『「12歳の時、4000元で売られた」28歳女性の告発 証拠不十分で立件されず…しかし、戦い続ける決意は固く』(3/10日経ビジネスオンライン 北村豊)について

中国では日本人の想像を絶するようなことが行われています。“童養媳”もその一つでしょう。人身売買であることは間違いありません。貧しい故の身売りと言えばそうでしょうけど。しかし、世界経済第二位の国がこんなことを平気で行えるというのはどこかおかしいと感じるのは小生だけではないでしょう。富の分配がおかしいからです。米国も富の分配がおかしいですが、ここまでは行きません。人権保護の概念が行き届いています。中国は役人=暴力団と思ってよいほど悪いことをします。

次は臓器の違法摘出の話です。江沢民時代、法輪功を明確な敵と定め、信者は転ばない限り、逮捕、拘留され、死刑囚(以外でも?)生きたまま臓器摘出されたという大紀元の記事を20年近く前から読んでいました。

大紀元記事臓器の違法摘出を調べるジャーナリスト、2017年ノーベル平和賞候補に

http://www.epochtimes.jp/2017/03/26879.html

こちらも大紀元の記事です。大紀元は法輪功の機関紙ですので、法輪功を弾圧した江沢民一派を憎んでいます。故にその記事については割り引いて見る必要がありますが。習派と上海閥とがまだまだ権力争いの途上にあることが分かります。習は自分の権力を確立するために、日本に戦争を仕掛ける気満々です。高転びしてほしいと願っています。

中国観察記事より<陳思敏:習王會前擒三虎 江、曾會後更危險

2017年3月13日 | Filed under: 評論觀點

北京兩會即將於本周(15日)結束。今年的兩會是年度例會,同時是本屆末會,外界普遍的感覺是反腐話題相較往年要淡。

其實這只是風雨前的平靜,特別是在兩會開幕前夕,打虎節奏忽然加快,就如官微都說“這樣的打虎節奏相當罕見”,因為“三天之內三名省部級高官落馬”。而且跟往常一樣,這三隻具有團伙特徵的“老虎”又是隸屬江系。

一是上海檢察院原檢察長陳旭,典型的上海幫。陳旭仕途沒有離開過上海,一直呆在上海政法系統,在法院、檢察院、政法委皆位居要津。而上海當地不論官場還是民間,對他的舉報也是一直不斷,時間最早可溯至他涉及了陳良宇案、黃菊家族炒地皮、吳志明操縱的周正毅案等。所以習王拿下陳旭,釋放了一種揭蓋子的信號,相關調查圍繞的不會只有上海政法系統,還會有官官相護的上海高層。換言之,可能演變成窩案的陳旭落馬,對老巢在此的江澤民非常不利。

二是遼寧省人大副主任李文科,典型的遼寧幫。李文科仕途沒有離開過遼寧,看上去是一隻本土小老虎,但實則是只隱形惡虎,不在於他涉及了賄選案,是在於此前讓他竄升的職務,李文科曾主政鐵嶺8年,且在2004年就已名列迫害法輪功的追查名單。李文科與諸多落馬的遼寧主官,如王珉、王陽、蘇宏章等人一樣,是典型迫害官員,遼寧省也成為典型迫害重災區,同時在重要政治周期或會議期間,還是配合江派出手綁架習當局的典型攪局之地。

三是港澳台僑委員會主任孫懷山,在調任這個工作之前,孫懷山長期任職的政協,是江派一大窩點,是許多江派退休要員的集散地,孫懷山在副秘書長的位置上一待17年之久,被稱為“政協大管家”。孫懷山更重的份量是今年第一位硬着陸的中央委員,究竟所涉何事,目前雖無任何說法,但履歷顯示,孫懷山與令計劃在工作上頗有交集。孫懷山若涉令計劃案,那麼問題最高可以是政變的代名詞“搞非組織政治活動”。

