトランプはウオール街とロビー団を連続して屈服させて来た。英国メデイアは「王岐山は絶望を示した。王岐山、習近平、劉鶴全員トランプを理解することができない。王が明らかにしたのは、ハリウッド映画(『スリービルボード』)を見てトランプを一部理解する」と。

この他、日本・台湾企業の撤退の他に、アンケートを受けた米国企業の35%は生産基地を中国から東南アジア等に移し済みか検討中、31%が現在中国への投資を取消すか延期を考えているとのこと。

米国へ亡命した学者の何清漣は22日、台湾紙に「米中貿易戦の甚大な影響—グローバルな産業連関をリセットする」を発表。米国は世界第一の経済大国で各国が何を思おうが、WHの政策はグローバル資本の流れに影響を与えると。

http://www.aboluowang.com/2018/0923/1178553.html

9/24阿波羅新聞網<跳脚抗议美帝没收李将军浮财 川普击中鸡国大佬七寸=地団駄を踏んで米国の李将軍の隠し資産没収に抗議 トランプは売国奴の大ボスの弱点を攻撃する>

トランプはお金だけでなく、中共の命まで欲しがる。レーガンが共産ソ連をSDIで潰したように、トランプは共産中国を貿易戦、通貨戦で崩壊させるでしょう。

李尚福・解放軍装備部部長

9/21、中国外交部副部長の鄭沢光は駐華米国大使のテリー・ブランスタッドに会い、米国が国内法に照らし、解放軍の装備発展部と部長に制裁を課したことに厳重に抗議した。鄭は「米国がロシアとの軍事協力を理由に中国の軍事機構と責任者に制裁を課すのは国際法に違反する。その性質は劣悪で、剥き出しである」と指摘した。

中共高官は内心ビクビクでしょう。いざとなれば米国或は米国以外の西洋諸国に置いた財産は没収されますので。良いことです。全部不正蓄財ですので。中共を倒した後の再建資金として米国が保管しておくのも良いことでは。

http://www.aboluowang.com/2018/0924/1178853.html

村上春樹の愛読者は『騎士団長殺し』の中で、「南京で40万人の中国人が殺された」という表現を使い、中共に擦り寄る姿勢を見せたのを覚えているでしょうか?南京虐殺なんて戦勝国が日本を貶めるためにでっち上げた事件です。中共がそれを利用しているだけです。「ザ・レイプ・オブ・ナンキン」を書いたアイリス・チャンが鬱病で自殺したのか中共が用済みで消したのか分かりませんが、日本は米中戦争を傍観するのではなく、歴史戦で負けてきた部分の修正をやっていくことです。

http://sound.jp/sodaigomi/ch/ilis/ilis.htm#

まあ、村上が中共に擦り寄ったのもノーベル賞欲しさだったと思えば分からなくもありません。大江健三郎がノーベル賞を受けたくらいですから権威もその当時から落ちているのに。『騎士団長殺し』の中のその部分を紹介します。

「いわゆる南京大虐殺事件です。日本軍が激しい戦闘の末に南京市内を占拠し、そこで大量の殺人がおこなわれました。戦闘に関連した殺人があり、戦闘が終わったあとの殺人がありました。日本軍には捕虜を管理する余裕がなかったので、降伏した兵隊や市内の大方を殺害してしまいました。正確に何人が殺害されたか、細部については歴史学者のあいだにも異論がありますが、とにかくおびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます。しかし四十万人と十万人の違いはいったいどこにあるのでしょう?もちろん私にもそんなことはわからない」と。当時日本軍は共産軍でなく、国民党軍と戦っていました。蒋介石は日本軍の追撃を阻止するため、花園口で黄河を決壊させ、数十万人の中国人を犠牲にしました。それも日本軍のせいにしてプロパガンダしたような嘘つきです。中国人と日本人とどちらの言い分を信用しますか、という事です。村上は中国人を信用するのでしょう。日本人を止め、中国人となって暮らしてみると良い。その時気付いても遅いでしょうけど。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

外国向けと日本向けとで言い方を変えるのは左翼の典型です。朝日新聞の「慰安婦報道」がそうでしょう。日本では誤りを認め、謝罪したのに対し、外国向けに謝罪は報道されていません。二枚舌と言う奴です。

今、左翼の池上彰の他人のコメントのパクリ問題が槍玉に上がっていますが、左翼は嘘を言うことに罪の意識を感じない連中ばかりです。レーニン、スターリン、毛沢東、習近平、それに日本の左翼も当然そうです。「騙されるな」と言いたい。朝日新聞を読んで左翼脳になっている人は改心した方が真っ当に生きられます。

http://deliciousicecoffee.jp/blog-entry-7212.html

記事

村上春樹氏、オウム13人死刑執行に「『反対です』とは公言できない」。写真は村上春樹氏(2014年11月7日撮影)。(c)AFP PHOTO / JOHN MACDOUGALL〔AFPBB News