自習近平於2015年12月“民主生活會”上,首次將周永康、薄熙來、徐才厚、郭伯雄、令計劃五虎打包拋出,官媒隨後解讀這五人罪行特點時,多處描寫可謂觸及早被外界傳為“政變”的罪名。而外界普遍認為,江澤民及其“狗頭軍師”曾慶紅正是這個政變集團的共同的後台。

同時海內外一致的觀察,胡錦濤可以裸退不幹政,江澤民干政不夠還要搞政變,就是因為江澤民迫害集團恐懼血債被清算。所以在習王“零容忍”的高壓反腐下,江派貪腐集團至今仍然是“十八大之後不收手、不收斂”。

時間很快,今年“十八大”就將成過去。無庸置疑,習王在兩會前連拋三虎,兩會之後,肯定還要為今秋的會議加大中共官場的清理力度,除了反腐肅貪,也要解除政變之患。儘管目前江、曾這兩隻“老老虎”還沒被正式拿下,但尾巴早就被抓住了而蠢動不得,也坐立難安。

【大紀元2017年03月13日訊】

陳思敏:習近平&王岐山は大会の前に3人の虎を捕える 江沢民と曽慶紅は大会後さらに危険に

2017年3月13日、 | Filed under: 観点評論

北京全国人民代表大会と中国人民政治協商会議はまもなく今週(15日)に終る。今年の両会は毎年の例会で、同時に今会期末に思うのは、外から眺めると反腐敗の話題が例年より少なく感じる。

実は、これはただ嵐の前の静けさで、特に両会が開かれる前夜に、虎への取締りのスピードは突然加速した。役人のミニブログのようなものに“このような虎への取締りはめったに見られない”とあったのは、“3日の内に3人の省・部長級が更迭された”ため。そのうえいつも通り、この3名は団派か江派かだけでした。

一人は上海検察院の元検察院長の陳旭で典型的な上海幇である。陳旭は仕事で上海を離れたことがなく、ずっと上海の政治・法律部門で仕事をした。裁判所、検察院、政法委員等重要な地位を占めた。その上、上海では官界か民間を問わず、彼に挙がる情報はひっきりなしで、古くは陳良宇事件や黄菊の家族の建設用地問題、呉志明が操った周正毅事件等に遡ることができる。それで習と王は陳旭を手なづけ、釈放したのは一種の秘密暴露の信号である。周りを固めていく調査は上海政法部門だけではなく、お互いかばい合ってきた上海の高級幹部にも、である。言い換えれば、おそらく陳旭が落とされて、この悪の根城にいる江沢民に非常に不利になるだろう。

二人目は遼寧省人民代表大会副主任の李文科で、典型的な遼寧幇である。李文科は仕事に関して遼寧を離れたことがなく、見た所、中国の子トラのように見えて、実際は悪の仮面を被った虎であり、彼が関わった贈収賄事件は気にせず、出世のことのみ関心があった。李文科は、鉄嶺市の政治部門で8年働き、そのうえ2004年にはすぐ法輪功の追跡名簿による迫害で名を馳せた。李文科同様更迭された遼寧の主な役人は、王珉、王陽、蘇宏章等、典型的な迫害役人であった。遼寧省は(法輪功にとって)典型的な重い迫害の地であった。同時に重要な政治期間あるいは会議期間にあたっては、やはり、江派と一緒になり、習の当局を無理やり売り渡した典型的なぶち壊しの地でもある。

三人目は香港・マカオ・台湾華僑委員会主任の孫懐山で、この仕事の前に、孫懐山は長らく政治協商会議の任にあり、江派の大きな根城であった。江派で多くの退職者の集散地で、孫懐山は副秘書長の地位に17年もいて、“政治協商会議高官”と呼ばれる。孫懐山が重量級なのは今年ハードランディングしたトップの中央委員であることである。結局、何事にも関与し、現在は何の意見も持たないが、履歴が示しているとおり、孫懐山と令計画は仕事で付き合いがあった。孫懐山がもし令計画事件に関与していれば、問題は大きく、政変の代名詞である“非合法政治活動”になる。

習近平は2015年12月“民主生活会議”で、周永康、薄煕来、徐才厚、郭伯雄、令計画の5名の虎を包んでは投げ出し、公の媒体が後に5人の犯罪行為の特徴を解説した時には、外に向けて“政変”の罪名で伝えられた。周りは「江沢民と “腹黒い策士”曾慶紅がこの政変グループの裏にいる」と普通に考えている。同時に国内外で一致した見方は、胡錦涛が条件なしで政治引退し、江沢民はまだまだ政治力が足りず、やはり政変を起こさなければならない。これは、江沢民が迫害してきた集団が血の報復をすることを恐れているためである。それで習と王は腐敗を“ゼロ・トレランス=絶対に許さない”とし、江派の汚職腐敗集団は今なお依然として“18回人大以後も腐敗を止めずにいる”。

時間が過ぎるのは速く、今年の“18回人代”は過去のものになる。紛れもなく、習と王は両会の前に3名の虎を投げ捨てただけでなく、両会の後にも、今年の秋の会議(19回人大)では共産党・役人の整理を加速し、腐敗・貪官の粛清を除き、政変の種を除くことが必要である。江と曽の二人の “老いた虎”はまだ公式的には舞台より下ろされず、ただ尻尾はとっくに捕まえ、動くことはできず、居ても立ってもいられない。>(以上)

3/10産経ニュース外貨準備減少は「正常」 中国中銀総裁

中国人民銀行の周小川総裁は10日の記者会見で、中国の外貨準備高の減少は「正常な現象だ。外貨準備は使うためにあり、ためて眺めるものではない」と述べ、市場は過度に反応すべきではないと強調した。

中国の外貨準備高はピークの2014年6月末に4兆ドルに迫った。その後は人民元相場の下落を食い止めようと当局が外貨準備を元手にドル売り元買いの為替介入を繰り返したため減少に転じ、今年1月末には5年11カ月ぶりに3兆ドルを割り込んだ。

市場では外貨準備の減少で、中国が通貨の安定を図れなくなるとの懸念もある。ただ周氏は依然として世界一の水準だとして「もともと不必要なほど多すぎた。減少してもさほど悪いことではない」と指摘した。

一方で中国政府は、資本流出と人民元安の要因となる中国企業の対外投資に対する規制を強めている。周氏は「一部の企業はブームに乗って分別なく投資している。動機不純なものもある」と述べ、政府の指導が必要だと語った。(共同)>(以上)に対し渡邉哲也氏のFacebookでは「シンクタンク試算で、後4000億ドルで問題が起きる」とのこと。もう少しで、$が足りなくなります。日本企業は明確な敵国・中国に協力するのを止めて、経済で追い込みましょう。

記事

2月28日付の北京紙「新京報」は、『重慶市巫山(ふざん)県の“童養媳”:12歳のあの年、私は4000元で売られた』と題する記事を報じた。“童養媳”とは、「息子の嫁にするために、幼時に買ったり、もらったり、拾ったりして育てる女の子」を意味する。主人公の女性は1988年3月生まれだから、彼女が12歳になったのは2000年3月であり、その頃に彼女は4000元(約6万6000円)で売られて“童養媳”にされたのだという。

監視8年、逃亡4回目で成功したが…

この“童養媳”の話が報じられたのは今回が初めてではない。北京紙「京華時報」は、2016年5月26日に『【“童養媳”エレジー】12歳で性的暴行を受け、14歳で娘を産んだ重慶市の女性、8年で逃亡4回』と題する記事で彼女の悲惨な人生を報じていた。その概要は以下の通り。