このコラムでもすでにお伝えしてきた通り、2018年はスウェーデン・アカデミーのセクハラ問題でノーベル文学賞が出せなくなってしまいました。

そのため、スウェーデン文学界と善意の読者による「ニューアカデミー」が「1回限りのノーベル代替賞」を作りました。

このノーベル代替賞、本物ではないという意味で、以下「偽ノーベル賞」と記しますが、他意はありません。

ところが、ノーベル賞とは縁もゆかりもない、ノミネートした「1回限りのノーベル代替賞」にノミネートされていた日本人作家が、あろうことかノミネートを辞退するという、前代未聞の挙に出ました。

欧州知識層からは面白いことをする人だと見られています。

賞を授与されたけれど辞退するケースは、いくらでもあるでしょう。例えばノーベル文学賞の受賞を辞退というより拒否した、フランスの哲学者ジャン・ポール・サルトルのケースがすぐに思い浮かびます。

あるいは、そのノーベル文学賞を得た大江健三郎さんが、日本政府から授与を打診された文化勲章を辞退したことも、ご記憶の方が多いかと思います。

これは、文化庁から「文化勲章を授与が決定しました」と打診されて、それに対して断りを入れたものであって

「文化勲章にノミネートしたいと思うのですが・・・」

「要りません」

というような珍妙な話ではありません。どうして「ノミネート辞退」などという前代未聞の行動を取ったのか?

何一つ、定まったことはありませんが、大方の見通しでは、2018年にこの「偽ノーベル賞」を貰ってしまうと、少なくとも2019年に公開される、2018、2019年度分のノーベル文学賞を授与されることはないだろう、という観測が支配的です。

というのも、現時点でもスウェーデン・アカデミーは半崩壊状態で、立て直しの目途がまだ立っていません。

2018、19年度のノーベル文学賞は、かねてのダーティーなイメージを払拭する、よほど清新なものでなければ、スウェーデン国内を含め国際世論が納得しないだろう、という見方がなされています。

そこで前年の「偽ノーベル賞の後追い」などは絶対にしないだろうというわけです。

この「ノミネート辞退」という前代未聞の日本人作家は、いわずとしれた村上春樹氏で、「そこまでしてノーベル賞が欲しいか?」と、賞に恋々たる姿勢そのものが、「ノーベル賞の授与に相応しくないのでは?」という声も聞かれました。

それ以前に、村上春樹氏はノーベル文学賞に全く相応しくない、まるで逆の傾向の作家であるという見方が、すでに一部では定着しているのも事実です。

日本では、本の売り上げが大事なのか、日本人が活躍というと何でも喜ぶという話なのか、ともかく「ノーベル文学賞→村上春樹」という脊椎反射が見られます。

しかし、アカデミーが刷新して 頭がおかしくなってしまわない限り、この作家がノーベル文学賞を受けることはないと認識しています。

別段、罵詈雑言でもなければ批判ですらありません。

大衆小説作家が芥川賞にノミネートされないというのと同じくらい、根拠のはっきりした「お門違い」だからです。

文学賞の選考に関わるまともな人で、村上氏を候補と考えている人はいないと思います。

今回の「偽ノーベル賞」も、ノーベル賞本体とは縁もゆかりもない「勝手連」が村上氏の名を挙げているだけで、本来のアカデミーから事前に情報が出たことは本質的にあってはならないし、実際にないことです。

では、どうして、村上氏はノーベル文学賞と縁がないのか?

アルフレッド・ノーベルが遺言したこと

数週間前のこの連載にも記しましたが、アルフレッド・ノーベルが莫大な遺産の運用に関連して遺言した「ノーベル賞」の中で、文学賞とは

「(先立つ年度に)出版に関わって人類の進むべき理想の方向を指し示すのに寄与した人物」に授与されるのを大原則としています。

必然的に、これは「作家」に与えられる賞ではなく、ノンフィクション・ライターや政治家、あるいはベルグソンやサルトルのような哲学者も対象になります。

もっとも哲学者に授与するとサルトルみたいに辞退するケースもあるわけですが・・・。

さらには、一昨年に受賞したボブ・ディランのように、かつてベトナム戦争の時代、反戦を謳い上げたシンガー・ソング・ライターにまで授与される賞であって、別段狭義の「文学」や「小説」に限られるものではありません。

ただ、徹底しているのはノーベルが遺言で示した方向性です。

「人類が進むべき理想の方向性を指し示す仕事」

ベルグソンも、サルトルも、またボブ・ディランも、一切ぶれることなく、私たち人間がどのように生き、どのような方向に向かって生きるべきかを示す仕事をしてきました。

あるいは現在世の中に流布している誤謬を正し、権力の腐敗を告発し、虐げられた弱い人を庇い、新たな光をもたらすような仕事に、あくまで「旧西側」的な観点からですが、ストックホルムは光を当て続けてきました。