【1】重慶市の女性“馬泮艶(ばはんえん)”は今年28歳。彼女の父親は母親と結婚後、彼女を含めて3人の娘をもうけた。その後、母親は夫の長期間にわたる家庭内暴力に耐え兼ね、1997年に鍬(くわ)で夫を殺害した。母親が警察に連行された後、村の幹部たちは馬家三姉妹の扱いを協議し、長女の“馬泮珍(ばはんちん)”と次女の馬泮艶は“伯父(父親の兄)”に引き取られ、三女の“馬泮輝(ばはんき)”は“姑父(父親の姉妹の夫)”に引き取られた。一方、母親は精神分裂症を患っていたことが証明されて刑事責任を免れたが、ほどなくして家を出て行方知れずになった。

【2】伯父の家での生活が1年も続かないうちに、姉の馬泮珍は13歳で嫁に出された。2000年、12歳になった馬泮艶もまた29歳の“陳学生”という名の男に無理やり嫁がされた。馬泮艶は陳学生に性的暴行を受け、警察に通報したが、警察は家庭内事件として取り合ってもくれなかった。陳学生は馬泮艶を厳しく管理し、トイレに行くのさえも誰かに監視させて、彼女の逃亡を防ごうとする始末だった。2002年、馬泮艶はわずか14歳で女児を産んだ。

【3】2002年、妹の馬泮輝は12歳で“姑父”によって24歳の“羅品金”に嫁がされた。2005年、15歳の馬泮輝は男児を出産した。2007年、19歳の馬泮艶は男児を出産して二児の母親となった。2008年以前に馬泮艶は陳学生の所から3回逃亡を試みたが、いずれも成功しなかった。

【4】2008年、馬泮艶は妹の馬泮輝が広東省へ出稼ぎに行っていることを聞くと、姉の馬泮珍から1000元(約1万6500円)を借りて陳家を逃げ出し、南下して広東省へ向かった。馬泮艶は陳学生に男児を産んでいたので、陳家も敢えて馬泮艶を捜そうとはしなかった。馬泮艶は妹の馬泮輝一家と広東省で合流し、普通の“打工妹(若い女性の出稼ぎ労働者)”になったのだった。馬泮艶は、「結婚も出産も強制されたもので、自分が望んだものではなかったから、自分が産んだ子供に対して親としての感情がそれほどあるわけではない」と述べた。

【5】2013年、馬泮輝は湖北省の母親の実家がある地域の派出所経由で、失踪してから16年が経過した母親を探し出した。一方、8年間の出稼ぎ生活を送った馬泮艶には求愛する者が少なからずいたが、この間に彼女は自分の婚姻について何らの手続きも行っていなかった。彼女にあるのは2011年に陳学生と結婚したことを示す「結婚登録」で、この記録のために新たな家庭を築くことはできなかった。

【6】2016年5月4日、馬泮艶は重慶市の北東部に位置し、湖南省との省境に所在する巫山県の“巫山県人民法院(下級裁判所)”へ陳学生との離婚を求める訴訟を提起した。馬泮艶はこれと同時に公安局に対し未成年であった自分を強姦したとして陳学生を告発した。これに対して公安局は強姦罪の訴追期間は10年間であり、すでに時効が成立しているため立件できないとした。また、離婚要求について、陳学生は馬泮艶が子供の養育費として10万元(約165万円)を自分に支払わない限り離婚には応じないと述べた。

法的に禁止されたが、今も公然と

ところで、1949年の中華人民共和国の成立以前、すなわち中国共産党が言う解放前の旧中国では、“童養媳”は特別な風習ではなく、社会一般で行われていた。“童養媳”は、“待年媳(何年か待って嫁)”あるいは“養媳(養い嫁)”とも呼ばれ、”婆家(夫の家)”で赤ん坊あるいは幼時から育てられ、14~15歳の女として生理的に十分な年齢に達したら息子と結婚させて家の嫁にするというものだった。この風習は旧中国で社会が貧困にあえぎ、貧しい庶民が嫁を娶る余裕がない時代に、人々が貧困な農村や被災地区に出かけて生活に苦しむ人々から女児を二束三文のカネで買い付ける、あるいは路傍に捨てられた女児を拾うなどして自宅に連れ帰り、家族の一員として育てた後に、息子の嫁にしたのである。そうした経緯から女児たちの扱いは奴隷同然であったケースも多く、常に虐待を受けていたという悲しい話が数多く伝えられている。