このため、1973年にベトナム和平交渉の当事者として、米国のヘンリー・キッシンジャーとベトナムのレ・ドゥクトが受賞しますが、レ・ドゥクトは「いまだ平和は訪れていない」としてこの受賞を拒否しています。

これに先立つサルトルの文学賞辞退のケースでも、ノミネートを知った時点でサルトルは「受賞したとしても受けることはない」との手紙をストックホルムに送っていたと伝えられています。

しかし、「ノミネートから辞退」などという珍妙なことをする人は、かつて前例がありません。

再発防止に有害な作文は二度とやめてほしい

今年の7月6日と26日、オウム真理教事犯で最高刑が確定していた13人の収監者に対して絞首刑が執行されました。

この種のタイミングで、必ずと言っていいほどピントのボケた文を発表する村上春樹氏は、今回も毎日新聞に作文を投じ、辺見庸氏などから徹底的に批判されています。

村上氏の話が素っ頓狂なのは、「オウム真理教事件」の全体像を見ず、すべてを「地下鉄サリン事件」だけに矮小化しているからだけではありません。

事件後にデータマンやスタッフがおんぶにだっこで作ったインタビュー集を既成事実のごとく前提として、一般読者がなるほど、と思うような、本質と無関係なファンタジーを書き連ねる点にとどめを刺します。

今回は、特にノーベル賞に関しては受賞者に相応しくない、との烙印を自ら決定づけるような作文になっていました。

ここで村上氏は、海外向け、国際社会向けには

『一般的なことをいえば、僕は死刑制度そのものに反対する立場をとっている』

とし、英語やスウェーデン語で国際社会の歓心を買いそうなヒューマニズムの
ポーズを取る際には、トレンドどおり「死刑制度そのものに反対」と宣伝してみせ、返す刃で、こちらは必ず日本語だけですが、死刑存置の世論が高い国内読者向けには、

『「私は死刑制度には反対です」とは、少なくともこの件に関しては、簡単には公言できないでいる』

と、時と場所によって見解を使い分けていることを自ら露骨に記してしまいました。これは、流行作家としては当然の配慮で、日本国内の顧客を念頭においたマーケティング的には全く納得のいく話です。

同時に、国際世論、とりわけノーベル賞に関わるような水準の議論では、最も軽蔑される両面宿儺の状態にほかなりません。

8月、欧州で、日本語だけで公刊されたこの作文をドイツやオランダ、フランスの、関連の問題解決に長年尽力してきた友人たちに示して意見を求めてみました。

「すべてのケースでなんだこれは?」

と呆れられて、「相手にする水準ではない、国内向けの大衆作家の自己PRだろう」で終わりとなりました。

ノーベル賞がどうこう、という水準の議論ではないのです。

私は、身近に事件の犠牲者があり、オウム真理教事件とその裁判、判決後に20余年関わってきました。

データマン丸投げの村上氏の本の事実誤記の悪質さは許容範囲を超えており、スタッフが取ってきた傍聴券で聴いた法廷の感想など、多くの日本人が現状を追認する方向に寄り添う、事実とほとんど無関係なストーリーだらけで、二度とこの人の作文は読むまいと怖気をふるったものでした。

河出書房新社からの依頼で、毎日新聞に掲載された作文を読みましたが、第1文から問題だらけで、お話しになりません。

実は、この連載向けにも村上氏の作文「詳解」を記そうと思いました。

しかし、本当に冒頭の2センテンスだけで1回分の紙幅をオーバーしてしまい、そもそも、元の文章があまりに不潔に感じられ、出稿をペンディングしている状態というのが実のところでもあります。

今回の稿のリアクションを見て、爾後どのようにするか、考えるつもりですが、ともかくこの作家の「TPOによる内容の書き分け」と、それと対照的に一貫した「現状追認による販売促進」の姿勢は、ノーベル賞が求める「理想を指し示す傾向」と対極にあります。

これは私のみならず、様々な関係者とここ10年、幾度も確認する機会があったことで、およそノーベル文学賞受賞など考えられるものではありません。

四半世紀以上にわたってオウムの問題に悩まされてきた一個人として、この作家さんには、地下鉄サリンだけに矮小化して、再発防止の観点からはおよそ有害無益としか言いようのない作文を、二度と公刊しないでもらいたいと思っています。

現状を追認し、およそ理想的な方向に国内外世論を導かないのみならず、こうした現実を自己PRに利用する姿勢そのものに、倫理の観点から強い疑問を抱かざるを得ません。

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