“清華大学”社会学部教授の“張小軍”が1996年に発表した論文『女性と宗族』によれば、福建省“南平市浦城県”にある“陽村”の資料には、1951年時点で陽村の女性人口1190人の中に“童養媳”の既婚者が129人、未婚者が73人おり、“童養媳”の比率は17%に達していたとある。同書によれば、1949年に中華人民共和国を成立させた中国共産党は“童養媳”とされていた女性たちに「“回娘家(実家へ帰れ)”」と命じる指令を出すと同時に、法的に“童養媳”を禁止したが、今なお福建省中南部の“蒲田市”周辺や重慶市の一部地域では依然として“童養媳”が公然と行われているという。

さて、話は2月28日付で「新京報」が報じた馬泮艶の記事に戻る。馬泮艶は1988年3月10日に四川省巫山県<注1>の“双龍鎮金花村”に生まれた。父親を殺害した母親が精神分裂症で刑事責任を免れて失踪した後、馬泮珍と馬泮艶の姉妹は同じく金花村に住む伯父の“馬正松”に引き取られた。しかし、馬正松の家は彼の妻が精神病患者であるだけでなく、2人の老人を扶養していたから、ただでも貧しい生活は姉妹を引き取ったことでより困窮を深めた。当時、12歳の馬泮珍と9歳の馬泮艶は小学校を中退させられ、炊事、草刈り、柴刈り、豚の餌作りと、朝早くから夜遅くまでこき使われた。しかし、姉妹がどんなに働いても限度がある。そこで馬正松が生活防衛のために止むを得ず採った手段が姉妹を“童養媳”を求める人たちに売り渡すことだった。それ以降の概要は以下の通り。

<注1> 巫山県は1997年に重慶市が四川省から分かれて直轄市になった際に、重慶市に区分けされた。

売られ、襲われ、知らぬ間に「既婚」に

(1)1998年、13歳の馬泮珍は馬正松によりちびで貧乏な30歳の男の家に“童養媳”として2500元(約4万1000円)で売られた。2000年末、12歳となっていた馬泮艶が柴刈りから戻ると、貧相で体格が悪い陳学生という29歳の男が馬正松の家を訪れていた。その時、馬正松は陳学生に馬泮艶を16歳だと言って紹介した。これを聞いた馬泮艶は馬正松に「私は12歳よ」と強く反発したが、馬正松に「両親がいないので、お前は自分の年齢も分からないのか」と叱り付けられた。これは自分を陳学生に嫁がせようとしていると察知した馬泮艶は、金花村の幹部に「まだ嫁に行きたくない」と訴えたが、返って来たのは「父は死亡し、母は精神異常なのに、お前は伯父に一生面倒をかけるのか」という言葉だった。

(2)2000年12月、馬泮艶はトラックに乗せられて陳学生が住む同じ双龍鎮の“烏龍(うりゅう)村”へ連れて行かれた。この日、同行したのは馬正松ほか親戚一同で、陳学生の家では宴を張って馬家の一行をもてなし、両家は馬泮艶を陳家の“童養媳”とし、後に陳学生の妻とすることで合意し、陳家は馬正松に4000元(約6万6000円)を支払った。2001年の正月に馬泮艶は烏龍村の陳家へ迎え入れられた。1月24日の“春節(旧正月)”が過ぎると、陳学生は馬泮艶を帯同して福建省へ出稼ぎに出た。

(3)出稼ぎ先で陳学生と1室での同居を余儀なくされた馬泮艶は肉体関係を強要され、強く拒否したが強姦された。その日は馬泮艶の13歳の誕生日だった。その日、馬泮艶は陳学生から逃亡を図ったが、強引に連れ戻された。馬泮艶の逃亡を防ぐため、陳学生は出稼ぎを止め、彼女を連れて故郷の烏龍村へ戻った。2001年4月、叔母に伴われて公安局の“双龍鎮派出所”へ出向いた馬泮艶は、陳学生を強姦罪で告発すると同時に、“双龍鎮衛生院(診療所)”で検査を受けた。しかし、診療所の検査結果を示しても派出所の警察官は家庭内の事として真面目に取り合おうとせず、事件として立件することもなかった。

(4)2002年10月26日、馬泮艶は自宅で3日間も難産で苦しみ、母体が危険と考えた人々は医院へ搬送すべきだと提案したが、陳学生の父親は「カネのかかる医院には行かせない」と反対した。最終的にはその日、馬泮艶は女児を出産したが、陳学生の父親は「女の子か」と落胆した様子を見せただけだった。2007年に19歳の馬泮艶は医院で男児を産んだが、生まれた子供に愛情を感じず、何度も子供を捨てようとして看護師に阻止された。2人目の子供が生まれた後、馬泮艶は陳学生に連れられて双龍鎮派出所へ行き、身分証明書の手続きを行った。この時、手続きに必要だとして写真屋で陳学生と並んだ写真を撮ったが、それが唯一2人で一緒に撮った写真だった。

(5)後に、陳学生はこの2人で一緒に撮った写真を使って婚姻申請を行い、2011年に陳学生と馬泮艶の結婚は認可され、2人の写真が張られた結婚証明書が発行された。これによって、馬泮艶は名実共に陳学生の妻となり、戸籍簿上も、陳学生が“戸主(世帯主)”となり、馬泮艶の欄には「既婚」と明記された。しかし、馬泮艶は婚姻申請について何も知らされておらず、彼女が知らぬ間に結婚させられ、自分が既婚者になっていたのを知ったのは、それからずっと後の事だった。

告発事案はいずれも立件されず

(6)2008年、馬泮艶は最後の逃亡を敢行した。彼女は身分証を持って陳家から逃げ出し、巫山県の県庁所在地で店員として2か月間働き、1000元(約1万6500円)を稼いだ。彼女はこのカネで子供の粉ミルクや衣類を買い、密かに烏龍村へ戻るとそれらの品物を陳家の門口に置くと、陳家を後にして広東省へ逃げ延びた。その後、陳学生は馬泮艶を捜そうとせず、馬泮艶は自分が陳家に2人の子供を産んでやったので、彼女の役目は終わったと考えた。

(7)広東省“深圳市”で働いていた馬泮艶は、同僚から自力で不幸から抜け出すべきだと激励され、自分の人生をもてあそんだ人々に復讐することを決意する。2015年4月5日の“清明節(墓参りをする節句)”前に、馬泮艶は陳学生に対し離婚を要求する旨の通知を行い、2016年5月4日に巫山県人民法院へ陳学生との離婚を求める訴訟を提起した。同年6月3日、巫山県人民法院は『“民事調解書(民事調停書)”』を発行し、同法院の調停の下で、馬泮艶と陳学生の離婚が成立し、馬泮艶は“浄身出戸(丸裸で家を出る)”形で自由の身となった。今や、馬家の三姉妹は全員が離婚している。

(8)2017年2月19日、馬泮艶と妹の馬泮輝は出稼ぎ先の広東省から故郷の巫山県へ戻った。今回の帰郷で2人は彼女たちに“童養媳”となることを強制し、望みもしない男の子供を産ませた人々の責任を追及する積りだった。当然ながら、一部の地元民にとって馬泮艶は歓迎されない人物であった。昨年、馬泮艶の境遇がメディアによって報じられると、ある人は彼女が巫山県の恥をさらけ出したと非難したのだった。5日後の2月24日、“巫山県人民政府”は、馬泮艶に関連する状況について声明を発表して次のように述べた。すなわち、いわゆる「巫山県童養媳事件」の中で、馬泮艶が告発した強姦罪、不法監禁、派出所への通報はいずれも立件されておらず、証拠は全て不十分である。しかし、馬泮艶の結婚証明は手続き違反であり、当地“民政局”の局員を“党内厳重警告処分(中国共産党員に対する厳重警告処分)”とした。

(9)結婚証明の手続き違反とは、2007年10月に陳学生が地元の民生局に結婚申請を行った際、担当した民生局局員の“劉忠輝”(すでに退職)は馬泮艶の年齢が法定年齢<注2>に達していないことを発見し、提出された申請書類を保留とした。ところが、2008年1月25日に劉忠輝は保留としていた申請書類を思い出し、陳学生も馬泮艶も不在で、両者の署名がなく、両者の有効な身分証明書の提示がないにもかかわらず、独断で婚姻手続きを行った。結婚登録はそれから3年後の2011年に承認されたのだが、劉忠輝の行為は『婚姻登記条例』の規定に違反したものだった。2016年8月8日、劉忠輝は“巫山県紀律検査委員会”によって“党内厳重警告処分”を受けたのだった。

<注2>中国の法定結婚年齢は、男22歳、女20歳となっている。

(10)巫山県人民政府の声明に対して馬泮艶は、絶対受け入れることができないとして、「上部機関に対し訴えを継続し、徹底的に戦う」と公言した。2月27日に記者が“巫山県公安局”刑事警察大隊の“胡錦平”に電話を入れて話を聞いたところ、同氏は政府の声明が出されたから事件は終結ということではなく、我々は現在も調査を継続しているが、何分にも古いことなので証拠固めが難しい」と述べた。

(11)なお、この事件が全国に報じられる前に、馬泮艶は巫山県の報道関係者に協力を要請したが、彼はこれを婉曲に断ったという。記者がこの人物にその理由を尋ねると、彼は「当地では12~14歳で結婚するのは普通のことで、それは馬泮艶1人に止まらず、1000人以上に上るはずだ。自分の姉も15歳で結婚したし、中学時代の同級生は30歳の時にすでに15歳の子供がいた。従い、当地の農民の多くは今回のことを事件とは思っていない」と答えた。

徹底的に戦い続ける決意

上述した馬泮艶の“童養媳”事件はメディアにより全国に報じられて大きな話題となった。陳学生との離婚が認められて、新たな人生を歩み始めた馬泮艶は自分の好きな人と結婚をして子供を産むことを夢見ている。しかし、彼女は自分の幸せだけでなく、自分と同様に“童養媳”として幼くして結婚・出産している人たちをその不幸な境遇から救出するためにも、上部機関に対する訴えを継続して、徹底的に戦う決意を固めているのである。

“童養媳”はかつて中国全土で普遍的に行われていた。中国を代表する作家“魯迅”(1881~1936年)の小説『祝福』の主人公“祥林嫂(祥林ねえさん)”は“童養媳”であったし、著名な女流作家“冰心”(1900~1999年)の小説『最後的安息』の主人公“翠児”も“童養媳”であった。今なお福建省や重慶市の一部地域で“童養媳”が公然と行われている事実を考えると、急速な経済発展を遂げた中国の陰で生きる貧困な農民たちの存在が見え隠れするように思える。伯父の馬正松も多少なりとも生活に余裕があれば、馬泮珍と馬泮艶の姉妹を“童養媳”として他家へ売り渡すことはなかったのではないだろうか。“童養媳”が中国から消滅する日はいつ来るのか。その日が少しでも早く到来することを期待したい。

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